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しまおか

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第三章~③

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 だがうつ病に罹り心身共に疲れ果ていたのだと気付かされた時点で、相当無理をしていたと心の底から考えられるようになった。早期に会社を辞めたのも、積極的にストレスと感じるものは少しでも減らそうとした結果だった。
 引っ越し先のマンションも、騒音や子供の姿に悩まされ無いようにとDINKSディンクス向け、いわゆる夫婦共働きだが子供のいない世帯を対象とした分譲型賃貸で、さらには最上階の角部屋を必死に探したのはその一環だ。
 しかし世の中では差別とされる為、おおっぴらに子供禁止とは謳えないらしい。せいぜい単身者のみ、またはDINKS向けとやんわり表示するしかないという。それでも子供を産んで住み続ける人達がいた。
 それに他の入居者を選ぶ事は無理だ。そうなるとできるだけ接点の少ない部屋を選ぶしかない。それが最上階の角部屋を指定し、比較的壁の防音がしっかりしている分譲型賃貸を条件にした理由だ。
 それならいっそ、一戸建てや分譲マンションを買えばいいと考えた時期もある。だがそうなると近所付き合い等が生じる。その上煩い住民が周囲にいた際、そう簡単に引っ越せないので止めたのだ。
 働いていた頃はマンションなんてただ寝るだけの部屋であり、休日でもゆっくり過ごす場所などと考えていなかった。社宅はほぼ会社にここと決められた部屋に住むのが当たり前で、頓着できなかったせいもある。またほとんど家にはいないし、転勤族で独身だった為に周囲の住民達との付き合いも全くなかった。
 しかし会社を休んでいた時や休職して一日中家にいるようになってからは、こんなに音がするのかと驚いたものだ。これでは自宅療養にならない。それで社宅から早く出なければと思ったのも、退職を早めた理由の一つだった。
 藤子が求める条件が厳しい為に選択肢はかなり少なく、賃料だってもちろん高めとなった。だがお金である程度解決できるものには、ケチらずに使おうと決めていた。
 その結果、通勤を考慮に入れる必要が無かった点と、必ずしも東京に拘らなくて良かったからだろう。元々最後の赴任地が大宮だった事もあり、都合よく関東圏で良い物件に巡り合えたのだ。
 生活に罹る家計は分類すると、食費、日用品、医療費、固定費、交通費、交際費、美容費、娯楽費、その他特別費等が挙げられる。この中で人より多めなのは、住居費が含まれる固定費と医療費くらいだ。療養中の時だと、交通費や交際費、娯楽費はほぼ必要ない。 
 よってその分を住居費に回すことでバランスを取っていた。食費や日用品だってそれ程こだわりが無かった為に、大きな割合を占める事も無い。さらに働いていた時でさえ、衣類代や美容院代等に余りお金をかけてこなかった。靴や体に身に着ける物もかなり少ない方だろう。
 といって全く頓着が無かった訳ではない。社会人として最低限の身だしなみを整えた上で、ブランド品のような高級品の使用はできるだけ避けてきた。取引先の人達よりずっと高給取りだった為、わざわざ嫉妬を産む行為など出来なかったからだ。よって極力低価格かつ品質の高い物を選んでいたのである。
 これも自分を守る行為だったが、それはそれで
「私達よりずっと稼いでいるんだから、もっと良い商品を使えばいいのに。だから垢抜あかぬけないんだよな」
「ただ単にケチなだけだろう。それに何をしても効果ないでしょ」
等と悪態をつかれるのだ。どちらにしても貶されるのであれば、後者の方がマシだと考えていた。
 けれど退職後はそうした雑音から解放され、見知った人と会う機会も殆どなくなった。そうした環境が、これまで抑圧してきた綺麗になりたいとの美への欲求や、本来持っていた嗜好を目覚めさせたのである。
 うつ病の治療中の過ごし方としては、まず規則的な生活リズムを作る事だという。午前中に日光を浴びて体内時計を整え、無理のない範囲で散歩等により体を動かすのが良いと言われた。さらに音楽等で気持ちが楽になるような行動を生活の中に取り入れ、バランスの良い食事を摂るよう意識する必要もあった。
 そこで始めたのが、体調の良い時は午前中から外出しエステ等に通い、美容やダイエットに効果があるとされるあらゆるものを試す行為だった。ほとんどやってこなかった自炊も始め、健康食を取り入れた品々を作った。それがストレス解消に役立つと考えたからだ。
 これは徐々に成果が出た。体重を無理なく減少させ、気にしていた顔の膨らみを無くし、化粧の仕方をきっちり勉強したからだろう。ほっそりとした体形になり、鏡を見ても端正な容貌に日々変化していく自分を見ることがなにより楽しくなった。
 そうした自信が精神的に余裕を生み出し、療養にも効果があったと思われる。そこで思い切った手術もできるまでになったのである。藤子はこうして大きく生まれ変われたのだ。
 しかし体調が回復してくれば元々の性格なのか、何もしないでいる状況から脱したいと考えるようにもなった。といって四十半ばになり、どこかで再就職する気までは起こらなかった。職種にもよるが、採用される可能性も現実を考えれば難しいと分かっていたからだ。それに働く事でまたストレスを溜めれば、再発どころか重症化しかねない恐れもある。
 それなら無理する必要はない。そう考え、集中力を保ち知識を得たり想像力を働かせたりするのに有効な読書を自宅内療養として始めた。元々好きだったので、気付けばかなりの時間を費やすようになっていった。
 そうして月に何十冊と読み続けている内、自分でも書いてみようと考えるようになったのだ。時間は余るほどあったからだろう。そこで藤子は純文学小説を書き始めたのである。
 また何か目標が無いと、書いているだけではつまらないと感じだした。それがのちに新人賞に応募し始めるきっかけとなる。自分の綴った物語は他人が読んだら面白いと思うのか、どう感じるのかと評価が気になったのも要因ではあった。
 だが他にも理由があったのだ。小説を書く場合、本名ではなく筆名で応募する人の割合が圧倒的に多い。自分の名を嫌っていた藤子は、別名に憧れを抱いた点も大きな要素となった事は間違いない。
 本格的に執筆を始め、年間計画を立てて投稿生活に没頭していた頃はとても幸せだった。もちろん真剣に物語を創ろうとしていたので、生みの苦しみも十分味わっている。一次落ちを繰り返す等結果が伴わず頭を悩ませたり、最終候補まで残りながらも講評で散々叩かれたりして、心が折れそうになるほどへこんだ経験もした。
 それでも新人賞を受賞するまでの正味四年間は、孤独な時間を過ごしつつ心身の健康を取り戻す為にとても有意義だったと思う。人によっては何の生産性も無い、と非難されかねない生活だったかもしれない。けれど藤子にとっては生きている幸せを噛み締められた、何物にも代えがたい貴重で贅沢な時間だったと断言できる。
 しかし問題だったのは、小説家になった後の生活を具体的に想像していなかった点だろう。その上表舞台に立つ覚悟が無いままデビューしたのも、今思えば大きな誤りだった。新人賞を獲っても、小説家として生き乗れるのはほんの少人数でしかないと知識では持っていた。ましてや純文学作家など、それだけで簡単に生きていける訳もない。
 さらに世間の人々から名前を憶えられるようになるまで、相応の年月がかかるとの認識もあった。厳しい現実を把握していたからこそ自分が生き残れる等と楽観視できず、だから小説を書いていることは誰にも言わず、入賞した時でさえ隠していたのだ。
 それを雄太が気付き、兄達に知らせた程度で済んでいればどれだけ良かっただろう。芥山賞の存在や影響力は良く理解していたからこそ、自分には縁がないものだと思い込んでいたのが甘かった。
 そのせいでいきなり人には見せたくなかった顔を全国に晒し、有名作家扱いされてしまったのは全くの誤算だった。自分だけ満足出来れば良かった容姿を、意図せず他人の前で披露せざるを得なくなった時点で、藤子にとっては災難が始まっていたとも言える。
 名誉ではあったけれど、戸惑いの方が大きかった。体調も改善しつつあったが通院は続けていた。よって正直いえば病歴等を公にしたくなかった。それに醜い姿をしていた過去も隠したいと強く思っていた。だから新人賞を取った際、覆面作家としてやっていけないかと編集者に相談していたのである。
 しかしそれはあえなく却下された。今の時代はそれが通用しないと説明され、それでも嫌だと言うのなら受賞を辞退して貰う、とまで言われたのだ。
 他の新人賞の応募要項の中には受賞後において写真又は動画で撮影することや、それを宣伝行為に利用する点などを承諾するとの条件を謳っているものがあった。けれど文潮堂賞に関してはそうした事前の取り決めが無かった為、応募していたにもかかわらずだ。
 後に知ったが、年齢の割に見栄えの良い藤子の容姿を見た編集者は、受賞すれば経歴等も含め宣伝に使えると計算した結果だったらしい。新人賞の最終候補に残った当時は、まだ新型感染症拡大の余韻が残っていた。その影響もあり、受賞した場合の確認事項を電話だけでなくリモートで行ったからこそ、そうした判断がなされたのだろう。
 その為選考委員の作家達が出した結果を受け、出版不況下において少しでも反響が出るようにと、大きく宣伝を打ちたかったようだ。しかしそれを藤子は、およそ五年引き籠っていた点を言い訳に使い難色を示した。そこで出版社も体調や病歴を考慮してくれたのか、妥協点としてプロフィールは出来るだけ隠すと一度は了承してくれたのである。
 顔写真についても受賞発表する文芸誌に全文掲載する際、一回出すだけに止めると言ってくれた。その後取材等があっても、しばらくは掲載しない約束で折り合いをつけられたのだ。けれども世の中そう思うようには行かないと、その後痛いほど身をもって知ることになる。
 改めて藤子は、雄太に思いを馳せた。
 内緒にしていた新人賞の受賞を知り彼がおめでとうと言ってくれたのは、財産を全額残すと遺書を法務局に預けた一年後だ。あの後瞬く間に有名となっていった姿を見て、彼は心の中でどういう想いをしていたのだろう。独り身であり続け無職になった事に同情していたけれど、そんな必要は無いと考えて遺書を破棄しようとは思わなかったのだろうか。
 七年前まで高学歴で有名企業の総合職として高収入を得ていた藤子は、兄または美奈代と同じく雄太に対し、心のどこかで見下していた。彼がその事に気付いていなかったはずはない。しかし自分が会社に馴染めず無職となり一人になった時、彼の方がより堅実に生きて来たのだろうと初めて羨ましく思ったのだ。 
 それにこれまでの人生を一変させる程変化した藤子の姿を、空港で兄を見送る際に彼は初めて目にした。あの時兄や美奈代ははっきりと嫌悪感をあらわにしていたが、雄太は以前と変わらず、いやそれ以上の態度で接してくれた。さらにその後も心配してくれていたのだ。そう考えると今更ながら己の愚かさを恥じた。
 これまでの調査で、知られざる弟の過去を少しだけ垣間見た。彼も藤子同様別の人生を歩みたかったのかもしれず、それが何かの拍子で手に入れた名義を使っていたのかもしれないと想像してみた。ならばできるだけ彼の遺志を尊重し、折角小説家としての立場を得たのだから、彼が生きた人生を作品に残す為の糧にすべきではないかとも思い始める。
 ただその為には彼の遺産を受け取らなければならない。それはまだ全貌が明らかになっていない、負の遺産や過去をもひっくるめて引き受ける決意がいる。それだけでなく、兄夫婦達との関係を悪化させる覚悟も必要だ。しかし考えて見れば、それも彼の意志だったのではないかと想像を膨らませた。
 美奈代の藤子への嫉妬や軽蔑の眼差しを思い出す。雄太達には三年前、兄がシンガポールへ単身赴任すると聞いて会った際、以前の藤子とは全く異なる容姿を初めて見せ、その経緯も話した。
 自分が心の中で芽生えたように、兄達の取った態度や反応を見た彼は、あの家族と決別すべきだと思ってくれたのかもしれない。だからその翌年に、彼は遺言を残したとも考えられはしないか。
 藤子が一人ホテルに籠りそんな想いを巡らしてばかりいる頃、外の世界では新たな展開を迎えていた。騒がしかったマスコミの風向きが大きく変わったのだ。きっかけは、余りに世間が騒ぎ出したことで、芥山賞選考委員の大物男性作家A氏が苦言を呈した為である。
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