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エピローグ
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クルーズ船の事件から半年経ったある日、真理亜は直輝と東京のホテルのロビーで待ち合わせをしていた。彼とゆっくり話が出来る時間を取れたのは、事件以来初めてだ。当時は別々に事情を聴かれ、その後もそれぞれの仕事で目まぐるしい思いをしていた。
城之内の逮捕によって残された会社での後始末や、警察による事情聴取も長く続いた為、なかなか休みが取れない忙しい日々を過ごしていたからだ。しかしようやく休暇が取れたので、久しぶりに直輝と連絡を取って東京へと足を延ばし、会う約束をした。
事件後、真理亜が表に出る事を嫌った分、彼は様々なマスコミに取材攻勢を受けた。更には小説家だった事もあり、複数の出版社から本を出さないかと打診を受けたという。
彼は真理亜の言いつけを守り、船で起こった事件の経緯だけでなく、船に乗る前から乗船中に起きた何気ない事等もつぶさに記録していた。その甲斐あって、新聞や雑誌といった様々な媒体で、エッセイ等を書く依頼が殺到したようだ。
もちろん事件についても、ノンフィクションに限りなく近いフィクション小説を書く依頼を受けた。しかも熱が冷めない内にと急かされたらしく、三カ月で書き上げ出版まで漕ぎつけたのだ。
まだ事件における裁判が始まっていないというのに、最近発売されたその本は大ヒットし、彼は一気に有名小説家の仲間入りを果たしたのだ。
直輝が成功した事で、真理亜はほぼ音信不通だった兄夫婦から連絡を受け、とても感謝された。両親も、真理亜を見る目が変わりつつあると耳にした。彼の仕事での成功をきっかけに、これまであった家族内のわだかまりが少しずつ溶け始めたらしい。
直輝からは仕事がもう少し落ち着けば、一緒に休みを取って実家に帰ろうと電話で誘われていた。距離を置いていた真理亜にとっては、実現すれば何十年振りかの帰省だ。しかしその前に一度、色んな件も含め直輝と会ってしっかり話がしたいと思っていた。
そこで今回、ようやくその機会がやって来たのだ。
約束の時間の五分前だったが、既に彼の方が先に来ていた。クルーズ船に乗る際に真理亜が買い与えたスーツを着ている姿を見つけ歩み寄ると、向こうも気づいたらしく立ち上がった。手を軽く振りながら近づいた所で声をかけた。
「ごめん、もしかしてかなり待たしちゃった?」
彼は首を横に振り、頭を掻きながら言った。
「いえ、真理亜さんよりも早く来なければと思って、五分程前に着いたばかりです。それでも約束の時間より早いんだから油断できないなあ」
「性格もあるけど、五分や十分前集合は仕事上で身に染みた習慣だからね。待ち合わせの相手があなたじゃなければ、もっと早く来ていたわよ」
笑って答えると、彼は仰々しく頭を下げて言った。
「存じております。あの船での旅行中に散々鍛えられましたから。でもそのおかげでしっかりしているとか、真面目だとか褒められるようになりました。忙しくなって色んな出版社の人達と仕事をする機会が増えたから余計です。以前の僕を知っている編集者からも、良い風に変わったと言われましたし。全ては真理亜様の教えの賜物です」
後半は、ややふざけた調子になった彼の腕を軽く叩いて笑った。
「何を今さら。まあ大変ご成功されたようですので、直輝先生もさぞかしお忙しいでしょうから、早く行きましょう」
上のレストランを予約していた為、二人で冗談を交わしながらエレベーターに乗った。店に入り席に案内されて席につく。その後創作料理のコースを注文し、皿が運ばれてくる前に、真理亜が先に口を開いた。
「電話でも言ったけど、あの本は良かったわ。単に豪華客船で起きた事件を描いただけじゃないもの。乗船している富裕層達と、寄港地で会ったアジア各国の貧困層の対比にも触れていた点が、リアリティを増していたと思う。それにしても売れて良かったわね」
「有難うございます。でも売れたのは、やっぱり話題性のおかげでしょう。それに今褒めて貰ったところも、真理亜さんの助言で寄港地へ着く度に、色んなツアーに参加したおかげです。特に大きかったのは帰ってから必ず感想を聞かれ、説明に満足しないと、こういう点を見て来たかとか、色々助言して貰ったことですよ。本当にあの二週間余りの経験は、ものすごく凝縮された日々でした。だから売れたり注目されたりしているのは、自分の実力ではない部分が大半です」
「運も実力の内よ。それに周囲の評価と比較して力不足だと本気で思っているのなら、見合うようこれから必死に勉強して補うしかないわね。それに人気や話題性なんてものは水ものだから、次作が本当の勝負になるんじゃない?」
彼は深く頷いた。
「そうだと思います。最初の目的は真理亜さんを題材にすることだったのに、今回は急いであの事件を書けと言われたから優先しました。だから今度こそ次作は、真理亜さんを取材した結果に基づいての作品を書きたいと考えています」
そこで料理が運ばれてきた為、話が中断した。その後食事を始めて間が開いた際に、真理亜は言った。
「さっきの続きだけど、私を題材にして書く事は事前に許可しているから構わない。でもその前に謝らなければいけない事があるの。あの時は本当に御免なさい」
いきなり頭を下げられて戸惑ったらしく、彼は慌てふためいていた。
「止めて下さい。謝る事なんて何もないでしょう」
真理亜は顔を伏せたまま、首を横に振った。
「いいえ。あの事件で黙っていた事が沢山あるの。危険な目に遭わせて本当にごめん」
そこで松ヶ根達には告げた、当初から城之内を疑っていた事や、そこから爆弾やウイルスはダミーだと考えていた点を彼に告げた。担当したばかりで資産の全体像を把握していないと言ったことも嘘だ。知った上で、彼によるクルーズ船の同行の誘いに乗った。
つまり直樹を船の旅に誘ったのは、別の意味で万が一に備えての護衛の為だったと白状した。現に彼がいたおかげで、六階から九階まで逃げられたのだ。
その上最終的には命を狙われる可能性に気付きながらも、実行に移したのは自らの個人的な思いが多分に含まれていた事も明かした。もちろんこれは、警察も公に出していない情報だ。その為彼や出版した編集者達は、当然そこまであの本で描けていない。
彼は真理亜の告白に、絶句しながら聞いていた。しかし全ての説明が終わってしばらく経ってから、彼は口を開いた。
「言っている意味は判りました。でも船であれほどの事件が確実に起こると、予見していた訳じゃないでしょ。それに爆弾やウイルスも、ダミーじゃなかった可能性もゼロじゃなかった。城之内さんはウイルスを拡散されても心配ない、医務室の隔離施設で守られていましたよね。それに犯人の仲間は皆十三階にいたから、それ以外のフロアを爆破する作戦を立てていたかもしれない。万が一船が沈むことがあっても、セキュリティ部隊のような強者と医師と看護師がいれば、その人達だけで救助船を乗っ取って逃げることもできたでしょう」
「それはそうだけど、その確率は低かったのよ」
「でもゼロじゃない。僕はあの作品を書く際、様々なパターンを考えました。だから判るんです。それにあの時の真理亜さんは、とても凛々しくて落ち着いていました。これまでの豊かな経験と知識や知恵が、その揺るぎない自信と度胸の源だと信じあなたの意見に従ったのは、僕だけじゃなく梅野さんもです。だから謝らないで下さい。感謝こそすれ、頭を下げられる筋合いはありません。でも教えて頂いて有難うございます。それに警察が公にしていない情報だから、本来口にしてはいけない事なんですよね」
「出来れば内密にして起きたい事は確かよ。それに顧客を最初から疑って、無断で資産状況の裏を探っていた点も、立場上公にはできないからね」
「だったらもういいですよ。真理亜さんの個人的な恨みがあったというのも、理解できます。実行できたかどうかは別にして、僕が逆の立場だったらやはり腹立たしく思ったでしょう。危険な目に遭いましたが済んだ事です。それに結果オーライ以上の物を、僕は手に入れられました。船に乗る前の僕は、三流以下の出来損ない作家でしたからね」
自虐的に笑う彼に、真理亜は再び頭を下げた。
「ごめん。まだあるの。前に言っていたよね。落ちついたら今度、一緒に実家へ帰ろうって。でもよく考えたんだけど、まだ私はあなたのように両親と和解はできない。あなたとは、確執の質や経過した時間が違うの。偉そうなことを言ったのにね。だけどどうしても、まだ無理なの」
直輝には両親としっかり話し合って、理解して貰いなさいと説教していた。だから彼らの関係は改善しつつある。だがそれとこれとは別だ。真理亜も兄夫婦とは元々疎遠になっただけで、特にわだかまりはない。あるのは両親に対してだけだ。
これには長い歴史と事情が詰まっていた。ここ十年弱程度で揉めだした彼とは、重みが異なる。しかしそれは自分の我儘なのかと考えても見た。だがやはり無理だったのだ。
今度は長い沈黙の後、彼は呟いた。
「お爺ちゃん達と揉めた話は、僕もざっくりとしか聞いてないから詳しく知らない。だから真理亜さんがそう言うのなら、何も言えません。それに親父達と上手くいっていない僕に自信を持たせ、鍛え上げて関係を修復させるきっかけを作ったのは、真理亜さんだよね。それは自分のような過ちを繰り返さないよう、そうしてくれたんじゃないの」
真理亜は答えられなかった。その沈黙を肯定と受け取ったのか、彼は話を続けた。
「実家にいる時、お爺ちゃん達に叱られた事がある。真理亜さん程じゃないけど、僕も童顔でしょ。それに勉強もしっかりしていたから、根が真面目な部分が似ていたんだと思う。だからなのか、大きくなってからは特によく比べられた。真理亜と違って気が弱すぎる。あの子はもっと自分に自信を持っていた。その分可愛げが無かったし、友達も少なかったよ、と言われたことがあった」
そう言われて思い出す。顧客との関係は仕事だからと割り切っている為、今まで大きな問題を起こした事は無い。それどころか信頼はとても厚く、高く評価されている方だ。
その分プライベートでは、友達と呼べる人はほぼいない。それどころか妬まれたりすることが多い為、自分から壁を作る癖があった。幼い頃からその点を、両親にはよく注意された記憶がある。
それは大人になってからも、余り変わらなかった。だからなのか結婚も失敗し、やがてうつ病にも罹った。それらを真理亜の性格のせいだと責められた。
その時の怒りや悔しさは、未だ頭に浮かぶ。すると頭痛や動悸が再発し、治まるのに時間がかかる。それ程の傷を、心に負ってしまったのだ。
当時は何者にもなれないと、相当落ち込んだ記憶がある。真理亜は以前から、生きる為の指標を持っていた。
それは他人に害を与えないことを大前提として、たった一人でも幸福もしくは不幸ではないと感じさせられれば、人として存在する意義があるとの考え方だった。
世の中には歌や芸術、小説やスポーツと等で、多くの人の心を揺さぶり感動させ、喜びを与える人がいる。だがそんな役割を果たせるのは、世の中でもほんの一握りだ。多くは単に社会を動かす、歯車の一つにしか過ぎない。
それでも世界中の人が、自分も含めてあと一人だけ人生を楽しく過ごせると思えば、戦争など起こらず平和に生きられるのではないか。
例え自分に夢が無くとも、目標を持って頑張る人を支えるだけでもいい。それで自分や相手が、幸せと感じられれば十分ではないか。
そう信じて真理亜は幼い頃から一生懸命勉強し、有名な大学に入り一流と呼ばれる会社にも就職した。社会人としての役割を果たせば、少しでも世の中に貢献できると思っていたからでもある。
さらに結婚すれば自分以外の人を支え、共に満足のいく人生を送れるだろうと考えていた。しかしそうはならなかった。幸せにするどころか自分を含め相手を傷つけ、周りの人々にも不快な思いをさせてしまったのだ。
その上病による後遺障害を未だに抱えている。この事はほんの限られた人達か知らないし、もちろん彼には隠したままだ。旅行中に症状が出れば、告白しようとも考えた。
だがその機会もないまま、今に至っている。こんな自分が偉そうに、直輝から頭を下げられる資格等ない。まだ何も言えずにいる真理亜に向かって、彼は言った。
「ああやって人と比較したり、根拠の無い勝手な考えで人を評価されたりするのが、僕も嫌だった。うつ病だって、今はウイルスの活性化による病気という研究が進んでいるのに、心が弱いからだとか言っているのを聞いた事があります。爺ちゃん達と比べれば、まだ親父達の方が理解はあったかな。御免なさい。謝らなけれ行けないのは僕の方だった。自分が親との関係が修繕できそうだからと、安易に誘ったのがいけなかったんだね」
頭を下げられて、真理亜は慌てて否定した。
「ううん。あなたが謝る事じゃないの。これは私の問題だから。あなたは甥とはいえ、別の人間よ。兄や両親と私もそう。ただそれが言いたかっただけなの」
「判った。今度の作品は、優秀な女性PBの話だけじゃなく、そう言った人間関係を絡めて描いてみるよ。もちろんフィクションだから、事実は書かないけどね」
「そうね。私と同じように他人との人間関係だけでなく、血の繋がりがあるからこそ苦しんでいる人は多いと思うから、テーマとしては良いかもしれない。でも書き上げたら、一度読ませてね。勝手に出版したりはしないように」
「了解。では早速、船では聞けなかった深層部分について伺っても宜しいでしょうか」
「何? ここで取材でもするつもり? だったらそっちの奢りで良いんでしょうね。経費にできるでしょう?」
「そうだね。出版社の名前で領収書を貰えば、落としてくれるかも」
「馬鹿。あなたの名前で落としなさい」
「いやいや、収入ではまだまだ真理亜様の足元に及びません。それに二十以上年下の僕に支払わせるんですか」
「判ったわよ。ここは私が支払うから、追加の取材は後日ね。きょうはゆっくり食事を楽しみましょう」
「賛成! さっきから重い話ばかりで、味が良く分からなかったんだよなあ」
「私もそう」
二人は目を合わせて笑い合った。彼との距離はかなり縮まった事は確かだ。しかし家族とは、そう単純なものでは無い。改めてそう思いながら、今は目の前の事に専念しよう。そう真理亜は心の中で呟いていた。 (了)
城之内の逮捕によって残された会社での後始末や、警察による事情聴取も長く続いた為、なかなか休みが取れない忙しい日々を過ごしていたからだ。しかしようやく休暇が取れたので、久しぶりに直輝と連絡を取って東京へと足を延ばし、会う約束をした。
事件後、真理亜が表に出る事を嫌った分、彼は様々なマスコミに取材攻勢を受けた。更には小説家だった事もあり、複数の出版社から本を出さないかと打診を受けたという。
彼は真理亜の言いつけを守り、船で起こった事件の経緯だけでなく、船に乗る前から乗船中に起きた何気ない事等もつぶさに記録していた。その甲斐あって、新聞や雑誌といった様々な媒体で、エッセイ等を書く依頼が殺到したようだ。
もちろん事件についても、ノンフィクションに限りなく近いフィクション小説を書く依頼を受けた。しかも熱が冷めない内にと急かされたらしく、三カ月で書き上げ出版まで漕ぎつけたのだ。
まだ事件における裁判が始まっていないというのに、最近発売されたその本は大ヒットし、彼は一気に有名小説家の仲間入りを果たしたのだ。
直輝が成功した事で、真理亜はほぼ音信不通だった兄夫婦から連絡を受け、とても感謝された。両親も、真理亜を見る目が変わりつつあると耳にした。彼の仕事での成功をきっかけに、これまであった家族内のわだかまりが少しずつ溶け始めたらしい。
直輝からは仕事がもう少し落ち着けば、一緒に休みを取って実家に帰ろうと電話で誘われていた。距離を置いていた真理亜にとっては、実現すれば何十年振りかの帰省だ。しかしその前に一度、色んな件も含め直輝と会ってしっかり話がしたいと思っていた。
そこで今回、ようやくその機会がやって来たのだ。
約束の時間の五分前だったが、既に彼の方が先に来ていた。クルーズ船に乗る際に真理亜が買い与えたスーツを着ている姿を見つけ歩み寄ると、向こうも気づいたらしく立ち上がった。手を軽く振りながら近づいた所で声をかけた。
「ごめん、もしかしてかなり待たしちゃった?」
彼は首を横に振り、頭を掻きながら言った。
「いえ、真理亜さんよりも早く来なければと思って、五分程前に着いたばかりです。それでも約束の時間より早いんだから油断できないなあ」
「性格もあるけど、五分や十分前集合は仕事上で身に染みた習慣だからね。待ち合わせの相手があなたじゃなければ、もっと早く来ていたわよ」
笑って答えると、彼は仰々しく頭を下げて言った。
「存じております。あの船での旅行中に散々鍛えられましたから。でもそのおかげでしっかりしているとか、真面目だとか褒められるようになりました。忙しくなって色んな出版社の人達と仕事をする機会が増えたから余計です。以前の僕を知っている編集者からも、良い風に変わったと言われましたし。全ては真理亜様の教えの賜物です」
後半は、ややふざけた調子になった彼の腕を軽く叩いて笑った。
「何を今さら。まあ大変ご成功されたようですので、直輝先生もさぞかしお忙しいでしょうから、早く行きましょう」
上のレストランを予約していた為、二人で冗談を交わしながらエレベーターに乗った。店に入り席に案内されて席につく。その後創作料理のコースを注文し、皿が運ばれてくる前に、真理亜が先に口を開いた。
「電話でも言ったけど、あの本は良かったわ。単に豪華客船で起きた事件を描いただけじゃないもの。乗船している富裕層達と、寄港地で会ったアジア各国の貧困層の対比にも触れていた点が、リアリティを増していたと思う。それにしても売れて良かったわね」
「有難うございます。でも売れたのは、やっぱり話題性のおかげでしょう。それに今褒めて貰ったところも、真理亜さんの助言で寄港地へ着く度に、色んなツアーに参加したおかげです。特に大きかったのは帰ってから必ず感想を聞かれ、説明に満足しないと、こういう点を見て来たかとか、色々助言して貰ったことですよ。本当にあの二週間余りの経験は、ものすごく凝縮された日々でした。だから売れたり注目されたりしているのは、自分の実力ではない部分が大半です」
「運も実力の内よ。それに周囲の評価と比較して力不足だと本気で思っているのなら、見合うようこれから必死に勉強して補うしかないわね。それに人気や話題性なんてものは水ものだから、次作が本当の勝負になるんじゃない?」
彼は深く頷いた。
「そうだと思います。最初の目的は真理亜さんを題材にすることだったのに、今回は急いであの事件を書けと言われたから優先しました。だから今度こそ次作は、真理亜さんを取材した結果に基づいての作品を書きたいと考えています」
そこで料理が運ばれてきた為、話が中断した。その後食事を始めて間が開いた際に、真理亜は言った。
「さっきの続きだけど、私を題材にして書く事は事前に許可しているから構わない。でもその前に謝らなければいけない事があるの。あの時は本当に御免なさい」
いきなり頭を下げられて戸惑ったらしく、彼は慌てふためいていた。
「止めて下さい。謝る事なんて何もないでしょう」
真理亜は顔を伏せたまま、首を横に振った。
「いいえ。あの事件で黙っていた事が沢山あるの。危険な目に遭わせて本当にごめん」
そこで松ヶ根達には告げた、当初から城之内を疑っていた事や、そこから爆弾やウイルスはダミーだと考えていた点を彼に告げた。担当したばかりで資産の全体像を把握していないと言ったことも嘘だ。知った上で、彼によるクルーズ船の同行の誘いに乗った。
つまり直樹を船の旅に誘ったのは、別の意味で万が一に備えての護衛の為だったと白状した。現に彼がいたおかげで、六階から九階まで逃げられたのだ。
その上最終的には命を狙われる可能性に気付きながらも、実行に移したのは自らの個人的な思いが多分に含まれていた事も明かした。もちろんこれは、警察も公に出していない情報だ。その為彼や出版した編集者達は、当然そこまであの本で描けていない。
彼は真理亜の告白に、絶句しながら聞いていた。しかし全ての説明が終わってしばらく経ってから、彼は口を開いた。
「言っている意味は判りました。でも船であれほどの事件が確実に起こると、予見していた訳じゃないでしょ。それに爆弾やウイルスも、ダミーじゃなかった可能性もゼロじゃなかった。城之内さんはウイルスを拡散されても心配ない、医務室の隔離施設で守られていましたよね。それに犯人の仲間は皆十三階にいたから、それ以外のフロアを爆破する作戦を立てていたかもしれない。万が一船が沈むことがあっても、セキュリティ部隊のような強者と医師と看護師がいれば、その人達だけで救助船を乗っ取って逃げることもできたでしょう」
「それはそうだけど、その確率は低かったのよ」
「でもゼロじゃない。僕はあの作品を書く際、様々なパターンを考えました。だから判るんです。それにあの時の真理亜さんは、とても凛々しくて落ち着いていました。これまでの豊かな経験と知識や知恵が、その揺るぎない自信と度胸の源だと信じあなたの意見に従ったのは、僕だけじゃなく梅野さんもです。だから謝らないで下さい。感謝こそすれ、頭を下げられる筋合いはありません。でも教えて頂いて有難うございます。それに警察が公にしていない情報だから、本来口にしてはいけない事なんですよね」
「出来れば内密にして起きたい事は確かよ。それに顧客を最初から疑って、無断で資産状況の裏を探っていた点も、立場上公にはできないからね」
「だったらもういいですよ。真理亜さんの個人的な恨みがあったというのも、理解できます。実行できたかどうかは別にして、僕が逆の立場だったらやはり腹立たしく思ったでしょう。危険な目に遭いましたが済んだ事です。それに結果オーライ以上の物を、僕は手に入れられました。船に乗る前の僕は、三流以下の出来損ない作家でしたからね」
自虐的に笑う彼に、真理亜は再び頭を下げた。
「ごめん。まだあるの。前に言っていたよね。落ちついたら今度、一緒に実家へ帰ろうって。でもよく考えたんだけど、まだ私はあなたのように両親と和解はできない。あなたとは、確執の質や経過した時間が違うの。偉そうなことを言ったのにね。だけどどうしても、まだ無理なの」
直輝には両親としっかり話し合って、理解して貰いなさいと説教していた。だから彼らの関係は改善しつつある。だがそれとこれとは別だ。真理亜も兄夫婦とは元々疎遠になっただけで、特にわだかまりはない。あるのは両親に対してだけだ。
これには長い歴史と事情が詰まっていた。ここ十年弱程度で揉めだした彼とは、重みが異なる。しかしそれは自分の我儘なのかと考えても見た。だがやはり無理だったのだ。
今度は長い沈黙の後、彼は呟いた。
「お爺ちゃん達と揉めた話は、僕もざっくりとしか聞いてないから詳しく知らない。だから真理亜さんがそう言うのなら、何も言えません。それに親父達と上手くいっていない僕に自信を持たせ、鍛え上げて関係を修復させるきっかけを作ったのは、真理亜さんだよね。それは自分のような過ちを繰り返さないよう、そうしてくれたんじゃないの」
真理亜は答えられなかった。その沈黙を肯定と受け取ったのか、彼は話を続けた。
「実家にいる時、お爺ちゃん達に叱られた事がある。真理亜さん程じゃないけど、僕も童顔でしょ。それに勉強もしっかりしていたから、根が真面目な部分が似ていたんだと思う。だからなのか、大きくなってからは特によく比べられた。真理亜と違って気が弱すぎる。あの子はもっと自分に自信を持っていた。その分可愛げが無かったし、友達も少なかったよ、と言われたことがあった」
そう言われて思い出す。顧客との関係は仕事だからと割り切っている為、今まで大きな問題を起こした事は無い。それどころか信頼はとても厚く、高く評価されている方だ。
その分プライベートでは、友達と呼べる人はほぼいない。それどころか妬まれたりすることが多い為、自分から壁を作る癖があった。幼い頃からその点を、両親にはよく注意された記憶がある。
それは大人になってからも、余り変わらなかった。だからなのか結婚も失敗し、やがてうつ病にも罹った。それらを真理亜の性格のせいだと責められた。
その時の怒りや悔しさは、未だ頭に浮かぶ。すると頭痛や動悸が再発し、治まるのに時間がかかる。それ程の傷を、心に負ってしまったのだ。
当時は何者にもなれないと、相当落ち込んだ記憶がある。真理亜は以前から、生きる為の指標を持っていた。
それは他人に害を与えないことを大前提として、たった一人でも幸福もしくは不幸ではないと感じさせられれば、人として存在する意義があるとの考え方だった。
世の中には歌や芸術、小説やスポーツと等で、多くの人の心を揺さぶり感動させ、喜びを与える人がいる。だがそんな役割を果たせるのは、世の中でもほんの一握りだ。多くは単に社会を動かす、歯車の一つにしか過ぎない。
それでも世界中の人が、自分も含めてあと一人だけ人生を楽しく過ごせると思えば、戦争など起こらず平和に生きられるのではないか。
例え自分に夢が無くとも、目標を持って頑張る人を支えるだけでもいい。それで自分や相手が、幸せと感じられれば十分ではないか。
そう信じて真理亜は幼い頃から一生懸命勉強し、有名な大学に入り一流と呼ばれる会社にも就職した。社会人としての役割を果たせば、少しでも世の中に貢献できると思っていたからでもある。
さらに結婚すれば自分以外の人を支え、共に満足のいく人生を送れるだろうと考えていた。しかしそうはならなかった。幸せにするどころか自分を含め相手を傷つけ、周りの人々にも不快な思いをさせてしまったのだ。
その上病による後遺障害を未だに抱えている。この事はほんの限られた人達か知らないし、もちろん彼には隠したままだ。旅行中に症状が出れば、告白しようとも考えた。
だがその機会もないまま、今に至っている。こんな自分が偉そうに、直輝から頭を下げられる資格等ない。まだ何も言えずにいる真理亜に向かって、彼は言った。
「ああやって人と比較したり、根拠の無い勝手な考えで人を評価されたりするのが、僕も嫌だった。うつ病だって、今はウイルスの活性化による病気という研究が進んでいるのに、心が弱いからだとか言っているのを聞いた事があります。爺ちゃん達と比べれば、まだ親父達の方が理解はあったかな。御免なさい。謝らなけれ行けないのは僕の方だった。自分が親との関係が修繕できそうだからと、安易に誘ったのがいけなかったんだね」
頭を下げられて、真理亜は慌てて否定した。
「ううん。あなたが謝る事じゃないの。これは私の問題だから。あなたは甥とはいえ、別の人間よ。兄や両親と私もそう。ただそれが言いたかっただけなの」
「判った。今度の作品は、優秀な女性PBの話だけじゃなく、そう言った人間関係を絡めて描いてみるよ。もちろんフィクションだから、事実は書かないけどね」
「そうね。私と同じように他人との人間関係だけでなく、血の繋がりがあるからこそ苦しんでいる人は多いと思うから、テーマとしては良いかもしれない。でも書き上げたら、一度読ませてね。勝手に出版したりはしないように」
「了解。では早速、船では聞けなかった深層部分について伺っても宜しいでしょうか」
「何? ここで取材でもするつもり? だったらそっちの奢りで良いんでしょうね。経費にできるでしょう?」
「そうだね。出版社の名前で領収書を貰えば、落としてくれるかも」
「馬鹿。あなたの名前で落としなさい」
「いやいや、収入ではまだまだ真理亜様の足元に及びません。それに二十以上年下の僕に支払わせるんですか」
「判ったわよ。ここは私が支払うから、追加の取材は後日ね。きょうはゆっくり食事を楽しみましょう」
「賛成! さっきから重い話ばかりで、味が良く分からなかったんだよなあ」
「私もそう」
二人は目を合わせて笑い合った。彼との距離はかなり縮まった事は確かだ。しかし家族とは、そう単純なものでは無い。改めてそう思いながら、今は目の前の事に専念しよう。そう真理亜は心の中で呟いていた。 (了)
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