私をモナコに連れてって

しまおか

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第十二章~剛

失言

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 八月の夏季休暇を過ぎ、九月に入って最初の金曜日である一日の夕方の五時、十月一日付けの人事異動がついに発表された。当初の予想は次週の八日だったが、一週間早まったようだ。
 それぞれの持つパソコン画面から全社通達の画面にアクセスし、そこに貼り付けられたファイルを開く。すると全国の総合職と転勤を伴う専門職達の異動対象者の名前と異動先に加えて、九月末の退職者の名も全て見られる仕組みになっていた。
 五時に発表があることを事前に知らされていたため、その時間を待って剛はファイルを開いた。北から異動先による地域順で発表されているため、自分の名を見つけるのには多少時間がかかる。
 まずは北海道エリアをざっと辿るが剛の名はない。だが見知った名を見つけた。加奈の夫だ。しかも彼の配属先はかなりの豪雪地帯で有名な土地だった。あの夫婦はもう破綻していると言っていたことを思い出す。剛は心の中で、ああ、これで彼も自分の時と同じように転勤を機に離婚するのだろう、とまだ会ったことない彼の事を同情した。
 次に東北エリアから新潟北陸エリアを見る。そこにも無い。そこでまずは雪深い地域に配属される確率がかなり減少したことで安堵する。あと雪深いと言えば、長野や岐阜の北部だ。そこで一番エリアが広く、拠点も多い関東甲信エリアに目を通す。
 剛はこれまで埼玉、次に福岡、そして本州の中心部分にある名古屋へと配属されてきた。ここから北に行くのか南に行くのかが問題だ。次に関心が高いのは、どれぐらいの規模の街に配属されるか、だった。
 ここまで見てそれほど遠い北への異動でないことは判った。今回で彼女は初めて名古屋を出る。そのため彼女の両親にとっても、いきなり遠い地への異動で無い方が良い、という話題が夏季休暇で彼女の実家に泊まった際に出た。しかもできれば都会が良いだろうとお義父さんが言えば、京都なんかいいわね、遊びに行くにも楽しみがあるから、とお義母さんが言っていた。それを明日香が窘めていた。
「そんな好き勝手言ってもしょうがないの。それに京都って夏は暑いし、冬は寒いでしょ。しかも名古屋と同じで保守的な街だから、余所者には暮らし難いって言うし」
「でもあなた、京都は好きで昔はよく遊びに行っていたじゃない」
「遊びに行くのと住むのとでは違うでしょ」
「だったら神奈川周辺なんてどうだ。東京ほどはごみごみしていないし、横浜や鎌倉なんかもあっていいところだと思うよ。葉山のような高級リゾート地もあるし」
 お義父さんが会話に加わり、どこへ異動するかをネタにして好き勝手な話をしながら盛り上がっていたことを思い出す。
 そうしている間に異動者リストは関東甲信エリアを通り過ぎ、中部、近畿エリアに入っていた。まだ名前が見つからない。岐阜、愛知、三重、京都、大阪、滋賀、奈良、和歌山と見ていく。この時点で名古屋より西への移動は確定した。
 今回の十月異動は昨年の同時期に比べて数が多そうだ。営業以外でも全国的に様々な部署で異動者が出ている。つまり剛がこの十月異動の中に入ったことは、人事部がこの時期に思い切った大規模な異動を図った影響だろうと推測できた。
 そしてようやく名前を見つけたのが兵庫県のリストに入った時だ。場所は三宮。神戸地域だ。そうか、次は神戸か、と一人胸の内でホッとしながらも複雑な思いを抱いていると、周辺でも剛の名を見つけた他の職員達が騒ぎだした。
「真守さん、ありましたね! 見ました?」
 本人より先に異動先を言ってはまずいと気を使ったのか、後輩がそう尋ねてきた。剛はその問いに頷き、答えた。
「三宮、だってな。神戸地区だ」
「また大変そうなエリアですね。でも真守さんはそういう地域ばかり渡り歩いて来ていますから、やはり望まれているってことですね」
 彼がそういうには訳がある。損害課が担当する地域には、自動車事故の損害率や長期未解決事案の発生率などでランク分けされていた。つまり事故が多い地域とそうでない地域、そしてよく揉める地域とそうでない地域で分けられている。
 そしてそのランク毎に、配属される社員の給料も微妙に変わっていた。大変な地域の社員には若干の特別手当が付くのだ。剛が最初に配属された埼玉の地区は、ハイレベルに属する地域に認定されていた。次の福岡、そして名古屋もそうだ。要するに揉める案件が多い、大変な職場であることを意味する。神戸地域も全国でも有名な暴力団の本部があるエリアだということも関係してか、同じく特別手当が出る職場だ。
 これは損害課の仕事を続けていく上で、高く評価されていると解釈もできるが、ただ単に体格が良く性格もタフである社員を、都合よくこき使っているとも取れる。よって剛は厳しい案件が生じやすい地域に配属しやすい人材だと評価されていることは間違いない。それが良いのか悪いのかはよく判らないが、決して今度の異動先の仕事も楽じゃ無い、と覚悟した方が良さそうだ。
 ただ一方で神戸の町は名古屋と比較すれば人口は少ないが、街として引けを取らない発展した場所だ。近くには大阪のような大都市もあり、京都へ遊びに行くにしても程良い距離にある。しかも名古屋からそれほど遠く無い。新幹線で片道一時間余り、日帰りで行って帰ってこられる場所だ。明日香や彼女の両親の事を考えれば、割と良い地域への異動と言っていい。
 そういう二つの意味で、剛の心境は複雑だった。異動先が判り、また同じビル内の他の社員で異動する人達の話に周りが盛り上がっている時、坂東から声をかけられた。
「神戸だったな。おめでとう」
「ありがとうございます」
 基本的に異動先はどこであってもおめでとう、と声をかけることがこの会社では通例となっている。その為剛も頭を下げた。
「それでちょっといいか」
 課長の後に続いて席を立って会議室へと入る。そこで今までの仕事に対する労いをされた。そして今週半ばには長期休暇を取るため、それまでには仕事の引き継ぎを済ませ、一度ここにいる人身担当の総合職や専門職員に割り振る段取りの確認をする。
 また後任は高知から来るらしく、剛と同じく課長代理で年次は二つ下のようだ。後はお互いの課長同士での話し合いになるが、引き継ぎの時期をどうするかを調整しなければならない。だから希望はあるかと聞かれた。
 異動が発生するということは、後任が来て基本的に引き継ぎなり顔合わせが必要だ。しかし剛が後任者と顔合わせするように、いま高知にいる後任者も次に来る後任者との引き継ぎが発生し、また剛は三宮で前任者とも同じ作業をしなければならない。そこで面倒なのがスケジュールの調整だ。後任者の後任者も引き継ぎがあり、前任者の前任者にも発生する。これが玉突き人事で起こる障害の一つだ。
 ここで重要なのは、己の課の主張をどこまで押し通し、相手の主張をどこまで受け入れて日程調整を行うか、だった。そういったやり取り、駆け引きをするのが課長の役目であり、人によってはその得意不得意が分かれる。実はそれが決して侮ってはいけない点だった。その力の差により実際異動する部下達が引き継ぎに苦労し、引っ越しに支障をきたすか、スムーズな異動を行えるかどうかが決まるからだ。
 そう言う点で坂東は期待できる上司だった。社内の交渉事は上手い方だと思われる。ただ相手をする課長の年次が上だったり強引な人だったりすると、さすがに骨が折れるだろう。ただ名古屋から神戸なら移動距離はそれほどでもない。しかし後任者は高知から名古屋へ来るのだから大変だ。その高知へ来る後任者がまたどこから来るのかは知らなかったが、そこは後任者のスケジュールを優先してもいい。
 しっかり異動リストを追いかけて見れば判ることだが、剛はまだそこまできちんと把握していなかった。さらに神戸にいる前任者がどこへ異動するのかも知らない。だが明日香にとっては初めての引っ越しになるとはいえ、旅行から帰った後は九月末まで休みを貰っている。その後も彼女は会社に行く必要がないため、時間的に余裕があった。
 そこで彼女には悪いと思いながらも、課長の問いに答えた。
「私からは、特にこうして欲しいという要望はありません。後任者が高知からだと移動も大変だと思いますので、そちらの都合に合わせてもらって結構です」
「そうか。神戸へは後で挨拶の為に連絡をするよな」
 異動発表があった時には、一度電話で異動先の上司、今回は三宮の課長宛てに連絡してお世話になりますと挨拶を入れるのも、この会社の通例だ。
「はい。その時、向こうにはどういう事情があるか、簡単に聞いておきます。その後の交渉は坂東課長にお任せしますので」
「判った。ただ早乙女さんは初めて名古屋を出るだろ。不安だろうから、なるべくこちらに負担がかからないように話してみるよ。ただ相手次第だから約束はできないが」
 こういう人だから任せられるのだ。尾上ならこうはいかない。本当に直属の上司には恵まれていると感謝した。
「お気遣いありがとうございます。よろしくお願いします」
 そう言って礼をし、二人の話はそこで一旦終わらせて会議室を出る。そしてすぐに神戸へと電話をし、新任地の課長への挨拶を終え、何か懸案事項や引き継ぎに関する要望は無いかと問う。だが、それはおいおいで、と短い挨拶で済んだ。
 会話をする限り今度の上司となる課長も、悪くは無さそうだった。ただ仕事上や人間としての相性というのは、しばらく一緒に働いてみないと判断できない。あまり甘い期待をするのは止めようと思いながら、今度は内線で明日香にかけた。
 すぐに出た彼女は開口一番、明るい声で言った。
「おめでとう。神戸だね。いいところで良かった。仕事は大変そうだけど」
 彼女も仕事上、土地柄の事は理解しているようだ。それにとりあえずいいところで良かった、と彼女が言ってくれたことで安心する。悪い印象を持ってはいないようだし、彼女の両親も喜んでくれるだろう。彼女にとって初めての異動先としては上出来だ。
「ありがとう。明日香が安心しているようなら良かったよ。ただ引き継ぎの話だけどね」
 そこで課長と話した流れを説明し、場合によっては引っ越し時の荷物搬出、搬入において負担が大きくなる可能性も告げておいた。 
 しかし彼女は全く気にしていない様子で、
「大丈夫。例え向こうのマンションで荷物を一人で受け取るようなことになっても大丈夫だから」
 とまで言ってくれた。スケジュールによっては、土日に運び出すことも、受け入れる時も二人一緒にできるとは限らない。荷物の運び出しが平日になれば、剛は引き継ぎと仕事で会社に出社している間、業者には彼女の立ち会いの元で行なって貰う必要がでてくる。受け入れる時も仕事の為に出社する剛の代わりに、明日香が一人で引っ越し業者とやり取りしなければならないことも起こり得るのだ。
 独身者だとそうはいかないが、妻帯者だとそれも可能だろうと会社は考え、引き継ぎの調整がうまくいかない場合はそう言った皺寄せがくる。自分が過去に三度異動を経験し、前任者や後任者が苦心していたり、強行スケジュールで大変な目にあったりした同僚達も多く見てきた。
 妻帯した状態で異動するのは今回が初めてだ。今までは独りだったため、引っ越しの荷物出しの日や受け入れの日は休みの日だったり、休みを貰ったりなど優遇されてきた。だがこれからそうはいかなくなる場合も出てくる。
 それでも社内の異動事情を知っている明日香だから、理解が早く協力的な発言をしてくれたことは、大変ありがたい。そういった部分は彼女の人柄によることも大きいが、社内結婚をして良かったと思える点だ。他の会社に勤めていればなかなか理解しにくいことでも、同じ会社なら詳しく説明しなくても話が通じやすい点が多い。
 その分何もかも知られているという、隠し事がしづらいという話は聞く。他社の人間であれば仕事で遅くなる、の一言で済むところを、元社員の奥さんだと今の時期に遅くなるなんてある? おかしくない? などと疑われてしまうというのだ。
 剛は彼女に隠す事もやましいと思われることもするつもりはない。そのため理解が得やすいという利点以外に、社内結婚であることのマイナス点は見つからないが、人によっては違うようだ。
 彼女との話を終えてその日の残りの仕事を片付け、次々と書類に目を通して行く。ただ今日は月初めの初日でしかも週末だから、営業の事務職達は忙しいはずだ。恐らく二人とも早く帰ることはできないだろう。
 しかも異動が出た日の週末だと、飲みに行こうと誘われる可能性は高い。それは彼女とも事前に話していたから、そうなればメールを頂戴と言われていた。
 案の定仕事が片付き始めたところで坂東から、ちょっと飲みに行くかと声をかけられた。周辺にいた数名がそれに同調する。こうなると断る訳にも行かないので了承し、急いでメールを打つ。
 返事はすぐに来た。しかも今日は彼女の課でも飲みに行くという。手塚の下にいる一課の総合職が今回長崎へ異動するため、送別を兼ねた飲み会をするらしい。そこへ強引に誘われたため止む無く参加するというのだ。
 いつもなら同じビルにいる総合職の異動にはしっかりと目を通し、全国でも同期が動いていないかを探したりしていたが、今回は自分の異動先以外はよく見ていない。だから全く気付かなかった。
 お互いメールで了解と打ち合い、仕事をほぼ強制的に終わらせ飲みに行くことになった。だがその会の席での一言が、眠っていた問題を勃発させるきっかけを作ってしまったのだ。
 酒を飲んで気分が良くなり油断していたのか、つい余計なことを喋ったことから始まった。会話を交わしている中で再来週にはいよいよ新婚旅行ですね、行き先はモナコでしたよね、楽しみでしょ、という話題になった時、
「実はあんまりそうでもないんだよな」
 と口走ってしまったのだ。それを聞いた周りの社員達が一斉に何故かと問い詰めてきたため、まずいことを言ったと気づき、なんとかその場は誤魔化した。
 しかし一度口から出た言葉を消すことはできない。剛がそう言っていたという事実だけが広まり、それはすぐに彼女の耳にも入ることとなった。
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