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忘れよう

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「お風呂は入ってくるから、ご飯少し待ってて」
 
母さんはそう言ってチラリと横目で僕を見て、スライド式の扉を閉じた。
「……ずっと、支えてもらったんだ」
 
ハルカさんにもらった言葉の数々は、絶望の奥底で彷徨っていた僕に生きる希望と光を与えてくれた。
 
文脈など気にしている場合ではない。一秒でも早く、ハルカさんに謝罪と感謝を伝えなければ。縁が切れてしまうよりも前にある、ハルカさんが傷ついてしまうということを避けるために、メッセージを送る必要があった。
 
自室に戻り、机の上のスマートフォンを手に取ってSNSを開く。

「……あ」
 
メッセージを書き終えて送信しようとした瞬間、スマートフォンの画面に通知が表示された。ハルカさんの新しい投稿を知らせる通知だ。無意識に指が伸びて、五秒前の投稿を開いてしまった。

「……明日……会うんだ……」
 
ハルカさんの投稿を読み終えた時、目眩が起こって身体がふらついた。
 
明日の仕事帰り、秋葉原で誰かと会うらしい。相手については詳しく書かれていなかったが、現状で思い当たる人物は一人しかいない。
 
二人で横になって並び、秋葉原を歩き回る様子を想像する。美男美女で身長さもちょうどいい、文句の付け所が一切ないお似合いのカップルだ。
 
そこに、僕みたいな地味な人間が介入する余地はなかった。僕なんかには、物陰からひっそりと眺めている脇役がちょうどいい。
 
震える指先に力を込めて、打ち込んだメッセージを消した。スマートフォンを机の上に置き、勢いよくベッドに倒れこむ。全身がベッドに溶けていき、比例するように気持ちも沈んでいった。
 
夏がすぐそこに迫っているというのに、凍えるほど寒い。部屋の電気は点いているが、暗がりの中で横になっている気分だ。腹が空っぽになって鳴いていたこともあったが、今は何かを口に含んで噛み砕くことすらも面倒だ。音楽を聴く気分にもなれず、かといってゲームがしたいとも思えない。
 
歯磨きもせずに、ベッドの弾力に身体を任せて眠りに就きたい。そして心地の良い夢を見て、今日の記憶を忘却の彼方に消し去りたかった。
 
けれど、目を閉じるとハルカさんの顔が思い出されてしまう。リズムゲームではしゃぐ姿が、本棚の一番高い場所に手を伸ばす姿が、真剣な表情で相談事を聞く姿が、映画のフィルムのように連なっている。自分が体験したことなのに、他人の記憶を見ているようだった。
 
亡くなったわけでもなければ、仲違いしたわけでもないのに、ハルカさんとはもう二度と会えないような気がした。会ってしまえば、混濁とした感情が束になって流れ出してしまうとわかっているからだ。

「……もう……全部忘れよう」
 
薄い掛け布団をぎゅっと抱きしめて、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
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