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第三章
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約束通り、月曜日の午前中には相原達の事務所に行き、関係者からスマホやノートパソコンなどを受け取った。それらを分析に回している間、吉良達は新たな証言や情報を得る為、三郷達三人以外のPA社社員と接触していた。その中でも吉良はチャラ男のキャラを生かし、三十五歳と年齢が近く同じ妻子持ちの八条慎二と打ち解けることができた。
彼は相原や三郷と同じく、PA社の中でもPB資格を持つ社員だ。そこで社内における二人の様子について尋ねると、興味深い話が聞けた。
「三郷さんは事務所内だけでなく、エリアの中でもトップクラスの成績を上げていますから、相原さんにとっては面白くなかったでしょうね。まあ、それは私達も同じですけど」
「それってどういう意味っすか」
「だって十年のキャリアがあるとはいえ、中途採用ですからね。しかも四十を過ぎてですよ。俺とか相原所長のような生え抜きの社員からすれば、立場が無いでしょ。実際エリアの上層部からは、彼女を見習ってもっと成績を上げろと言われています。でも俺らはあんな武器、持ってないですからね」
「武器って、あの外見の事っすか」
「そうですよ。俺達が相手をする顧客は、富裕層ですからね。若い人もいますけど、圧倒的に多いのは高年齢の方です。だから若い社員というだけで、信用が落ちます。その点彼女は、顧客と年齢が近いという利点もあるでしょ。それにあの顔と話術がありますからね。スケベな爺さん達を手玉に取るのは、簡単なのでしょう」
相原が彼女を疎ましく思っていると感じていたが、どうやら彼だけではないらしい。つまり彼女を陥れようと考えている人間は、この会社の中だけでも相当数いることになる。それならば相原や寺内からカードキーを盗むか預かるかして、犯行に及んだかもしれない。
その為さらに尋ねた。
「社員さんの中で、三郷さんを特に嫌っているとしたら誰っすかね。あっ、もちろんこれもオフレコっす。誰にも喋んないっすから」
すると意外な答えが返ってきた。
「今一番嫌っているとしたら、社員じゃなくて保険会社の人かもしれないですね」
「え? それはどうしてっすか」
「所長を始め、彼女と仲のいい社員なんか、ここにはいないと思いますよ。でもあの成績があるからこそ、エリアの中でこの部署全体が高く評価されているのも事実です。目の上のたん瘤ではありますけど、恩恵も受けていますからね。痛し痒しって感じですよ」
「彼女は保険会社の人と、何かあったんすか」
「これは相原所長ともぶつかる所ですけど、彼女はあくまで顧客第一主義を貫いていますからね。特定の保険会社の商品を販売することは、頑なに反対しています。それだけではないでしょうが、特に彼女が以前勤めていた会社の人とは、なるべく接しないようにしていました。それが面白くなかったのか、かなり揉めていたようです。腹を立てた彼女は、彼らに出入り禁止を申し渡したとも聞きました」
「それはなんという人っすか」
「担当者は杉浦で、その上の沼田という支社長です」
彼女の前職の会社に属する人のようだが、これで彼女を貶めようとする人物が増えた。これについては他の社員からも同様の話が聞けた為、間違いはなさそうだ。また捜査範囲が広がってしまったと頭を抱えながらも、さらに尋ねた。
「相原さんや寺内さんは、三郷さんの様に他人から恨まれるようなことはないっすか」
「所長と揉めていたのは、三郷さんが一番でしょう。確かに成績至上主義だから厳しいし、上の顔を異常に気にしているから面倒くさい人ですけど、上司ってだいたいあんなもんでしょ。このご時世ですし、表立って酷いパワハラをすることもありませんでしたから。ただ裏で所長の悪口を言う社員はいますが、彼女はそういう事を絶対口にしない人でしたね」
「そうっすか。寺内さんは?」
「俺はあんまり接する機会が無いので、よく知らないですね。所長は別でしょうけど、三郷さんも含めてPB資格保有者は、保険部門と業務内容が全く違いますからね」
彼の口調からすると、寺内の属する旧保険代理店側の社員達とは、一線を画しているようだった。これは保険部門の社員からも同様で、互いに見えない壁を築いているらしい。それ以上の新たな情報は得られなかった為、吉良達は別の角度から捜査し直すことにした。
保険会社の社員については他の捜査員の手を借り、アリバイなどの証明や揉めた経緯などの裏付けをすることとなった。後に判ったが、二人共犯行時刻と思われる時間には帰宅していたようで、それを裏付ける人間は身内しかいなかったらしい。
といっても被害者を殺すだけの動機までは、発見できなかった。三郷を恨んでいることは明らかになったが、その為に彼女の顧客を殺すかどうかとなると、疑問が残る。また彼らのどちらかが犯行に及んだとしても、カードキーを手に入れなければならない。
彼らと最も繋がりがあるのは相原だ。しかし出入り禁止等についてやり取りしていたらしき形跡はあったものの、犯行に繋がる決定的な証拠までは掴めずにいた。また九竜家周辺や会社関係を洗っている捜査員からも、今の時点で目ぼしい報告は得られていない。
行き詰った時は、現場百回と良く言われる。それに倣って吉良達も事件のあったビルへと向かった。
中に入っているテナントへの聞き込みは、他の班で行っている。それでも聞き漏らしたことはないかと、あの日の夜の最終退出者に話を聞きに行った。
十二時に退社したという四階の税理士事務所の所長は、当日の夜駐車場に車が止めてあった気がすると既に証言している。それは後に被害者が乗っていたものと明らかになった。だから灯りは見えなかったが、誰か仕事で残っているのだろうと所長は思ったらしい。
事件現場となった事務所は、エレベーターもない古い四階建てビルの一階だ。三階は事務機器の販売会社の事務所で二階は空室になっている。かつて一階の保険事務所が開いていた時、会議室や応接などに使っていたらしいが、今は借りていないからだという。
この建物は近い内、新しいビルへの建て替え計画があった。そこで取り壊しが始まれば、PA社としては倉庫にある書類をどこか別のトランクルームなどへ移すことも検討中だったと聞いている。
改めて被害者が倒れていた部屋も覗いたけれど、特に目新しいものはない。だがやはりここに立つと、何故この場所が犯行現場になったのかとの疑問が湧いてくる。ここでなければならなかった理由が必ずあるはずだ。吉良達はそう話し合いながら、ビルを後にした。
後日、相原達三人のスマホやパソコンの分析結果報告を受けたが、結局長谷家の面々と繋がっていた形跡を見つけることはできなかったと知らされたのだった。
PA社の相原所長から支社宛に電話がかかって来た為、沼田は周囲に聞かれないよう小声で会話を交わした。話が終わり、受話器を置いてから席にいた杉浦を呼んだ。
「ちょっと応接室へ来てくれないか」
彼は表情を見て、何の件か察したらしい。何も言わず静かに後をついて来た。二人で部屋に入り、ソファに腰を下ろした沼田は言った。
「相原所長から、先程連絡があった。例の件で警察が動いているから、早めにこれが欲しいと要求している。どうだ。出来そうか」
人差し指と親指を使って丸を作ると、彼は眉間に皺を寄せて答えた。
「前倒しで欲しいと言ってきたってことですか。一応相談はしてみますが、担当者の一存だけでは難しいでしょう。支社長からも、口添えをお願いして頂けると助かります」
「もちろん、俺からも電話で言っておく。だが面と向かってでないと、細かい事は話せないだろう。そこを君に頼みたい」
「本来は先方に入ってからでないと税金の問題もあるので無理でしょうが、それ程多い額で無ければ何とかなるかもしれません。とりあえず、どれくらい欲しいのでしょうか」
「少なくとも、これだけらしい」
指を一本立てた沼田に、彼は再び表情を歪め、念の為にと聞き返してきた。
「百、じゃないですよね?」
「当たり前だ。桁が違う」
深い溜息を吐いた彼は、絞り出すように言った。
「何とか先方に交渉して見ます。支社長からの念押しも、お願いします」
「当然だ。ここで所長に恩を売っておけば、今後の取引にも大きく影響する。君も俺もまだしばらくこの部署にいるだろう。今の内に成績を上げておけば、次の昇進は固い。だが失敗は許されないぞ。九竜コーポレーションの契約だって、久宗氏の分は支払いで済むから営業成績に関わってこないが、まだ他が残っている。あっちも何とか引き延ばせ」
「はい。犯人が捕まって事件が解決されるまでは、しばらく動かせないと思います。捜査が長引けば、何とかなるでしょう」
「そうだ。これは大きなチャンスと思え。これを乗り切れば、俺達には明るい未来が待っている。そう信じろ」
「信じていいんですね。支社長の昇進は部店長以上の評価で決まりますが、私の評価は支社長次第ですから」
「期待通りの成果を出せば、もちろん引き上げてやるさ。だから頼んだぞ」
「判りました」
二人はソファから腰を上げ部屋を出た。席に戻ると沼田は早速、例の件を進めるべく受話器を手に取った。こちらの様子を不安げな顔をした杉浦がじっと見ていた。先程は彼に発破をかけたが、この案件をしくじれないのは自分も同じだ。その為深く息を吸い、コール音を聞きながら相手が出るのをじっと待った。
捜査が進む中、警察による司法解剖等が行われたことにより、遺体の返却には数日程かかっていた。よって事件が発生してから一週間後の金曜日の夜、九竜コーポレーションの社葬として通夜が開かれた。
そこには吉良達も含めた捜査員の面々が、目立たぬようそこかしこで弔問客達の表情を見渡していた。交わされる会話等に耳を傾け、少しでも事件に繋がる重要な情報を拾い上げられないか探る為だ。
というのもこの場所には、現在挙がっている重要参考人全員が揃っていた。相原所長を始め三郷や寺内もいる。他にもPA社の社員が数名いた。九竜家の関係者だと、一久はもちろん兵頭部長や家政婦の稲川、会計監査役の由利や顧問弁護士の松方がいた。
さらに縁遠くなっていたと言われている、九竜家の長女の夫だった長谷卓也やその息子である智明や娘の未知留までも参列している。同じく被害者の姪に当たる兵頭日香里の姿もあった。
ただその中で異様だったのは、最大の遺産相続人で本来なら喪主を務めるはずの敏子夫人がいなかったことだ。海外にいる為事前に帰国しないとは聞いていたものの、本当に欠席するとは驚きだった。
被害者の妻であり、現在は社長死亡による手続きも済んで九竜コーポレーションの新社長となったにも関わらずだ。よって喪主は父親の一久が勤め、その補助として松方と兵頭、由利の三人が付き添う形を取っていた。
さすが地元の名士が亡くなった葬儀の為、相当な数の人達で溢れ返っていた。それを見越してか、数百名は入るだろうと思われる大きな会場が確保されたようだ。また翌日の土曜日のお昼に告別式が開かれ、火葬される手筈となっている。
幸い雨は降っていないが、曇りで月や星が隠れていた。真っ暗闇の中で黒い喪服を着た大勢の老若男女がうごめく様子は、ある種異様な光景だ。その分捜査員達にとって、目立ち難く紛れやすかったと言えるだろう。
吉良は松ヶ根と共に、固まって参列している相原達三人の様子を伺い続けている。彼らの担当ではあるものの、今夜や明日は余程緊急に確認しなければならない事項が無い限り、事情聴取できる状態ではないからだ。
もちろん松方や由利など会社関係の人物を洗う班や、相続に関わる兵頭部長と娘の日香里を担当する刑事、長谷家の三名をあてがわれた者達もいる。彼らもそれぞれ一挙手一投足に注目しているだろう。
「関係者達の会話が聞こえる場所まで、近づけませんかね。人が多すぎますよ」
思わず漏れた吉良の呟きが聞こえたらしい。隣にいた松ヶ根に、小声で叱られた。
「馬鹿言うな。奴らは、う~、関係者の中でも前列に並んでいる。あんなところまで顔バレしている俺達が、行ける訳ないだろう。見つかって追い出されても、う~、文句は言えないんだぞ」
「それは判っています。でももどかしくないですか。こんなに離れた所から様子を見ていたからって、何も情報が得られません」
「お前は黙って、周囲の話に耳を傾けて置け。俺があの三人を見ているから、邪魔するな」
ようやく吉良は、彼の意図が理解できた。
「読唇術ですね。口の動きだけで、何を話しているか分かるっていう。これだけ距離があっても読み取れますか。それにしてもすごいですよね」
彼はそれ以上話すつもりはないらしく、無視したまま相原達を凝視していた。
聞くところによると、松ヶ根は特殊な能力を持っているらしい。自閉症スペクトラムという舌の噛みそうな名前の精神障害を持つ一方、サヴァン症候群によってそうした力を備えているという。
自閉症スペクトラムとは臨機応変な対人関係が苦手で、自分のやり方や関心、ペースの維持を最優先させたいという、本能的志向が強いことを特徴とする発達障害の一種だと聞いている。
「やや変わった人」程度で済み、問題なく日常生活を送れる人も少なくないらしい。彼がその中の一人なのだろう。イメージとしては融通が効かなかったり、少しだけこだわりが強かったりするというもののようだ。
また言葉を用いたコミュニケーションにおいて、いくつかの特徴があるようだ。話し言葉が遅れたり、“おうむ返し”が多かったり、話す時の抑揚が異常だったりするらしい。彼の場合は、う~、という言葉が会話の中に入る点がそれにあたるのだろう。
被疑者等の前だと違う一面が出る点は同じだが、吉良の話すタメ語やチャラい言葉は意図的だ。その為もちろんこの症例には当てはまらない。
その上特定の物事に対して強い興味を持ち、特定の手順を繰り返すことにこだわったり、常同的な動作を繰り返したりもするらしい。その分興味を持った領域に関して、膨大な知識を身につけるという。
そうした様々なバターンがある中で、松ヶ根の場合は少し頑固でこだわりを持つと共に、人とのコミュニケーションでは特に女性を苦手とする傾向があった。それでもかつては結婚していたことがあると聞いている。しかし現在は離婚している為、そうした障害が影響したのかもしれない。
いくつかの軽い発達障害を持つ代わりに手に入れた特殊能力の一つが読唇術であり、人並み外れた記憶力だという。現在の刑事課に配属される前は、指名手配された容疑者らの顔や容姿を写真で記憶し、雑踏の中から見つけ出す“見当たり捜査”の専従班に属していた。
そこでは短期間で、顕著な実績を挙げたそうだ。正式には、県警刑事総務課捜査共助係という部署だった。配属されてから一年足らずの間に、九人の指名手配犯や容疑者を発見したとの噂を耳にしている。
そうした能力に加え、彼は聞き取った話や見た映像などは全て覚えているそうだ。例えば先日吉良が三郷の事情聴取をした際、傍らにいた彼は一見ただ聞いているだけに見えたかもしれない。だが実際は音声レコーダーに録音したり、ビデオカメラで撮影していたりする場合と同じ役割を果たしていたのだ。
そうした反動なのか、一度聞いた他人のものを含めて過去の嫌な記憶までも、全て覚えてしまうらしい。その為酷く苦しむことがあるという。だからか時折彼は、苦虫を噛み潰したような表情をする。恐らく人が持つ悪い感情や醸し出す空気、その時の情景などを思い出してしまう事があるのだろう。
よって捜査では相当な成果を出したけれど、その分他人には理解できない苦労もあったようだ。そんな要因も影響してか、刑事課に配置転換されたと聞いている。それでも異動後の彼は、特殊能力を遺憾なく発揮した。次々と難事件を解決へと導き、今や刑事課のエースとなっている。
そんな彼とペアを組むと聞かされた時は、正直小躍りしたものだ。吉良は昔から刑事になることに憧れていた。高校を卒業したら、地元であるS県の警察官採用試験を受けるつもりだった。けれども今の時代、大学だけは入っておけと両親に言われて一時迷った。
警察官はハードな職業だ。万が一きつく感じ続けられなくなった後の事を考えれば、大卒と高卒の肩書では多少なりとも違ってくる。その点を特に強調されて、止む無く大学への進学を決めたのだ。
しかし結局卒業が近づくにつれ将来就きたい職業は何かと考えた時、刑事になりたいとの気持ちは変わらなかった。そこで警察官採用のⅠ類試験を受けたのだ。その後研修を受け交番勤務から生活安全部の少年課を経て、三年前から念願の刑事課に配属された。
所轄とはいえ、ようやく長年の夢だった刑事になれたのだ。そこに来て県警本部の刑事課のエースと組み、事件に係われる機会に恵まれた。こんなチャンスはそう簡単にめぐって来ない。しかも地元では有名な資産家が被害者で現場状況も特殊だったことから、全国ニュースで扱われる程の注目を集めている。これほど刑事として血が騒ぐことはない。
その一方で心配もあった。県警のエースと組まされ、最重要参考人と目される三名を担当することになったのだ。決して失敗は許されない。加えて三十三歳にもなってチャラ男とあだ名される自分が、松ヶ根のような気難しい人と上手くやっていけるかとかなり不安を感じていた。
だが蓋を開けてみれば、今の所は特にコミュニケーションで差し障りがある状況になっていない。それどころか、これまで数多くの先輩方からたしなめられてきた吉良が被疑者などに使うチャラ語について、彼は気にしないどころかそれは面白いし使えると言い出したのだ。
逆に彼がこだわる行動や変わった仕草について、吉良は何とも思わなかったからだろう。これまで能力の高さを評価されながらも、変わった人とレッテルを張られていたことを本人は気にしていたらしい。
例を挙げると左手で右肩を掻く癖の他に、彼は靴を履く時には必ず右足からと決めている。時間を守る事にも異常なこだわりを見せ、話すテンポや相手とのやり取りの間にも、何らかの法則があるようだ。
その為途中で口を挟むなどして乱す事を嫌い、異常なほど怒り出すことがあった。ただそれはあくまで、同僚達に対してのみの言動だった。被疑者等に対しては決して言葉を荒げる事などない。淡々と理路整然と話しながら相手をじっと見つめることで、嘘がつきづらい空気を生み出すのだ。
時折何か考え事に没頭しているのか記憶を辿っているのか不明だが、人の話を完全に無視する場合がある。けれど聞いていない訳ではない。その証拠にかなり時間が経って本人も忘れた頃、思い出したようにあの時こういっていただろうと話し出すことがあった。
けれど吉良自身に問題があったこともあるせいか、尊敬こそすれ変人などと感じたことは全くない。本来なら既に警部補で四十三歳という年齢とキャリアや実績を考慮すれば、刑事課の係長クラスの管理職になっていてもおかしくないのだ。
ただ彼の特殊性から、他の刑事達を取りまとめたりする能力には、やや難があるからだろう。また第一線にいた方が彼の力をより発揮できる為、未だ一兵卒として働き続けているに違いない。よって吉良は、彼とペアを組めたことに感謝していた。
そうした思いが彼にも伝わったのだろう。吉良の言葉遣いを注意することがない代わりに、自分の言動を気にする事なく伸び伸びとしている気がする。さらに彼が苦手とする女性相手への聴取については、吉良が前面に出ることでバランスが取れていたことも良かった。まだ短期間ではあるが、既に長年付き添ってきたと思える程息は合っていた。
松ヶ根が相原達の会話を探っているのなら、邪魔はできない。それなら自分は、周囲にいる参列者から漏れ聞こえてくる声に集中しようとした。そうしてしばらくしていた時、気になる言葉を拾った。
ただ余りに人が多すぎて、そこかしこで様々な雑談が交わされている。その上通夜という場でもある為、声を抑えているからよく聞き取れない。勘違いなのか、それとも全く別の会社の話なのかもよく判らなかった。
それでもどうにかして内容を知ろうと、会話をしていた集団に少しずつ近づいて行った。すると吉良が離れたことに、松ヶ根が気付いたらしい。スーツの袖を軽く引きながら尋ねてきた。
「う~、どうした? どこへ行くつもりだ」
「いえ、少し気なる会話がしたので」
「どの集団だ?」
「こっちはいいですよ。松ヶ根さんは、向こうにいる人達に集中していて下さい」
「いやあの集団は、う~、ここから見えない奥へ移動しちまった。だから今は大丈夫だ。気になる奴らがいるなら、そっちの会話を読み取ってやる」
「だったらお願いしていいですか。声が小さいし、周りの声が混じるのでよく聞き取れませんでした。あれです。どうやら、九竜の会社の話をしていたような気がしました」
「判った。う~、あれだな」
吉良が指し示した集団を発見した彼は、肩を掻きながら口に集中して内容を探り始めた。こうなると吉良の出番はない。だが無駄だと理解しつつ、念の為に聞き耳を立ててみた。でもやはり良く分らない。どうしても周囲の小さな雑音が重なって、邪魔をするからだ。
しかし彼の能力は予想をはるかに超えていた。かなり詳細なところまで理解できたらしい。途中から話題が替わり、それ以上の収穫は得られないと悟ったようだ。それから吉良に耳打ちをした。
「う~、確かに今の話が事実なら、興味深いな。ただあの連中は、九竜コーポレーションの取引先の会社関係者だ。情報の裏取りは、う~、別の班に任せた方が良いだろう」
「やはりそういう話ですか。でもそれなら、三郷が隠している件にも関わってきますよね。だったら私達が動いたって、問題ないと思いますけど」
「それだと効率が悪い。それに割り振られた捜査範囲を超えて割り込めば、う~、向こうの担当者の気分を害して面倒な事になる。情報を渡し裏取りさせて、顔を立たせた方が良い。こっちはそれを元に、う~、彼女へ質問をぶつければいい」
「それもそうですね。了解しました」
「しかしこれが、う~、事件に深く関わる裏事情だったなら、お前はいい仕事をしたことになる。よくやった」
「いえいえ、たまたまですよ。それにまだ単なる噂段階かもしれませんしね。余り期待しすぎると、足を救われるパターンかもしれません」
「それはいずれ判る。う~、ちょっと離れて、無線であっちの担当班に早速伝えてみる」
「お願いします。ところでうちの関係者は、どうでしたか」
「こっちは、う~、何も収穫なしだ。当たり障りのない会話しかしてない」
不機嫌そうに言い放った彼は人混みから離れ、先程得た情報を仲間に連絡し始めた。その間に周りを見渡していた吉良は、焼香がかなり進み帰り出す人達も増えて来たことに気づく。そこで彼が戻ってくるのを待って尋ねた。
「今夜はあとどれくらい、ここにいる予定ですか」
彼も周囲の変化を感じ取ったらしく呟いた。
「これ以上人が少なくなると、う~、俺達が目立つ。適当なところで切り上げよう。三郷はまだ残っているが、他のPA社の連中はもう帰った。今日中に、う~、事情聴取をしなければならない情報は、他でも上がっていない」
「了解です。それに私達は焼香しませんよね」
「当然だ。今の段階で疑わしい人物達は身内かPA社など、う~、近しい関係者ばかりだ。警察がうろついていると、下手に刺激しかねない」
「そうですね。明日の告別式も顔を出しますか」
「しょうがない。明日は土曜日だ。今日出席できなかった人達が来る場合もある。そうしたら、う~、お前が得た以上の情報を耳にする可能性だってあるだろう。明日も同じような話がそこかしこから聞こえてきたら、裏取りもしやすい。事実かどうかも確かめられるだろう。そうなればまた、う~、三郷を呼び出して話を聞く口実にもなる。前に言われただろ。“何か新たに判ったことが無い限り、事情聴取には応じません”と。ただ“捜査に何か進展があれば、話は聞きます”とも言っていた。今回の件が、う~、それに当たれば、捜査協力は頂ける訳だ」
吉良は頷いた。手強い彼女を崩すには、それ相応の武器が必要だ。
「裏が取れるといいですね。後は別の班が当たっている長谷家や兵頭家について新情報があれば、間違いなく向こうから飛びついてくるでしょう。彼女も知りたがっていたようですから」
「う~、今のところ長谷家を調べている奴らから、特段変わった情報はない。経済的に恵まれているとは言えないが、特別困窮してもいない。金が急に必要となった様子もないというし、第一今回だけでは一銭も手にすることが出来ない。一久氏が急死すれば別だが」
「そうなったら、間違いなく連続殺人を疑われるでしょう。そこまでしますかね」
「その可能性は今の所、考え難いとしか報告を受けていない。ただ、う~、将来相続人となる被害者の甥の長谷智明と姪の未知留達は、父親の卓也と上手くいっていないと聞いている。相続に直接かかわらない立場だからこそ、子供達の為を思って犯行に及んだ可能性もある。う~、例えばもう長くはない病に罹っているから、とかな」
なるほど。ある意味ベタな動機ではあるが、考えられなくもない。もしかすると自分の知らない間に、独自の情報網で耳にしたのかと思い尋ねた。
「そうなんですか?」
「いや、う~、不眠症などでメンタルクリニックに通院しているようだが、他の病院へかかっている事実はないそうだ」
単なる可能性の一つを口にしただけらしい。けれど精神的に病んでいると聞いて、別の動機を思いついた。
「しかし人生に悲観して、自分が死ぬ前に何か子供達にしてやりたいと思ったとしても、おかしくないですよね」
肩を掻きながら彼は頷いた。
「ああ。だが今の所、う~、その動機になりそうなきっかけは、何も見つからないようだ。将来の事を考えてといっても、一久氏が亡くなりそうだからという事情も無い。だから何故今のタイミングだったかと想像した時、殺人のリスクを負ってまでやるには、う~、危険すぎると思う。それにカードキーを持つ三人との接点は、現在全く見つかっていない」
確かに彼の言う通りだ。ばれれば子供達は一生殺人者を親に持ち、そのおかげで大金を手に入れたと言われ続けることになる。さすがにそれは厳しい選択だろう。そこで同意しながら別の可能性について尋ねた。
「確かなアリバイも無いから参考人には間違いないですけど、犯人かと言われれば難しいところですね。兵頭家の方はどうですか」
彼は首を捻りながら答えた。どうやらそちらもしっくりしないらしい。
「う~、そっちは長谷家と比べれば、格段に経済的状況が良い。被害者や九竜家との関係も緊密だったというし、会社関係でも目立った問題はないそうだ。ただ先程聞いた噂が事実だとしたら、う~、多少なりとも事情が変わってくるかもしれないが」
ここでまた振出しに戻った。
「でもPA社の三人と接点があるのは、三郷だけですよね。他の二人との繋がりは今の時点ではありません。ということは、やっぱり怪しいのは彼女ですかね」
「お前、取り調べしていてそう思ったか?」
吉良は率直な感想を告げた。
「いいえ、全く感じませんでした。殺人犯独特のオーラってありますよね。それが無かったと思います。実行犯じゃなく共犯だったとしても、何らかの見返りがあるか脅されて止む無くといった場合です。そういうのも彼女とは、無縁だとしか思えませんでした」
「う~、俺も現時点では同じ感想だ。しかし彼女が何かを隠している事は間違いない」
どう反応が返ってくるか気になっていたが、意見が一致したことにほっとする。また彼女の強情な態度に、何かあると感じていた点も同様だった為頷いた。
「顧客からの依頼内容ですね。その話になると、頑なに証言拒否していました。でもあれは、守秘義務があるからではないでしょうか」
「う~、それだけじゃない。被害者の男性関係で質問した時、若干動揺していただろ」
思いがけない問いかけに、吉良は驚いた。
「え? そうでしたか。気付きませんでした」
彼は再び肩を掻きながら言った。
「夫婦仲についてお前が言及した時、う~、彼女は強く主張していたじゃないか。“断言できます。九竜社長は、奥様の敏子夫人を裏切るような行為などしません。それに、”といった時だけ一瞬言葉が詰まった。それまであらゆる質問に対し、立て板に水が流れるような受け答えをしていた彼女がだぞ。その後なんとか立て直したが、俺には不自然に思えた」
「その後って、何と言ってました?」
「“それにあの場所は元事務所ですけど、今は単なる倉庫です。保存期間が過ぎて廃棄するまでの間、一時的に置かれた書類ばかりが置かれていて、ソファなどもありません。だから女性と逢引をするにしても、相応しくないでしょう。”彼女は、う~、そう誤魔化した」
そう言われても、正直ピンとこない。
「何となくはぐらかされた気がしたのは覚えていますけど」
「受け答えとして矛盾はない。だが、う~、本当に彼女が言いたかった、“それに、”の後は別の事だった気がする」
「なんでしょう」
「う~、それは判らん。女性ならではの機知っていうのかな。俺はそういう類のものに鈍感だ。女性関係に強いお前が気付かなかったのなら、相当なやり手なのだろう」
彼でさえもまだ判然としないらしい。得体の知れない彼女の事を思い出しながら、吉良は頷いた。
「そうかもしれませんね。あの顔で五十一歳ですよ。未だに信じられません。年上好みの俺でも、本当に引きました。人生経験からしても学歴や経歴からしても、俺が叶う訳ないって本気で思いました」
「相当厄介な相手だってことは間違いない。だが最重要参考人の一人だ。俺は彼女が、う~、犯行に関わっていなかったとしても、何らかの重要な鍵を持っている気がする。事件解決には、洗いざらい話して貰う必要があるだろう」
「そんなことなんて出来る気が、私には全くしませんけど」
「こら。お前が諦めてどうする。様々な情報を集めて外堀を埋め、話をするように持っていくのが俺達の仕事だ。そういう意味では、う~、一番大事な奴を担当しているってことを肝に銘じて置け。彼女を落とせば、事件の真相が見えてくるはずだ」
叱られてしまったが、ここまで大した糸口さえ掴めていない。そうした現状を思い、つい不貞腐れたように反論した。
「もちろん、やるだけやってみます。でも後他の二人についてはどうしますか。アリバイが間違いないことは確認しましたよね」
「相原と寺内が、実行犯で無い事は確かだろう。ただ共犯の線がまだ残っている。といっても、う~、九竜家に関する人物との接触はまだ掴めていない。だが寺内には経済的動機がある。相原の方も、裏事情があるか今別の班で調査中だ。何やら出てくるかもしれない」
どうやら彼も頭を悩ましているようだ。自分だけでないことに安堵した吉良は、話題を変えた。
「それはまた、おいおい調べるしかありませんね。ところで松ヶ根さんは事件現場を見て、今回の事件をどう思われましたか。何らかの手を使ってカードキーを手に入れた被害者が、あの旧事務所に女を連れ込んだようにも見えますよね。実際スラックスは脱いでいたし、追いかけまわした足跡も残っていました。性的暴行をしようとした挙句、逆に刺されて殺されたのでしょうか」
彼は首を横に振った。
「だが性的暴行をした形跡は、う~、残っていない。犯行前だったのかもしれないが、偽装されたとも考えられる。実際携帯や財布が盗まれていただろう。連れ込まれた女性が危険回避の為に誤って殺したとしたら、その点が矛盾する」
「だったら強盗目的か被害者を脅迫する目的で、犯人があの場所へ連れ込んだ。その挙句追いかけまわしたか、された後でもみ合って殺したってことでしょうか。携帯は何らかのやり取りをしていたと知られないようにする為で、財布を盗んだのは強盗に見せかけたのかもしれません。ただそれだと、スラックスを脱がせた偽装の意味が判りませんよね」
「そうなんだ。色んな意味で矛盾が生じる。う~、それにしても何故あの場所で事件が起きたのかも不明だ。しかも室内を走った後や、荒らされた形跡も一件自然なようで疑問が残る。死体が嵌めていた電波時計が壊れていたから、かなり激しく争ったとも、う~、考えられるが、それだって偽装かもしれない」
唐突な彼の推理に目を丸くした。そうした話は、捜査本部でもまだ上がっていない。
「アリバイ工作ですか。でもあの電波時計は、そう簡単に手動で時間を狂わせられるものでは無いと、鑑識から説明がありましたよね」
「あった。だが事前に入手していれば、今はソフトを使って時間を合わす方法があるらしいから可能だ。ただそうなると、う~、どうやって手に入れたかが問題になる。あれは間違いなく被害者の持ち物だと、家政婦や敏子夫人や一久氏も証言していた。マニアとまではいかないが、それなりの数の時計を収集していた事は確かなようだ。しかし事件当夜にあの時計を付けていたとは限らない。いつも嵌めているものでは無いとも聞いている」
そこまで考えているとは気付かなかった。そうなるとやはり九竜家の内部の人間か、関係する人物が協力者じゃないと無理だろう。その点を尋ねると彼は言った。
「それかどこかで、こっそり盗んだということもあり得る。う~、どちらにしてもそれなりに顔見知りの人間が絡んでいないと、犯行は難しいだろう」
「腕に嵌めていた電波時計が偽装だとすれば、犯行時間自体も何らかの工作をしてることになりませんか。確か死亡推定時刻は、夜の八時半から十時半の間だと検視や解剖所見から出ていましたよね。それが変わってくるということですか」
「考えられるとしたら、部屋の温度だな。あの部屋には、う~、エアコンがあっただろう。寒い夜だったが前もって部屋が暖められていたなら、体温は上昇するから死亡推定時刻が早まる。現場が八時過ぎにロック解除されていた理由も、そう考えれば納得できるだろう」
警察学校や昇進試験を受けた際にも勉強したが、死後硬直は顎から首が先に硬直し始め、一~三時間で肩やひじ、股や膝が硬直するのが三~四時間だ。五~六時間で手足の指が硬直し、十一~十二時間だと全身が硬直する。
死体発見が朝八時半頃で全身が硬直していた為、発見時の室温や直腸温度を測った結果、夜八時半~十時半が死亡推定時刻とされたはずだ。電波時計が壊れていた時間も十時少し前を指していた為、おそらく間違いないと捜査本部は見ていた。
だがここに来て、松ヶ根は何らかのトリックが行われたとの疑いを持っているらしい。彼は肩を掻きながら話を続けた。
「う~、他にも激しい運動をしたりすると、死後硬直が早まる。アデノシン三リン酸、いわゆるATPと呼ばれるものが働くからだ。現場で被害者が走り回ったような跡が残っていただろ。暖められた部屋で激しく走ったのなら、死亡推定時刻を早めることも不可能ではない」
「そういえば推理物のアニメでも、そうしたアリバイ工作をしたシーンがありました。しかし警備員が夜中に駆け付けた時、そんな事は言っていませんでしたよね」
「はっきりとした証言は得られていない。だが室内を碌に見ずさっさとロックして、ビルを出たんだ。部屋が暖かかったかどうかなんて、う~、気づかなかったとしても不思議じゃない。エアコンのリモコンを調べてみたが、タイマーになっていなかったことは確認されている。よって犯行後には切られていたのだろう。だが事前に部屋へ侵入し、温めて置いてから犯行後に消す事は理論的に可能だ。この点は改めて、う~、確認してみた方が良いかもしれない」
彼の推測にも一理あるが、そうなると別の疑問が浮かび上がる。そこで質問した。
「でも夜中に駆け付けた警備員がたまたま気付かず、しかも杜撰な対応をしたから翌朝になって死体が発見されただけですよね。もしそうでなかったら、そんなアリバイ工作、すぐにばれていたと思いませんか」
「う~、確かに計画的な殺人のように見えて、穴がある事も確かだ。電気メーターは旧式だったが、どれだけ使ったかは検針を調べて昨年以上に電力消費されているか確認すれば後で判る。エアコンだけじゃない。先程言っていた窃盗に見せかけたのか、襲われて殺したように見せかけたのかも偽装方法が曖昧だ。それ以前に、カードキーというツールを入手しながら退出時にロックしていなかったことは犯人にとって、う~、致命的なミスだと思わないか」
「そうですね。しっかりロックされていれば、死体発見はもっと遅くなっていたでしょう。そうした方が、死亡推定時刻をもっと曖昧に出来たはずです」
「他にも疑問点がある。犯人のゲソ痕だ。う~、被害者のものは、部屋のあちこちから見つかっている。だが鑑識の報告から、犯人はフットカバーのようなものをつけていたと聞く。それらしき繊維は見つかったが、割と大量生産されているもののようだ。九竜コーポレーションが所有する物件の、内部見学で使用するものと同じだったことは確認できた。けれどネットなどでも購入できる為か、出所を断定することは難しいらしい。ただそうしたものを用意していたことから、最初から被害者を殺害する計画だったと思われる。だからこそ矛盾する偽装工作や退出時にロックしていなかった点が余計、う~、不自然に感じられるんだよ」
「でも人を殺すって、なかなか特殊な事ですよね。何十人と殺してきたプロの暗殺者ならいざしらず、初めて人を殺したのなら実際やってみて、気が動転してもおかしくありません。予定に無い事を思わずしてしまったり、しなければいけないことを忘れたりしたのかもしれませんよ。フットカバーだって、九竜コーポレーションの関係者と思わせる為に同じものを用意したか、どこかで内見した際にこっそり入手することだってできます」
「お前の言う通りかもしれない。推理小説じゃあるまいし、全て理屈通りに進むとは限らないのが現実だ。その辺りも、う~、頭に入れて捜査しなければ、足元を救われかねない」
彼は相原や三郷と同じく、PA社の中でもPB資格を持つ社員だ。そこで社内における二人の様子について尋ねると、興味深い話が聞けた。
「三郷さんは事務所内だけでなく、エリアの中でもトップクラスの成績を上げていますから、相原さんにとっては面白くなかったでしょうね。まあ、それは私達も同じですけど」
「それってどういう意味っすか」
「だって十年のキャリアがあるとはいえ、中途採用ですからね。しかも四十を過ぎてですよ。俺とか相原所長のような生え抜きの社員からすれば、立場が無いでしょ。実際エリアの上層部からは、彼女を見習ってもっと成績を上げろと言われています。でも俺らはあんな武器、持ってないですからね」
「武器って、あの外見の事っすか」
「そうですよ。俺達が相手をする顧客は、富裕層ですからね。若い人もいますけど、圧倒的に多いのは高年齢の方です。だから若い社員というだけで、信用が落ちます。その点彼女は、顧客と年齢が近いという利点もあるでしょ。それにあの顔と話術がありますからね。スケベな爺さん達を手玉に取るのは、簡単なのでしょう」
相原が彼女を疎ましく思っていると感じていたが、どうやら彼だけではないらしい。つまり彼女を陥れようと考えている人間は、この会社の中だけでも相当数いることになる。それならば相原や寺内からカードキーを盗むか預かるかして、犯行に及んだかもしれない。
その為さらに尋ねた。
「社員さんの中で、三郷さんを特に嫌っているとしたら誰っすかね。あっ、もちろんこれもオフレコっす。誰にも喋んないっすから」
すると意外な答えが返ってきた。
「今一番嫌っているとしたら、社員じゃなくて保険会社の人かもしれないですね」
「え? それはどうしてっすか」
「所長を始め、彼女と仲のいい社員なんか、ここにはいないと思いますよ。でもあの成績があるからこそ、エリアの中でこの部署全体が高く評価されているのも事実です。目の上のたん瘤ではありますけど、恩恵も受けていますからね。痛し痒しって感じですよ」
「彼女は保険会社の人と、何かあったんすか」
「これは相原所長ともぶつかる所ですけど、彼女はあくまで顧客第一主義を貫いていますからね。特定の保険会社の商品を販売することは、頑なに反対しています。それだけではないでしょうが、特に彼女が以前勤めていた会社の人とは、なるべく接しないようにしていました。それが面白くなかったのか、かなり揉めていたようです。腹を立てた彼女は、彼らに出入り禁止を申し渡したとも聞きました」
「それはなんという人っすか」
「担当者は杉浦で、その上の沼田という支社長です」
彼女の前職の会社に属する人のようだが、これで彼女を貶めようとする人物が増えた。これについては他の社員からも同様の話が聞けた為、間違いはなさそうだ。また捜査範囲が広がってしまったと頭を抱えながらも、さらに尋ねた。
「相原さんや寺内さんは、三郷さんの様に他人から恨まれるようなことはないっすか」
「所長と揉めていたのは、三郷さんが一番でしょう。確かに成績至上主義だから厳しいし、上の顔を異常に気にしているから面倒くさい人ですけど、上司ってだいたいあんなもんでしょ。このご時世ですし、表立って酷いパワハラをすることもありませんでしたから。ただ裏で所長の悪口を言う社員はいますが、彼女はそういう事を絶対口にしない人でしたね」
「そうっすか。寺内さんは?」
「俺はあんまり接する機会が無いので、よく知らないですね。所長は別でしょうけど、三郷さんも含めてPB資格保有者は、保険部門と業務内容が全く違いますからね」
彼の口調からすると、寺内の属する旧保険代理店側の社員達とは、一線を画しているようだった。これは保険部門の社員からも同様で、互いに見えない壁を築いているらしい。それ以上の新たな情報は得られなかった為、吉良達は別の角度から捜査し直すことにした。
保険会社の社員については他の捜査員の手を借り、アリバイなどの証明や揉めた経緯などの裏付けをすることとなった。後に判ったが、二人共犯行時刻と思われる時間には帰宅していたようで、それを裏付ける人間は身内しかいなかったらしい。
といっても被害者を殺すだけの動機までは、発見できなかった。三郷を恨んでいることは明らかになったが、その為に彼女の顧客を殺すかどうかとなると、疑問が残る。また彼らのどちらかが犯行に及んだとしても、カードキーを手に入れなければならない。
彼らと最も繋がりがあるのは相原だ。しかし出入り禁止等についてやり取りしていたらしき形跡はあったものの、犯行に繋がる決定的な証拠までは掴めずにいた。また九竜家周辺や会社関係を洗っている捜査員からも、今の時点で目ぼしい報告は得られていない。
行き詰った時は、現場百回と良く言われる。それに倣って吉良達も事件のあったビルへと向かった。
中に入っているテナントへの聞き込みは、他の班で行っている。それでも聞き漏らしたことはないかと、あの日の夜の最終退出者に話を聞きに行った。
十二時に退社したという四階の税理士事務所の所長は、当日の夜駐車場に車が止めてあった気がすると既に証言している。それは後に被害者が乗っていたものと明らかになった。だから灯りは見えなかったが、誰か仕事で残っているのだろうと所長は思ったらしい。
事件現場となった事務所は、エレベーターもない古い四階建てビルの一階だ。三階は事務機器の販売会社の事務所で二階は空室になっている。かつて一階の保険事務所が開いていた時、会議室や応接などに使っていたらしいが、今は借りていないからだという。
この建物は近い内、新しいビルへの建て替え計画があった。そこで取り壊しが始まれば、PA社としては倉庫にある書類をどこか別のトランクルームなどへ移すことも検討中だったと聞いている。
改めて被害者が倒れていた部屋も覗いたけれど、特に目新しいものはない。だがやはりここに立つと、何故この場所が犯行現場になったのかとの疑問が湧いてくる。ここでなければならなかった理由が必ずあるはずだ。吉良達はそう話し合いながら、ビルを後にした。
後日、相原達三人のスマホやパソコンの分析結果報告を受けたが、結局長谷家の面々と繋がっていた形跡を見つけることはできなかったと知らされたのだった。
PA社の相原所長から支社宛に電話がかかって来た為、沼田は周囲に聞かれないよう小声で会話を交わした。話が終わり、受話器を置いてから席にいた杉浦を呼んだ。
「ちょっと応接室へ来てくれないか」
彼は表情を見て、何の件か察したらしい。何も言わず静かに後をついて来た。二人で部屋に入り、ソファに腰を下ろした沼田は言った。
「相原所長から、先程連絡があった。例の件で警察が動いているから、早めにこれが欲しいと要求している。どうだ。出来そうか」
人差し指と親指を使って丸を作ると、彼は眉間に皺を寄せて答えた。
「前倒しで欲しいと言ってきたってことですか。一応相談はしてみますが、担当者の一存だけでは難しいでしょう。支社長からも、口添えをお願いして頂けると助かります」
「もちろん、俺からも電話で言っておく。だが面と向かってでないと、細かい事は話せないだろう。そこを君に頼みたい」
「本来は先方に入ってからでないと税金の問題もあるので無理でしょうが、それ程多い額で無ければ何とかなるかもしれません。とりあえず、どれくらい欲しいのでしょうか」
「少なくとも、これだけらしい」
指を一本立てた沼田に、彼は再び表情を歪め、念の為にと聞き返してきた。
「百、じゃないですよね?」
「当たり前だ。桁が違う」
深い溜息を吐いた彼は、絞り出すように言った。
「何とか先方に交渉して見ます。支社長からの念押しも、お願いします」
「当然だ。ここで所長に恩を売っておけば、今後の取引にも大きく影響する。君も俺もまだしばらくこの部署にいるだろう。今の内に成績を上げておけば、次の昇進は固い。だが失敗は許されないぞ。九竜コーポレーションの契約だって、久宗氏の分は支払いで済むから営業成績に関わってこないが、まだ他が残っている。あっちも何とか引き延ばせ」
「はい。犯人が捕まって事件が解決されるまでは、しばらく動かせないと思います。捜査が長引けば、何とかなるでしょう」
「そうだ。これは大きなチャンスと思え。これを乗り切れば、俺達には明るい未来が待っている。そう信じろ」
「信じていいんですね。支社長の昇進は部店長以上の評価で決まりますが、私の評価は支社長次第ですから」
「期待通りの成果を出せば、もちろん引き上げてやるさ。だから頼んだぞ」
「判りました」
二人はソファから腰を上げ部屋を出た。席に戻ると沼田は早速、例の件を進めるべく受話器を手に取った。こちらの様子を不安げな顔をした杉浦がじっと見ていた。先程は彼に発破をかけたが、この案件をしくじれないのは自分も同じだ。その為深く息を吸い、コール音を聞きながら相手が出るのをじっと待った。
捜査が進む中、警察による司法解剖等が行われたことにより、遺体の返却には数日程かかっていた。よって事件が発生してから一週間後の金曜日の夜、九竜コーポレーションの社葬として通夜が開かれた。
そこには吉良達も含めた捜査員の面々が、目立たぬようそこかしこで弔問客達の表情を見渡していた。交わされる会話等に耳を傾け、少しでも事件に繋がる重要な情報を拾い上げられないか探る為だ。
というのもこの場所には、現在挙がっている重要参考人全員が揃っていた。相原所長を始め三郷や寺内もいる。他にもPA社の社員が数名いた。九竜家の関係者だと、一久はもちろん兵頭部長や家政婦の稲川、会計監査役の由利や顧問弁護士の松方がいた。
さらに縁遠くなっていたと言われている、九竜家の長女の夫だった長谷卓也やその息子である智明や娘の未知留までも参列している。同じく被害者の姪に当たる兵頭日香里の姿もあった。
ただその中で異様だったのは、最大の遺産相続人で本来なら喪主を務めるはずの敏子夫人がいなかったことだ。海外にいる為事前に帰国しないとは聞いていたものの、本当に欠席するとは驚きだった。
被害者の妻であり、現在は社長死亡による手続きも済んで九竜コーポレーションの新社長となったにも関わらずだ。よって喪主は父親の一久が勤め、その補助として松方と兵頭、由利の三人が付き添う形を取っていた。
さすが地元の名士が亡くなった葬儀の為、相当な数の人達で溢れ返っていた。それを見越してか、数百名は入るだろうと思われる大きな会場が確保されたようだ。また翌日の土曜日のお昼に告別式が開かれ、火葬される手筈となっている。
幸い雨は降っていないが、曇りで月や星が隠れていた。真っ暗闇の中で黒い喪服を着た大勢の老若男女がうごめく様子は、ある種異様な光景だ。その分捜査員達にとって、目立ち難く紛れやすかったと言えるだろう。
吉良は松ヶ根と共に、固まって参列している相原達三人の様子を伺い続けている。彼らの担当ではあるものの、今夜や明日は余程緊急に確認しなければならない事項が無い限り、事情聴取できる状態ではないからだ。
もちろん松方や由利など会社関係の人物を洗う班や、相続に関わる兵頭部長と娘の日香里を担当する刑事、長谷家の三名をあてがわれた者達もいる。彼らもそれぞれ一挙手一投足に注目しているだろう。
「関係者達の会話が聞こえる場所まで、近づけませんかね。人が多すぎますよ」
思わず漏れた吉良の呟きが聞こえたらしい。隣にいた松ヶ根に、小声で叱られた。
「馬鹿言うな。奴らは、う~、関係者の中でも前列に並んでいる。あんなところまで顔バレしている俺達が、行ける訳ないだろう。見つかって追い出されても、う~、文句は言えないんだぞ」
「それは判っています。でももどかしくないですか。こんなに離れた所から様子を見ていたからって、何も情報が得られません」
「お前は黙って、周囲の話に耳を傾けて置け。俺があの三人を見ているから、邪魔するな」
ようやく吉良は、彼の意図が理解できた。
「読唇術ですね。口の動きだけで、何を話しているか分かるっていう。これだけ距離があっても読み取れますか。それにしてもすごいですよね」
彼はそれ以上話すつもりはないらしく、無視したまま相原達を凝視していた。
聞くところによると、松ヶ根は特殊な能力を持っているらしい。自閉症スペクトラムという舌の噛みそうな名前の精神障害を持つ一方、サヴァン症候群によってそうした力を備えているという。
自閉症スペクトラムとは臨機応変な対人関係が苦手で、自分のやり方や関心、ペースの維持を最優先させたいという、本能的志向が強いことを特徴とする発達障害の一種だと聞いている。
「やや変わった人」程度で済み、問題なく日常生活を送れる人も少なくないらしい。彼がその中の一人なのだろう。イメージとしては融通が効かなかったり、少しだけこだわりが強かったりするというもののようだ。
また言葉を用いたコミュニケーションにおいて、いくつかの特徴があるようだ。話し言葉が遅れたり、“おうむ返し”が多かったり、話す時の抑揚が異常だったりするらしい。彼の場合は、う~、という言葉が会話の中に入る点がそれにあたるのだろう。
被疑者等の前だと違う一面が出る点は同じだが、吉良の話すタメ語やチャラい言葉は意図的だ。その為もちろんこの症例には当てはまらない。
その上特定の物事に対して強い興味を持ち、特定の手順を繰り返すことにこだわったり、常同的な動作を繰り返したりもするらしい。その分興味を持った領域に関して、膨大な知識を身につけるという。
そうした様々なバターンがある中で、松ヶ根の場合は少し頑固でこだわりを持つと共に、人とのコミュニケーションでは特に女性を苦手とする傾向があった。それでもかつては結婚していたことがあると聞いている。しかし現在は離婚している為、そうした障害が影響したのかもしれない。
いくつかの軽い発達障害を持つ代わりに手に入れた特殊能力の一つが読唇術であり、人並み外れた記憶力だという。現在の刑事課に配属される前は、指名手配された容疑者らの顔や容姿を写真で記憶し、雑踏の中から見つけ出す“見当たり捜査”の専従班に属していた。
そこでは短期間で、顕著な実績を挙げたそうだ。正式には、県警刑事総務課捜査共助係という部署だった。配属されてから一年足らずの間に、九人の指名手配犯や容疑者を発見したとの噂を耳にしている。
そうした能力に加え、彼は聞き取った話や見た映像などは全て覚えているそうだ。例えば先日吉良が三郷の事情聴取をした際、傍らにいた彼は一見ただ聞いているだけに見えたかもしれない。だが実際は音声レコーダーに録音したり、ビデオカメラで撮影していたりする場合と同じ役割を果たしていたのだ。
そうした反動なのか、一度聞いた他人のものを含めて過去の嫌な記憶までも、全て覚えてしまうらしい。その為酷く苦しむことがあるという。だからか時折彼は、苦虫を噛み潰したような表情をする。恐らく人が持つ悪い感情や醸し出す空気、その時の情景などを思い出してしまう事があるのだろう。
よって捜査では相当な成果を出したけれど、その分他人には理解できない苦労もあったようだ。そんな要因も影響してか、刑事課に配置転換されたと聞いている。それでも異動後の彼は、特殊能力を遺憾なく発揮した。次々と難事件を解決へと導き、今や刑事課のエースとなっている。
そんな彼とペアを組むと聞かされた時は、正直小躍りしたものだ。吉良は昔から刑事になることに憧れていた。高校を卒業したら、地元であるS県の警察官採用試験を受けるつもりだった。けれども今の時代、大学だけは入っておけと両親に言われて一時迷った。
警察官はハードな職業だ。万が一きつく感じ続けられなくなった後の事を考えれば、大卒と高卒の肩書では多少なりとも違ってくる。その点を特に強調されて、止む無く大学への進学を決めたのだ。
しかし結局卒業が近づくにつれ将来就きたい職業は何かと考えた時、刑事になりたいとの気持ちは変わらなかった。そこで警察官採用のⅠ類試験を受けたのだ。その後研修を受け交番勤務から生活安全部の少年課を経て、三年前から念願の刑事課に配属された。
所轄とはいえ、ようやく長年の夢だった刑事になれたのだ。そこに来て県警本部の刑事課のエースと組み、事件に係われる機会に恵まれた。こんなチャンスはそう簡単にめぐって来ない。しかも地元では有名な資産家が被害者で現場状況も特殊だったことから、全国ニュースで扱われる程の注目を集めている。これほど刑事として血が騒ぐことはない。
その一方で心配もあった。県警のエースと組まされ、最重要参考人と目される三名を担当することになったのだ。決して失敗は許されない。加えて三十三歳にもなってチャラ男とあだ名される自分が、松ヶ根のような気難しい人と上手くやっていけるかとかなり不安を感じていた。
だが蓋を開けてみれば、今の所は特にコミュニケーションで差し障りがある状況になっていない。それどころか、これまで数多くの先輩方からたしなめられてきた吉良が被疑者などに使うチャラ語について、彼は気にしないどころかそれは面白いし使えると言い出したのだ。
逆に彼がこだわる行動や変わった仕草について、吉良は何とも思わなかったからだろう。これまで能力の高さを評価されながらも、変わった人とレッテルを張られていたことを本人は気にしていたらしい。
例を挙げると左手で右肩を掻く癖の他に、彼は靴を履く時には必ず右足からと決めている。時間を守る事にも異常なこだわりを見せ、話すテンポや相手とのやり取りの間にも、何らかの法則があるようだ。
その為途中で口を挟むなどして乱す事を嫌い、異常なほど怒り出すことがあった。ただそれはあくまで、同僚達に対してのみの言動だった。被疑者等に対しては決して言葉を荒げる事などない。淡々と理路整然と話しながら相手をじっと見つめることで、嘘がつきづらい空気を生み出すのだ。
時折何か考え事に没頭しているのか記憶を辿っているのか不明だが、人の話を完全に無視する場合がある。けれど聞いていない訳ではない。その証拠にかなり時間が経って本人も忘れた頃、思い出したようにあの時こういっていただろうと話し出すことがあった。
けれど吉良自身に問題があったこともあるせいか、尊敬こそすれ変人などと感じたことは全くない。本来なら既に警部補で四十三歳という年齢とキャリアや実績を考慮すれば、刑事課の係長クラスの管理職になっていてもおかしくないのだ。
ただ彼の特殊性から、他の刑事達を取りまとめたりする能力には、やや難があるからだろう。また第一線にいた方が彼の力をより発揮できる為、未だ一兵卒として働き続けているに違いない。よって吉良は、彼とペアを組めたことに感謝していた。
そうした思いが彼にも伝わったのだろう。吉良の言葉遣いを注意することがない代わりに、自分の言動を気にする事なく伸び伸びとしている気がする。さらに彼が苦手とする女性相手への聴取については、吉良が前面に出ることでバランスが取れていたことも良かった。まだ短期間ではあるが、既に長年付き添ってきたと思える程息は合っていた。
松ヶ根が相原達の会話を探っているのなら、邪魔はできない。それなら自分は、周囲にいる参列者から漏れ聞こえてくる声に集中しようとした。そうしてしばらくしていた時、気になる言葉を拾った。
ただ余りに人が多すぎて、そこかしこで様々な雑談が交わされている。その上通夜という場でもある為、声を抑えているからよく聞き取れない。勘違いなのか、それとも全く別の会社の話なのかもよく判らなかった。
それでもどうにかして内容を知ろうと、会話をしていた集団に少しずつ近づいて行った。すると吉良が離れたことに、松ヶ根が気付いたらしい。スーツの袖を軽く引きながら尋ねてきた。
「う~、どうした? どこへ行くつもりだ」
「いえ、少し気なる会話がしたので」
「どの集団だ?」
「こっちはいいですよ。松ヶ根さんは、向こうにいる人達に集中していて下さい」
「いやあの集団は、う~、ここから見えない奥へ移動しちまった。だから今は大丈夫だ。気になる奴らがいるなら、そっちの会話を読み取ってやる」
「だったらお願いしていいですか。声が小さいし、周りの声が混じるのでよく聞き取れませんでした。あれです。どうやら、九竜の会社の話をしていたような気がしました」
「判った。う~、あれだな」
吉良が指し示した集団を発見した彼は、肩を掻きながら口に集中して内容を探り始めた。こうなると吉良の出番はない。だが無駄だと理解しつつ、念の為に聞き耳を立ててみた。でもやはり良く分らない。どうしても周囲の小さな雑音が重なって、邪魔をするからだ。
しかし彼の能力は予想をはるかに超えていた。かなり詳細なところまで理解できたらしい。途中から話題が替わり、それ以上の収穫は得られないと悟ったようだ。それから吉良に耳打ちをした。
「う~、確かに今の話が事実なら、興味深いな。ただあの連中は、九竜コーポレーションの取引先の会社関係者だ。情報の裏取りは、う~、別の班に任せた方が良いだろう」
「やはりそういう話ですか。でもそれなら、三郷が隠している件にも関わってきますよね。だったら私達が動いたって、問題ないと思いますけど」
「それだと効率が悪い。それに割り振られた捜査範囲を超えて割り込めば、う~、向こうの担当者の気分を害して面倒な事になる。情報を渡し裏取りさせて、顔を立たせた方が良い。こっちはそれを元に、う~、彼女へ質問をぶつければいい」
「それもそうですね。了解しました」
「しかしこれが、う~、事件に深く関わる裏事情だったなら、お前はいい仕事をしたことになる。よくやった」
「いえいえ、たまたまですよ。それにまだ単なる噂段階かもしれませんしね。余り期待しすぎると、足を救われるパターンかもしれません」
「それはいずれ判る。う~、ちょっと離れて、無線であっちの担当班に早速伝えてみる」
「お願いします。ところでうちの関係者は、どうでしたか」
「こっちは、う~、何も収穫なしだ。当たり障りのない会話しかしてない」
不機嫌そうに言い放った彼は人混みから離れ、先程得た情報を仲間に連絡し始めた。その間に周りを見渡していた吉良は、焼香がかなり進み帰り出す人達も増えて来たことに気づく。そこで彼が戻ってくるのを待って尋ねた。
「今夜はあとどれくらい、ここにいる予定ですか」
彼も周囲の変化を感じ取ったらしく呟いた。
「これ以上人が少なくなると、う~、俺達が目立つ。適当なところで切り上げよう。三郷はまだ残っているが、他のPA社の連中はもう帰った。今日中に、う~、事情聴取をしなければならない情報は、他でも上がっていない」
「了解です。それに私達は焼香しませんよね」
「当然だ。今の段階で疑わしい人物達は身内かPA社など、う~、近しい関係者ばかりだ。警察がうろついていると、下手に刺激しかねない」
「そうですね。明日の告別式も顔を出しますか」
「しょうがない。明日は土曜日だ。今日出席できなかった人達が来る場合もある。そうしたら、う~、お前が得た以上の情報を耳にする可能性だってあるだろう。明日も同じような話がそこかしこから聞こえてきたら、裏取りもしやすい。事実かどうかも確かめられるだろう。そうなればまた、う~、三郷を呼び出して話を聞く口実にもなる。前に言われただろ。“何か新たに判ったことが無い限り、事情聴取には応じません”と。ただ“捜査に何か進展があれば、話は聞きます”とも言っていた。今回の件が、う~、それに当たれば、捜査協力は頂ける訳だ」
吉良は頷いた。手強い彼女を崩すには、それ相応の武器が必要だ。
「裏が取れるといいですね。後は別の班が当たっている長谷家や兵頭家について新情報があれば、間違いなく向こうから飛びついてくるでしょう。彼女も知りたがっていたようですから」
「う~、今のところ長谷家を調べている奴らから、特段変わった情報はない。経済的に恵まれているとは言えないが、特別困窮してもいない。金が急に必要となった様子もないというし、第一今回だけでは一銭も手にすることが出来ない。一久氏が急死すれば別だが」
「そうなったら、間違いなく連続殺人を疑われるでしょう。そこまでしますかね」
「その可能性は今の所、考え難いとしか報告を受けていない。ただ、う~、将来相続人となる被害者の甥の長谷智明と姪の未知留達は、父親の卓也と上手くいっていないと聞いている。相続に直接かかわらない立場だからこそ、子供達の為を思って犯行に及んだ可能性もある。う~、例えばもう長くはない病に罹っているから、とかな」
なるほど。ある意味ベタな動機ではあるが、考えられなくもない。もしかすると自分の知らない間に、独自の情報網で耳にしたのかと思い尋ねた。
「そうなんですか?」
「いや、う~、不眠症などでメンタルクリニックに通院しているようだが、他の病院へかかっている事実はないそうだ」
単なる可能性の一つを口にしただけらしい。けれど精神的に病んでいると聞いて、別の動機を思いついた。
「しかし人生に悲観して、自分が死ぬ前に何か子供達にしてやりたいと思ったとしても、おかしくないですよね」
肩を掻きながら彼は頷いた。
「ああ。だが今の所、う~、その動機になりそうなきっかけは、何も見つからないようだ。将来の事を考えてといっても、一久氏が亡くなりそうだからという事情も無い。だから何故今のタイミングだったかと想像した時、殺人のリスクを負ってまでやるには、う~、危険すぎると思う。それにカードキーを持つ三人との接点は、現在全く見つかっていない」
確かに彼の言う通りだ。ばれれば子供達は一生殺人者を親に持ち、そのおかげで大金を手に入れたと言われ続けることになる。さすがにそれは厳しい選択だろう。そこで同意しながら別の可能性について尋ねた。
「確かなアリバイも無いから参考人には間違いないですけど、犯人かと言われれば難しいところですね。兵頭家の方はどうですか」
彼は首を捻りながら答えた。どうやらそちらもしっくりしないらしい。
「う~、そっちは長谷家と比べれば、格段に経済的状況が良い。被害者や九竜家との関係も緊密だったというし、会社関係でも目立った問題はないそうだ。ただ先程聞いた噂が事実だとしたら、う~、多少なりとも事情が変わってくるかもしれないが」
ここでまた振出しに戻った。
「でもPA社の三人と接点があるのは、三郷だけですよね。他の二人との繋がりは今の時点ではありません。ということは、やっぱり怪しいのは彼女ですかね」
「お前、取り調べしていてそう思ったか?」
吉良は率直な感想を告げた。
「いいえ、全く感じませんでした。殺人犯独特のオーラってありますよね。それが無かったと思います。実行犯じゃなく共犯だったとしても、何らかの見返りがあるか脅されて止む無くといった場合です。そういうのも彼女とは、無縁だとしか思えませんでした」
「う~、俺も現時点では同じ感想だ。しかし彼女が何かを隠している事は間違いない」
どう反応が返ってくるか気になっていたが、意見が一致したことにほっとする。また彼女の強情な態度に、何かあると感じていた点も同様だった為頷いた。
「顧客からの依頼内容ですね。その話になると、頑なに証言拒否していました。でもあれは、守秘義務があるからではないでしょうか」
「う~、それだけじゃない。被害者の男性関係で質問した時、若干動揺していただろ」
思いがけない問いかけに、吉良は驚いた。
「え? そうでしたか。気付きませんでした」
彼は再び肩を掻きながら言った。
「夫婦仲についてお前が言及した時、う~、彼女は強く主張していたじゃないか。“断言できます。九竜社長は、奥様の敏子夫人を裏切るような行為などしません。それに、”といった時だけ一瞬言葉が詰まった。それまであらゆる質問に対し、立て板に水が流れるような受け答えをしていた彼女がだぞ。その後なんとか立て直したが、俺には不自然に思えた」
「その後って、何と言ってました?」
「“それにあの場所は元事務所ですけど、今は単なる倉庫です。保存期間が過ぎて廃棄するまでの間、一時的に置かれた書類ばかりが置かれていて、ソファなどもありません。だから女性と逢引をするにしても、相応しくないでしょう。”彼女は、う~、そう誤魔化した」
そう言われても、正直ピンとこない。
「何となくはぐらかされた気がしたのは覚えていますけど」
「受け答えとして矛盾はない。だが、う~、本当に彼女が言いたかった、“それに、”の後は別の事だった気がする」
「なんでしょう」
「う~、それは判らん。女性ならではの機知っていうのかな。俺はそういう類のものに鈍感だ。女性関係に強いお前が気付かなかったのなら、相当なやり手なのだろう」
彼でさえもまだ判然としないらしい。得体の知れない彼女の事を思い出しながら、吉良は頷いた。
「そうかもしれませんね。あの顔で五十一歳ですよ。未だに信じられません。年上好みの俺でも、本当に引きました。人生経験からしても学歴や経歴からしても、俺が叶う訳ないって本気で思いました」
「相当厄介な相手だってことは間違いない。だが最重要参考人の一人だ。俺は彼女が、う~、犯行に関わっていなかったとしても、何らかの重要な鍵を持っている気がする。事件解決には、洗いざらい話して貰う必要があるだろう」
「そんなことなんて出来る気が、私には全くしませんけど」
「こら。お前が諦めてどうする。様々な情報を集めて外堀を埋め、話をするように持っていくのが俺達の仕事だ。そういう意味では、う~、一番大事な奴を担当しているってことを肝に銘じて置け。彼女を落とせば、事件の真相が見えてくるはずだ」
叱られてしまったが、ここまで大した糸口さえ掴めていない。そうした現状を思い、つい不貞腐れたように反論した。
「もちろん、やるだけやってみます。でも後他の二人についてはどうしますか。アリバイが間違いないことは確認しましたよね」
「相原と寺内が、実行犯で無い事は確かだろう。ただ共犯の線がまだ残っている。といっても、う~、九竜家に関する人物との接触はまだ掴めていない。だが寺内には経済的動機がある。相原の方も、裏事情があるか今別の班で調査中だ。何やら出てくるかもしれない」
どうやら彼も頭を悩ましているようだ。自分だけでないことに安堵した吉良は、話題を変えた。
「それはまた、おいおい調べるしかありませんね。ところで松ヶ根さんは事件現場を見て、今回の事件をどう思われましたか。何らかの手を使ってカードキーを手に入れた被害者が、あの旧事務所に女を連れ込んだようにも見えますよね。実際スラックスは脱いでいたし、追いかけまわした足跡も残っていました。性的暴行をしようとした挙句、逆に刺されて殺されたのでしょうか」
彼は首を横に振った。
「だが性的暴行をした形跡は、う~、残っていない。犯行前だったのかもしれないが、偽装されたとも考えられる。実際携帯や財布が盗まれていただろう。連れ込まれた女性が危険回避の為に誤って殺したとしたら、その点が矛盾する」
「だったら強盗目的か被害者を脅迫する目的で、犯人があの場所へ連れ込んだ。その挙句追いかけまわしたか、された後でもみ合って殺したってことでしょうか。携帯は何らかのやり取りをしていたと知られないようにする為で、財布を盗んだのは強盗に見せかけたのかもしれません。ただそれだと、スラックスを脱がせた偽装の意味が判りませんよね」
「そうなんだ。色んな意味で矛盾が生じる。う~、それにしても何故あの場所で事件が起きたのかも不明だ。しかも室内を走った後や、荒らされた形跡も一件自然なようで疑問が残る。死体が嵌めていた電波時計が壊れていたから、かなり激しく争ったとも、う~、考えられるが、それだって偽装かもしれない」
唐突な彼の推理に目を丸くした。そうした話は、捜査本部でもまだ上がっていない。
「アリバイ工作ですか。でもあの電波時計は、そう簡単に手動で時間を狂わせられるものでは無いと、鑑識から説明がありましたよね」
「あった。だが事前に入手していれば、今はソフトを使って時間を合わす方法があるらしいから可能だ。ただそうなると、う~、どうやって手に入れたかが問題になる。あれは間違いなく被害者の持ち物だと、家政婦や敏子夫人や一久氏も証言していた。マニアとまではいかないが、それなりの数の時計を収集していた事は確かなようだ。しかし事件当夜にあの時計を付けていたとは限らない。いつも嵌めているものでは無いとも聞いている」
そこまで考えているとは気付かなかった。そうなるとやはり九竜家の内部の人間か、関係する人物が協力者じゃないと無理だろう。その点を尋ねると彼は言った。
「それかどこかで、こっそり盗んだということもあり得る。う~、どちらにしてもそれなりに顔見知りの人間が絡んでいないと、犯行は難しいだろう」
「腕に嵌めていた電波時計が偽装だとすれば、犯行時間自体も何らかの工作をしてることになりませんか。確か死亡推定時刻は、夜の八時半から十時半の間だと検視や解剖所見から出ていましたよね。それが変わってくるということですか」
「考えられるとしたら、部屋の温度だな。あの部屋には、う~、エアコンがあっただろう。寒い夜だったが前もって部屋が暖められていたなら、体温は上昇するから死亡推定時刻が早まる。現場が八時過ぎにロック解除されていた理由も、そう考えれば納得できるだろう」
警察学校や昇進試験を受けた際にも勉強したが、死後硬直は顎から首が先に硬直し始め、一~三時間で肩やひじ、股や膝が硬直するのが三~四時間だ。五~六時間で手足の指が硬直し、十一~十二時間だと全身が硬直する。
死体発見が朝八時半頃で全身が硬直していた為、発見時の室温や直腸温度を測った結果、夜八時半~十時半が死亡推定時刻とされたはずだ。電波時計が壊れていた時間も十時少し前を指していた為、おそらく間違いないと捜査本部は見ていた。
だがここに来て、松ヶ根は何らかのトリックが行われたとの疑いを持っているらしい。彼は肩を掻きながら話を続けた。
「う~、他にも激しい運動をしたりすると、死後硬直が早まる。アデノシン三リン酸、いわゆるATPと呼ばれるものが働くからだ。現場で被害者が走り回ったような跡が残っていただろ。暖められた部屋で激しく走ったのなら、死亡推定時刻を早めることも不可能ではない」
「そういえば推理物のアニメでも、そうしたアリバイ工作をしたシーンがありました。しかし警備員が夜中に駆け付けた時、そんな事は言っていませんでしたよね」
「はっきりとした証言は得られていない。だが室内を碌に見ずさっさとロックして、ビルを出たんだ。部屋が暖かかったかどうかなんて、う~、気づかなかったとしても不思議じゃない。エアコンのリモコンを調べてみたが、タイマーになっていなかったことは確認されている。よって犯行後には切られていたのだろう。だが事前に部屋へ侵入し、温めて置いてから犯行後に消す事は理論的に可能だ。この点は改めて、う~、確認してみた方が良いかもしれない」
彼の推測にも一理あるが、そうなると別の疑問が浮かび上がる。そこで質問した。
「でも夜中に駆け付けた警備員がたまたま気付かず、しかも杜撰な対応をしたから翌朝になって死体が発見されただけですよね。もしそうでなかったら、そんなアリバイ工作、すぐにばれていたと思いませんか」
「う~、確かに計画的な殺人のように見えて、穴がある事も確かだ。電気メーターは旧式だったが、どれだけ使ったかは検針を調べて昨年以上に電力消費されているか確認すれば後で判る。エアコンだけじゃない。先程言っていた窃盗に見せかけたのか、襲われて殺したように見せかけたのかも偽装方法が曖昧だ。それ以前に、カードキーというツールを入手しながら退出時にロックしていなかったことは犯人にとって、う~、致命的なミスだと思わないか」
「そうですね。しっかりロックされていれば、死体発見はもっと遅くなっていたでしょう。そうした方が、死亡推定時刻をもっと曖昧に出来たはずです」
「他にも疑問点がある。犯人のゲソ痕だ。う~、被害者のものは、部屋のあちこちから見つかっている。だが鑑識の報告から、犯人はフットカバーのようなものをつけていたと聞く。それらしき繊維は見つかったが、割と大量生産されているもののようだ。九竜コーポレーションが所有する物件の、内部見学で使用するものと同じだったことは確認できた。けれどネットなどでも購入できる為か、出所を断定することは難しいらしい。ただそうしたものを用意していたことから、最初から被害者を殺害する計画だったと思われる。だからこそ矛盾する偽装工作や退出時にロックしていなかった点が余計、う~、不自然に感じられるんだよ」
「でも人を殺すって、なかなか特殊な事ですよね。何十人と殺してきたプロの暗殺者ならいざしらず、初めて人を殺したのなら実際やってみて、気が動転してもおかしくありません。予定に無い事を思わずしてしまったり、しなければいけないことを忘れたりしたのかもしれませんよ。フットカバーだって、九竜コーポレーションの関係者と思わせる為に同じものを用意したか、どこかで内見した際にこっそり入手することだってできます」
「お前の言う通りかもしれない。推理小説じゃあるまいし、全て理屈通りに進むとは限らないのが現実だ。その辺りも、う~、頭に入れて捜査しなければ、足元を救われかねない」
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