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冷静に。

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メイドカフェを出てから交わした会話の内容はほとんど覚えていなかった。何を聞かれても、適当に相槌を売って愛想笑いをしていた気がする。時間が経過するのをただ待ち続けていた。
 
天気予報が外れ、五時過ぎには大雨が降った。ハルカさんが傘を貸すと声をかけてくれたが、僕は理由もなく断って逃げるように彼の前から姿を消した。
 
電車に揺られ、家を目指す。雨の中に駆け出したので、髪の毛もズボンもびしょ濡れになっていた。
 
電車の窓に映った自分は、ひどく疲れきった表情をしていた。雨に濡れて固まりになった前髪の隙間から、小さな瞳が顔を覗かせている。雨のせいか、それとも別に理由があるのか、頬も熱くなっている。
 
先週、僕が席を外している間に連絡先を貰ったらしい。思い返してみれば、トイレから帰ってきた時二人は話をしていた気がする。

『デートに誘われるんだけど、どうしようか悩んでて』
 
ハルカさんの悩みを聞いて、僕は投げやりに「行けばいいんじゃないですか?」と答えた。
 
恋愛の相談をされても、アドバイスできることは一つもない。むしろ、今までたくさんの人から好意を向けられてきたであろうハルカさんの方がその手の話には詳しいはずだ。

『……それは……そうなんだけどね』
 
寂しげな表情で俯くハルカさんの姿が、記憶にはっきりと残っている。歪に笑って「そうだよね、変なこと聞いてごめんね」と苦しげに言われた時、僕の心臓は大きく跳ねた。
 
何故、悩みを聞いてくれた相手の相談に感情的になってしまったのだろう。もっと親身になって、ハルカさんの立場を理解してから言葉を発せばよかった。普段の僕ならば、冷静に言葉を選ぶことができたに違いない。
 
横降りの雨が、電車の窓を叩く。あと二駅越えれば最寄りに到着するというのに、まったく止む気配はない。むしろ、秋葉原を出た時より風も雨も強くなっている。

『今日は楽しかったね。また今度遊ぼう』
 
SNSを開くと、ハルカさんからメッセージが送られてきていた。今から十五分ほど前に受信したみたいだ。写真も送られてきている。ハルカさんを待っている間に、髪の毛を弄っている僕の写真だ。
 
あんな別れ方をしたので、どんな返事を送ればいいのかわからない。何事もなかったかのように振舞っているハルカさんは、どんな気持ちでこのメッセージを送ったのだろう。
 
社交辞令かもしれないが、他に何か言いたい可能性だってある。逃げるように去っていく僕をいったいどんな気持ちで見ていたのだろうか。
 
考えれば考えるほど、過去の自分の行動が忌々しく思えた。ナイフの先のように尖った言葉を撤回できれば、もしくはハルカさんの優しさから逃げなければ、このメッセージも気持ちに任せて返事ができたのに。
 
やっぱり、深い部分で人と繋がりあうことができないみたいだ。ハルカさんほど尊敬できた人物にも、感情をむき出しにした会話をすることができない。身勝手な言動で他人を傷つけてしまうのが、怖くてしょうがない。
 
結局、言葉が思いつかないまま、最寄り駅に着いてしまった。扉が開き、電車の中に雨が入り込む。雨の影響か、普段にも増して電車を待つ人が少ない。
 
水溜りなど気にもかけず、真っ直ぐに進む。靴にじんわりと染みて、自業自得なのに苛立ちを覚えた。前でゆっくりと階段を降るカップルの姿が、憎らしい。
 
無駄に大きな足音を立てて、カップルを横切った。改札を抜けると、雨粒が弾ける音が耳に入って煩わしく感じた。
 
幸せそうな男女も杖をつく老人も、母さんの手のひらを握りしめる小さな子供でさえも鬱陶しく思える。雨音も喧騒も風の音も、周囲から消えて欲しかった。
 
雨に打たれながら、自転車を漕いでマンションに向かった。水浸しになった洋服が、背中に張り付いて冷たい。自転車がガタンと跳ねるたびに、長い前髪が視界を覆って邪魔をした。
 
駐輪場に自転車を止めた時には、全身びしょびしょになっていた。滑りやすくなったエントランスを抜けて、エレベーターを使って四階まで登る。

「……クソ」
 
舌打ちをしながら鍵穴に鍵を差し込んで、家の扉を引く。まだ働いているのか、母さんが帰宅した形跡はない。照明のスイッチに手を伸ばして、狭い廊下に明かりを灯した。
 
鼻先や毛先に溜まった雫が、フローリングの床に滴り落ちる。
 
駆け足で風呂場に向かい、濡れた洋服を洗濯機に投げ込んだ。温かいシャワーを浴び身体を洗い、湯船に浸かると手足の疲れがじわじわと抜けていった。

「……疲れた」
 
湯船の中で脱力していると、欠いていた冷静さが戻っていくのがわかった。さっきまでの大きな憤りも、今は感じてはいない。心の中には、自分の弱さで自暴自棄になってしまったことに対しての虚しさだけが残っていた。

「……謝ろう」
 
ハルカさんならば、きっと許してくれるはずだ。
 
それに、こんなことで縁が切れてしまうことが嫌だった。何度も相談に乗ってくれるような友だちを、くだらない理由で失うわけにはいかない。
 
湯船から上がり、さっとシャワーで身体を流して風呂を出る。タオルで身体を拭いて自室に向かい、パジャマに着替えてSNSを開いた。
 
ハルカさんも家に到着したみたいだ。サイン会の感想が、十分ほど前に投稿されている。

「……なんて返そう」
 
貰ったメッセージを前に、頭を悩ませる。ハルカさんは気にかけていない様子だが、自分の気持ちを整理するためにも謝罪をした方がいいのは間違いない。優しさに甘えてばかりでは、また同じことをしてハルカさんを傷つけてしまう可能性だってある。
 
人との争いを避けてきたからか、僕はしっかりと謝ることが苦手だった。謝罪をしたことがないので、言葉遣いや言い回しが不自然になってしまう。読んだ相手が不快に思わないか、自分の気持ちをしっかりと伝えることができるかなど、様々な不安が生じていた。
 
メッセージの内容を考えているうちに、十分ほど時間が経過した。書いては消してを何度も繰り返した結果、書き出しの一文すらも決まってはいなかった。
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