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第四章~⑤
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そこで藤子はやっと外へ出られた。場所は予想通り家の敷地だ。外から眺めると、やはり先程までいたのは物置だった。しかし一見すると何の変哲もない、庭付きの家ならよく見かけるものだ。
まさかトイレの天井からこんな場所へ出て来られる通路があるなんて、誰も思わないだろう。やはり雄太も竜崎と同じく、万が一に備えての避難経路を確保しなければならなかったに違いない。つまりそのような特殊任務に関わっていた証拠だった。
改めて物置を探る。だが中は綺麗に片付けられていた。以前は何か色々置かれていた形跡があったものの、最近片づけられたようだ。そこで考えた。これは雄太が処分したのか。それとも死んだと知り、彼を雇っていた公安の誰かが片づけたのだろうかと気になった。
そこでふと別の疑問に思い当たり周りを見渡す。物置は家の表玄関から真裏にあたる庭へ設置されている。両隣や裏の家とは、高さ百八十センチ程度のコンクリートの壁で囲まれていた。
家の方を振り向くと、一階の居間が覗き見える大きな窓があった。家は敷地の真ん中に立っていて、右側からも左側からも表へ出られるようになっていた。つまり庭がロの字の形になっている。
これは奇妙だ。そう思った藤子は、まだ節々が痛む体を引きずり再度家の中に入った。そこでもう一度、隠し扉がないか探し始めたのである。
あの場所だと竜崎の部屋を訪れた時のように、家の前と後ろを見張られた状態だと逃げられないからだ。もしもの事態に備えるなら、敵に家を取り囲まれた状況を考え遠く離れた出口がなければおかしい。
しかし先程は畳まで剥がした。他にまだ見ていない場所はあっただろうか。そう思いつつ、徹底的に探したが見つからない。その為見落とした所があるはずだと、改めて最初から探し始めた。
三度目は、あるかどうか半信半疑だった時とは違う。確実にあるとの確信を持って探した。よってこんな所には無いだろう、との先入観を全て捨てられた。人目を避けて隠すにはどうすれば最適かを頭に入れ、目を皿のようにして捜索したのである。
すると最初は気付かなかったけれど、押し入れの下の部分の板を打ち付けた釘が、他の部分と違って新しい事に気付いた。
そこで確か家探ししている最中に大工道具を見かけたと思い出し、釘抜きがあるかを確認すると見つかった。それを使い抜いて剥がすと、人一人が通り抜けられる穴を見つけた。ここだ。間違いない。
確信をもって足から入り潜り込むと、横穴にぶつかった。少し広くなっていたので、態勢を入れ替え道なりに進む。するとまた上へと続く通路を発見した。足場があった為それを使って昇ると、再び板にぶつかる。
それを押しのけると、見覚えのある薄暗い空間があった。ライトの光を当てると、広さや目の前にある壁の材質から押し入れだと分かった。
引き戸を開ければ、そこは畳が敷かれた和室だった。ただ明らかにここは雄太の家とは違う。窓の全てにカーテンがかかり、雨戸も閉められていたので中は暗い。静かに部屋を歩き回り他の部屋へと続く扉を開けてしばらく探索したところ、空き家になっているのだと理解した。
埃が溜まっている状態から、しばらくここには誰も出入りした様子が無いと思われる。そこで台所のすりガラスが入った小さな窓の鍵を捻って開け外を覗く。ここは一体どこなのかを確認する為だ。
直ぐには分からなかったが、しばらく見ている間にどうやら雄太の家の裏にある家だと気付いた。やはりここがもしもの為に使う逃げ道だったのだと理解する。トイレの天井を通る通路は、おそらくダミーまたは別の用途で使用していたのだろう。
もう一度穴を通って戻り、念の為他にもあるか一日中探し回ったが発見できなかった。しかしこれで竜崎の言葉に信ぴょう性があり、和香達が疑わしくまた田北も怪しいと結論付ける。その為藤子は新たに生まれた疑問を晴らすべく、翌日法務局に向かった。
手数料は取られるが、土地の登記簿謄本は誰でも確認できるからだ。そこで雄太の裏の家の持ち主を探った。
するとそこには、雄太でも別名の渡部でもない北野という初めて聞く名が記されていると判明したのだ。おそらくこれは公安が用意した別人の名義なのではないか。そう予想を立てた。
さらにもう一つの問題を解決する為、これまで依頼した所とは別の調査事務所に飛び込み、江口という人物に依頼を持ち込んだ。今まで調査報告書を作成した沼橋も、信用できないと判断した為である。
その理由は和香の素性を調べさせた際、養護施設で育ったとまで調べたにも拘らず、彼女の本名が井尻であり、また兄がいるとの報告はされなかったからだ。他にも雄太が同性愛者だと知りながら、隠していた形跡も見受けられる。
それらを総合し推測すれば答えは明らかだろう。彼は兄や美奈代が雇ったリサーチ会社の人間だ。よって最初からだったのか、それとも途中のどの時点からかは分からない。けれど公安の圧力がかかり、嘘の調査書を作成したか彼自身も公安と繋がっていると思われた。
江口に調べて貰う内容は、裏の家の持ち主である北野という人物についてと、これまで沼橋が調べてきた調査報告書を渡し、事実かどうかを確かめて貰うことである。
さらには竜崎が口にした和香と川村の本名だという、井尻薫と井尻晶という名の人物についての調査もお願いした。
藤子が今の時点で打てる手はこれぐらいだろう。後は調査結果が出るのを待ち、また放棄期限までにどう結論付けるか、改めて考えるしかなかった。
雄太が別名義を使っていた理由から推測すれば、罪を犯して金儲けしていたとは考え難い。それなら公安のエスにはなれないだろう。それどころか定期的に協力費を受け取っていたはずだ。
実生活ではそれなりの給与を貰って働き稼いでいた。堅実で質素な生活をしていたのも事実だろう。それで独身だったのだから、あれほどのお金を貯蓄できたに違いない。
その中には警察から貰った協力金もあるだろうが、大した金額ではないと思われる。別名義で二重生活していた分や、家にあのような抜け道を作る等の仕掛けを作る為にはお金がかかったはずだ。
恐らくそうした費用は、別名義の口座に振り込まれていた可能性もある。それでも噂だが、警察から払われる金額はそう多く無いと聞いていた。それならば、持ち出し分があってもおかしくない。
それに和香は万が一負の遺産が出てきた場合、責任を持って支払うとまで断言していた。田北が背後にいるのなら、雄太が残したお金に後ろめたいものは含まれていないと考えて間違いないだろう。
そうなると少なくとも雄太名義の遺産については放棄せず、受け取っても良いのかもしれない。ただ問題はその後だ。兄と協議して半々にするかどうか。それとも遺言通り全てを受け取るか、である。
この点についても彼女は気になる言葉を残していた。わざわざ藤子に全財産を残すと遺言を書いた理由が絶対にあるはずとの発言だ。雄太の気持ちを尊重するのなら、受け取るべきとまで断言したのである。
しかもそのお金をどう使えばいいかは、雄太の過去を調べていけばいずれ分かると意味深な理由も仄めかしていた。さらに兄との関係を危惧するなら、どこかへ寄付すればいいとも提案している。
雄太が何らかの活動をしていたのなら、そうした団体等にお金が渡れば意志に反しないと告げたセリフは、一体どういう意味だったのだろう。あの時は雄太が何をしていたのか彼女は知らない前提だった。
しかし今は違う。雄太の正体を知っていたからこそ、藤子をそちらへと導くよう忠告したに違いない。それによく考えれば、何らかの活動をしていてその団体に寄付する意思があったのなら、遺書にそう残して置けば済むはずだ。
そうしなかった理由があるのか、それとも遺書を書いた後にそうした活動を始め、書き直す前に亡くなってしまったのだろうか。彼女はどこまで雄太の行動を把握していたのだろう。
詳しく知りたいところだが、あの様子では口を割ると思えない。それならやはり独自に調べるしかなかった。
まだ雄太の過去を探る旅の終わりが見えない。しかしこれまでとはかなり意味合いが変わりつつある。一番大きい収穫は、別名義を名乗っていた理由が判明した点だ。
今度は何故彼が、どういう過程を経て公安のエスになったのか。またあのような遺書を残した理由は何か。裏でどのような活動をしていたか。和香が口にした団体とは何を指すのか。それらの疑問が解決すれば、今後藤子が取るべき行動は自ずと見えてくるだろう。
それにしても腹立たしい。和香達に騙されたのは事実だ。雄太の過去を辿る振りをして、竜崎の元へ誘導させたのも間違いない。
だがそこでもし竜崎の言う通り、雄太が彼らを裏切ったとしたのなら奇妙だと気付く。彼の部屋を訪問した際、雄太や和香達の正体を口走ると予期できなかったなんて考え難いからだ。それ程公安が愚かなはずはないだろう。
だったら何故面倒な方法を使ってまで、藤子を竜崎に会わせる必要があったのか。そう疑問を持った時、もしかすると藤子が芥山賞作家となり一躍有名になった事と関係があるのではないかと疑った。
その上雄太の死がニュースで流れた時、偶然にもその件について藤子はコメントをした。それを利用すれば世間に大きく騒がれる。もしかすると田北はその効果を狙ったのではないのか。
つまり最初から、ある程度事件が公になる覚悟をしていたと考えるのが妥当だろう。では何故そうしなければならなかったのか。そこに今回の事件の鍵が隠されている。藤子はそう確信を持った。
新人賞を受賞し雄太がお祝いの連絡をくれた後の、目まぐるしい半年間の出来事を藤子は振り返ってみた。
本来なら顔を晒すのは、基本的に新人賞受賞時の一度だけという取り決めだった。その後は出来る限り露出を避けると申し合わせをしていた。それが災いしたらしい。顔出しNGやプロフィールを隠すなら、SNSを使った情報発信は積極的に行うようせっつかれた。
初めてついた担当編集者の中川は、険しい表情をして言った。
「今の時代は有名作家でさえ、握手会や書店回りのような営業活動をしなければ生き残れないくらい厳しい世界です。でも顔出しが駄目ならそれも出来ませんよね。だったらSNSは必須です。日頃の些細な出来事を書いたり、写真で日常生活を覗かせたりして興味を引きながらフォロワー数を伸ばして頂かないと。その上で本の宣伝をし、サイン本を置いて貰えるよう書店の人達にお願いして欲しいのです」
藤子の容姿等を大々的に利用しようとしていた、当初の思惑が外れたからでもあるのだろう。また新人のくせに営業活動を制限するような条件を出すこと自体、気に食わなかったと思われる。明らかに不機嫌で、わざとぶっきらぼうな態度を取っているのかと感じるほど扱いは酷かった。
しかも子供を産んでいたら娘と呼んでもおかしくない、以前いた会社なら小娘扱いしていただろう担当者に、だ。このような人とこれから一緒にやっていけるのだろうか、正直不安に感じていた。
自分が真剣に紡いだ作品を評価されたのは純粋に嬉しかった。賞金という対価も生まれ、その後書き続けられれば無職では無くなる。生産性が無いと非難される生活からも解放されると、正直安堵していた部分もあった。
けれど元々プロになると意気込んでいた訳ではない。そうなろうと必死な思いで書き続け、応募している人達には怒られるかもしれないが、大した覚悟を持っていなかったのは事実だ。
それに中川が言う通り、今はそう簡単に本が売れる時代ではなかった。だったら尚更、自分の性に合わない努力をして無駄に足掻いても生きていけないのではないか。
それならばこの場は適当に頷いて過ごそう。その上で既に指示を受けている、受賞作を単行本として出版するに当たっての加筆修正と次作の執筆に向けて努力すればいい。そう割り切っていたのだ。
新人賞を受賞し文芸誌に掲載される前も一度校正を受けた上で、簡単な手直しはしている。だが六月に本として出版が予定されている為、それまでに更なる改稿が必要だと告げられていた。
直しが商品として通用する水準に達したと編集で納得できなければ、どんどん後ろにずれる。受賞した場合の必須条件でない為、最悪の場合は出版されないとまで脅されたのだ。
しかしその時はその時だと藤子は楽観視していた。例え出版が決まっても作品が売れず営業努力が足りないと罵倒されるようなら、いくら次作を書き上げてもボツをくらい続けるに違いない。
二作目が出ないまま消えていく作家はいくらでもいる。そうなればプロ作家として生きる道は諦めるしかない。そんな心持ちだったのだ。
けれど受賞作が芥山賞の最終候補作に残ったと十一月中旬に連絡があり、事態は大きく動いた。想像すらしていなかった出来事が起こり、当惑する藤子以上に中川や編集部は大騒ぎし始めた。
新人賞受賞作がいきなり候補に挙がる前例はこれまでもあり、受賞するケースだって多少なりともある。
ただそれほど多くない為、出版社にとっては大きなチャンスだったからだろう。既に雑誌で全文掲載されている作品を改めて本として出版しても、純文学のジャンルではそう大した売り上げは見込めない。
だが芥山賞ノミネート作となれば、状況は桁外れに違ってくる。その為中川は編集長を同席させ、今後の営業展開に向けて話し始めた。
まずは芥山賞候補作の五作品に残ったと世間に公表されるのは来月の中旬で、受賞作の発表はさらにその一ヶ月後だと告げられた。また来月発表があるまでSNS上はもちろん、誰にも口外しないよう注意を受ける。
そうした説明をした上で、最初に切り出したのは中川だった。
「ただ受賞作発表までの二か月間、私達は様々な準備が必要です。まず本の出版は、最速でも六月の予定でした。それを前倒ししなければなりません。よって依頼していた推敲は最低限に抑え、出来るだけ早く印刷に回します。ですからいま白井さんにお渡ししているゲラの加筆修正を早期に終わらせ、戻してください」
とりあえず頷いてはみたものの、藤子は頭の中で首を傾げた。それだけの用件なら電話でも良かったはずだ。時間が無いのならわざわざ呼び出す必要もない。
そう思っていると、事の重大さに気付いていないとでも思ったのか声高に言った。
「今言っている事がどれだけすごいか分かっていますか」
「一応、理解しているつもりです。芥山賞の発表が一月半ばですから、出来るだけ早く本を出版しなければならないのですよね」
そう答えると、彼女は同じ熱量に達しない藤子に焦れたのか熱く語り出した。
「そうです。候補作の発表までに間に合わせるのはいくらなんでも無理でしょうが、少なくとも受賞発表の一月までには、ノミネートされた本として書店に並べなければなりません。選考会が近づくにつれ、どの候補作が受賞するか周囲は関心を持ち始め、マスコミも取り上げ始めます。その時点で本があれば、手に取って読みたいと思う人が出てくるでしょう。それにもし受賞でもすれば、売り上げは当初の予定より相当期待できます。だから少しでも早い出版が求められているのです。間を置けば、折角のビジネスチャンスを逃しかねません。例え受賞できなくても、最終候補作品として注目は浴びるでしょう。選考委員による講評にもよりますが、その後大ヒットする可能性だってあり得ますからね。いえ、ヒット位でもこのジャンルなら十分です」
興奮して話す傍らで、編集長は静かに藤子を見つめていた。その表情は比較的柔らかかったけれど、目が笑っていない。だからとても不気味だった。
結局何を伝える為に呼んだのか真意を測りかねながら頷いた藤子だったが、次の言葉でようやくこの場を設けた意味を理解した。
まさかトイレの天井からこんな場所へ出て来られる通路があるなんて、誰も思わないだろう。やはり雄太も竜崎と同じく、万が一に備えての避難経路を確保しなければならなかったに違いない。つまりそのような特殊任務に関わっていた証拠だった。
改めて物置を探る。だが中は綺麗に片付けられていた。以前は何か色々置かれていた形跡があったものの、最近片づけられたようだ。そこで考えた。これは雄太が処分したのか。それとも死んだと知り、彼を雇っていた公安の誰かが片づけたのだろうかと気になった。
そこでふと別の疑問に思い当たり周りを見渡す。物置は家の表玄関から真裏にあたる庭へ設置されている。両隣や裏の家とは、高さ百八十センチ程度のコンクリートの壁で囲まれていた。
家の方を振り向くと、一階の居間が覗き見える大きな窓があった。家は敷地の真ん中に立っていて、右側からも左側からも表へ出られるようになっていた。つまり庭がロの字の形になっている。
これは奇妙だ。そう思った藤子は、まだ節々が痛む体を引きずり再度家の中に入った。そこでもう一度、隠し扉がないか探し始めたのである。
あの場所だと竜崎の部屋を訪れた時のように、家の前と後ろを見張られた状態だと逃げられないからだ。もしもの事態に備えるなら、敵に家を取り囲まれた状況を考え遠く離れた出口がなければおかしい。
しかし先程は畳まで剥がした。他にまだ見ていない場所はあっただろうか。そう思いつつ、徹底的に探したが見つからない。その為見落とした所があるはずだと、改めて最初から探し始めた。
三度目は、あるかどうか半信半疑だった時とは違う。確実にあるとの確信を持って探した。よってこんな所には無いだろう、との先入観を全て捨てられた。人目を避けて隠すにはどうすれば最適かを頭に入れ、目を皿のようにして捜索したのである。
すると最初は気付かなかったけれど、押し入れの下の部分の板を打ち付けた釘が、他の部分と違って新しい事に気付いた。
そこで確か家探ししている最中に大工道具を見かけたと思い出し、釘抜きがあるかを確認すると見つかった。それを使い抜いて剥がすと、人一人が通り抜けられる穴を見つけた。ここだ。間違いない。
確信をもって足から入り潜り込むと、横穴にぶつかった。少し広くなっていたので、態勢を入れ替え道なりに進む。するとまた上へと続く通路を発見した。足場があった為それを使って昇ると、再び板にぶつかる。
それを押しのけると、見覚えのある薄暗い空間があった。ライトの光を当てると、広さや目の前にある壁の材質から押し入れだと分かった。
引き戸を開ければ、そこは畳が敷かれた和室だった。ただ明らかにここは雄太の家とは違う。窓の全てにカーテンがかかり、雨戸も閉められていたので中は暗い。静かに部屋を歩き回り他の部屋へと続く扉を開けてしばらく探索したところ、空き家になっているのだと理解した。
埃が溜まっている状態から、しばらくここには誰も出入りした様子が無いと思われる。そこで台所のすりガラスが入った小さな窓の鍵を捻って開け外を覗く。ここは一体どこなのかを確認する為だ。
直ぐには分からなかったが、しばらく見ている間にどうやら雄太の家の裏にある家だと気付いた。やはりここがもしもの為に使う逃げ道だったのだと理解する。トイレの天井を通る通路は、おそらくダミーまたは別の用途で使用していたのだろう。
もう一度穴を通って戻り、念の為他にもあるか一日中探し回ったが発見できなかった。しかしこれで竜崎の言葉に信ぴょう性があり、和香達が疑わしくまた田北も怪しいと結論付ける。その為藤子は新たに生まれた疑問を晴らすべく、翌日法務局に向かった。
手数料は取られるが、土地の登記簿謄本は誰でも確認できるからだ。そこで雄太の裏の家の持ち主を探った。
するとそこには、雄太でも別名の渡部でもない北野という初めて聞く名が記されていると判明したのだ。おそらくこれは公安が用意した別人の名義なのではないか。そう予想を立てた。
さらにもう一つの問題を解決する為、これまで依頼した所とは別の調査事務所に飛び込み、江口という人物に依頼を持ち込んだ。今まで調査報告書を作成した沼橋も、信用できないと判断した為である。
その理由は和香の素性を調べさせた際、養護施設で育ったとまで調べたにも拘らず、彼女の本名が井尻であり、また兄がいるとの報告はされなかったからだ。他にも雄太が同性愛者だと知りながら、隠していた形跡も見受けられる。
それらを総合し推測すれば答えは明らかだろう。彼は兄や美奈代が雇ったリサーチ会社の人間だ。よって最初からだったのか、それとも途中のどの時点からかは分からない。けれど公安の圧力がかかり、嘘の調査書を作成したか彼自身も公安と繋がっていると思われた。
江口に調べて貰う内容は、裏の家の持ち主である北野という人物についてと、これまで沼橋が調べてきた調査報告書を渡し、事実かどうかを確かめて貰うことである。
さらには竜崎が口にした和香と川村の本名だという、井尻薫と井尻晶という名の人物についての調査もお願いした。
藤子が今の時点で打てる手はこれぐらいだろう。後は調査結果が出るのを待ち、また放棄期限までにどう結論付けるか、改めて考えるしかなかった。
雄太が別名義を使っていた理由から推測すれば、罪を犯して金儲けしていたとは考え難い。それなら公安のエスにはなれないだろう。それどころか定期的に協力費を受け取っていたはずだ。
実生活ではそれなりの給与を貰って働き稼いでいた。堅実で質素な生活をしていたのも事実だろう。それで独身だったのだから、あれほどのお金を貯蓄できたに違いない。
その中には警察から貰った協力金もあるだろうが、大した金額ではないと思われる。別名義で二重生活していた分や、家にあのような抜け道を作る等の仕掛けを作る為にはお金がかかったはずだ。
恐らくそうした費用は、別名義の口座に振り込まれていた可能性もある。それでも噂だが、警察から払われる金額はそう多く無いと聞いていた。それならば、持ち出し分があってもおかしくない。
それに和香は万が一負の遺産が出てきた場合、責任を持って支払うとまで断言していた。田北が背後にいるのなら、雄太が残したお金に後ろめたいものは含まれていないと考えて間違いないだろう。
そうなると少なくとも雄太名義の遺産については放棄せず、受け取っても良いのかもしれない。ただ問題はその後だ。兄と協議して半々にするかどうか。それとも遺言通り全てを受け取るか、である。
この点についても彼女は気になる言葉を残していた。わざわざ藤子に全財産を残すと遺言を書いた理由が絶対にあるはずとの発言だ。雄太の気持ちを尊重するのなら、受け取るべきとまで断言したのである。
しかもそのお金をどう使えばいいかは、雄太の過去を調べていけばいずれ分かると意味深な理由も仄めかしていた。さらに兄との関係を危惧するなら、どこかへ寄付すればいいとも提案している。
雄太が何らかの活動をしていたのなら、そうした団体等にお金が渡れば意志に反しないと告げたセリフは、一体どういう意味だったのだろう。あの時は雄太が何をしていたのか彼女は知らない前提だった。
しかし今は違う。雄太の正体を知っていたからこそ、藤子をそちらへと導くよう忠告したに違いない。それによく考えれば、何らかの活動をしていてその団体に寄付する意思があったのなら、遺書にそう残して置けば済むはずだ。
そうしなかった理由があるのか、それとも遺書を書いた後にそうした活動を始め、書き直す前に亡くなってしまったのだろうか。彼女はどこまで雄太の行動を把握していたのだろう。
詳しく知りたいところだが、あの様子では口を割ると思えない。それならやはり独自に調べるしかなかった。
まだ雄太の過去を探る旅の終わりが見えない。しかしこれまでとはかなり意味合いが変わりつつある。一番大きい収穫は、別名義を名乗っていた理由が判明した点だ。
今度は何故彼が、どういう過程を経て公安のエスになったのか。またあのような遺書を残した理由は何か。裏でどのような活動をしていたか。和香が口にした団体とは何を指すのか。それらの疑問が解決すれば、今後藤子が取るべき行動は自ずと見えてくるだろう。
それにしても腹立たしい。和香達に騙されたのは事実だ。雄太の過去を辿る振りをして、竜崎の元へ誘導させたのも間違いない。
だがそこでもし竜崎の言う通り、雄太が彼らを裏切ったとしたのなら奇妙だと気付く。彼の部屋を訪問した際、雄太や和香達の正体を口走ると予期できなかったなんて考え難いからだ。それ程公安が愚かなはずはないだろう。
だったら何故面倒な方法を使ってまで、藤子を竜崎に会わせる必要があったのか。そう疑問を持った時、もしかすると藤子が芥山賞作家となり一躍有名になった事と関係があるのではないかと疑った。
その上雄太の死がニュースで流れた時、偶然にもその件について藤子はコメントをした。それを利用すれば世間に大きく騒がれる。もしかすると田北はその効果を狙ったのではないのか。
つまり最初から、ある程度事件が公になる覚悟をしていたと考えるのが妥当だろう。では何故そうしなければならなかったのか。そこに今回の事件の鍵が隠されている。藤子はそう確信を持った。
新人賞を受賞し雄太がお祝いの連絡をくれた後の、目まぐるしい半年間の出来事を藤子は振り返ってみた。
本来なら顔を晒すのは、基本的に新人賞受賞時の一度だけという取り決めだった。その後は出来る限り露出を避けると申し合わせをしていた。それが災いしたらしい。顔出しNGやプロフィールを隠すなら、SNSを使った情報発信は積極的に行うようせっつかれた。
初めてついた担当編集者の中川は、険しい表情をして言った。
「今の時代は有名作家でさえ、握手会や書店回りのような営業活動をしなければ生き残れないくらい厳しい世界です。でも顔出しが駄目ならそれも出来ませんよね。だったらSNSは必須です。日頃の些細な出来事を書いたり、写真で日常生活を覗かせたりして興味を引きながらフォロワー数を伸ばして頂かないと。その上で本の宣伝をし、サイン本を置いて貰えるよう書店の人達にお願いして欲しいのです」
藤子の容姿等を大々的に利用しようとしていた、当初の思惑が外れたからでもあるのだろう。また新人のくせに営業活動を制限するような条件を出すこと自体、気に食わなかったと思われる。明らかに不機嫌で、わざとぶっきらぼうな態度を取っているのかと感じるほど扱いは酷かった。
しかも子供を産んでいたら娘と呼んでもおかしくない、以前いた会社なら小娘扱いしていただろう担当者に、だ。このような人とこれから一緒にやっていけるのだろうか、正直不安に感じていた。
自分が真剣に紡いだ作品を評価されたのは純粋に嬉しかった。賞金という対価も生まれ、その後書き続けられれば無職では無くなる。生産性が無いと非難される生活からも解放されると、正直安堵していた部分もあった。
けれど元々プロになると意気込んでいた訳ではない。そうなろうと必死な思いで書き続け、応募している人達には怒られるかもしれないが、大した覚悟を持っていなかったのは事実だ。
それに中川が言う通り、今はそう簡単に本が売れる時代ではなかった。だったら尚更、自分の性に合わない努力をして無駄に足掻いても生きていけないのではないか。
それならばこの場は適当に頷いて過ごそう。その上で既に指示を受けている、受賞作を単行本として出版するに当たっての加筆修正と次作の執筆に向けて努力すればいい。そう割り切っていたのだ。
新人賞を受賞し文芸誌に掲載される前も一度校正を受けた上で、簡単な手直しはしている。だが六月に本として出版が予定されている為、それまでに更なる改稿が必要だと告げられていた。
直しが商品として通用する水準に達したと編集で納得できなければ、どんどん後ろにずれる。受賞した場合の必須条件でない為、最悪の場合は出版されないとまで脅されたのだ。
しかしその時はその時だと藤子は楽観視していた。例え出版が決まっても作品が売れず営業努力が足りないと罵倒されるようなら、いくら次作を書き上げてもボツをくらい続けるに違いない。
二作目が出ないまま消えていく作家はいくらでもいる。そうなればプロ作家として生きる道は諦めるしかない。そんな心持ちだったのだ。
けれど受賞作が芥山賞の最終候補作に残ったと十一月中旬に連絡があり、事態は大きく動いた。想像すらしていなかった出来事が起こり、当惑する藤子以上に中川や編集部は大騒ぎし始めた。
新人賞受賞作がいきなり候補に挙がる前例はこれまでもあり、受賞するケースだって多少なりともある。
ただそれほど多くない為、出版社にとっては大きなチャンスだったからだろう。既に雑誌で全文掲載されている作品を改めて本として出版しても、純文学のジャンルではそう大した売り上げは見込めない。
だが芥山賞ノミネート作となれば、状況は桁外れに違ってくる。その為中川は編集長を同席させ、今後の営業展開に向けて話し始めた。
まずは芥山賞候補作の五作品に残ったと世間に公表されるのは来月の中旬で、受賞作の発表はさらにその一ヶ月後だと告げられた。また来月発表があるまでSNS上はもちろん、誰にも口外しないよう注意を受ける。
そうした説明をした上で、最初に切り出したのは中川だった。
「ただ受賞作発表までの二か月間、私達は様々な準備が必要です。まず本の出版は、最速でも六月の予定でした。それを前倒ししなければなりません。よって依頼していた推敲は最低限に抑え、出来るだけ早く印刷に回します。ですからいま白井さんにお渡ししているゲラの加筆修正を早期に終わらせ、戻してください」
とりあえず頷いてはみたものの、藤子は頭の中で首を傾げた。それだけの用件なら電話でも良かったはずだ。時間が無いのならわざわざ呼び出す必要もない。
そう思っていると、事の重大さに気付いていないとでも思ったのか声高に言った。
「今言っている事がどれだけすごいか分かっていますか」
「一応、理解しているつもりです。芥山賞の発表が一月半ばですから、出来るだけ早く本を出版しなければならないのですよね」
そう答えると、彼女は同じ熱量に達しない藤子に焦れたのか熱く語り出した。
「そうです。候補作の発表までに間に合わせるのはいくらなんでも無理でしょうが、少なくとも受賞発表の一月までには、ノミネートされた本として書店に並べなければなりません。選考会が近づくにつれ、どの候補作が受賞するか周囲は関心を持ち始め、マスコミも取り上げ始めます。その時点で本があれば、手に取って読みたいと思う人が出てくるでしょう。それにもし受賞でもすれば、売り上げは当初の予定より相当期待できます。だから少しでも早い出版が求められているのです。間を置けば、折角のビジネスチャンスを逃しかねません。例え受賞できなくても、最終候補作品として注目は浴びるでしょう。選考委員による講評にもよりますが、その後大ヒットする可能性だってあり得ますからね。いえ、ヒット位でもこのジャンルなら十分です」
興奮して話す傍らで、編集長は静かに藤子を見つめていた。その表情は比較的柔らかかったけれど、目が笑っていない。だからとても不気味だった。
結局何を伝える為に呼んだのか真意を測りかねながら頷いた藤子だったが、次の言葉でようやくこの場を設けた意味を理解した。
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二〇二五年九月七日。日本の研究者・橘紀之氏により、死後の世界――天国が科学的に証明された。
天国と繋がる事のできる装置――天国交信装置が発表されたのだ。その装置は世界中に広がりを見せた。
天国交信装置は天国と繋がった時点で、言葉に出来ないほどの開放感と快感を得られ、天国にいる者達との会話も可能である。亡くなった親しい友人や家族を呼ぶ者もいれば、中には過去の偉人を呼び出したり、宗教で名立たる者を呼んで話を聞いた者もいたもののいずれも彼らはその後に、自殺している。
世界中で自殺という死の連鎖が広がりつつあった。各国の政府は早々に動き出し、天国教団と名乗る団体との衝突も見られた。
この事件は天国事件と呼ばれ、その日から世界での最も多い死因は自殺となった。
そんな中、日本では特務という天国関連について担当する組織が実に早い段階で結成された。
事件から四年後、特務に所属する多比良圭介は部下と共にとある集団自殺事件の現場へと出向いた。
その現場で『heaven』という文字を発見し、天国交信装置にも同じ文字が書かれていた事から、彼は平輪市で何かが起きる気配を感じる。
すると現場の近くでは不審人物が保護されたとの報告がされる。その人物は、天国事件以降、否定される存在となった霊能力者であった。彼女曰く、集団自殺事件がこの近くで起こり、その幽霊が見えるという――
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果たして、彼らは村の呪いを解き明かし、失踪事件の真相に辿り着けるのか?そして、彼らの友情と恋心は試される。緊迫感あふれる謎解きと心理的恐怖が交錯する本格推理小説。
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