1 / 67
序章 美術室の遺書
0.十年後のあなたへ
しおりを挟む
通学電車の中で絵を描いている人はいない。
昼休みの教室でも、放課後の図書室でも、街角のどんな場所でも。
ならばどこで鉛筆を握ればいいのかと考えたとき、美術室は適した場所だった。背後から家族に目視されるのは気恥ずかしいし、落書きをしたノートを級友に覗かれてはたまらない。下手の横好きならばなおのこと。
そう、淡々と思案をめぐらせながら、美波あきらは美術室を目指していた。
放課後の美術室はアトリエで、教室では目立たない彼女たちだけがつどう部室だ。
美術部の部員は、常日頃、イーゼルに画板を立てかけて互いに背を向けながら制作に没頭する。会話はない。鉛筆が画用紙を撫ぜるささやかな摩擦音、たまにくちゃくちゃとパンを食む咀嚼音が聞こえてくる程度。
実習棟の三階からではグラウンドで白球を追う生徒たちの喧騒も遠く、やる気のない顧問は週に一度顔をみせるだけで多くは語らない。扉が開かれないかぎりは、そこは常に静謐な楽園だった。
だからこそ、足取りは軽い。教室に向かうよりもずっと。
そしてこの日、夕刻の部室に足を踏み入れたのは、あきらひとりだった。
黄昏時――。重たい鉄扉を開いたさきには、色とりどりに汚れた机がずらりと並んでいる。
黒板は一面かぎり、教室の背面には隊列を組んだ石膏像。音楽室のハイドンたちはどこかよそよそしい感じがするが、美術室のブルータスやヴィーナスとはすっかり顔馴染みだった。
故人は画竜点睛を欠くとかいうが、彼らの瞳に光が宿ってはかなわない。物言わぬ首像たちから無言の圧力を感じとりながら、心はすでにカンバスのむこうへと軽やかに跳躍する。
準備室から絵具ケースをもってきたらイーゼルの準備からはじめて、ぺんてるの筆洗器(バケツ)に水を汲もう。描くのは、そう――。
と、空想に耽るあきらの視界にソレは飛び込んできた。
ピエタの首だ。
ミケランジェロ作の聖母子像から首だけ切り落とした石膏像。目を伏せてうっそりと微笑むマリア。
あきらの意識を奪いとったのは、ピエタの顔そのものではない。彼女の頭蓋をおおうベール隠すようにして、一枚の白い紙切れが貼りつけられていたのだ。
四辺を折り畳まれたそれは、ノートの切れ端のように見える。美術選択の生徒たちの忘れ物だろうか。そう、疑問を感じたときにはすでに手が伸びていて、内容をあらためていた。
『十年後のあなたへ
あなたがこの手紙を読むころ、わたしはもう隣にはいないのでしょう。
あなたは、いま、誰かといますか? それとも、変わらず独りで黄昏ているのでしょうか?
そこはちょっとだけ、心配です。一匹狼なんだから。
この町で、この美術室で、あなたはいつもどこか遠くを眺めていましたね。
外の世界の言葉や、耳慣れない音楽。都会の人たちが語るような批評や評論。教室では無口なのに、あなたは本当はたくさんのことを知っていて、胸に秘めている尊い熱を、わたしだけにこっそり明かしてくれる瞬間が好きでした。ひょっとしたらスノッブを気取っていたのかもしれないけど、そんなところが魅力的に見えていたんです。
だって、わたしも、あなたといるときはいつも見栄を張っていたものだから。
ねえ、気づいてた? わたしは臆病で、弱気で、中途半端で、折れてばかりの、どうしようもない人間なんです。
誰にも見向きもされないまま、道端の雑草のように踏みつけられて、ひしゃげたまま終わりにしたってよかった。けど、隣に居たくて、もう少しだけと思ううちに、卒業式を迎えてしまう。
きっとそうするうちに、見過ごすことが上手くなって、きちんと大人になれるのかしら。あなたの前で、みんなの前で、わたしはわたしのまま、うまくわらえるようになるのかな。
そんな未来があればいいのにね。今でもずっと、そう思うの。
あなたは覚えていますか。あのころどうなりたかったか。わたしたちの願いの在り処がどこにあったのか。わたしは、ちゃんと覚えてるよ。
だから、何もかが平気になってしまう心静かな季節を受け入れるまえに、本懐を遂げることに決めました。
これでいいんです。最初からこれだけを求めていたんだから。
ここに最後の書き置きを残します。
町に春が来るよりも先に、わたしはこのちっぽけな命を絶ちます。
さようなら。
あなたと一緒に過ごせた日々は、わたしの人生にとって、数少ない幸せでした。』
読み終えて、ぞくり、と肌が粟立つ。
几帳面そうな細やかな字で綴られていたのは、淡く儚くも切実な想いの告白だった。
そしてこれは。おそらく。
「……遺書、だ」
あきらはそう、強く直感する。こんなことをするのは悪戯にしても意地が悪い。露見を期待してからかうような謎を撒いて。まるで静謐な美術室を冒涜するかのような行為。
腹の底から沸々とこみあげる熱を理性で冷ましながら、あきらは冷静であろうとつとめる。あたうかぎり感情に身を任せるべきじゃない。それをぶつけてもいいのは、白いカンバスの上でだけ。
深呼吸をすると、絵具のすえた油の匂いが肺を満たした。遺書を手に暮れなずむ夕日を浴びて、薄明色に染まった美術室で、あきらはまだ思案している。
――いったい、誰がこんなものを残したのか。
考えあぐねたところで答えは出ない。
そうだ、こんなときはあのひとに尋ねてみよう。あきらの脳裏には至極当然のアイデアが閃く。相談相手として適任の相手ならばひとりいる。あのひとならまちがいないはずだと、まっさきに名前が思い浮かんだ。
スカートの内ポケットに仕舞いこんだままの携帯を取り出して、アプリを起動。液晶画面の上で指先を踊らせてチャットウィンドウに文章を打ち込む。
〈アキラ:こんばんは。私です。今夜も海の底で会えますか?〉
昼休みの教室でも、放課後の図書室でも、街角のどんな場所でも。
ならばどこで鉛筆を握ればいいのかと考えたとき、美術室は適した場所だった。背後から家族に目視されるのは気恥ずかしいし、落書きをしたノートを級友に覗かれてはたまらない。下手の横好きならばなおのこと。
そう、淡々と思案をめぐらせながら、美波あきらは美術室を目指していた。
放課後の美術室はアトリエで、教室では目立たない彼女たちだけがつどう部室だ。
美術部の部員は、常日頃、イーゼルに画板を立てかけて互いに背を向けながら制作に没頭する。会話はない。鉛筆が画用紙を撫ぜるささやかな摩擦音、たまにくちゃくちゃとパンを食む咀嚼音が聞こえてくる程度。
実習棟の三階からではグラウンドで白球を追う生徒たちの喧騒も遠く、やる気のない顧問は週に一度顔をみせるだけで多くは語らない。扉が開かれないかぎりは、そこは常に静謐な楽園だった。
だからこそ、足取りは軽い。教室に向かうよりもずっと。
そしてこの日、夕刻の部室に足を踏み入れたのは、あきらひとりだった。
黄昏時――。重たい鉄扉を開いたさきには、色とりどりに汚れた机がずらりと並んでいる。
黒板は一面かぎり、教室の背面には隊列を組んだ石膏像。音楽室のハイドンたちはどこかよそよそしい感じがするが、美術室のブルータスやヴィーナスとはすっかり顔馴染みだった。
故人は画竜点睛を欠くとかいうが、彼らの瞳に光が宿ってはかなわない。物言わぬ首像たちから無言の圧力を感じとりながら、心はすでにカンバスのむこうへと軽やかに跳躍する。
準備室から絵具ケースをもってきたらイーゼルの準備からはじめて、ぺんてるの筆洗器(バケツ)に水を汲もう。描くのは、そう――。
と、空想に耽るあきらの視界にソレは飛び込んできた。
ピエタの首だ。
ミケランジェロ作の聖母子像から首だけ切り落とした石膏像。目を伏せてうっそりと微笑むマリア。
あきらの意識を奪いとったのは、ピエタの顔そのものではない。彼女の頭蓋をおおうベール隠すようにして、一枚の白い紙切れが貼りつけられていたのだ。
四辺を折り畳まれたそれは、ノートの切れ端のように見える。美術選択の生徒たちの忘れ物だろうか。そう、疑問を感じたときにはすでに手が伸びていて、内容をあらためていた。
『十年後のあなたへ
あなたがこの手紙を読むころ、わたしはもう隣にはいないのでしょう。
あなたは、いま、誰かといますか? それとも、変わらず独りで黄昏ているのでしょうか?
そこはちょっとだけ、心配です。一匹狼なんだから。
この町で、この美術室で、あなたはいつもどこか遠くを眺めていましたね。
外の世界の言葉や、耳慣れない音楽。都会の人たちが語るような批評や評論。教室では無口なのに、あなたは本当はたくさんのことを知っていて、胸に秘めている尊い熱を、わたしだけにこっそり明かしてくれる瞬間が好きでした。ひょっとしたらスノッブを気取っていたのかもしれないけど、そんなところが魅力的に見えていたんです。
だって、わたしも、あなたといるときはいつも見栄を張っていたものだから。
ねえ、気づいてた? わたしは臆病で、弱気で、中途半端で、折れてばかりの、どうしようもない人間なんです。
誰にも見向きもされないまま、道端の雑草のように踏みつけられて、ひしゃげたまま終わりにしたってよかった。けど、隣に居たくて、もう少しだけと思ううちに、卒業式を迎えてしまう。
きっとそうするうちに、見過ごすことが上手くなって、きちんと大人になれるのかしら。あなたの前で、みんなの前で、わたしはわたしのまま、うまくわらえるようになるのかな。
そんな未来があればいいのにね。今でもずっと、そう思うの。
あなたは覚えていますか。あのころどうなりたかったか。わたしたちの願いの在り処がどこにあったのか。わたしは、ちゃんと覚えてるよ。
だから、何もかが平気になってしまう心静かな季節を受け入れるまえに、本懐を遂げることに決めました。
これでいいんです。最初からこれだけを求めていたんだから。
ここに最後の書き置きを残します。
町に春が来るよりも先に、わたしはこのちっぽけな命を絶ちます。
さようなら。
あなたと一緒に過ごせた日々は、わたしの人生にとって、数少ない幸せでした。』
読み終えて、ぞくり、と肌が粟立つ。
几帳面そうな細やかな字で綴られていたのは、淡く儚くも切実な想いの告白だった。
そしてこれは。おそらく。
「……遺書、だ」
あきらはそう、強く直感する。こんなことをするのは悪戯にしても意地が悪い。露見を期待してからかうような謎を撒いて。まるで静謐な美術室を冒涜するかのような行為。
腹の底から沸々とこみあげる熱を理性で冷ましながら、あきらは冷静であろうとつとめる。あたうかぎり感情に身を任せるべきじゃない。それをぶつけてもいいのは、白いカンバスの上でだけ。
深呼吸をすると、絵具のすえた油の匂いが肺を満たした。遺書を手に暮れなずむ夕日を浴びて、薄明色に染まった美術室で、あきらはまだ思案している。
――いったい、誰がこんなものを残したのか。
考えあぐねたところで答えは出ない。
そうだ、こんなときはあのひとに尋ねてみよう。あきらの脳裏には至極当然のアイデアが閃く。相談相手として適任の相手ならばひとりいる。あのひとならまちがいないはずだと、まっさきに名前が思い浮かんだ。
スカートの内ポケットに仕舞いこんだままの携帯を取り出して、アプリを起動。液晶画面の上で指先を踊らせてチャットウィンドウに文章を打ち込む。
〈アキラ:こんばんは。私です。今夜も海の底で会えますか?〉
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
若月骨董店若旦那の事件簿~水晶盤の宵~
七瀬京
ミステリー
秋。若月骨董店に、骨董鑑定の仕事が舞い込んできた。持ち込まれた品を見て、骨董屋の息子である春宵(しゅんゆう)は驚愕する。
依頼人はその依頼の品を『鬼の剥製』だという。
依頼人は高浜祥子。そして持ち主は、高浜祥子の遠縁に当たるという橿原京香(かしはらみやこ)という女だった。
橿原家は、水産業を営みそれなりの財産もあるという家だった。しかし、水産業で繁盛していると言うだけではなく、橿原京香が嫁いできてから、ろくな事がおきた事が無いという事でも、有名な家だった。
そして、春宵は、『鬼の剥製』を一目見たときから、ある事実に気が付いていた。この『鬼の剥製』が、本物の人間を使っているという事実だった………。
秋を舞台にした『鬼の剥製』と一人の女の物語。
ミノタウロスの森とアリアドネの嘘
鬼霧宗作
ミステリー
過去の記録、過去の記憶、過去の事実。
新聞社で働く彼女の元に、ある時8ミリのビデオテープが届いた。再生してみると、それは地元で有名なミノタウロスの森と呼ばれる場所で撮影されたものらしく――それは次第に、スプラッター映画顔負けの惨殺映像へと変貌を遂げる。
現在と過去をつなぐのは8ミリのビデオテープのみ。
過去の謎を、現代でなぞりながらたどり着く答えとは――。
――アリアドネは嘘をつく。
(過去に別サイトにて掲載していた【拝啓、15年前より】という作品を、時代背景や登場人物などを一新してフルリメイクしました)
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

姉妹 浜辺の少女
戸笠耕一
ミステリー
警視庁きっての刑事だった新井傑はとある事件をきっかけに退職した。助手の小林と共に、探偵家業を始める。伊豆に休暇中に麦わら帽子を被った少女に出会う。彼女を襲うボーガンの矢。目に見えない犯人から彼女を守れるのか、、新井傑の空白の十年が今解き放たれる。
カフェ・シュガーパインの事件簿
山いい奈
ミステリー
大阪長居の住宅街に佇むカフェ・シュガーパイン。
個性豊かな兄姉弟が営むこのカフェには穏やかな時間が流れる。
だが兄姉弟それぞれの持ち前の好奇心やちょっとした特殊能力が、巻き込まれる事件を解決に導くのだった。
コドク 〜ミドウとクロ〜
藤井ことなり
ミステリー
刑事課黒田班に配属されて数ヶ月経ったある日、マキこと牧里子巡査は[ミドウ案件]という言葉を知る。
それはTMS探偵事務所のミドウこと、西御堂あずらが関係する事件のことだった。
ミドウはマキの上司であるクロこと黒田誠悟とは元同僚で上司と部下の関係。
警察を辞め探偵になったミドウは事件を掘り起こして、あとは警察に任せるという厄介な人物となっていた。
事件で関わってしまったマキは、その後お目付け役としてミドウと行動を共にする[ミドウ番]となってしまい、黒田班として刑事でありながらミドウのパートナーとして事件に関わっていく。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる