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第四章 海底の真相
55.キーワード
しおりを挟む「聞かせて。そのプロテクトが解けたら、未鳴はどうするつもり」
「……どうもしない。君と同じ。ただ知りたいだけだ」
「まだ、隠しごとするつもり?」
未鳴を睨む。と、巨大な絵画がどうしても視界に入る。
「作品を見ればいやでもわかる。あなたはあなたを殺そうとしてる」
印象派の絵画がひとを惹きつけるのは、命の輝きと表裏一体だからだ。
魂を賭した切実さ。未鳴の絵画があきらを魅了する理由と同じ。
十年前の〈鯨坂のフィンセント・ファン・ゴッホ〉である未鳴にとって、部活仲間はどのような存在だったのだろう。果たして、彼女にとってのポール・ゴーギャンは隣に居たのか。
祐城叶鳴と阿太刀と未鳴。
三人のあいだの情熱は、燃え尽きてなお螺科未鳴を焦がしたのか。
そして記憶を頼りに答えを探し求めた末に、未鳴はふたたび絵筆をとった。新作のため選びとった色彩が、かの画家が愛用したパリ・グリーンならば。
あの画家が描いた傑作が、未鳴の意識に登らなかったはずがない。
「……我々はどこからきたのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」
ゴーギャンの代表作ともされる絵画。
哲学的な問いかけをするタイトルを、そっと舌の根にのせてつぶやく。
画家が晩年にタヒチに渡ってから描かれたその絵には、ポリネシアの女性たちが、まるで神話の素朴な神々のように描かれている。
意味深長でありながら虚ろな人物たち。
死の淵を連想させるような、昏く禍々しい自然。
愛娘を亡くし失意の底にいたゴーギャンは、脳裏に自殺の覚悟しながらその絵を描いた。
死臭がするような表現。そうした絵画が、この世にはある。
未鳴がこの部屋で描きだそうとしている新作にも、死神の影が見える。
鹿や牛のような生物が、緑青の靄のむこうから、うっすらと浮かびあがるカンバスからは、黄泉の国へと誘うようなささやきが聞こえていた。
「岩絵具に触れたことは?」
ふいに、未鳴から尋ねられた。
あきらが絵画を見上げていたからだろう。
製作途中のその絵の周囲には、画材が無造作に散らばっている。ラベルのついたガラス瓶がいくつもならび、幾色もの色彩が粉末のままおさめられている。
岩絵具だ。瓶のなかの顔料を絵皿にこぼし、煮て溶かした膠を接着剤にして、ようやく絵筆に色がのる。
「画材屋でみたことあるだけ」
「僕がね、これを選んだのは、合理精神と利便性への反抗のためなんだ」
画家はガラス瓶からとりだした絵具の粉を小皿に広げて、指先でつぶしはじめた。
ひとさし指が、花緑青に染まる。
「いちいち手間がかかるんだよ。パネルに和紙を張りつけて絵具を膠でくっつけて、ありていにいえば面倒くさい」
そう吐き捨てつつも、丁寧な手つきで絵具を練っていた。
「日本画ってのは、そもそも明治期に権威に祭り上げられた経緯があるからね。まあ、日本のカネもってるクソ偉い爺さんたちが、妄執のすえに政治利用して、魔改造の末に伝統になったんだとでも思ってくれ」
「そんなことまで考えて受験した?」
「部分的にはあとづけだ。君と同じ年頃のときから、こんなことばかり考えてた」
未鳴が平筆をとる。
右の手首をまわすように動かしてから、カンバスの上方を塗りはじめた。
黙ってながめてつづけるのも気が引けた。
一瞬だけ目を逸らした隙に、画家の姿は消えていた。
ベランダへとつづく掃き出し窓が半分ほど開いている。追いかけると、未鳴がいた。
煙草をふかしながら空を仰いでいる。
「吸うんだ」
声をかける。と、拒むようにそっぽを向かれてしまった。
「……昔、叶鳴がさ、煙草吸ってる姿がすきだって。思えばあの子だけだったな、僕の反抗を褒めてくれたの」
「ここ……叶鳴さんが亡くなる直前まで住んでた部屋だよね」
「好きな女の子宮で死ねたら最高だろ」
未鳴の声は乾いていた。冗談めかして笑うこともできない。
心が目に見えたらどんなにいいだろう。
そうしたら、このひとの胸に巣食う虚無の形も色も知ることができる。描かれなければ伝わらない心象がある。それをだれかに明かしてしまうかさえ、画家自身が選びとることだった。
西日は弱く、外気は肌を刺すように冷たい。
眼前にひろがる瑞凪の冬景色は、さみしいほどに白一色で塗りつぶされていた。山々は雪化粧を帯びている。どの屋根の瓦にも淡雪が積もる。いちめんの銀世界。遠くに見える河川敷では、赤い橋が、そこだけ絵具で描いたようにぽっかりと浮かびあがっている。
「まだなにも終わってない」
ひらひらと、雪片が空から舞い降りる。
あきらが未鳴にうったえると、ふたりの視線が交わるさきで、牡丹雪がはじけた。
「未鳴。私はあなたの裁判官じゃない。どんな結末もどんな終幕もあげられない。あなたを決められるのは、あなただけ」
ひとがヒトを救うだなんて傲慢だ。それでも。せめて。
星座を探した空の果てに、奇跡があればいい。
カンバスに向かい、そう一途に祈り願うからこそ、人生から作品が切り出される。
「ねえ、あなたに託された最後の謎を、いっしょに解き明かそうよ」
そらさずに見つめると、瞳孔がわずかに開いた。焦点が合った。
それさえ恥じるように未鳴は唇を噛む。
「悪いがとっくに万策尽きてる。君にできることはない」
「できることならある」
手首をつかんだ。
強引にひき寄せても、相手は抵抗しなかった。脈拍は弱く体温は低い。ほんとうはとっくに絵筆を握る気力さえ失っていたのだろう。それでもあの絵に着手したのは、画家であるゆえの業だろうか。
そして室内へと誘う。
部屋の一角を埋める作業机をまるごと占領していたのはデスクトップPCだ。キャスター椅子には未鳴を座らせて、あきらは背後から液晶画面をうかがう。
汚れたままの手をマウスに添えさせる。画家の繊細な右手の長い指先に、あきらは手を重ねた。
スリープ状態を解除。
ブルーライトが明滅して〈テラリウム〉のホーム画面が浮かびあがる。
「いまから認証キーを教えるから、あなたがそれを打ち込んで」
「…………どうして君が、それを知ってるんだ」
「思い出せない? 秋のはじめに美術室で見つけた遺書のこと。きっと、たしかに、叶鳴さんの作品はあの学校に眠っていた。私は偶然それを見つけてあなたに内容を伝えただけ」
最初から実物は見せられなかった。その理由はうまく説明できる気がしない。ポケットからルーズリーフの切れはしを取りだして、机に置く。
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