ダブルネーム

しまおか

文字の大きさ
上 下
26 / 39

第四章~⑥

しおりを挟む
「それでですね。本の表紙をどうするか等、急いで打ち合わせもしなければいけません。ですがその前に、これまでの方針を変える覚悟を持って頂きたいのです」
 嫌な予感がした。それは的中した。今後雑誌の取材時等では積極的に顔出しをし、本が刷り上がれば書店回りもしろと言い出したのだ。プロフィールについてもできるだけ公表したいという。
「有名大学を卒業し、大手損害保険会社で二十年以上勤めていたキャリア。さらにうつ病で退職したけれども、そこから人生を生き直そうと大きな決断をした行動。そこから執筆に目覚めて五十歳にして作家となり、デビュー作が芥山賞にノミネートされたという経歴。これらは作品の売り上げを伸ばす為に欠かせないエピソードです。これで受賞したらそれこそシンデレラストーリーの完成です。先生、そう思いませんか」
 これには思わず顔をしかめた。目の前にいる二人は、当初話し合って決めた約束を反故にしようと説得に当たり始めたのである。
 しかもこれまで呼んだことの無い、先生とまで口にしたあざとさには心底呆れた。その一方で、その条件を飲まなければ本の出版に関する契約には応じられない、との圧力も感じられたのだ。
 藤子だって馬鹿ではない。業界が違っても、上場企業で二十年以上営業職として働いてきたのだ。どうすれば商品が売れるのか、長年頭を悩ませながら得た経験がある。
 事前に種をまき、仕掛けを施し育てなければ刈り取りは出来ない。売る商品が違っても営業の基本は同じだ。よって彼女の言い分は十分理解できた。
 しかし頭で分かっていても、行動できるかどうかは別問題だ。はっきり言えばそこまでして本を売りたいと思っていなかった。
 それに芥山賞なんて獲れる訳がないと、軽く考えていたのである。ノミネートされたのは何かの間違い、または藤子の知らない所で出版社の力が働いたのではないか、とさえ疑っていた。
 彼らはどうしても藤子の容姿や経歴等を利用し、アラフィフとは思えない大型新人作家登場と銘打ちたいだけだろう。売れない本でもマスコミを巻き込めば、それなりに利益が見込める。その程度の認識なのだと底が読めた。
 それでも新人作家の立場が弱い事実は揺るがない。それに今はまだノミネートされただけだ。この時点で反抗すれば本の出版はされないだろう。
 そうなれば二度とこの業界にいられなくなるかもしれない。藤子はまだそこまで割り切られるほど、腹を括ってはいなかった。
 それでも返事が出来ずにいると、彼女は懐柔かいじゅう案を出してきた。一つは既に依頼を受けている次回作の出版を約束するというものだ。
 本来なら、当然内容が一定の商業レベルに達していなければならない。それに芥山賞を受賞すれば世間が期待するハードルは上がる為、余りにも酷ければ無理だろう。受賞せずとも候補に挙がった作家の二作目ともなれば、やはり中身が伴わないと難しいはずだ。それでも絶対に出版は保障すると言い出した。
「もし口約束だけでは不安だというのなら、事前に契約書を結んでも構いません。普通はここまでしませんよ。ただこちらも無理なお願いをする交換条件として、編集長も特例で承諾してくれたのですから」
 恩着せがましく言っているが、要するに次回作が全く売れない事態を覚悟しているに違いない。それでも候補に挙がった“伝えたい”さえ売れれば、それだけで十分だとでも思っているのだろう。
 さらに彼女は畳みかけてきた。
「経歴の詳細公表に抵抗があるのでしたらこうしませんか。受賞作が発表されるまで、保険会社を退職した理由やその後執筆するに至るまでの経緯は濁しましょう。候補作止まりであれば、そのままその点に触れないでおいても構いません。いかがですか」
 表向きは譲歩しているように思える。だが大々的に顔出しをして一部でもプロフィールを公表すれば、退職理由など隠していてもマスコミが後追いで調べるはず。そうすれば自ずと明らかになる。
 しかも暗に受賞した場合は、全て明らかにすると言っているようなものだ。これでもし拒否すれば、あくまで作家が我儘わがままを言ったからと言い訳が立つ。
 様々な好条件を出して外掘りを埋め、関係を絶った場合でも出版社側が批判されないよう手を打っているとしか思えない。今の時代は出版社と揉めればSNS等で拡散し、世間の同情を引いて身を護る手段が取れる。そうすれば他の出版社から声がかかり、救ってくれるケースもあるからだ。
 しかしそれはあくまで出版社または編集者側に明らかな非があり、作家側を救うことで好感度を上げ、多くの読者層を取り込める計算が立つ場合に限られた。
 そうでなければ大御所作家でもない限り、実績のない新人に手を差し伸べるメリットなどない。また作家側に問題がある事例であれば、リスクを犯してまで手助けなどしないだろう。
 そうなれば完全に業界から干されるはずだ。恐らく彼らは言外にそう仄めかし、申し出を断らせないように仕向けていると感じた。ここまで追い込まれれば同意するしかない。
 ただ少しだけ条件を付け加えるよう交渉した。極力避けたかった顔出しを承諾する代わりに経歴の公表は生まれ年のみに止め、具体的な大学や会社名等、その他に関しては伏せて貰うよう頭を下げたのである。
 彼女達が最も前面に出したいアピールポイントは、年齢とギャップのある容姿やそこまでに至る経緯だ。それに高学歴で珍しい職歴を加えれば、なおいいと思っているに違いない。
 もちろん退職理由と受賞までのエピソードを加えれば、アピール度はより高まると期待していただろう。両親の死なども添え、決して平凡ではない山あり谷ありの波乱万丈な人生を送ってきた逸話を追加すればさらに興味が引ける。
 そうした人物が創作した作品だと謳えばより大衆の好奇心をそそり、宣伝効果も引き上がるとの思惑があった点は疑う余地などない。その有効性については藤子でさえ十分理解できたからだ。それでも病歴を含めた退職後の件や、生い立ちから始まるプライベートな部分を明らかにするのはどうしても逡巡しゅんじゅんした。
 顔ばれが避けられないのなら、せめて白井真琴の本名や本当の顔はできるだけ気付かれないようにしたい。その為に出した苦肉の譲歩案だった。出身地や高校までの学歴を隠し大学名や勤務先の名をぼやかせば、少しでもその確率が高まると考えたのだ。
 これには編集長も難色を示した。折角の売りを前面に出せないのは取材等を受けた際の足枷あしかせになる。よりアピールしなければ本のセールスにも影響が出るからだ。そこでひざ詰めの話し合いを経て、折衷せっちゅう案で折り合いをつけたのである。
 それは候補作止まりなら藤子の提案通り。ただし受賞した場合、大学卒業以降の特筆すべき経歴だけは公表するとの条件だった。この時藤子は受賞など出来るはずが無いと思っていた為、最悪の事態だけは避けられるかもしれないと内心では安堵していたのだ。
 しかし現実は意図しない展開を迎えた。まずは約束通り、候補作が発表された時点で大々的に顔を公にした。すると編集部の目論見通り、一気に注目を浴びてしまったのだ。まず驚いたのは、想像以上にマスコミが藤子の容姿に飛びついた点である。
 一時期美人過ぎる○○と言ったフレーズはあらゆる場面で散見されたが、もう下火になったと思っていた。けれど実際は違ったようだ。
 やはり熱心な読書家達を除けば、滅多に本など読まない多くの人々にとって作家の見た目が良いだけで興味を引くらしい。加えて五十歳手前という年齢が、それに拍車をかけたと思われる。
 その上受賞までしてしまった為、発表された際開かれた記者会見を終えた途端に雑誌の取材等が殺到し、テレビ出演のオファーも多数受けた。よってこれまでの生活が一気に変わった。約束通り一部の経歴を、強制的に語らされたからだ。
 その結果人生の浮き沈みについて同情する者や、共感を抱く人が少なく無かった点も影響したのだろう。作品の中身の良し悪し関係なく、露出が増せば増すほど作品は爆発的に売れたのである。
 瞬く間に有名となった藤子の姿を見て、やはり雄太はどういう想いをしていたのだろうと改めて考えざるをえなかった。
 それまでは自らと同じく独り身で居続けている事情を心配し、さらに無職となったにも関わらず外見を変えて生き方さえ大きく転換し、ある種の引き籠りになった姉を同情していたはずだ。
 そうでなければあのような遺書を残すはずがない。しかし憐れむ必要など無くなったと知ってから、遺書を破棄しようとは思わなかったのだろうか。
 そうした手続きをしようとしていたけれど、何らかのトラブルに巻き込まれし損ねていたのかもしれない。もしそうだったとしたら、やはり遺産は兄と折半した方がいいのだろう。
 それに最初のテレビ出演で偶然にも雄太の死を報じ、コメントする羽目となった。あれが災いとなり、騒ぎは大きくなってしまった。しかも美奈代によって隠したかった一部の過去まで暴露されたのである。
 もし遺産を総取りしようとすれば彼女はまだ隠されている件についても公にし、藤子に対するバッシングをより一層加速させるかもしれない。それくらいの覚悟はしておかなければならないだろう。
 改めて振り返った時、自分の人生は本当にこれで良かったのかと思い悩む。作家になろうなどと安易に考えなければ、このような事態にはならなかったのではないか。そうかえりみるようになった。
 最初は単に自分を変えたかっただけだ。容姿などのコンプレックスを解消し、筆名を名乗ることでまた新たな別人格が持てると夢見ていたに過ぎないのである。 
 そう考えると雄太も同じだったのかもしれない。一時は罪を犯し隠す為だったのかと疑った。だが彼は別名を名乗る事で、同性愛者である渡部亮に生まれ変わろうとしていたのではないだろうか。
 彼の過去を遡った際、そうした形跡は全く見つからなかった。けれどそれは田北や和香達が調査会社に手をまわし、そうした情報を隠していたからだろう。
 ただ恐らく実際ある時期まで、彼は外部に隠して表立った行動を取っていなかったのかもしれない。しかしどうしても我慢できなくなり、素直な自分で生きようとしたのが別名義で生活し始めた五年前だったと思われる。それはあの竜崎との出会いが大きなきっかけとなったのだろう。
 どういう経緯でいつから公安のエスになり、田北達を手伝っていたのかは不明だ。五年前より先だったのか、それともその頃から始めたのか。その点は新たに依頼した別の調査会社による報告を待ち、そこから推測するしかない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

秘められた遺志

しまおか
ミステリー
亡くなった顧客が残した謎のメモ。彼は一体何を託したかったのか!?富裕層専門の資産運用管理アドバイザーの三郷が、顧客の高岳から依頼されていた遺品整理を進める中、不審物を発見。また書斎を探ると暗号めいたメモ魔で見つかり推理していた所、不審物があると通報を受けた顔見知りであるS県警の松ケ根と吉良が訪れ、連行されてしまう。三郷は逮捕されてしまうのか?それとも松ケ根達が問題の真相を無事暴くことができるのか!?

真実の先に見えた笑顔

しまおか
ミステリー
損害保険会社の事務職の英美が働く八階フロアの冷蔵庫から、飲食物が続けて紛失。男性総合職の浦里と元刑事でSC課の賠償主事、三箇の力を借りて問題解決に動き犯人を特定。その過程で着任したばかりの総合職、久我埼の噂が広がる。過去に相性の悪い上司が事故や病気で三人死亡しており、彼は死に神と呼ばれていた。会社内で起こる小さな事件を解決していくうちに、久我埼の上司の死の真相を探り始めた主人公達。果たしてその結末は?

九竜家の秘密

しまおか
ミステリー
【第6回ホラー・ミステリー小説大賞・奨励賞受賞作品】資産家の九竜久宗六十歳が何者かに滅多刺しで殺された。現場はある会社の旧事務所。入室する為に必要なカードキーを持つ三人が容疑者として浮上。その内アリバイが曖昧な女性も三郷を、障害者で特殊能力を持つ強面な県警刑事課の松ヶ根とチャラキャラを演じる所轄刑事の吉良が事情聴取を行う。三郷は五十一歳だがアラサーに見紛う異形の主。さらに訳ありの才女で言葉巧みに何かを隠す彼女に吉良達は翻弄される。密室とも呼ぶべき場所で殺されたこと等から捜査は難航。多額の遺産を相続する人物達やカードキーを持つ人物による共犯が疑われる。やがて次期社長に就任した五十八歳の敏子夫人が海外から戻らないまま、久宗の葬儀が行われた。そうして徐々に九竜家における秘密が明らかになり、松ヶ根達は真実に辿り着く。だがその結末は意外なものだった。

ARIA(アリア)

残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……

マクデブルクの半球

ナコイトオル
ミステリー
ある夜、電話がかかってきた。ただそれだけの、はずだった。 高校時代、自分と折り合いの付かなかった優等生からの唐突な電話。それが全てのはじまりだった。 電話をかけたのとほぼ同時刻、何者かに突き落とされ意識不明となった青年コウと、そんな彼と昔折り合いを付けることが出来なかった、容疑者となった女、ユキ。どうしてこうなったのかを調べていく内に、コウを突き落とした容疑者はどんどんと増えてきてしまう─── 「犯人を探そう。出来れば、彼が目を覚ますまでに」 自他共に認める在宅ストーカーを相棒に、誰かのために進む、犯人探し。

【完結】Amnesia(アムネシア)~カフェ「時遊館」に現れた美しい青年は記憶を失っていた~

紫紺
ミステリー
郊外の人気カフェ、『時游館』のマスター航留は、ある日美しい青年と出会う。彼は自分が誰かも全て忘れてしまう記憶喪失を患っていた。 行きがかり上、面倒を見ることになったのが……。 ※「Amnesia」は医学用語で、一般的には「記憶喪失」のことを指します。

泉田高校放課後事件禄

野村だんだら
ミステリー
連作短編形式の長編小説。人の死なないミステリです。 田舎にある泉田高校を舞台に、ちょっとした事件や謎を主人公の稲富くんが解き明かしていきます。 【第32回前期ファンタジア大賞一次選考通過作品を手直しした物になります】

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...