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終章 いつかジヴェルニーの庭で
59.ヤクソク
しおりを挟む「だからもうお別れ?」
あきらが尋ねると、未鳴はからりとほほえんだ。
「そういうことさ。……真木くんには悪いことをしたな。鷹藤のやつを紹介したし、おおめにみてくれるだろうと信じよう」
〈クロガネ〉原作者の鷹藤は大学時代の後輩らしい。
真木のことだから胸中は複雑なのだろうけれども、きっと感謝もしているだろう。
ブルブル――と。ポケットの中でスマホが震えていた。
授業が終わるまでマナーモードにしていたのだ。通知欄に届いたメッセージの主を確認して、あきらは顔をしかめる。
「征四郎さんからだ。最近うるさくてさ」
「だれだっけ? 聞いたことない名前だな」
「お父さんのこと、征四郎さんって呼ぶんだ。うちではそれがふつう」
放任主義の父親でも、たまには娘が心配になるのだろう。
それが親心なのだとは察しがついても、LINEでの連絡が多い日が続くとうっとうしい。
「きっかけは反抗期特有のあてつけだったけど。私、出てった母親に似てるらしいから」
母は自由奔放で、心に正直なひとだった。良き家庭人ではなかったのだろう。
彼女が母親だったころ、父の不在時には、自宅の敷居を見知らぬおとなが頻繁にまたいでいた。
――どうして、お父さん以外のおとこのひとがうちにいるの?
そう尋ね訊いたとき、母は答えをくれなかった。わけもわからず――お父さんがかわいそう。と言い放って、あきらはクローゼットの中でひとりで絵を描いていた。
家族への情があっても、母のそばで生きる道は選べなかった。手を離して泣き腫らして、さよならを飲み込んだあと、思い出のほかに残るものはない。家族がひとり減った。
事実としてはそれだけ。
残された父娘の相性は悪くなかった。無骨で厳格で自他に厳しい父が、理不尽にあきらを責めたことはない。父は公正なのだろう。だからこそ言外に、自分は重荷ではないだろうかと悟る。
「居るだけで迷惑をかけるなら。家のなかで私の顔を見たくないのなら。……早く大人になって、独りで生きていけるようになりたい」
生まれ故郷を離れて、知らない街に出かけるのは、予行練習に似ている。
いつもそこで生きる自分を想定している。
「……そっか」
「それで……週末、お母さんに会いに行くつもり」
そしてこれも決意のつもりだった。
未鳴があきらの描いた女性像を「逃げ」だと評したのは鋭い。
文化祭の準備で忙しくて、時間がなかったなんてただの言い訳だ。
昨年、美術室に展示するために描こうとしたのは、母親の肖像だった。
どれだけなおしても、あのひとの顔はイメージのなかでさえ歪むばかりでうまく描けない。たぶんそれは、彼女を正面から見据えるのが怖いのだ。その瞳に自分が映ってはいないことを認めるのが。愛情を、受けとめられなかった過去を直視するのが。
ただし、それでも。あきらも母もいまを生きている。時の流れが変化をつれてくるのならば、すこしくらいは大人びた顔をして。遠くへいった彼女のもとへも、会いにいくことができるはずだ。
「ひとりで行けそう?」
「私は恨んでいないから」
「潔くて君らしいな」
「未鳴は? これからどこに行くつもり?」
「ひとまずニューヨーク」
世界都市だ。日本との時差は十三時間。
「むこうの知り合いが、移民向けの学校経営をはじめてね。美術家志望のワカモノたちのロールモデルになれってさ。僕は画家なんだ。モデルなんぞこりごりに決まってるだろうが。と、一蹴したいが渡に船!」
「……負けてられないな」
螺科未鳴は現代アート界の最先端をゆく芸術家だ。きっと、どこまででも飛んでいく。
このひとの背を追いかけてきた。このひとに憧れて、絵を描きはじめた。本来ならば、こんなふうに言葉を交わすことのほうがおこがましい。
一年前の自分は、あの螺科未鳴にくちごたえしている未来なんて想像もしなかった。
「そうだ。君が去年描いた鳥人間だけどさ」
「鳥人間はやめて。あれは描きなおすつもり」
しかも、憧れの画家に失敗作を見られていたなんて。生き恥どころではない。
あきらが顔を伏せてしまうのを見かねてか、未鳴がふっと優しく吐息を落とす。
それから、突拍子もない提案が飛んできた。
「あの絵が完成したら売りに出しなよ。サザビーズでもどこでにも。そのとき、君という画家がどんな立場で、どんな人間だったとしても、ありったけの想いで僕の手中に収めるからさ」
「……大人は嘘つきがおおいって」
「螺科未鳴が信じられないかい? 奪いに参上しようってのに」
疑いの目を向けておく。
と、ふてくされたように未鳴が唇を尖らせた……かと思いきやいきなり破顔して、あきらの手を引く。
手のひらにしっかりと握られてしまうと、振り払えない。そのまま社交ダンスでも踊りだしそうなほど優雅なステップを踏んで、くるりと正面にまわって。
ふと、真剣な目をしてみせた。
「この先どんな道を選ぶにしても、手放さなければきっと会える。これはそういう約束で……ひょっとしたら呪いかもしれない」
濡れ羽色の瞳に、吸い込まれそうだった。
「僕からの薫陶だ」
右手の甲。小指のつけ根のあたりへ。
口づけが落ちてきた。
「……っ……す、きなひとがいるって言ったのに……!」
手をひっこめてあとずさる。全力で距離をとる。
顔が熱くて脳が高温で心臓ごと沸騰していた。歩道の隅のマンホールをめくって隠れられるものならいますぐ頭からかぶって消え去りたいのに、実行犯はにやにや嗤いを隠そうともせずこちらを観察している。
……してやられてしまった。
いつの間にか、街道の果てには駅舎が迫っている。走っていけばすぐそこだ。頭上の電光掲示板には、発車時刻のせまった急行の目的地がならんでいる。
「あはは! ごめんよ、大人はずるいんだ。じゃあな、達者で生きろよ!」
未鳴が嬉しそうに改札へと駆けだすから。
あきらは早いよと呼びかけながら、大慌てで追いかける。
足どりはふしぎと軽い。いつの間にか風はやんで、頬には暖かな空気が触れていた。早咲きの梅や木蓮の蕾が、瑞凪町のあちこちでほころびはじめている。
もうすぐ町に、春がくる。
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