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第四章 海底の真相
54.テラリウム
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「……それが十年前の話?」
あきらが尋ねると、未鳴は神妙な顔をして頷いた。
「ああ。だがまだつづきがある。祐城叶鳴は、おおよそ万能の才媛だったんだ。彼女の関心はあるときからプログラミング言語に向き、当時まだ黎明期だったSNSの新規開発に没頭しはじめた。在学中に構想したシステムを独学で完成させて――〈テラリウム〉のベータ版をリリースした」
絵筆や絵皿があちこちに散らばる床を、青白い素足が踏んでいる。
ゆっくりと室内を歩いていた螺科未鳴が立ち留まる。
「アキラ。君と出会ったあの海こそ、叶鳴の残した遺産だ」
頭の隅で電流が走る。
祐城叶鳴が〈テラリウム〉の開発者。
だとしたら――。
疑問符が浮かんでは行き場を失う。
とうとうと先を語る未鳴に黙殺されて、あきらには息継ぎしか許されない。
「きみには見えてなかっただろうけど、テラリウムには悲嘆も絶望も集まってくる。それらを可視化しないフィルターが組み込まれているだけだ。痛みは痛みと共鳴し、暴力でさみしさを埋める。ネットリンチなんてその最たる例だな」
ブラウザの検索窓にキーワードを打ち込めば、いくらでもインスタントな痛みと出会える。
匿名の言説は過激になる。ネット上にあふれる強い言葉に、引きずられそうになる瞬間は、あきらにだってある。
「叶鳴は……暴力のない国を目指してた。ネットがインフラになり大量の情報が流れこむに連れて、群れをなしたひとびとの感情が、数値として可視化された正しさが、暴れまわる無法の大海になる……。そう悟って、きたるべき未来を見越してた」
十年前なら――。
あきらはまだ小学生だ。この十年ほどで技術は飛躍的に進歩したという。
現代ではネットもSNSも身近で手慣れたインフラに成り果てているが、こうなるまでには紆余曲折があったはずだ。未鳴たちは変化の激流を泳いできたのだろう。
「正邪の投票。善悪の断罪。匿名の共感。いまじゃエンターキーひとつでなんでも解決する。その利便性によって擦りつぶされてしまう、儚く淡い感情のために…………あの子は〈テラリウム〉の創設者になった。あの水槽は蛇のいないエデンだ」
柔らかく優しい者たちが、地上の悪魔に喰い荒らされないよう守るシェルター。
恒久に穏やかであれと女神に、こいねがわれた温かな海。
ようやく、あきらが尋ねる番がきた。
「そしてそれから十年が経って……祐城叶鳴さんは亡くなった?」
「自殺だ。警察の見解に誤りはなさそうだぜ」
「どうしてそう断定できたの」
「遺書があった。内容はまるで幼子が書いたように支離滅裂で、読解に根気を要するものだったが、その遺書には……螺科未鳴の名前があった」
未鳴は警察の取り調べを受けることになった。
「どういうことだろうと疑ったよ。僕は卒業後は画業に邁進して、叶鳴とふたりきりでは会わないようにしていた。自分の気持ちが、あの子の幸せを阻害するのだけは避けたかったから」
捜査線に浮上したとはいえ、大学進学を機に瑞凪町を離れ、都会の街で暮らしていた未鳴に、犯行は不可能であると立証された。
しかし、そもそも祐城叶鳴が瑞凪町で亡くなった経緯にも謎が多い。
実家の父母にさえ連絡はなく、町内の小さなアパートの一室に隠れるように身を寄せていたらしい。
婚約者の阿太刀には「仕事を辞めたから、しばらく故郷でゆっくり過ごす」とだけ説明していたが、亡くなる三ヶ月ほど前から直接会うのを拒んでいた。
「アパートに残された遺品は少なかった。……叶鳴は黙っていなくなることを覚悟して、流氷の浮かぶ川に飛び込んだんだんだ」
遺体が見つかったのは二月の川だ。
摂氏零度をしたまわる日が続き、川面には薄い氷が張っていた。水底はひどく冷たく、呼吸と体温を奪い去ったことだろう。蓮の葉氷に打ち上げられた令嬢。想像のなかの溺死体は、オフィーリアのようにまどろむ。
「それから…………遺体安置所で再会して、この十年を悔いたよ」
葬儀を終えたあと、未鳴は瑞凪町に留まろうと決めた。ネモと名乗り〈テラリウム〉に居着くようになったのも、この頃かららしい。
「出来心だったんだ。僕が学生時代に〈テラリウム〉に居着いていた頃のIDでログインしてみたら……アカウントが生きてた」
「それって……」
「おかしいだろ。とうに自動消去されてるはずなのに。おまけに僕のアカウントには、管理者権限が譲渡されていた」
さらには叶鳴がこの十年間ずっと〈テラリウム〉を管理し、システムの更新を続けていたこともわかったという。
「〈テラリウム〉に居着いたのも、最初は叶鳴の代理のつもりだった。それに、管理者であるはずの僕にも不可能があったからな。一部のシステムにプロテクトがかかってたんだ」
システムを全開放するためには、認証キーが必要だと、未鳴はすぐに気がついた。
そこで、どこかに認証キーが記されてはいないかと、祐城叶鳴が残したものはすべて調べ尽くすことにした。
彼女はあまり私物を持たない女性だったが、学生時代からずっと絵は描きつづけていたのだ。
使い古されたクロッキー帳。
水彩画用のスケッチブック。
ペン画用の原稿用紙。
ときには油彩のカンバス。
「叶鳴の残した作品はすべて回収した。鯨坂高校に残されてはいないかと疑い、あれこれ言いくるめて真木くんにも探してもらった。騒ぎを起こして〈テラリウム〉に情報が集まるように仕向けた。だが……すべて徒労だった」
部屋じゅうを埋める絵画は、どれも祐城叶鳴が描いて残した作品を、必至にかき集めたものなのだろう。
あきらが尋ねると、未鳴は神妙な顔をして頷いた。
「ああ。だがまだつづきがある。祐城叶鳴は、おおよそ万能の才媛だったんだ。彼女の関心はあるときからプログラミング言語に向き、当時まだ黎明期だったSNSの新規開発に没頭しはじめた。在学中に構想したシステムを独学で完成させて――〈テラリウム〉のベータ版をリリースした」
絵筆や絵皿があちこちに散らばる床を、青白い素足が踏んでいる。
ゆっくりと室内を歩いていた螺科未鳴が立ち留まる。
「アキラ。君と出会ったあの海こそ、叶鳴の残した遺産だ」
頭の隅で電流が走る。
祐城叶鳴が〈テラリウム〉の開発者。
だとしたら――。
疑問符が浮かんでは行き場を失う。
とうとうと先を語る未鳴に黙殺されて、あきらには息継ぎしか許されない。
「きみには見えてなかっただろうけど、テラリウムには悲嘆も絶望も集まってくる。それらを可視化しないフィルターが組み込まれているだけだ。痛みは痛みと共鳴し、暴力でさみしさを埋める。ネットリンチなんてその最たる例だな」
ブラウザの検索窓にキーワードを打ち込めば、いくらでもインスタントな痛みと出会える。
匿名の言説は過激になる。ネット上にあふれる強い言葉に、引きずられそうになる瞬間は、あきらにだってある。
「叶鳴は……暴力のない国を目指してた。ネットがインフラになり大量の情報が流れこむに連れて、群れをなしたひとびとの感情が、数値として可視化された正しさが、暴れまわる無法の大海になる……。そう悟って、きたるべき未来を見越してた」
十年前なら――。
あきらはまだ小学生だ。この十年ほどで技術は飛躍的に進歩したという。
現代ではネットもSNSも身近で手慣れたインフラに成り果てているが、こうなるまでには紆余曲折があったはずだ。未鳴たちは変化の激流を泳いできたのだろう。
「正邪の投票。善悪の断罪。匿名の共感。いまじゃエンターキーひとつでなんでも解決する。その利便性によって擦りつぶされてしまう、儚く淡い感情のために…………あの子は〈テラリウム〉の創設者になった。あの水槽は蛇のいないエデンだ」
柔らかく優しい者たちが、地上の悪魔に喰い荒らされないよう守るシェルター。
恒久に穏やかであれと女神に、こいねがわれた温かな海。
ようやく、あきらが尋ねる番がきた。
「そしてそれから十年が経って……祐城叶鳴さんは亡くなった?」
「自殺だ。警察の見解に誤りはなさそうだぜ」
「どうしてそう断定できたの」
「遺書があった。内容はまるで幼子が書いたように支離滅裂で、読解に根気を要するものだったが、その遺書には……螺科未鳴の名前があった」
未鳴は警察の取り調べを受けることになった。
「どういうことだろうと疑ったよ。僕は卒業後は画業に邁進して、叶鳴とふたりきりでは会わないようにしていた。自分の気持ちが、あの子の幸せを阻害するのだけは避けたかったから」
捜査線に浮上したとはいえ、大学進学を機に瑞凪町を離れ、都会の街で暮らしていた未鳴に、犯行は不可能であると立証された。
しかし、そもそも祐城叶鳴が瑞凪町で亡くなった経緯にも謎が多い。
実家の父母にさえ連絡はなく、町内の小さなアパートの一室に隠れるように身を寄せていたらしい。
婚約者の阿太刀には「仕事を辞めたから、しばらく故郷でゆっくり過ごす」とだけ説明していたが、亡くなる三ヶ月ほど前から直接会うのを拒んでいた。
「アパートに残された遺品は少なかった。……叶鳴は黙っていなくなることを覚悟して、流氷の浮かぶ川に飛び込んだんだんだ」
遺体が見つかったのは二月の川だ。
摂氏零度をしたまわる日が続き、川面には薄い氷が張っていた。水底はひどく冷たく、呼吸と体温を奪い去ったことだろう。蓮の葉氷に打ち上げられた令嬢。想像のなかの溺死体は、オフィーリアのようにまどろむ。
「それから…………遺体安置所で再会して、この十年を悔いたよ」
葬儀を終えたあと、未鳴は瑞凪町に留まろうと決めた。ネモと名乗り〈テラリウム〉に居着くようになったのも、この頃かららしい。
「出来心だったんだ。僕が学生時代に〈テラリウム〉に居着いていた頃のIDでログインしてみたら……アカウントが生きてた」
「それって……」
「おかしいだろ。とうに自動消去されてるはずなのに。おまけに僕のアカウントには、管理者権限が譲渡されていた」
さらには叶鳴がこの十年間ずっと〈テラリウム〉を管理し、システムの更新を続けていたこともわかったという。
「〈テラリウム〉に居着いたのも、最初は叶鳴の代理のつもりだった。それに、管理者であるはずの僕にも不可能があったからな。一部のシステムにプロテクトがかかってたんだ」
システムを全開放するためには、認証キーが必要だと、未鳴はすぐに気がついた。
そこで、どこかに認証キーが記されてはいないかと、祐城叶鳴が残したものはすべて調べ尽くすことにした。
彼女はあまり私物を持たない女性だったが、学生時代からずっと絵は描きつづけていたのだ。
使い古されたクロッキー帳。
水彩画用のスケッチブック。
ペン画用の原稿用紙。
ときには油彩のカンバス。
「叶鳴の残した作品はすべて回収した。鯨坂高校に残されてはいないかと疑い、あれこれ言いくるめて真木くんにも探してもらった。騒ぎを起こして〈テラリウム〉に情報が集まるように仕向けた。だが……すべて徒労だった」
部屋じゅうを埋める絵画は、どれも祐城叶鳴が描いて残した作品を、必至にかき集めたものなのだろう。
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