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第三章 瑞凪少女誘拐事件
29.ユウカイ
しおりを挟む朝起きて、登校中に思いついた。
――たまにはあきらから話しかけてみよう。
教室に着いたら真木に声をかける。ごまかし上手な彼女のことだから、昨日のできごとなんてなかったかのように、明るく振るまうに違いない。それを責めるつもりはない。ただ、あいさつを交わして。放課後まではクラスでいつもどおりすごそう。
ところが、朝のホームルームが終わっても真木は教室に現れない。なぜだろう。と、疑問を抱くが、黒板のすみに「水曜日」の表記を見つけて納得する。
水曜日は三限目から登校するのが真木の習慣だ。
今日は遅刻。そういう日。
午前の授業を受けながら、教卓からの雑談を聞きながし、教室の扉が開くのを待つ。
けれども、待てども待てども、真木は登校してこなかった。
金曜日――。
真木との攻防からすでに三日が経過していた。
クラス担任は病欠として扱っていたが、真実かどうかは確認のしようがない。このままではどことなく、虫の居所が悪い。
真木とはクラスも部活も同じだから、学校にくれば自然と顔をあわせる間柄だ。教室で長話はしないけれど、調理実習や課外活動で同じ班になれば会話もする。
学校での接触を避けて、事を先送りにするなんて。
あきらの指摘を暗に認めているようにもとれる。
クラスメイトたちに真木のことを気にしている素振りはない。
真木に話しかける生徒は多いのに、彼女の病欠について気に留める声は聞かなかった。
欠席者がいても日常は続き、授業はカリキュラムどおりに進む。午前には数学と古典、つかのまの昼休み、午後一番は体育。眠気をこらえながらのオーラルコミュニケーション。教室はつつがなく運営されていく。
そして放課後がやってくる。
美術準備室にこもってひとりで整理整頓をしていると、備品棚のすきまに真木のクロッキー帳を見つけた。忘れ物だろうか。いつもはこまめに持ち帰っていたはず。不思議に感じて、背表紙を束ねるリングに指先でふれる。
本人不在。目撃者皆無。相手は、なかなか秘密を明かしてくれない友人。
こうも条件がそろってしまえば、詮索欲がうずく。
遠慮すべきだと良心がいさめるのに、自分を説得しきれそうもない。
――ごめん、真木。
あきらは心中で短く謝罪を告げてから、備品棚から帳面をぬきだそうとする――が、手がすべって床に落ちた。
はらり、はらりと、ページがめくれて。
「あ、れ……」
あらわになった内側から、不気味な違和感が漂う。
クロッキー帳に描かれていたのは、おもに手のデッサンだ。
それから耳。ヒトを描くのが苦手だという真木が、どれも執拗に練習していたパーツ。
けど、それだけじゃない。
文章だ。文章が書いてある。
まるで授業ノートのようなのだ。ただし、綴られていたのは日記やポエムではない。
* * *
◯雄黄 原料は硫化鉱物のため、鉄系顔料と混ぜると黒化しやすい。
●パリ・グリーン 少量の熱湯で硫酸銅を溶かす。酸化物をカリ(炭酸カリウム)と一緒に沸騰させる。それらふたつの溶液を少しずつ混ぜ合わせ、発泡が完全に止まるまで継続して攪拌する。すると、汚れた緑がかった黄色の沈殿物が生成される。さらに酢酸を加えると、沈殿物は徐々にかさを減少させていき、数時間以内に完全に変色する。最後に、液体の底に沈着した緑色の粉末と浮遊液を分離させる。
* * *
ネットか書物からの引用だろうか。
一読して、見過ごせない点がいくつかあった。
「カリと硫化銅。ヒ素……」
どれも化学実験室から消えた薬品だ。
墨原はジェスター様の暗躍に疑問を抱いていたが、真木のメモ書きから推測を広げたところで、行き着く答えは変わらない。
――真木がジェスター様だ。
あきらの胸に去来したのは、一抹のやるせなさだった。
真木はなにも教えてくれなかった。
どんな相談ももちかけてこなかった。
部活仲間だなんて言っておいて、光梨や夏織を被害者に仕立てあげ、のうのうと笑顔を振りまいて。あきらのことも、まったく信用していなかったのだ。
いやだ――。そう、心の底で激情がはじける。
嫌いになりたくない。なのに定義がみつからない。
黒く淀んだ情念が、肺腑に重たく乗りかかり、胸骨の奥からふくれあがって息苦しくなる。
ぎゅっと目をつむる。
落ち着かなければ。冷静でいなければ。そう、自分に言い聞かせて立ち止まる。
と、突如――。美術準備室の扉が開いた。
「いた! ……美波! いますぐ〈テラリウム〉見な!」
夏織だ。
彼女は肩を上下させ、荒い呼吸を吐いていて。酸素が足りないのか、顔を真っ赤にしながら叫んでいた。
〈テラリウム〉……。
そうだ。〈テラリウム〉は、まだチェックしていない。あの静かな海底に、運動嫌いな夏織を、全力疾走させるニュースがあるなんて。それはどんな、金銀財宝だろうか。
知りたい? いや、知らなければいけない?
また雑音で思考と視界がにごっていく。
まるで、プールの中から空をみあげるようだ。どんな刺激も意味を結ばず、神経伝達が正常に働かない。呆然としたままいると、勝手にうろんな返事が落ちる。夏織は埒があかないというように、あきらの首を片腕で締めて、強引にスマホをおしつけてくる。
と、ようやく焦点があった。
「ねえ、夏織、これ」
「そう、そういうことよ。……あたしたち、またあいつに出し抜かれた!」
画面上に写っていたのは、〈テラリウム〉に投稿された動画だった。
背景は屋内。撮影場所はおそらく暗い廃屋だ。
割れた木材が散らばる空間に、抜け落ちそうなほど腐敗した床。すすけた色の壁。天井からそそぐ僅かな微光が、鈍色の冷たい空気をつらぬいて、燐光のようにきらめく埃が宙を舞っている。
そして中央の椅子に座るのは――目隠しをされた少女だ。
麻縄で手足を固定されて、小刻みに震えている彼女の唇のかたちには見覚えがあった。
顔のパーツだけじゃない。
指先のネイルポリッシュも。
ショートカットの髪型も。
青鈍色のセーラー服も。
映像のなかの少女のすべてが反証だった。
「なんで、真木が捕まってるの……」
UserID:@jester
Title:楽園の虜囚
パプティノコンを追われた迷い蛾は、羽化することなくに死に至る
制限時間は月曜の夜明けまで
動画が付されていたのは、〈テラリウム〉のジェスター様の投稿だ。
またも不敵な怪人は挑戦的な犯行声明を投げかけてくる。
けれど、今回は異質だ。これまでの事件とは一線を画している。被害者は、学校へ登校してこなくなった真木。どこかに監禁されている彼女の映像。
これは――誘拐事件だ。
「……私のせいだ」
「美波?」
「だって、そうじゃないか。私が犯人探しをはじめてあれこれ情報を集めてきてまた事件が起きて真木じゃないかって疑って、それから夏織に相談して、私が、わたしが、……っ!」
堰を切ってあふれだした感情が、口からこぼれてとまらない。
どうしようもなくて顔をおおう。
もう、なにも視たくない。視たものを疑いたくもない。
真実なんて。現実なんて、そんなもの探したくもない。そう、暗闇の安寧に心を預けたときだった。
バシャン――。
頭上から水が降ってきた。
乾いた髪がしっとりと水分を吸い込んで、頭部が急激に冷えていく。いきなりつめたい。かけられたのは水道水……。
いや、ちがう、この匂いは。
「頭冷えた?」
夏織が手にもっていたのは、青いラベルのスポーツ飲料水。
「冷えたけど……」
「あのね。あたしはぶっちゃけ沸騰するほう。あんたが冷静でないと困るんだけど」
「…………横暴すぎるよ……」
「美波の言ってることがどこまで本当なのか、あたしにはよくわかんない。でも、そっか。あんたでも、ことの真贋に悩むんだ」
「……とうぜんでしょ」
「美波がテストの問題文にキレてるのみたことないし」
「夏織はいちいちキレすぎ」
いつもの調子で反論していたら、いつのまにか気概がもどってきた。
夏織からタオルハンカチを受けとって、額を拭きとる。シャワーを浴びたあとみたいだ。濡れそぼった黒髪をヘアゴムでひとつにまとめて、正面を向く。
「真木を探そう。ここまでされて、黙っていられるはずない」
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