海底の放課後 -ネットの向こうの名探偵と、カリスマ・アカウントの謎を解く -

穂波晴野

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第三章 瑞凪少女誘拐事件

30.ユディト

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 それからもういちど、第一から第二の事件について整理することになった。
 ジェスター様の正体については白紙にもどったが、最優先事項は真木だ。そのためにも、犯人特定を急ぐ必要がある。

「にしてもさ、美波。あんたって仮面優等生でしょ」
「え……? そうかな……?」
「だって、今回の事件って警察呼べば動くよね」
「それは……」

 夏織だって家族や顧問や担任教師にも報告せず、あきらのもとへやってきた。

〈テラリウム〉のユーザーは十代の未成年にかぎられる。過激な投稿は運営が削除しているようだが、ジェスター様の投稿に付された映像については該当しないようだ。
 ユーザーたちの反応もまちまちで、モデルを起用してつくられたアンダーグラウンドな作風の映像作品だと受けとめられている。
 そこで行われているのが犯罪だと指摘する者はいない。

 鯨坂の生徒であれば、その可能性に思い至りそうなものだが、いまはまだ学生たちの他愛ない噂話として流布している程度だ。

 望ましくない状況だった。
 仮に警察が捜査に踏み込むようなことがあれば、〈テラリウム〉は存続の危機をむかえかねない。それは避けたい。ネモと連絡がとれるのは、あの場所だけなのだ。

「ま、いいけどね。大人の知らない重大事件をあたしたちだけで解決って、俄然あがる」

 今回ばかりは、夏織の豪快な性格に助けられた。
 その後、まずは証拠品から再検証することになった。
 準備室の収納スペースに格納していた人造乙女の首と、黒化した絵具の欠片をもって美術室へともどる。

 夏織は時間でも確かめているのだろうか、スマホを食い入るように眺めていた。「おまたせ」と声をかけたら、

「ん。そろそろ到着するよ」
 と、一言。

 意図がつかめず小首をひねる。夏織がめずらしくイタズラっぽく笑うので、つられて笑顔を返しておく。

 扉が開く音がして、美術室の出入口で上履きがとんっと跳ねた。

 放課後のこんな遅くに美術室を尋ねてくるなんて。
 だれだろうと思って振りむくと――光梨がいた。

「どうしてここに……」
「体育の合同授業のときにね。花岬さん、声かけてくれたの」

 彼女の右手からは、手帳型のケースにつつまれたスマホがあらわれる。

 しまった。焦ったとしてももう遅い。光梨の目線はすでに作業机の証拠品――〈人造乙女の首〉を視界にとらえていた。

「この子、ここにいたんだ。気になってたのに、あきちゃん教えてくれないんだもん」
「光梨……」
「大丈夫。それにね、わたし、これを作ったジェスターさんより、怒りたい相手がいるの」

 いつもよりも声が低い。表面上はほほえみを絶やさず語りかけてくるものの、瞳は凍りついている。
 これは……青天の霹靂だ。光梨が本気で怒っている。

「あきちゃん。お友達だからパンチをします」

 とん……、と。あきらの胸を打ったのは、少女の小さなこぶしだった。

 うつむいた拍子に長い睫毛が傾いて、そのまま体重を預けるように肩口に寄りかってきた。頭蓋骨の質量が優しくのしかかる。光梨の手はわずかに震えていた。

「ずっと事件のこと調べてたんだね」
「うん……言えなくてごめん」
「わたし、そんなに頼りなかったかな」
「……巻き込みたくなかったから」
「……いつもそうやって、悲しいことから遠ざけてくれるんだね。あきちゃんは優しいから、よけいな気をまわさなくてもいいように、何でも独りで解決しようとする。わたしはいつも蚊帳の外?」

 気づけば光梨が顔をあげて、あきらを見上げていた。大きな黒目でじっと見据えられると、この距離ではどうしても緊張する。瞳が揺れて。少女が吐息を落とす。
 それを合図にするように、光梨は控えめな挙動で一歩退いた。

 まなざしはすでに人造乙女の首へと向いていた。
 いつの間にか、少女はその手にきらりと煌めく刃物を握りしめている。

 ――はさみだ。それも裁縫用のばさみ

「ま……待って!」

 あきらの制止もむなしく、鋭い刃物が降りおろされる。
 ジャキン――。人造乙女の顔に亀裂が走った。

「……スッキリした。わたしね、一度、こうしてみたかったの」

 血液こそ流れ落ちてはこないものの、シリコン素材の表面がぱっくりと破れて両断されていた。

 光梨と同じ顔の人形。造られて壊された少女像。不運にもかたちを留めてしまった人造乙女の息の根をとめるように、光梨ははさみを振るった。

 突然の凶行に、あきらも夏織も呆然としていた。
 光梨は傷ついた人形の頬に、そっと触れる。

 まるで、屠った生首を憐れむ戦女神ユディトのような横顔だった。

「この顔のせいで世界の半分が嫌いになった。それはいまも変わらない。でもね、わたしはわたしのまま、できることがあるって信じてる」

 そうか、と。得心がいった。
 起きてしまった事件に傷つきこそすれ、名鳥光梨はもう、ただの被害者ではいられないのだ。

 中学時代の光梨なら泣いて苦しんで膝を折っていただろう。
 彼女は誰より優しく清らかなあまり、絶望していたから。

 あきらも鬱屈を抱えてはいたが、かつての光梨が受けていた傷と痛みとは比較できない。
 透明で未成熟な生き物であるがゆえのいとけなさが、望まぬ災難を引き寄せてしまったり。愛され守られるあまり、彼女自身の願いを手折られたり。未完成な愛らしさが、彼女の観客である他者を狂わせて、悲劇を呼び込んでしまうこともあった。

 あのころは世界にふたりぼっちだったから。
 ひとりとひとりのまま、手を繋ごうとすることだけが、あきらと光梨を生かしたのだ。

「いま、真木さんはひとりだと思うの。――ひとりはひとりのために。それがわたしたち共通の信条なら、ここで旗をかがけなきゃでしょ」
 優美にほほえみながら。そして気高く清廉なまま。
 となりに凛と立つ彼女に、あきらがかけられる言葉はひとつ。

「……心強いよ」


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