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第二章 リモナイト密室盗難事件

18.ブカツドウ

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 放課後。
 クラスの清掃当番を終えて美術室に訪れる頃には、部員たちは勢揃いしていた。

 東の窓辺では、夏織が一心不乱に絵筆を動かしていた。あきらが声をかけても見向きもしない。まだ空白の目立つカンバスに向かい、彼女だけが知る完成像に奉仕している。

 鯨坂のフィンセント・ファン・ゴッホ。
 花岬夏織ならば、そんなあだ名が浸透するのも納得だ。
 一方、準備室へとつづく扉のまえでは、まだ見慣れない光景が待ち受けていた。

 真木が油絵具を吟味しているのだ。
 春先の入部以来、デッサンや鉛筆画ばかり描いてきた真木が「油絵やる」と言い出したのは先週末のことだった。
 美術部での制作は部員の自主性に任せられている……といえば聞こえはいい。やる気のない顧問から指導がないだけだ。油絵でも水彩画でもアクリル画でも、なにを手がけるのも自由だ。こうしたゆるさは、弱小文化部ではごくふつうのこと。

「やばい。あたし、これ苦手かもしれん」

 真木が泣きそうになりながら、パレットナイフを握りしめていた。
 油絵具は授業で扱う水彩絵具やアクリル絵具と違い、乾きが遅く、忍耐を要する画材だ。あつかいづらい。平面的にも立体的にも魅せることができ、重厚な表現を得意とする一方で、描き手が判断すべき課題は山ほどある。つまるところ、知識ゼロからはじめるにはハードルが高い画材でもある。

「あきらぁ、助けてよぉ。画材増やすの避けてた女にはきびしいんだよぉ」
「……教材動画みる?」
「あんたいつもコスパのいい解決策でかわすな?」

 ほかになにを掲示すればいいのか知らないのだ。油絵具はあきら自身も昨年初めて出会った画材で、画法も独学なのだから、教えられることはない。

「やっぱりさぁ、顧問にやる気がないのは考えものだって。師からスゴイの伝授されたいじゃん」
「必殺技とかないから……」
「だとしても、よ。やっぱ受験しとくべきだったかぁ、泡島工芸あわしまこうげい

 泡島工芸――泡島市立工芸高等学校は、遠方にある公立高校だ。
 普通進学コースのほかに、美術コースも併立されている。あきらも受験は検討したが、高校受験を機に瑞凪町を出るつもりはなかったから、順当に鯨坂高校に進学した。

「泡島工芸は受験に実技もあったはず」
「そうなん? よく知らんけど」

 真木とじゃれついていると――筆箱が飛んできた。
 べしゃん、と石膏像アグリツパの額に合皮ケースが打ち受けられる。

「あんたらうるさい」

 夏織だ。ハッとして息を飲んでからではもう遅い。
 窓辺をうかがえば、まるで気性の荒い熊さながらに少女が低く咆哮する。

「美波も真木も、絵画コンクール出すんでしょ。あたしひとりでも部の実績になるのに」
「へぇ、自信すごいなー。鯨坂のフィンセント・ファン・ゴッホさまはこれだから」

 真木は茶化すが、夏織のこれは虚勢ではない。

 昨年の全国高校生絵画コンクールでは大臣賞をとったのだ。
 そのときのことはあきらも覚えている。全校集会の朝――壇上で校長から表彰状を渡され、激励を受けていたのは、ほかでもない花岬夏織だった。

 女子高生画家の活躍は、美術部の実績として華々しく刻まれている。運動部が県大会に駒を進めたときのように、校舎に部名を掲げた垂れ幕が飾られることはなかったけれど。それでも校内や学外の話題の的で、夏織のもとには地方紙やネットメディアから取材が舞い込んできた。

 その余波もあり「SNSはめんどうだからやらない」主義で〈テラリウム〉にも寄りつかない夏織は、いまも女子高生画家としてもてはやされている。

「なんとでも呼べば? てか、真木。いい絵具使ってんじゃん」
「あは。そこ気づいちゃう? イトコからもらったのよねー」
「ちょうどいい、黄色貸してよ。リモナイト切れた」
「リモナイト?」

 真木が尋ねると、夏織は質問の意図がわからないとでも言うように眉根を寄せた。
 彼女が手にもつ絵具のチューブには、ラベルが貼られていない。なぜなら画材屋では市販していないから。

「夏織、よく自作の絵具もってきてるよね」
「お兄ちゃんがくれたやつね。兄、ヘンな画材見つけるとすぐ買う」

 夏織の兄はファッションデザイナー志望だと聞いていたが、絵画も嗜むのだろう。夏織の話にはよく家族が登場する。学芸員である父親と、イラストレーターの母親、姉は陶芸家で、兄は都会の専門学生。あきらからすると、彼女はサラブレッドだ。

「夏織のお兄さん、帰ってきてたんだ」
「ん。あいつまだ家にいる。夕飯のカロリー消費量やばくて正直引く」

 そういう夏織こそ大食漢だ。
 作業机の横に積まれたじゃがりこの空箱は、視界から外しておく。コンビニの袋の中身をうかがうかぎり、チョコパイも食べるらしい。

「あのさー。その、リモナイトとかいうの、ないけど?」

 ふたたび真木が夏織にちょっかいをかける。今度はさすがに不満げだ。

「だから黄色でいいつってんの」
「むう、強欲娘め。あきらは?」
「ごめん、黄色は少ないんだ。まだ温存させて」

 そう告げると、真木は欧米人みたいに肩を落とした。先に折れてくれるらしい。絵具ケースから銀のチューブを取り出すあたり、彼女は意外と面倒見がいい。ラベルをみながら「雄黄ゆうおうってかいてあるな。コレが一番色味ちかい?」と細かく吟味していた。

 夏織のパレットに絵具をしぼり出しながら、真木はおどけた表情をする。

「ほれほれ、ほどこしてやる。大事につかえー?」
「あんがと。真木にしてはグッドなほどこしじゃない」
「ヒトコト余計だっての!」

 夏織が軽口をきくようになったあたり、真木もすっかり美術部になじんでいる。にぎやかな応酬が飛びかう一角から目を逸らし、あきらはふと美術室の景色を見やる。

 東の窓辺には未完成の油画がイーゼルに立てかけられていた。夏織の絵なら見慣れているからわかる。今回のはいつにも増して力作だ。
 30号サイズ――長辺およそ九十センチもの大きさを誇るカンバスに、描かれているのは多種多様な植物だ。カラスウリに、アネモネに、スイートピー。そして――。

「……きれいな黄色」

 色彩に目を奪われる。

 向日葵を彩る――リモナイト。
 まばゆいイエローが画面中央を飾っていた。

 夏織の絵は色彩と画面構成に秀でている。構図の力、モチーフの選び方、その組み合わせ方。
 一枚にこめられた情報の密度が高く、観るものを決して飽きさせない。それどころか、木々や花々が雄弁に語りかけてくるようなのだ。

 花鳥風月を描く少女である彼女が、瑞凪町を彩る自然とどんなふうに過ごしているのか、想像力を掻きたてられる。この絵は未完成なのに。彼女の描く豊穣な世界に惹き込まれ、不思議の国に迷い込んだような心地さえする。
 
 ――そう、させられる。

「美波さ、去年のリベンジしないの? 文化祭の展示用に女性像描いてたじゃん」

 背後から、声をかけられてハッとした。あきらは慌ててとりつくろう。

「今描いてるのは公募用。今年は風景画にするつもり」
「あ、そ。あんたの絵って螺科未鳴にしなみめいに寄りすぎてるもんね。人物画は特に」
 夏織が口にした名前に反応したのは真木だった。
「え? ニシナミメイってあの?」

 螺科未鳴は、鬼才の現代アーティストだ。昨今の美術界では新時代の俊英とも称され、日本画を中心に、ストリートアートやインスタレーションまで広く手がけ、いまや世界で評価されている。

 ニシナミメイの作品は、画廊や美術館にとどまらない。あるときは街中のグラフィティとして、またあるときは銀座三越ギャラリーの展示物として、そして時にはSNSのタイムラインに颯爽と登場する。

 人物画の題材として男性俳優たちを描いたことから、広く一般層からも注目を集めた。「売名行為だ」「世間に媚びている」など、さまざまな批評があったようだが、作品を言葉では飾らないアーティストが、そうした風評を気に留める様子はない。

「……そうだけど」

 相手が有名人すぎてこれではミーハーのようだ。
 絵を描くひとたちの多くは、家族や友達の真似からはじめたと語る。あきらの場合は、近くに絵を描く大人はいなかった。
 だからこそ、起点となったのは螺科未鳴の初期作品だ。

 ――どうやったら、こんな絵が描けるんだろう。

 まだ母親が家にいたころ、旅行先の美術館で。そう思ったことがきっかけだ。それから螺科未鳴の画集も、インタビューも、ネット上の動画もすべて漁った。理解がおぼつかない言葉は辞書で引いて、一言一句を胸に刻んで、飽きるまで作品の模写をした。目を凝らせば凝らすほど未鳴の絵は精緻だった。それを支える圧倒的な技量に感動して、尊敬して、描くことに夢中になったのだ。

「そっかぁ。そうは見えんかったけど、熱くなれるもんあんじゃん」
「あんまりからかわないで」
「からかってないって。あんた、あれこれ知ってるくせに好きとか嫌いを言わないから、わかりづらい」

 あっぴろげに好きだのラブだの最高だの喋れる真木のほうが特殊だ。そんなの気恥ずかしいし、照れ臭い。あきらが隠した羞恥心を真木には見透かされたくない。

 切り替えよう。――パン、と手を叩く。

「いいから手、動かそう」
「はいよー。あきら部長ー。やりますかぁ」
「やっと休憩終わり?」

 真木が、夏織が、順を追って席につく。

 美術室の工作椅子はぼろぼろな上にらくがきだらけだ。じっと座って、いつの間にか言葉少なになって、パレットとカンバスのあいだをいききしながらで腕を動かす。

 入部してから何枚絵を描いたかなんて覚えていない。
 けど、描いたぶんだけ上達してるはず。

 壁に貼られた日めくりカレンダーが示す日付は、十月の暮れ。もうすくハロウィンだ。

 去年の秋は公募展への出品は諦めたが、今年は自信作を送り届ける。そう決めた。たとえ〈鯨坂のフィンセント・ファン・ゴッホ〉と競うことになるのだとしても。

 チャンスは平等のはず、そう信じて。

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