九竜家の秘密

しまおか

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第五章

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 土曜に行われた久宗氏の告別式が終わり四日過ぎた水曜日の午後、刑事達が真理亜の部屋を訪ねてきた。
 取引先の告別式への出席は、基本的に休日出勤とはならない。だが今回は業務に近いと判断されたことで、この日は代休として半休を取るよう所長から言われていた。それを知った警察は、良い機会だと考えたのだろう。事件について伺いたい事があると連絡を入れてきたのだ。
 当然真理亜がいる部屋の中へ入るチャンスだと考えていたに違いない。もちろん彼らの訪問を断り、外で会う事もできた。しかし誰が聞き耳を立てているか判らない中で、事件について話すことは躊躇ためらわれる。
 また後ろめたいこと等ないと知らしめる為にも、素直に受け入れた方が良い。また彼らから情報を得る為にも必要だと判断した。それに部屋の中を強制的に物色され、例のあれを発見されるようなことがない限り、心配することなどない。
 それに事件から約二週間が経とうとしている。警察は多くの情報収集は出来ているようだが、未だ真相解明に手こずっていた。真理亜としても、早期解決を望んでいる。よってこの機会を利用し、こちらからも情報を小出しにするつもりだ。その代わりに他の関係者達の捜査がどれだけ進展しているか、聞き出そうと目論んでいた。
 やって来た刑事はこれまでと同じ二人だ。彼らをダイニングにあるテーブルへと促し、座って貰った。一人暮らしには大きすぎる、四人掛けのものだ。普段から人を招き入れることなど滅多にない為、無用の長物だと思っていた。しかし今回初めてそれが役立った。
 十二月も半ばを過ぎたが床暖房を効かせているので、室内は温かい。しかし外はとても寒かったはずだ。よって真理亜は体が温まるよう、熱いお茶を彼らに出すことにした。滅多に人を部屋に招く機会など無い為、正直こういった事は苦手だがやむを得ない。
 普段のように一人だけなら、常温のまま常備しているペットボトルのお茶をコップに入れるだけだ。けれど今回はお湯を沸かし、お客様用にと僅かに用意していた茶葉を使った。賞味期限が切れていないことを確かめ、湿気しけっていないことにホッとした。
 慣れない手つきで彼らの目の前に置くと、二人は揃って頭を下げた。
「有難うございます」
「いいえ、あまり美味しくないかもしれませんが、温まるとは思います」
 自分の分も入れた為、先程口に含んでみた。まずいとは思わなかったけれど、決して旨いとも思えなかったからだ。
「いいえ、お構いなく。それにしても広いですね」
 どうやら今日は、松ヶ根が話を主導するらしい。最初もそうだったが、途中で隣にいる吉良と名乗った若手刑事に質問させていた。恐らくチャラい若者言葉を話すタメ口の彼を使い、揺さぶりをかけたかったのだろう。または彼自身が女性に対する事情聴取を、余り得意としていないからかもしれない。真理亜は何となくそう感じていた。
 だが彼は前回お通夜の席で、驚くほど饒舌じょうぜつに畳みかけて来た。その際のやり取りで多少なりとも、真理亜に慣れたのだろうか。今回は再び彼が話を切り出してきた。この男は頭が切れるやり手だ。情報を聞き出すには骨が折れるだろう。そう覚悟しながら答えた。
「一人暮らしだと、そう思われるでしょうね。でも隣のように夫婦二人だったり、他の部屋のような小さいお子さんが一人ぐらいいたりすると、丁度良い広さじゃないですか」
「いやいや、家族三人でもここは広いですよ。リビングだけで十五畳はありますよね」
「物が少ないから、そう見えるのかもしれませんね。キッチンもありますし、ダイニングと併せれば約二十畳です。後はもう一部屋、寝室があるだけですよ」
 三人が今腰かけているテーブルの横から、カウンター越しにキッチンが見える。奥には冷蔵庫と小さな食器棚があるだけだ。リビング側にはテレビとその下の書籍等を入れた大きめの台に加え、小さなテーブルと二人掛けのソファを配置していた。
 その横には仕事で使う机や、資料等が揃えられた本棚がある。ドレッサーや衣服などは寝室にある為、ここから見て余計なものは一切置かれていない。スッキリとしている分、贅沢な空間に感じるのだろうと思いそう言った。
「失礼ですが、事前に調べさせて頂いています。この低層マンションは確か、一階に住む大家さんのお住まい以外の間取りは、ほぼ同じ一LDKでしたよね。一つがそれぞれ約八十㎡あるそうじゃないですか。広いだろうと想像していましたが、実際に中へ入って見て思っていた以上で驚きました。さすが高給取りでいらっしゃる。私達のような安月給の公務員では、とてもじゃありませんがこんな部屋に住めません」
「とはいっても、所詮は賃貸です。分譲マンションや一戸建てをお持ちの方と比べれば、大したことはありません」
「そこです。高収入の三郷さんなら、十分購入できるでしょう。それなのに何故賃貸なのですか」
 少し間を置いた後、聞き返した。
「それって、今回の事件と何か関係があるのですか」
「全く無いとは言えません。何故なら我々刑事は、事件関係者の過去や人となりを徹底的に洗います。気分を害されるといけませんので予めお伝えしますが、これは三郷さんだけではありません」
「それは理解できますけど、私が賃貸に住んでいる事とどう繋がるのでしょう」
「失礼ですが、色々調べさせていただきました。あなたは過去に震災を経験されているようですね。そうしたことが影響して、このような低層マンションにお住まいではないかと推測したのですが、間違っていますか」
 どうやら真理亜の過去を調べた上で、彼なりに人となりを想像して犯人たる人物かどうかを探っているらしい。下手に誤魔化せば、しつこく質してくるだけだろう。そこで素直に答えた。
「おっしゃる通りです。約二十六年前に起こった震災時、五階建てマンションの四階に住んでいました。あれから高い部屋には、怖くて住めなくなったのです」
 また分譲や一戸建てを購入しない理由も告げた。彼はそれを聞いて深く頷いた。
「そうお考えになるのも無理はありません。実際騒音問題や近所付き合いに関わるトラブルは、決して少なくありませんからね。ここはマンションの構造上、防音や耐震構造はしっかりしている。あなたが求める条件にはぴったりだ。それでも隣から夫婦喧嘩の声が聞こえるというのだから、相当激しいやり取りだったのでしょう」
「いえ。私が音や振動に、人一倍神経質だからでしょう。余り気にしない人なら、聞き逃しているかもしれません。私がヘッドホンか何かを嵌めて音楽を聴くか、テレビを点けて音を出していれば、気付かないレベルだと思います」
「ひょっとして、どれくらいの音がするか録音などしたことはありませんか。もしそういったものがあれば、お聞かせいただければ幸いです」
 驚いた。彼の指摘は当たっていた。半年ほど前に突然始まった時から、クレームを入れる際の証拠にしようと音声レコーダーを使って残したものがある。しかし実際に聞き返し、客観的な立場で考えた場合、苦情を入れるには難しいと判断した。
 所謂住宅地における騒音と呼ばれるものは、昼間だと五十五デシベル超、夜間だと四十五デシベル超等と決まった数字がある。明らかにそれを超えるかと言われれば、かなり難しい。 
 しかも内容からして同情すべき点が多々あった。その為途中から壁を叩いたり録音したりすることも止めて、自分が外へ避難するようになったのだ。
「あることはありますが、聞いてどうするおつもりですか」
「あくまで参考の為です。お隣が事件当夜、喧嘩をされていたことはこちらでも確認しています。ですから疑っている訳ではありません」
「録音したのは、あくまで今後トラブルになった場合に備えてです。盗聴ではありません。しかも二度ほどだけですし、事件があった日のものではありませんよ」
「それでも構いません。聞かせていただけますか」
 話題がなかなか本題に入らない為、これは長引きそうだと覚悟した。それでも真理亜には、彼らから聞き出したいことがある。向こうもそれは同じだろう。これは根競べだと考え、言われた通りにリビングの隅に置かれた机の引き出しから、レコーダーを取り出し渡した。
 若い刑事がそれを操作し、音を出した。そこから数カ月前の隣人夫婦による罵り合う声が聞こえて来た。耐えがたい内容だけに、我慢できなくなった真理亜はしばらく席を外すことにした。
「聞き終えたら、声をかけて下さい。隣の部屋にいますから」
 そう言ってリビングの横にある扉を開け、寝室へと逃げ込んだ。どれぐらい経っただろう。ぼんやりしていると、刑事がドアをノックした後に若い刑事の声が聞こえた。
「すみません。もういいっすよ」
 ベッドに腰かけていた真理亜は立ち上がり、リビングの椅子に座り直した。
「申し訳ありません。余計なお時間を取らせまして」
「何か判りましたか」
 意図的に尖った態度を取っては見たものの、いつもの調子が出ない。やはり心理的な問題だろう。思い出したくない嫌な過去が蘇ってくるが為に、テンションは自ずと低くなった。向こうもその様子に気付いたのだろう。先程より柔らかい調子で答えた。
「はい。お隣からも定期的に喧嘩をしていると伺っていましたが、内容までは教えて貰えませんでした。良く聞くと、お子さんの件で揉めていたようですね」
「そういうプライベートな事は、人に話したがらないでしょうから当然だと思いますよ」
 すると若い刑事が、突然言い出した。
「松ヶ根さんのところが揉めていたのと、似たような話っすね。うちには子供が一人いるっしょ。でも作るとか作らないとか、あんま考えたことが無かったってカンジっす。だからこういう事で喧嘩する人って、本当にいるんっすね」
「余計な事を言うんじゃない」
 松ヶ根は横に座る彼を叱った。頭を下げて謝る彼を無視し思わず尋ねた。
「あなたの家庭でも、こういう言い争いをされたことがあるのですか」
 彼は左手で肩を掻きながら、急に先程までとは違う態度でその問いに頷いて言った。
「う~、実は私もあなたと同じ、バツイチでしてね。三十歳の時に、同い年の総務にいた同僚と結婚をしました。彼女はそれを機に退職をしたのですが、やたら子供を欲しがっていたんです。しかし刑事となって多忙な日々を過ごしていた私は、う~、なかなか彼女の要望に応えることが出来ませんでした。そこで喧嘩が絶えなくなり、三十五歳の時に離婚届けを突き付けられて別れたんですよ。だからここに録音された内容を聞いて、胸が痛くなりました。当時の事を思い出します」
 なるほど。当初女性に対して何か臆病な態度を取る人だと感じていたが、そうした過去が原因だったのかと腑に落ちた。さらに男女逆の立場だったとはいえ、自分と同じ経験をしている彼に、僅かながら共感を持った。そこで気が付く。
 先程彼は事件関係者の過去や人となりを、徹底的に洗うと言っていた。つまり真理亜が離婚していることだけでなく、理由なども既に調査済みだったはずだ。そこで彼もまた、同じ境遇であることに共感を持った可能性はある。だから今回、彼が主導して話をし始めたのかもしれない。
 その予想通りの言葉を、彼は言い出した。
「あなたが離婚された理由も、不妊治療をしたにも拘らず、お子さんがなかなか生まれなかったことだと伺いました。う~、私の所は不妊治療をするまでにも至らない状態で別れましたから、その辛さは良く理解できるとまでは言えません。でもあれはお金が相当かかるだけでなく、女性の体力的なものに加えて精神的な負担もかなりあるようですね。私はそういう事などを、一人になってから知りました。男というのは馬鹿です。子供を産むという点で、女性がどれだけの苦労を背負うかなんて全く考えもしなかった。ここにいる男も同じですよ。何も考えていなかったから良かったのかもしれませんが、それはそれで大きな罪です」
「そんなことを言われても、判んないものは判んないっす。それで上手くいってるんだから、いいんじゃないっすか」
「上手くいっているかどうかなんて、どうして判る。お前が勝手に思っているだけかもしれないんだぞ。明日にでも、急に離婚届を出される事だってあるんだ。俺の周りにも、そういう奴らは沢山いた。仕事が忙しいって理由一つで、そうなる。ましてや、う~、子供がいる身で浮気なんかして見ろ。一発アウトだぞ。面倒も見ずに好き勝手遊びやがってと、罵られるのがオチだ。気を付けろよ」
「そ、そうっすね」
 痛い所を突かれたのか、彼は急に大人しくなった。世の中にはこの手の男など、腐る程いる。それでも子供がいて、結婚生活を維持できているのだ。自分の持っていない家庭があるだけで、ある意味羨ましいと思えた。
 けれどそこで考え直す。失われた物を数えるな。その言葉を頭に浮かべた。このまま気分が沈んではまずい事になる。なんとか気を取り戻そうと、真理亜は深く深呼吸をして一度席を立った。
「お茶が冷めてしまいましたね。入れ直します」

 自分の分も含めた湯呑みを回収し、お盆に乗せてキッチンへと向かう。急須に入っていた茶葉を捨て、新しいものに入れ直しポットに入った熱湯を注いだ。その間に残っていたお茶を捨て、熱湯で湯呑みを温める。良い頃合いで湯を捨ててお茶を注ぎ、再びお盆に乗せた。先程は用意しなかったお茶菓子を添えて、彼らの前に置く。
 席に戻って座り直したところで、軽く頭を下げた彼らは静かにお茶を口に含んだ。すると何故か松ヶ根の目が一瞬戸惑いを見せ、こちらに視線を向けた。熱すぎたのだろうか。それとも不味かったのかと思い、自分の湯呑みに入ったお茶を一口飲んだがそうでもない。
 それどころか先程入れた時よりも、美味しくなっているはずだと首を捻る。他に何か粗相をしただろうかと不安になった。だが若い刑事がお茶菓子を頬張り、満足気にしている様子を見て、思い過ごしだろうと安堵した。
 その間隙を縫うように、突然質問が降って来た。
「ところで敏子夫人から既に聞いていらっしゃると思いますが、あなたが九竜家から依頼された内容に関して、お話頂けますか」
 今日の訪問前から、覚悟を決めていたことだ。しかし心のガードを下げた時だった為、直ぐに言葉が出て来なかった。警察は告別式が終わった後、松方弁護士や由利監査役を同席させた上で、夫人と何度もコンタクトを取っていた事は知っていた。
 そこで事件に関わっていることが無いか調べる為にも、真理亜に託した業務依頼について話すよう説得し続けたらしい。しかも松ヶ根は、真理亜が事件の犯人で無い事を証明する為にも必要だと言ったという。
 その為夫人は真理亜に対し、二点を除いた部分に関してなら刑事の質問に答えても良いと連絡してきたのだ。また二点の内の一点である一久氏については、状況に応じて止むを得ないと判断した場合、喋っても良いとの許可を得ていた。
 顧客からの要望である限り、従わざるを得ない。確かに残る一点だけは、夫人が帰国するまでの辛抱だ。慌てて説明する必要など無い。そう理解していたからこそ、今回刑事達の訪問を受け入れたのだ。
 けれどこのまま素直に応えるのは癪であり、心に余裕がなかった為ワザと話題を変えた。
「もちろん話は聞いています。ですがその前に教えて頂けますか。あなたはお通夜の日、久宗氏を殺害した犯人は犯行時間をずらした形跡がある、と仰っていましたね。事実あれから相原所長や寺内さんも含め、複数人から改めて事件当夜の行動を確認したと聞いています。どうやら当初八時半から十時半の間と言っていましたが、さらにその一時間後まで範囲を広げたようですね。それはつまり十時半から十一時半の間に、久宗氏が殺された可能性もあると思って間違いありませんか」
 はぐらかされると思ったが、彼は素直に頷いて答えてくれた。
「そう考えています。しかしあなたの場合、逆にその時間のアリバイは既にこちらで把握しています。十時半過ぎにこのマンションへと車で戻ってこられた後、ICカードキーを使ってこの部屋に入りましたね。翌朝七時半過ぎに寺内さんや相原所長からの連絡を受けてここを出るまでずっと中にいた事は、以前提出いただいたICカードのデータから確認は取れています。マンションの防犯カメラも見ましたが、ここから出ていない。つまり鉄壁のアリバイが成立しています」
「私の事はいいです。十時半以降に犯行が行われた確率の高さはどうなのか。それを教えて頂きますか」
 彼は渋い顔をしながら言った。
「断定まではできません。死亡推定時刻には、元々幅があります。当初八時半から二時間の幅を持ってお尋ねしていた事からも、お判りになるでしょう。それが後ろにおよそ一時間ずれる見込みも出てきた、というだけです。よってあなたのアリバイが証明されていない、十時前後に殺害された可能性はまだ残っています」
「壊れた時計の指していた時刻が、十時少し前だったからですか」
「それも偽装されたのかもしれませんが、そうでないかもしれません」
「要するに、あくまで可能性でしかないのですね」
「そうなります」
「ところでどういう理由があって、アリバイ工作がされたかもしれないとお考えになったのですか。何か新たな証拠でも発見されたのですか」
 さすがにこの質問ははぐらかされた。
「そういった詳細についてはお答えできません。捜査上の秘密事項に当たるものですから」
 それでもしつこく質問を続けた。
「では殺害されたと思われる時間帯に幅ができた事で、何か変わったことがありましたか」
 これは話していいだろうと判断したらしく、彼は口を開いた。
「相原所長は十一時まである顧客と会食しており、その後電車で帰宅しています。改札の防犯カメラや使用したカードによって確認されているので、犯行時間が後ろにずれてもアリバイは成立しております」
「寺内さんはどうですか?」
「彼女は娘さんが帰ってきたので、十一時頃にママ友との長電話を終えています。しかし遅く帰宅したことで長い間厳しく叱っていたとの証言が、周辺住民から得られました。十一時半過ぎまで続いていたようですから、彼女のアリバイに問題はないと思われます」
「要するにカードキーを持つ三人の中で、久宗氏を殺害できたのは私だけという状況は変わらない。そういう事ですね」
「そうです。しかしその三人が実行犯ではなく、誰かにカードキーを渡した共犯者である線も消えていません。そこで最初の質問に戻ります。あなたが九竜家から依頼された内容について、お聞かせ下さい。その内容如何では、被害者を殺害する動機を持つ人物がいるのか。三人との繋がりのある人物がいるか等も、明らかになると考えています」
「警察では、久宗氏の相続に係わる人物が疑わしいとも考えていましたね。つまり他に動機を持つ人間がいるか探しているということですか」
「そうなります。以前もお話ししましたが、現段階だと今回の事件によって将来多額の資産を相続する可能性が発生した人々は、全員疑わざるを得ない。長谷家の三人と兵頭家の二人。後は一久氏も含まれます。しかしその為には、カードキーを手に入れる必要があります。しかし今挙げた人達と、あなたを含む三名との繋がりがはっきりしません。事件発生から二週間経ち、捜査によってそれなりの情報を収集してきました。けれどまだ表に出てきていないことが、いくつかあります。その中で重要と思われる一つは、あなたが証言を拒否し続けてきた、九竜家との間で取り交わされている依頼内容です。私達の仕事は事実の一つ一つを浮き彫りにして、その中から犯人に繋がる手がかりを探し当てることです。お話し頂けますか」
 これ以上話をはぐらかすことは難しいと思い、真理亜は深く溜息をついてから頷いた。
「判りました。敏子夫人からも協力するよう、依頼されています。では何をお知りになりたいのですか」
「ありがとうございます。早速本題に入りましょう。まずはあなたが受けた依頼内容を、具体的に教えて頂けますか」
「もうあなた方はお気づきになられているようですが、私の受けた内密の仕事は九竜コーポレーションの事業継承と、整理後に発生する個人資産の管理や運用です」
「やはり九竜コーポレーションが、身売りを考えているとの噂は本当だったのですね」
「その通りです。お通夜の時に指摘された際は驚きました。いずれ噂は広まるだろうと覚悟していましたが、あのタイミングで追及されると思っていませんでしたから」
「失礼致しました。あの夜にああいった騒ぎが起きたおかげで、容疑者の多くが一堂いちどうかいした場所に駆け付ける機会ができました。そうある事ではないので、どうしても皆様の反応を探りたいが為、まだ裏の取れていない段階で不躾ぶしつけな質問をしたのです。ご理解ください」
「今は裏が取れている、ということですね」
 彼はしっかりと頷いた。
「ある程度の証言は取れています。その点をあなたに確認したくて参りました」
 彼の様子から、単なるハッタリではないと判断した為正直に答えた。
「おっしゃる通り、久宗氏がご存命の時から、会社を売却する手筈に奔走していました」
「この件を知っていたのは九竜ご夫妻の他に、あなたと由利監査役だけですね」
「はい。会社の売却ともなれば、役員に相談もなく勝手に行うことはできません。ですから由利さんにだけは、内密にするようお願いした上で準備をしていました」
「あなたはお通夜の席でも、会社の業績には問題ないとおっしゃっていました。由利監査役にお話を伺ったり、こちらで調べたりした限りでも間違いないようですね。それなのに、一体どうして売却をお考えになったのでしょうか」
「私に依頼をするずっと以前から、九竜夫妻はお考えになっていたようです。ご存じの通り、現時点でお二人の後を継ぐ直系の方はいらっしゃいません。後継ぎがいなければ、現在会社を任せている幹部の中から次の社長を選び、企業存続させることは珍しくありません。しかしご夫妻は、そうお考えになりませんでした」
 もちろん代々世襲してきた会社だからといって、そこにこだわる必要はない。一族経営をされている企業が後継者不足で悩むケースは、全国各地で起こっている。だからだろう。彼はその点を質問して来た。
「適当な人材が社内にいなかった事が、その理由ですか」
「いえ、そうではありません。身売りを考えられたのは、会社名義になっている土地等の資産をどうするかが問題となったからです。現在九竜コーポレーションが保有しているものは、元々九竜家が所持していた個人資産がほとんどです。久宗氏の祖父が亡くなった際、この周辺の大地主だった九竜家の相続税は、相当な額になったと伺っています。節税対策を、全くと言って良いほどしていなかった事も原因でしょう。その為多くの土地を手放し、売却されたと聞いています。それはそうでしょうね。九竜家ほどの規模なら、相続税は五十%近くになります。その事が教訓となり、一久氏の代で個人所有から会社名義へと書き換えながら、会社の運営による利益を得つつ、相続発生時における対策を取ってきました」
「それが今回の身売りと、どう関係するのですか」
「一族が社長として会社の経営と資産を管理しなければ、相続対策になりません。後継ぎがいなければ、効果は無くなります。よって第三者に社長を引き継ぐのであれば、会社の資産を買い取っていただく必要があるのです。そうでなければ九竜家の財産は、会社に寄付したのも同然となってしまいますから」
「なるほど。社長を譲ったとしても、株は持っていなければならない。ただその株を引き継ぐ相手がいないとなると、確かに困りますね」
「はい。ですから社内で優秀な人材がいたとしても、会社の資産ごと買い取れない限り社長を任せる訳にはいかないのです」
「それで外部の会社に売却する、という結論に至った訳ですね」
「はい。もちろん九竜夫妻は身売りの条件として、全社員の雇用確保が約束できる事を第一に挙げられていました。お通夜の席で兵頭部長やその他の社員が動揺したように、その点が守られなければ、これまで築き上げて来た信用も失ってしまいますからね」
 九竜コーポレーションは多くの不動産を持ち、マンション経営の他に保険代理店や清掃設備の保守管理の請負、建物内外の保守や警備の請負う部門もある。他にはリフォーム等の部署で家具や電気照明器具、室内装飾品や日用雑貨の販売・斡旋をしていた。
 幸い会社の業績は良く、適正な価格で買い取れば社員をそのまま雇い続けても、損をすることはない。後はあれだけの規模の土地を購入できる資金の余裕を持つ会社を当たり、最も良い条件を提示してくれるよう交渉するだけだ。それが真理亜の与えられた第一の仕事だった。
「それはもう、決まっているのですか」
 一瞬答えに躊躇したが、事実に即して言った。
「ほぼ絞られましたが、契約締結までには至っていません。何故なら久宗氏が急死され、しかも殺されると言った想定外の事が起こったからです」
「事件が無ければ、決まっていたかもしれない?」
「そうでしょうね。九竜夫妻としては、売却額を少しでも引き上げよう等と思っていませんでしたから。あくまで適正価格で、しかもこれまで同様の運営を行ってくれる会社であれば良いとのお考えでした。ですから手を上げられた企業は、かなりの数に上ったのです。それを数社まで絞り込み、さあこれからという時に事件が起こってしまいました。このような状況では、買い手側が躊躇するのも無理はありません。どういった経緯で久宗氏が殺されたかによっては、その後の会社経営に響くからです。買い取ってから実はこういう裏があったなどと悪評が立てば、大きな損失となりますから」
 彼は理解したらしく、大きく頷いた。
「そうですね。会社の社員が犯人の可能性もある。よって逮捕されるまでは、全ての社員の雇用を確保するとは言えない。また相続関係で揉めた挙句の殺人となれば、その影響も考慮しなければなりません。九竜家はこの地域の名士ですから、その評判が落ちれば企業価値も下がる。それを恐れて、まだ買取に踏み切れないと言ったところでしょうか」
「その通りです。よって私としてはこの事件を早急に解決することも、依頼された仕事の一つになりました。ですから敏子夫人のご指示を受け、お二人の質問に答えて捜査協力をしているのです」
「それは助かります。しかもあなたが重要参考人の一人に挙げられたことで、仕事の妨げになっている。そこでお聞きしますが、それでも敏子夫人はあなたに依頼し続けている。その理由は何でしょう。取り下げて別の人に任せた方が、リスクは少ないはずです。もし犯人があなただったら、取り返しのつかないことになるでしょう」
 これには素直に答えることが出来なかった為、はぐらかした。
「有難い事ですが、それだけ信頼して頂いていると思っています。ですからそのご期待に沿わなければなりません」
 すると彼もそれを察したのか、顔を曇らせてしつこくその点をついて来た。
「信頼、ですか。本当にそれだけでしょうか。何か敏子夫人の弱みを握っている、ということはありませんか」
「どういう意味でしょう」
「どれだけ信頼しているからといっても、あなたはご主人を殺した疑いを持たれている人だ。しかも知り合ったのは、ほんの四カ月前です。それなのに、九竜家の莫大な資産を動かすほどの仕事を任せるでしょうか。通常なら、担当を外されてもおかしくない。いやPA社に属する、三名しか持たないカードキーでしか入れない部屋で殺されたのです。別の会社に依頼し直すのが、普通ではないでしょうか」
 鋭く切り込んできたが、これはまだ口にしない約束だ。よって誤魔化すしかなかった。
「そうしなかったのは何故か、敏子夫人しかお答えようがないでしょう。既にお尋ねされたのではありませんか」
「しました。しかし彼女を絶対的に信頼しているから、の一言で済まされました。それでは納得がいきません」
「それを私に質問されても困ります」
「ですから私達は考えました。敏子夫人が担当から外せない弱みを、あなたは握っていることはないか。そこでお尋ねしたのです」
 真理亜は間を置いた。喋り続けた喉を潤す為にお茶を一口含む。彼らは黙ってこちらを見つめていた。そこで逆に質問をした。
「人の弱みというのは、何でしょうね」
「一般的には、他人に知られると困る事などでしょうか」
「そう定義するなら、敏子夫人の弱みを握っていると言われても、否定はできませんね」
 すると彼は目を丸くした。
「ほう。これは驚きました。そこまで正直に白状されるとは思いませんでした」
「誤解しないで下さいね。私がその弱みを利用して、担当を続けられるよう脅す真似はしていません」
「そのようですね。敏子夫人もおっしゃっていました。今回の事件が起こった後、事情を説明したあなたは、会社の売却について担当を外すよう自ら願い出たそうですね」
「そこまで確認されていたのですか。でもそう言うよう、私が脅したかもしれませんよ」
「はい。そう疑いもしました。ですがあの方の目を見て、話を聞いた私やここにいる吉良の感想からすれば、嘘だとは思えませんでした」
「それで信じて頂けるのなら助かります。しかしあなた達の目が節穴かもしれませんよ」
 ワザと挑発してみたが、彼は動じなかった。
「そうかもしれません。ただ脅していないとしても、弱みを握っている事は事実だとあなたはおっしゃいました。それは彼女が未だ帰国しない事と関係ありますか」
 これは認めるしかなかった。
「それしかないでしょう。お通夜の日に、それを確認したはずです。あの場所には九竜家の関係者全員が集まっていました。そんな中で夫人が葬儀にすら顔を出さない理由を知っているのは、私だけだとあなたは確信されたのではないですか」
「はい。そこでお尋ねします。一体何故なのですか」
「前回もお伝えしましたが、時が経てばいずれ判る事です。よって今はお話しできません。この件についてはそう答えるよう、敏子夫人からも了承を頂いております。何故ならあなた達に話したからと言って、事件が解決する類のものではないと判断したからです」
「それを判断するのは我々です。どうしてもお話頂けませんか」
「申し訳ございません。お断りいたします。それ以外の依頼された件についてはお答えしますので、別の質問をしてください」

 こちらの頑な態度に一瞬業を煮やした表情を浮かべたが、やがて諦めたらしい。刑事二人が視線を交わした所で、質問者が交代した。
「じゃあ話題を変えるっすね。敏子夫人には、お身内がいないってことは確認したんすよ。ご両親も他界し兄妹もいなくて、遠い親戚とも付き合いがないみたいっすね。でも九竜家は、兵頭部長や亡くなった被害者の姪っ子がいるじゃないっすか。そっちに会社を引き継ぐってことは、考えなかったってことっすね」
 またこの調子に付き合うのかと脱力感を持った真理亜は、それでも答えた。
「お通夜の時に久宗氏が最近まで残されていた遺言書の事を、松方弁護士がお話されていたでしょう。資産を甥や姪に残す意志は無かった。よって兵頭部長を含め、身内は誰も後継者とは考えていませんでした。つまり兵頭家が買い取ることなど不可能なので、他の企業に売却することを決められたのです」
「売却したお金は、九竜夫妻が受け取る予定だったって事っすよね。それにしても相当な額っしょ。どうするつもりだったんすか」
「主にはご夫婦の豊かな老後を過ごす資金として、お使いになられる予定でした。もちろん一久氏もいらっしゃいますから、そのお世話についても考えていらっしゃったとは思います。けれど以前脳梗塞を起こされ麻痺も少し残ったとはいえ、リハビリが順調だったこともあり今はお元気です。それに一久氏個人がお持ちの資産もそれなりにありますから、不自由な思いをすることはないでしょう。久宗氏は還暦を迎えられたのを機に会社から身を引き、ご夫婦での生活を充実させようと計画を立てられたのです。人生百年時代に入ったと言われていますからね」
「第二の人生を送る為に、会社を整理しようと思ったって事っすか」
「そうです。よって私への依頼は、問題なく身売りを成立させる事。その次に売却によって得た利益を有効に活用するための節税プランはもちろん、その後の資産管理や保全と運用についての投資政策書等を作成することでした」
「その仕事内容についての詳細は、三郷さんしか知らないって本当っすか。相原所長なんかに、相談や報告もしてないんすよね」
「していません。運用の方法や資産状況などの情報は、全て私しか開けられないファイルに保存されています。」
「それじゃあ、会社が所有する不動産の売買なんかで、揉めたりはしていないっすか」
「それはありませんね。少なくとも身売りに関して、ネックになるような不動産はありません。もしあれば、取引に支障をきたします。よってそう言った類のリスクが生じそうな物件があるかどうかを、全てチエックしました」
 例えば持ち主が九竜家から他の会社に移ったことで、不利益を被るような借主があれば問題だ。土地周辺に住む人達に迷惑をかける事態が起こる公算も、まず無い事は確認済みだった。
「なるほど。すごいっすね。だったら土地以外はどうっすか。金融資産なんかもあったっしょ。そういうものの運用で、トラブルなんかはないっすか。例えば取引先の銀行の担当者だったり保険会社だったりで、身売りされたら困るって所なんてあったりなんかして。ああ、節税だと税理士なんかが介入したりしないっすか」
「ありません。そういうものがあれば、徹底的に排除してからでないと、話は勧められませんから。まあ強いて言えば、保険会社の中では困ると思った方がいたかもしれませんね。でも人を殺す動機になる程の事とは思いませんけど」
「どういうことっすか」
 つい口が滑ってしまった事を後悔する。余り気乗りしない話題だったが、止む無く説明した。
「例えば九竜コーポレーションでは、節税の為に加入した生命保険があります。約四年前に契約されたもので、当社の扱いではありません。退職者プランとして久宗氏や敏子夫人をはじめ、健康状態に問題のある人を除く部長以上が全員加入しています。一久氏や松方弁護士は会社に所属していませんので、最初から対象外です。由利監査役や兵頭部長は加入されていました」
「それはどういうものっすか」
 保険の話をし始めた途端、妙に喰いついてきた。不審に思いながらも、大したことではない為話を続けた。
「警察も把握していると思いますが、久宗氏はいくつかの生命保険に加入していました。殺害されたことで、多額の保険金が支払われるでしょう。個人で加入している商品もあります。でも一番大きいのは、会社が掛け金を支払っていた逓増定期保険から、四億円支払われるもののはずです。ただしこの保険金の受け取りは会社です。この商品は表向き、経営者や役員が亡くなった際の、死亡退職金や弔慰金に充てる名目で販売されています。小規模な会社ほど取引先との人脈形成など、経営者や役員個人の持つ影響力が大きいケースは少なくありません。よって万が一死亡すれば、会社の業績においてマイナス要因となります。その際における代替要員を確保する人件費や、落ち込んだ利益の補填にも備えられるといったうたい文句で、保険会社が経営者達に推奨している保険商品です。しかしその実態は、保険の内容に応じて掛け金を会社の損金に算入出来ることから、節税プランとも呼ばれています。税務署に税金を支払う代わりに、保険会社に保険料を支払うことで合法的な流動資産を作るものです」
「ちょっと良く判んないっすね。簡単に説明して貰えないっすか」
 説明をしたところで、事件解決に関係するとは思えなかった。そこで真理亜は松ヶ根に視線を送った。しかし意外にも彼は、話を続けるよう目で促してきたのだ。その為諦めて解説した。
「まず法人の企業活動によって得られた所得に対して課される、法人税からご説明しましょう。会社の挙げた売上収入などで得た利益の中から、商品等の売上原価や人件費、設備投資等でかかった経費を除いた部分に、税金がかかります。ここまではご理解頂けますか」
「大丈夫っす」
「では次に法人税を支払った残りが、会社の資産となります。家計でいえば手取り収入に当たる部分です。その為普通ならできるだけ支払う税金を少なくし、手取りを多く残そうと考えませんか」
「そうっすね」
 この男は本当に理解しているのだろうかと疑問を持ちつつ、真理亜は説明を続けた。この話が終わらなければ、次に進めないと感じたからだ。
「それは企業も同じで、その為に様々な工夫をして節税しようと考えます。その一つとして挙げられるのが、保険会社の販売する法人契約です。別名“節税保険”とも呼ばれますが、これを活用すれば保険料の全部または一部を、損金と呼ばれる経費にすることができるのです。経営者や役員、幹部社員等への死亡退職金の備えとなりますが、それだけではありません。解約返戻金が高い商品であれば、それを原資として勇退した場合における退職金の備えだけでなく、会社の利益が大きく減少した場合の準備資産としても活用ができます。家計で言えば、貯金の切り崩しと考えてくだされば判りやすいでしょう」
「それがどうして、節税になるんっすか」
「保険料の支払いにより損金算入を増やせば、課税される所得を減らせるので法人税を少なくできます。つまり税務署に支払う分を、将来使う貯金に回す利点がある訳です」
「なるほどっすね。でも解約したら手元にお金が入るわけじゃん。それに税金はかからないんすか」
 思っていたより頭は悪くないらしい。その為真理亜は彼を褒めながら解説した。
「良い質問ですね。おっしゃる通り解約返戻金が会社に入ると、それを年度中に使わずそのまま持ち続ければ、益金となるので税金がかかります」
「だったら結局同じことじゃないっすか。単なる先送りっすよね」
「そこが大きなポイントです。この商品の加入メリットをより多く享受きょうじゅするには、ある程度の条件が必要となります。法人契約の年間保険料は、一契約で何十万から百万円以上と高額です。そこでまず保険料をしばらく支払い続けても、十分企業経営できるだけの潤沢な資金がある状態で無ければなりません。何故なら契約して早期に解約してしまうと、元金割れしてしまからです。つまり最低でも、解約返戻金のピークまでは支払いできる利益を上げ続けなければなりません。と同時に解約したら税金がかかるので、その時点における使い道、いわゆる出口対策を取れる企業でなければなりません」
「出口対策ってなんすか」
「例えば先程ご説明したような、退職金がそうです。解約返戻金のピーク時に合わせて、誰かが退職するまたは勇退させる計画があればベストでしょう。何故なら企業が経営者や役員などに支払う退職金は損金算入されるので、収益から差し引く事が出来るからです」
「なるほど。解約して入ってきた分だけ支払えば、税金がかからないってことっすね」
 意外に呑み込みが早かったので、解説に熱が入ってきた。
「そうです。ただ退職金だけにしか使えないとなれば、使い勝手が悪くなります。そんな計画通りになるような保険設計ができるかどうか、判りませんからね。解約返戻金のピークは加入時の年齢にも左右されますし、健康上問題がある人には使えませんので」
「そういう時は、どうするんっすか」
「九竜コーポレーションの契約した法人契約が良い例です。お調べになっているかどうか判りませんが、あの会社では九竜夫妻や由利監査役といった役員だけでなく、部長クラスは全員加入されています。異なった年齢の方々を含めた複数契約を結ぶことで、加入できない人やピークが合わない人の分を、別の契約でカバーすることができるのです」
「それって例えば由利監査役が退職する時に、兵頭部長の契約を解約するってことっすか」
 ここまで説明を続け、ようやく彼らの意図が少しずつ判って来た。どうやらどこかで得て来たこれらの情報が、事件に何か関わっていると疑っているらしい。もしかすると、真理亜の知りたい情報に辿り着く展開も期待できる。よって彼らが満足するよう、答えることにした。
「そうです。節税プランとは言っても、やはり生命保険の商品がベースですからね。また加入時の年齢もそうですが、保険金額も全員同じという訳にはいきません。実際社長だった久宗氏が加入していた商品は、契約時での死亡保険金が一億円で、その後年々上昇して最大五億円にまで膨れ上がります。ただ同じ契約を、同い年の兵頭部長が加入できるかといえばそうはなりません。社長ですから、最大五億円になるまでの大型保険に入っていてもおかしくない。よって税務上の損金算入が認められます。しかし部長クラスでは高すぎるので、同じ契約だと認められないでしょう。実際兵頭部長の契約は保険金が三千万円から始まり、最大一億五千万円まで上昇するものです。そうなると久宗氏と同い年でも保険料は安いですし、その分解約保険料も多くありません」
「だったら、全員の退職金を支払うことなんて無理っしょ」
「そうでしょうね。これはあくまで出口対策に退職金を使う場合です。それにこうした保険の解約ピークは、五年から十年の間になります。そこでよくあるのが、五年から十年の間に大きな設備投資を考えているケースです。工場を建て直すとか機械を入れ替えるとか、備品などを一掃して新しいものに買い替えるといった計画があれば、それに合わせた保険設計ができます。要するに保険を解約した年度内で、税金がかからないように同じ分またはそれ以上の損金として落とすものがあれば、税金を払わずに貯めて置いた分を有効利用できるという訳です」
「だいぶ判ってきたっす。そんなものがあるんっすね」
「それだけではありません。先程あなたは先送りと言いましたが、それだけでもメリットがあります。例えば今現在の法人における実効税率は、九竜コーポレーションの場合だと二十三.二%です。しかし現在の政権になってから、この数値を下げる方針が打ち出されました。現に六年前は二十五.五%でした。そこから年々少しずつ下げられたのです。九竜夫妻達が加入された年は二十三.九%、翌年に二十三.四%まで下がる前に駆け込みで契約されたようですね。何故なら税率の高い時に入り、低くなってから解約するだけで、その差が節税されるからです」
「へぇ。でも保険は基本的に掛け捨てってイメージがあるんすけど、解約返戻金が多く戻ってくるっていうのがよく判んないっすね」
 いつまで続くか不安になったが上手くツボをついて来た為、再び褒めつつ答えた。
「それも良い質問ですね。実は逓増定期保険も、掛け捨てタイプの保険です。しかしそこには、からくりがあります。先程ご説明したように年々保険金が上がり、最大五倍まで増えると言いましたよね。しかし年間の掛け金は変わりません。時間が経過するにつれて支払われる保険金が多くなれば、支払うリスクが高くなりますよね。特に五十歳を過ぎた人なら、年齢が高くなれば死亡率はぐっと上がるのも当然だと思いませんか」
「それは当たり前じゃないっすか」
「だからこそ、年間で支払う保険料は高く設定されています。つまり最初から多く頂くことで、リスクを軽減しているのが逓増定期保険という商品です。だからこそ保険期間を三十年や四十年に設定しておき、契約して五年から十年の間に解約すると、多めに頂いている分の解約返戻金が発生するように設計されています。しかもいくつかの条件を満たす場合に限りますが、支払った保険料の半分を損金として計上できるので、節税対策として利用されるケースが多いのです」
「でもそれって、なんかずるくないっすか。会社だからそんなことが出来るなんて不公平っしょ。個人には、そういうのってないっすもんね」
「はい。そういう声はよく上がっています。行き過ぎた節税だと非難された為、国税庁としてもこれまで何度か見直しを図り、損金算入できる割合を変える等の対策は取ってきました。私が保険会社にいた頃は今と違い全額損金に算入出来て、もっと節税効果の高い商品がかなりありましたから。それでも保険会社は改定された内容に沿った範囲内で新たな節税商品を開発し、その度にまた改定するというイタチごっこが繰り返されているのが現状です。ちなみに税制が改定される前に契約したものに関してはその前にあった法律を適用しますので、遡ることはありません」
「一応は、対策しているってことっすね」
「はい。ただ節税効果が徐々に少なくなったとはいえ、完全に無くなる訳ではありません。例えば何故節税の為に、生命保険を利用するか判りますか」
 いつまでも見当違いな質問ばかりに飽きて来た為、少々目先を変えてみた。すると相手はすんなりと反応した。
「いえ、判んないので、教えて欲しいっす」
 そこで止む無く新たな説明を続けた。
「それは万が一死亡しなくても、多くの企業はそれまでの功績に応じて退職金を支払う制度を設けています。よってもし準備が不十分な場合、退職金を支払うことで会社の財務を圧迫し、経営に影響を与えてしまうでしょう。だからそうした蓄えを、企業は常に用意しておく準備が必要となります。またもう一点、退職金自体にかかる税金がかなり優遇されている事が挙げられます。死亡退職金だと五百万円×法定相続人の数が非課税ですし、弔慰金については業務上の死亡だと最終報酬月額の三十六カ月分、業務外の死亡だと最終報酬月額の六か月分までが非課税となっています」
「そうなんっすね」
「しかしそれ以上に大きいのは、普通の退職金にかかる税金の優遇です。まず退職所得控除というものがあります。これは勤続年数が二十年以下の場合だと、四十万円に勤続年数をかけ、それ以上だと八百万円に加え七十万円に勤続年数から二十を引いた数をかけた分、を支払われた金額から引くことが出来ます。例えば久宗氏を例にあげると、三十八歳で入社され六十歳で退職していたとすれば、勤続年数が二十二年になります。よって八百万円足す七十万円かける二十二から二十を引いた分で、九百四十万円が控除額です」
「九百四十万円までなら、税金がかからないってことっすか」
「はい。それだけではありません。法人役員の場合、勤続年数が五年超であれば控除額を引いて超えた差額の二分の一だけに、課税されます。その上分離課税といって、他の所得と分けて課税されるという通常の給与所得にはない優遇措置があり、社会保険料納付の対象外にもなるのです」
「良く判んないっすけど、メッチャお得って事なんすね」
「はい。例えば給与所得が高ければ、税金も上がりますよね。年間で二千万円貰う人ならば、現時点では四十%の税率がかかります。しかし先程計算したように、久宗氏が退職金で二千万円貰ったとすれば、二千万円から九百四十万円を引いた一千六十万円の、さらに半分の五百三十万円に二十%の税率をかけた金額が差し引かれるだけで済みます。しかも分離課税ですから、他の収入と合算されることはありません。つまり給与で二千万円貰うのと退職金で貰うのとでは、手取りが全く違ってくるのです。だから会社によっては役員給与を抑える代わりに、十分な退職金を貰えるよう設定している所もあるくらいです。しかも企業の役員における退職金は、かなり多く設定することが認められていますからね」
「そんなにっすか」
「はい。基本的に役員退職金は最終報酬月額かける役員在任年数かける功績倍率で算出されます。功績倍率というのは役職によって変わりますが、会長だと二.〇、社長が二.四、専務が一.八、常務が一.五、その他役員が一.四というのが一般的な例です。そこに功労加算金として特に功績が顕著な役員に対し、総額の三割以内を上乗せする例もありますね」
「久宗氏の場合だと、どうなりますか」
 それまで静かに聞いていた松ヶ根が、急に口を挟んできた。意外だったが答えた。
「正確には控えますけど最終報酬月額が二百万円だとすれば、二十二と二.四をかければ一億五百六十万円になりますね。それぐらい支払っても税務上は退職金として妥当と見なされ、先程言った優遇措置に基づいた計算式を用いて引かれた差額が、手取りとして残ります。通常の所得なら、最高税率の四十五%の約四千七百万円近くを税金で持っていかれますが、退職金だとその半分弱の二千百六十万円程度で済みます」
「今回の事件の様に、死亡保険金の四億円が会社に支払われた後の処理はどうなりますか」
「基本的に会社が久宗氏の相続人に対する死亡退職金として、全額支払われることになると思います。一度は会社の懐に入りますが、遺族にそのまま支払うしかないでしょう。確かそういう社内規定になっていたはずです」
「税務署が損金として認められるだろう約一億円の額を大幅に超えますが、良いのですか」
「単なる退職金ではありませんからね。税法上では、相続税の問題となってきます。あくまで会社から支給される形式を取るだけです。例えば差額の三億円を会社の資産として計上しても、法人税がかかります。相続税に比べれば低いので、そうした手もありますが、そこは会計監査役と会社規定の問題になるので、私が関与することではありません」
「そうなんですね」

 少し予想していた展開とは異なる質問を受けた為、真理亜は用心しながら言った。しかも質問者が、再び松ヶ根に代わっていたからだ。
「何もかも、私の指示で動く訳ではありません。あくまで全体を把握し、どのような形態を取るか、方向性を示すことが私の仕事です。その後は税務なら税理士や監査役、法律の事なら顧問弁護士の仕事になります」
「今回社長が奥様になられたことで、株式を持っている方はお一人だけになるのですか」
「そのはずです。久宗氏所有の会社の株は、全て奥様名義になると伺っています」
「一久氏にも、三分の一は相続する権利があったはずです。その点はどうするのでしょう」
「相続に関してだと、全て松方弁護士が取り仕切っているはずです。よって詳細は私に聞かれても困ります。ただ十年前に会社を勇退されて、今まで少しずつ譲渡されてきた経緯から考えれば、再び一久氏が株を所有するとは考えにくいですね。他の財産分で調整されるのではないでしょうか。これはあくまで推測ですが」
「私もそう思っていました。松方弁護士に聞いたところだと、確かに株の名義は全て奥様の名義にされるようです。ただその他については、奥様が帰国されてからだとおっしゃいました。ならばあなたが関係してくる。違いますか」
 やはりこの刑事達は油断ならない。一見関係ない話題をして油断させながらも、敏子夫人との間で抱えたあの秘密に辿り着こうとしていたようだ。真理亜は首を横に振った。
「違います。いつ帰国できるかどうかは、私も判りません。ただ一年や二年も先になることはないでしょうから、それ程慌てて取り分を決める必要もないでしょう。名義を変えなければならないものは全て奥様にして、そこから一久氏へ渡すものがあれば、そうした手続きをされれば良いだけの事です。帰国されない理由を知っている事と相続とは、別問題と考えてください」
「そうですか。では逸れてしまった話を戻しましょう。九竜コーポレーションが加入されていた保険について、何かトラブルはありませんか。先程強いて言えば、保険会社の中では困ると思った人がいたかもしれないと、あなたはおっしゃいましたね」
 急に相手が引いた為拍子抜けしたけれど、真理亜は平静を装って答えた。
「そうでしたね。そこから生命保険の商品説明や節税問題の解説になってしまいましたが、これも事件になる程の事ではりません。というのも生命保険に加入すれば当然扱った保険代理店に手数料が入り、保険会社での販売成績となります。ただ余りにも早く解約されると、手数料を戻さなければならなかったり、成績がマイナスカウントされたりすることがあります。目安としてはだいたい五年を越えれば、問題ないでしょう。解約返戻金のピークはだいたい五年から十年の間ですから、そういう設計にしているという理由も裏にはあります。ただ保険金の支払いは別ですよ。保険会社全体からすれば、死亡保険金を四億円支払うのは大きいでしょうが、それは致し方ない事です。営業成績や代理店手数料がマイナスになることは、基本的にありません。ただ単に、五年以内で解約されると困る人が出てくることは確かです」
「もう少し詳しくご説明いただけますか」
「例えば九竜コーポレーションが結んだ大きな契約を成立した際、扱った営業店などでは大きな成績となったでしょう。しかしその分マイナスとなれば、決して影響は少なくありません。タイミングが悪ければ、その部署の管理職の昇進などにも関わってくることもあるでしょう」
「代理店手数料に関してはどうですか。いくらくらい、手に入るものなんでしょう」
 どうやら当初、真理亜が期待していた方向に修正されつつあるようだ。その為素直に答えた。ようやく聞きたい話に繋がるかもしれない。そう期待して説明を続けた。
「保険会社や商品などで異なりますが、あの会社が契約していたものだと、大体年間に支払う保険料分の手数料を、五年または十年で受け取る形になっていたと思います。具体的に言うと、あの会社で支払っていた年間保険料は約二千万円近かった。つまり扱った代理店も、おおよそ二千万の手数料を手に入れた事になります」
「二千万は大きいですね。それが五年以内に解約されると、マイナスになるというのは?」
「手数料受け取りが五年の契約だと、初年度に年間保険料の約六十パーセント支払われ、翌年四年で十%ずつ受け取る形になります。なので早く解約されると、手数料を支払い過ぎている事になり、戻し入れが発生してしまうのです。逆に五年以上経過して手数料の受け取りが完了していれば、その後解約されても基本的に戻す必要はありません」
「五年以内に解約する予定があった、というのですか?」
「会社の身売りを考えた場合、それもやむを得ないからです。何故なら会社が変わりますし、まず九竜夫妻は退任する予定でしたから、損をすると判っていても解約するしかありません。他の管理職の契約も存続させるかどうかといえば、買い取る企業の社内規定等の問題と保険料負担に係わってきますので、一旦整理する方がスムーズだとご提案しました」 
 その為九竜夫妻から今解約するとどうなるかという資料を、保険会社に請求させていた。第三者の真理亜ではできないからだ。そこで保険会社は身売りについてまで気づいていなかっただろうが、もしかすると早期に解約されると用心したのかもしれない。
 その証拠に何度も担当者や所属長が九竜夫妻を訪ね、五年経つまで待った方が得だと説得しに来たと聞いていた。以前ある保険を扱う某有名企業で不正契約が多発した事件があったが、あれも社内成績と手数料問題が発生する為に起こったトラブルともいえる。
 その点を真理亜は彼に説明し、外からは判り難いが社内では決して小さい問題で無い事を教えた。すると彼は納得したようだ。
「なるほど。ただ解約理由を説明することができなかったので、曖昧な答えしかしなかった。そこで不安に思った保険会社の中では、困ると思った人がいるだろうという事ですか」
「そうです。だからといって、久宗氏を殺す動機にまではなり得ないと思いますけどね」
「いえ、何か裏に別の理由が隠れていることもあります。万が一ということもあるので、その保険会社の担当者と所属長のお名前をご存じなら、教えて頂けますか」
 即答できたが、三郷はわざとしなかった。
「全てそういった情報は、会社のノートパソコンか別保存しているデータに入っています。明日で良ければ、出社した後ご連絡します。九竜夫妻から名刺を見せて頂いた際、写真に撮影して保存してあったはずですから」
「宜しくお願いします。ちなみにですが、それは杉浦さんと沼田さんではありませんか」
 驚いた。既にそこまで調べ上げているとは思っていなかったので油断した。先程まで長々と保険の説明を敢えてさせていたのは、やはり彼らの話に誘導させる為だったのだと納得した。彼らは相原と通じている事は承知している。真理亜はその先が知りたかったのだ。
「ご存じだったのですね。その通りです。私がかつて所属していた保険会社の方です。だったら私がかつてそこで成績第一主義の会社のやり方が合わず、体調を壊し休職した挙句退職したこともあなた達は調べたはずですね。彼らも同じです。そこで今回私が、九竜夫妻を担当していると知った彼らは顧客の事など全く考えず、自分達の利益を優先し解約しないよう進言してくれと言い出しました。もちろん私は、そんな提案など出来ないと突っぱねました」
「そこで揉めた挙句、出入り禁止にさせたのですね」
「それも調べていたのですね。そうです。ただそれだけのことです。彼らの成績がマイナスになったとしても、首を切られるようなことはありません。ですから今回の事件のような、人を殺す動機になり得ないと思っていたので黙っていました。けれど警察は、そんな事まで疑っていたのですね」
 意図的に気付かなかったふりをして、相手の出方を探ってみた。
「低いと判っていても、一つ一つ可能性を潰していくことが仕事ですから」
「でもそれ以外に私が把握している限り、九竜家の管理している資産運用などで揉めていたり、どこかで逆恨みを買っていたりするような心当たりなんかありませんよ」
 しかしここで彼は、予想通りの質問を投げかけてきた。
「九竜家との間で無かったとしても、あなた自身にはある。今お話されていたように、保険会社の社員や所属長と揉めていた。それは本当に事件とは、関係ないのでしょうか」
 警察はいかに容赦なく、油断ならない人種の集まりなのかと恐ろしくなった。重要参考人から外されない限り、彼らは真理亜の過去なども徹底的に調べ上げるのだろう。そこから少しでも事件に繋がるものが無いかと、探り続けているようだ。
 恐らくそこから、かつて保険会社に所属していた頃の確執と現在における関係に辿り着いたらしい。心に負った傷をさらけ出すことに躊躇ったが、彼らは捜査し尽くした上で尋ねてきたはずだ。今更惚けても無駄と観念しながら、真理亜は口を開いた。
「確かに彼らとは揉めました。けれどそれは、仕事上におけるスタンスの違いから生じた結果です。私が体調を崩し、保険会社を辞めた経緯はご存じですね」
「多くの方からの証言を得て、私達なりにいくつかの事実を確認してはいます。ただそれが本当なのかどうか、当事者のあなたの口からお伺いしたい」
「事件とは関係ないかもしれませんが、それでも必要ですか」
「関係がないかどうかは、私達が判断します」
 心を落ち着かせる為に一度深呼吸をした上で、質問に答えた。
「杉浦さんや沼田支社長と、口論になったことは認めます。それは彼らが私の仕事について口を出し来たので、厳しくたしなめたまでです。明らかに越権行為でしたから」
「彼らはかつてあなたが勤めていらっしゃった、会社の社員ですよね。彼らはあなたに要求したのは、本当に解約の件だけですか」
「他にもあります」
 真理亜は彼らから受けた言外による圧力や、セクハラまがいの発言についても説明した。
「二人は二年前にPA社が買収した、保険代理店の担当者でもあった。だからあなたとの接点ができた訳ですね。しかし九竜夫妻があなたの顧客であることを、どうやって彼らは知ったのでしょうか」
「私にその事を聞くということは、沼田さん達が口を濁らせたのですね。それはそうでしょう。彼らも後ろめたいところがある証拠です」
「以前お話を聞いたところだと、顧客に関しての情報は担当者のみで、所長すら知り得る立場にないはずでしたね。それなのに、何故彼らはあなたが保険について関わっていると知ったのでしょう」
「恐らく他の担当者から、情報を聞き出したのでしょう。取引の詳細は知りませんが、九竜夫妻から依頼を受けている事だけなら、少し探れば社内の人間は判るはずですから」
「つまりそういう内部情報を、彼らは聞き出していたということですか」
「そうでしょうね。もちろん彼らは保険に関しての担当者ですから、当社に出入りすることはあります。ただそれ以外の業務、特に私達が扱う顧客からの依頼についてノータッチであり、基本的に関わらないよう言い渡しているはずです」
 だがそうした社内規則を破って彼らに耳打ちした社員は、その事実が明らかになるとペナルティが課せられる。またそのような行為を取った保険会社の社員も、出入りなどを制限される決まりだった。
 それが守られなかったことだけでも許し難いことなのに、口出しして恫喝どうかつするような真似をしたから怒ったと告げた。すると彼は既に知っていたのか、深く頷いて言った。
「そのようですね。事務所内で激しく叱ったと伺いました。なるほど。そうしたルールがある為に、誰から聞いたかを話さなかったのですね。喋ると情報をリークした社員に迷惑がかかると思ったからでしょう」
「そうでしょうね。ただ誰がリークしたかは、だいたい想像がついています」
「ほう、それはどなたですか」
「相原所長でしょう。何故なら彼らが私に接触した時点で、本来なら出入り制限をかける対象となるはずです。しかしそうはならず、黙認された状態でした。その事に対しても私は抗議しました」
「相原所長本人に、あなたは詰め寄ったのですか」
「はい。ですが彼は情報のリークに関しては、知らぬ存ぜぬを通しました。それだけではありません。保険会社の担当者が接触してきたことについても、コミュニケーションは大切だと言い出し、規則に反する発言までされました」
「そこであなたはどうされたのですか」
「本人にいくら言っても無駄だと思い、PA本社へこうした事実があると報告を上げました。おそらく本社は所長に対し、注意したはずです。しばらくして杉浦さん達は、事務所には顔を出しても、私には決して近寄らなくなりましたから」
「それはいつの事ですか」
「一ヶ月ほど前です。そういうことがあったから、私は社内でより孤立するようになりました。元々一年前から似たような状況でしたので、気にしないよう心掛けていましたけどね。私の見るべき方向は、あくまで顧客であり社内ではありません。その点が相容れなかった為に、前の会社を辞めたのですから」
「そのようですね。あなたは今の事務所におけるPA社の社員の中で、トップの成績を収めている。しかし保険代理店の買収を機に組織変更があり、一年前に所長として相原さんが赴任された。その直後からあなたは彼だけでなく、他の社員からも煙たがられる存在になったと聞いています」
「そういうことをベラベラと、あなた方に喋る人も誰かは想像がつきます。どうせ八条さんあたりでしょう」
 図星だったようだが、彼らはあくまで白を切った。
「誰がどういう証言をしたか、他の方に話すことはまずありません。これはあなたについても同様です。他の人に三郷さんがこう供述していたなんて、言いませんから」
「別に構いませんけど。言われて困るようなことは喋りませんから」
「それだと困るのです。知っていることは何でも話してください。どこかで事件に繋がっているかもしれません。私達があなたを重要参考人として扱う事に、ご不満はあるでしょう。ただそれは状況からして、やむを得ないのです。もちろん相原所長も同じ立場ですよ」
「彼にはアリバイがあるでしょう」
「すでにご説明しましたが、共犯の可能性は残っています。ですから自分は完璧なアリバイを作った上で、実行犯にカードキーを渡した。その動機は金銭関係か、弱みを握られているのかと調べました。その結果がどうだったかは、敢えて申しません。ただ今伺ったことが事実であれば、彼はカードキーを使うことで、あなたに疑いが向くよう仕向けたとも考えられます。なぜあの事務所を犯行現場に選んだのかという疑問も、顧客である久宗氏を担当しているあなたが犯人だと思わせる為だったとすれば納得できる」

 やっとここまで来た。そこから先の情報を求めていたのだ。そこで慎重に尋ねた。
「だったら何故カードキーは、ロックされていなかったのでしょうか。相原所長が共犯なら、使い方を詳しく教えていたでしょう。それとも実行犯が慌てて忘れたというのですか」
「そうかもしれませんし、そうでないのかもしれません。現時点では、あくまで推測の域を出ないのです。だからもっと多くの情報を得たい」
「それは相原所長と私の関係ですか」
「それと杉浦さんや沼田さんについて、もっと教えてください。まだ話されていないことがありますよね」
 出来れば思い出したくないことだが、彼らは既にある程度把握しているに違いない。あくまでそうした事実が間違っていないか、確認をしたいだけなのだろう。自分の過去が久宗氏殺害に関わっているとは思いたくなかったが、それも止むを得ない。事件を少しでも早く解決させる為に重い口を開いた。
「相原所長は上昇志向の強い方です。四十二歳と私より九つも下ですが、大学を卒業してすぐにPA社へ入社し、今年二十年目になる生え抜きの社員です。私は十年前に入社した中途社員ですから、彼の方が上の地位にいることは当然です。そういった事で、私が彼をねたんだことはありません」
「むしろ彼があなたに、嫉妬しているようですね」
 思わずため息をついた。
「色々聞いて回ったようですね。本人から直接そう言われた事はありませんが、おそらくそうなのでしょう。中途入社でしかも年上の女の部下が、自分より成績もよく給与も高いとなれば、面白くないと感じるのかもしれません。彼は大阪が地元で、最近家を建てたばかりだと聞きました。また中学生になる子供さんもいらっしゃるようで、今回の異動では学校の事もあったのでしょう。単身赴任でこちらに来ています。そうしたストレスもあるのかもしれません」
 真理亜と仕事におけるスタンスも違う為に、就任当初からぶつかる事が多数あったことを彼に伝えた。けれど基本的に会社では、顧客から依頼された事案についてそれぞれの担当者が判断し、その成果に応じて給与を頂くシステムだ。
 チームプレーでは無い分、個人の裁量が大きい。それだけ失敗すれば個人の責任が大きく、成功すれば報酬として跳ね返ってくる。だから所長と意見が異なっていたとしても、お客様が喜び成果に繋がっていれば、会社に文句を言われる筋合いはない。
 そうしたスタンスを取り続けていたので、彼にとって厄介な部下だったのだろうとの感想も付け加えた。
「恨みを買っているかもしれない。そう考えてもおかしくないということですか」
「否定はできません。ただだからと言って久宗氏を殺し、私を犯人に仕立て上げようなんて考えるかどうかは別です。個人の裁量に任されているとはいえ、あくまで私は彼の部下です。その人間が顧客を殺したなどという不祥事を起こしたなら、会社のイメージを大きく損ないます。彼も上から、管理責任を問われるでしょう。そんなリスクを、彼がそう簡単に負うとは思えません」
「上昇志向が強いから、ですか」
「はい。彼は私と違って顧客第一主義というよりは、会社の利益第一主義です。そうやって所長にまで昇りつめ、今度はその上の部長クラスを狙っていました。いくつかの事務所を束ねる管理職です。その上がエリアマネージャーになります。そこまで行けば、役員になるのもそう遠くありません。彼は私のようなPBとしてではなく、管理する側になりたかったのでしょう」
「PBとしての能力に、限界を感じていたからでしょうか。実際あなたよりも成績が劣っていた」
「そうかもしれません。だからこそリスクを考えれば、実行犯と手を組むとは思えません」
「他にも協力しなければならない事情が、あったのかもしれません」
 真理亜もそう予想していた。警察はどこまで調べているのだろう。またその先が誰と繋がっているのかが問題なのだ。よって情報を引き出す為、意図的に突き放して見た。
「そんな事を私が知っている訳がないでしょう。個人的な弱みなど、他人には決して見せない方でしたから」
「そのようですね。それでは杉浦さんや沼田さんの事を教えてください。あなたは先程彼らが口出しをするだけでなく、恫喝するような真似をしたとおっしゃいました。聞き捨てなりませんね。かなりきつい言葉ですが、具体的にどのような恫喝をされたのですか」
 ようやく辿り着いたようだ。しかし同時に頭が痛くなってきた。うっすらと動悸もし始める。嫌な兆候だと感じながらも説明した。
 真理亜が会社を辞めたきっかけになった事などを、噂や一緒に仕事をした同僚や上司から聞いたらしい。その事をネタに言うことを聞かなければ、昔の話を会社の人間達に耳打ちして回ると脅されたと告白した。
「そのネタの内容は、どういうものですか」
「前にいた会社でも、私は上司とぶつかりました。根本的なものは相原所長の時と変わりません。成績第一主義を掲げる上司に、私は顧客の意思に反してまで商品を売りつけることはしたくないと拒絶しました。彼らが言っていたことはその件です」
「それだけだと、脅しのネタとしては弱すぎませんか」
「もう少し詳しく説明しましょう。在職中だった頃の私は、先程言った法人向けの節税プランを販売する側にいました。そこで大きな契約を、何本か成約したこともあります。大きな成績を上げたことで、所属していた支社は年間表彰を受けました。当時の上司の評価も上がり、鼻高々だったことを覚えています。しかしその翌年に、問題が起こりました。二匹目のドジョウならぬ、二回目のドジョウを狙った上司は、私に対し前年同様の契約成立を求めて来たのです」
「一度味をしめればその次も、と考えるのは私達警察組織だって同じです。大きな事件を解決して名を売れば、さらにもっとと欲張るのが、上に立つ人間の習性かもしれません」
「まさしくその通りです。ただ契約の成立は、あくまで顧客のニーズとこちらの提案する商品とが、マッチングしなければなりません。押し売りなどできないのです。ただそれが理解できない上司でした」
 しかし真理亜も大人気なかった事は確かだった。成績を上げ続ける事が営業職の勤めだ。その為それなりに新規契約獲得の動きはしていた。けれども上が早く結果を出せという姿勢に反発し、お客様は急いでいないと突っぱねたのだ。
 実際先方は会社の業績なども考え、契約の締結をその年度は見送る判断をしていた。しかし上司もまたその上から、プレッシャーを受けていたらしい。成約させますと口約束をしていたと後に聞かされた。
 結果契約が成立しなかったことを咎められた上司は、その責任を真理亜に擦り付けた上で、始末書を書かされたのだ。その影響もあり、その年の成績は散々だった。
「それが原因で体調を崩し、休職するようになったのですか」
「もちろんそれだけでは無いと思います。それまでに私は離婚も経験しました。そうした心労が重なって、脳が体に向けて拒否反応を出すよう指令したのでしょう。頭痛や動悸、倦怠感が酷くなり、会社を休みがちになりました。結局うつ病という診断が出たのです」
「その後三年以上休職した後に、退職されていますね。その事がどうしてあなたを脅すネタになるのですか」
「私が休んでいる間に、会社では根も葉もない噂が立っていたようです。使い込みをしていたのがばれそうになったとか、取引先から金を不正に受け取っていたとか、色々です」
 そういった事を聞きつけた沼田達が、真実は別にしても噂があったと広まれば仕事がやり辛くなるだろう、と脅してきたのだ。社員だけでなく顧客の間で広まれば、仕事の依頼も来なくなる。そんな事まで言い出した為我慢ならず、事務所内で怒鳴りつけた。刑事達が聞いたのもその件らしい。
 彼は言った。
「相当な剣幕だったようですね。普段は明るく人当たりの良いあなたなのに、人が変わったかのような態度を取って驚いたと、皆が口を揃えていましたから」
「周囲の同僚達は、私の事など良く知らないはずです。外面の良さなんて、営業職なら誰でも備え付けている能力でしょう。頑固で上司に刃向かう事など苦にしない。それが本来の私の姿です」
「そのようですね。なるほど。あなたは広められるものならやってごらんなさい、と啖呵たんかを切ったそうですね。その代わり仕事に支障をきたすようなことがあれば、PA社の本社だけでなく、警察に業務妨害と恐喝の届け出をするとまでおっしゃった。そこでようやく、彼らは大人しくなったと聞いています」
「松方弁護士に実際どうなるか事前に相談していましたが、十分刑事事件になり得る案件だと助言されていましたから。そうした裏付けがあったからこそ、言い切れただけです」
「まだお会いして二週間程度の短い付き合いですか、あなたらしいエピソードだと思います。本当に芯の強い方だ」
「単に気が強いだけです。そうでなければこの歳まで、こういう仕事を続けることなんてできません。この性格のせいで、多くの人を敵に回している事は間違いないでしょう」
 だからといって、あの沼田達が真理亜を犯人に仕立て上げようと相原や寺内に協力を依頼したとは考えにくい。人を殺してまで憎んでいるとしたら、相当心がねじ曲がっている証拠だ。そこまでの人だとは思えない為、他に何かあるのではないかと彼に尋ねた。
 だが逆に質問を返された。
「ただ久宗氏を殺害すればあなたを貶めるだけでなく、契約を解約する時期をずらすことにはなりませんか」
 真理亜は頷いた。
「確かにそうなっています。このまま身売りの件が長引けば、解約する時期も後ろにずれこむでしょう。五年が経過することで、解約されても営業店のマイナスにはならなくなるかもしれません。だからといって、それだけで人を殺すでしょうか」
「時折理屈だと説明できないきっかけで、罪を犯す人が世の中にはいます。私達もこれまでそうした犯罪者を、少なからず見てきました」
「それはそうかもしれませんが、余りにも無理がありませんか」
「もちろん彼らが犯人だと、決まってはいません。あなたと同じく現時点では、可能性があるという範囲を超えていないのです。様々な裏取りを元にさらなる捜査が必要でしょう」
「それならいいですけど。犯人を早く捕まえて頂きたいのは、私も同じです。ただ誤認逮捕だけは止めてください。敏子夫人もその点を危惧されております」
 彼は誤魔化しているのだろうか。それとも捜査は全く進展しておらず、相原や沼田達と九竜家の親族の誰かが通じている証拠は、まだ掴んでいないのかもしれない。真理亜は心の中で落胆した。事件の真相は、そこにあるとばかり思っていたからだ。
「それは肝に銘じています。いずれにしてもあなたを含む三人のいずれかの人から、カードキーを受け取る、またはこっそりと盗み出さなければ事件を起こすことは不可能です。また久宗氏を殺す動機を持っていなければならない。計画的な犯行であることには、間違いなさそうですからね」
「動機は、久宗氏の相続に絡んでいるとお考えですか。そうなると兵頭部長や日香里さん、または長谷家の方々を疑っておられますか」
「もちろん彼らも重要参考人であることは、間違いないでしょう。あとは一久氏も含まれます。ただ共犯者がいるとなれば、敏子夫人も視野に入れなければなりません。そうなるとあなたの役割は一体何なのかが、非常に興味深くなってきます」
 また話が振出しに戻ったことに苛立ちを覚えた為、反論した。
「疑うのは勝手ですが、私が実行犯または協力者だとしても、久宗氏を殺す動機などありません。私は彼が亡くなって困っている人間の一人です。これまで九竜夫妻が将来安心して快適な暮らしができるよう資産を処分したり、管理や運用したりするにはどうすればいいかを前提に、様々なプランを立ててきました。それが全て一からやり直しです。もちろん計画の変更にかかる費用を、請求する訳にもいきません」
「単なるタダ働きになってしまいますね」
「そうはいいません。依頼自体が無くなってはいませんから、練り直した計画でご納得いただき、滞りなく実行に移すことができれば報酬は発生します。ただそれが大変だということです」
「そこまでしてでも、久宗氏を殺さなければならなかった理由などない。そうおっしゃりたいのかもしれませんが、理屈だと説明できない事が現実では起こり得ます。例えば仕事熱心で頭も良く、愛嬌があって人当たりも悪くない。そんなあなたが、別人格を持っているとしたらどうでしょう」
 松ヶ根の言葉に、横で座っていたチャラい刑事までもが驚きのあまり、目を剥いていた。しかしそれ以上に心臓が飛び出そうなほど驚愕したのは、真理亜自身だった。突然の指摘に、声の震えを止めることは出来なかった。
「な、何をいきなり言い出すのですか」
 しかし彼は表情を変えずに言った。
「あなたは解離性かいりせい同一障害ではありませんか。私の見たところ、多重人格ではなさそうですね。ただもう一人の別人格がいる。その事を、あなたはどの程度理解していますか。別人格とは、意思の疎通ができているのかどうかをお伺いしたい」
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