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第三章 天使とディーバの取引明細

31.誘惑の夢魔

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「待ってください!」

 叫ぶ。精一杯の息を吐いて。

 刹那、ぐにゃり――と、男の身体がひしゃげた。

 彼女の前で背を丸めていた男性は、その場にうずくまり、倒れ、打ちっ放しのコンクリートにだらりと手足を投げ出した。

 意識不明の昏倒。
 あっという間に、昏睡患者がひとりできあがる。

 ……呆気にとられてしまった。
 偶然居合わせて、自身はなにひとつ手を下していないとはいえ、目前でひとりの人間が不自然に失神する瞬間に立ち会ったのだ。

「あら。あなた――どこかで会ったお顔だね?」
 すべもなく茫然と立ち尽くす僕に、疑惑のまなざしを向ける女性がいた。

 おそらく、この人こそが犯人で間違いはないだろう。
 男が倒れ込む直前に、彼女は目を細めて、ふっと息を吹きかけるような仕草をしていた。アルコールのせいかもしれないが、足もとから頽れたのは耳元に魔性の吐息を浴びた直後だった。

 愛らしく首をかしげてみせる美女から、そそくさと目をそらす。思い出すのは、あられもない姿だから。

「……九遠堂の二階のベッドって、寝心地はいかがなものでしょうか」
「あ、そっかぁ! シドーのところに居た男の子だ!」

 ころころと鈴が転がるような声は無邪気なよろこびに満ちていて、罪悪感などかけらも感じさせない。
 椎堂さんの言葉を信じるならば、彼女は人ならざるもの。この程度のことは造作もないのだろう。

「ふーん、わたしのこと見てたんだ? うしろから匂いがすると思ったら、そういうことね。悪い子だなぁ」
「すみません。偶然見かけて気がかりでして。……この人、大丈夫なんですか?」

「ちょっと、ね。うっかりして骨抜きにしすぎちゃったみたい。あれこれしつこかったから眠ってもらっちゃった」

 まったく末恐ろしい。震え上がる猶予も与えられず、無作為に手首をとられる。

「じゃあ行こっか?」
「誰かに見咎められる前に、逃亡ってとこですか。この人は?」
「べつにこのままでもいいんじゃない? どうせ起きたら忘れてるし」

 そういうものなのか。
 たしかに、夏も盛りで熱帯夜が続いているため、地下駐車場にこのまま放置しても寝冷めすることもないだろう。

「あの……聞いてもいいですか。こういうことはめずらしくない、ということでしょうか。椎堂さんから聞きました。よく枕元に現れるそうで。あなたは夢魔……〈怪奇なるもの〉で、人のように見えていてもそれはまやかしで……」

 あなた、と呼びかけ続けるのはなんとももどかしい。
 名前を尋ねると、彼女は思ってみなかったようで、しばしの間考え込んでから答えてくれた。

「じゃあ、錦ユカリ。わたしの名前、それでいい?」
「では、ユカリさん。実はあなたのような方々のこと、詳しくは知らないんです。さきほどのように、人と関わることもあるようですけど、僕ら人間とは根本から異なる生き物……そう考えても、失礼にはあたりませんか?」

 かねてよりの疑問を素直に打ち明ける。
 九遠堂に身を置きながら、ここで当事者であるユカリさんに尋ねるのは遅いくらいだ。

「キミ、そんなことも知らないの? 椎堂ってば、なんでも優しく教えてくれるわけじゃないのね」
「あの人、とりわけ僕に親切だったことはないです、今のところ。佳代さんといい、いったいどこがいいのやら」
「そこはほら、恋しちゃってるから」

 ……色恋沙汰の機微にはうとい。
 話の飛躍についていけずうろたえる僕に対して、ユカリさんは泰然とした態度を崩さない。引っぱられた腕はそのまま、地下駐車場の奥へと連れていかれる。

 エレベーターを上がるとそこはオフィスビルの一階で、無機質なホールが待ち受けていた。

 壁際のプレートには有名企業が名を連ねており、めいめいが各階にオフィスをかまえているのが見てとれた。上階ではスーツ姿のビジネスマンたちが、遅くまで仕事に追われていることだろう。

 学生の身分では気後れしてしまうような静謐な空間を、ユカリさんは堂々と歩いていく。
 僕は連れられるがまま、彼女が語る言葉に耳を傾けていた。

「そうねぇ……わたしたちって、あやふやなの。現世での存在が不確かだから、モノやしがらみには囚われないんだけど、それって意味や価値が薄いってことだから。浮き世をただよう蜃気楼みたいなもの。わたしたちは、人々に一夜限りの夢を魅せるだけの存在。
 だから、この手に触れたことがあっても、たいていの人は忘れちゃう。本当は二度目ましての人にも、はじめましてを言うんだ」

 蜃気楼のような、あやふやな存在。

 在野の人外たちのなかでも、人間に対して友好的であるものは、人の形をとるのだとは椎堂さんも教えてくれた。夢魔であるユカリさんのような、人を模した〈怪奇なるもの〉が、この世界には昔からひっそりと共存しているのだろうか。

「それがね、ほかのみんなは平気だったみたいだけど、わたしは寂しかった。だれかに、わたしがわたしだって見つけて欲しかった。そんなときに、シドーと会ったんだ」
「椎堂さんと?」

「うん、わたしを覚えてくれていたの。あんな人はじめて。何度会ったかも覚えてくれていて、誘惑しても全然なびかなくて、わけがわからなくて! それからずっと特別」

「……そういうものですか」
「たまにそういう人がいるんだって。わたしたちの間では、マレビトって呼ぶのよ」

 ふたりのなれそめは理解できた。
 そして、ユカリさんが椎堂さんに執心する動機も。しかし気になることがある。

「わたしたち、なんですね」
「知りたい? いいよ。もっと色々教えてあげる。わたしたちのこと、怪奇なるものと人間たちのこと。だから……ね? いいでしょう?」

 正面玄関の自動扉を抜けると、生ぬるい夜風が頬をじっとりと撫でる。
 妙な状況に緊張していたせいか、背中には冷や汗がつたっていた。わずかだが呼吸も苦しい。

 まるで酸素不足にでも陥ったかのように頭がくらくらする。

 無理やりに腕を引かれたときから身構えてはいたのだが、どうにも警戒心が足りなかった。
 うかつだったのだ。妖艶な色香をまとう夢魔という生き物には、手玉にとった人間を屈服させる権能がそなわっているのかもしれない。

 奇特な店である九遠堂で働く一介のアルバイトであり、なりゆきで椎堂さんの弟子のような立場をとっているが、もとより僕は平凡な男子高校生である。

 ――はい、と頷くほかに一体なにができようか。


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