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第二章「契約更新は慎重に」
28.事件終わりの水まんじゅう
しおりを挟む土曜日がきて、九遠堂に顔を出す日がやってきた。
すでに毎週末のことながら、陰気な店主が仕切る店に通い詰める生活が問題なくつづいていることは、にわかに信じがたい。
アルバイトを決めた初心に揺らぐ気配がないあたり、我がことながら執念深いと思う。
学校での一件について、椎堂さんに話してみようかと考えた。
またも勝手に首を突っ込んだあげくに、藪をつついて蛇を出してしまった懺悔も兼ねて。
あのとき、四ノ宮くんは笑って言った。
――傷害事件の時効は三年なんだって。
中学時代のいじめが傷害事件として成立する規模だったのかは定かではない。立証が時と経過とともに困難になるであろうとも予想できる。
四ノ宮くんが中学一年時からバレー部に所属しており、上級生である鞘崎の卒業時までいじめを受けていたのならば、過去の事件はおよそ三年前の出来事になる。すでに時効なのだ。
そして先週末の土曜、四ノ宮くんは新たに怪我をした。
「椎堂さん。最近読んだ小説のはなしをしてもいいですか」
「随分と急だな」
「相づちは期待しませんから。すこしだけ仏像でいてください」
そう告げても、仏頂面の店主はまったく反応を示さない。
鉄面皮をくずさず、男は冷たい彫像のまま腕を組んでいる。
「完全犯罪をあつかった推理小説だったんです。作中では犯人が相手を殺すために階段にビー玉をおいていました。標的がうっかり足をすべらせて、打ちどころが悪くお亡くなりになれば儲け。うまくいくかは時の運任せ。いわゆるプロバビリティの犯罪です」
顎先を撫でていた椎堂さんの手が止まる。
「狡い手だな。仮に相手を仕損じたところで、疑いさえも生じない。幾度でも策を講じてやり直せばいい。――ゆえに完全犯罪か」
「そうなりますね。たとえば、靴底のすり減ったスニーカーを履かせて、十二階から一階までダンボールを運搬してもらうよう状況を設定して……相手が転んだとしたら。犯人は相手を先導するように階下にいて、足をすべらした被害者の下敷きになったのだとしたら――プロバビリティの犯罪といえるのか」
「まわりくどい手法をとる奴がいたものだ。下敷きになるのは犯人自身だろう」
まわりくどい、か。……椎堂さんがそれを言いますか。
ここから先はほとんど僕の想像だ。
四ノ宮くんに怪我をさせたのは鞘崎先輩なのだろう。だが、状況をつくったのは四ノ宮くん自身だ。
彼が自ら腕を折るように仕向けたのだとしたら……。その目的は、過去の事件を終わらせないことだろう。三年が経ったところで、四ノ宮くんは今も暗い倉庫の中にいて、そこから出ていくつもりは毛頭ないのだ。
彼が引きずり込んだ暗闇に、鞘崎先輩もともにいる。
僕にできることがあるとすれば。これから先の三年間のことは、ふたりのあいだに横たわる命題であるはずだからと、突き放すことだけだった。
「何だ。話し終えたというのに、一弾と浮かない顔だな」
帳場の奥からは億劫そうな声がする。
椎堂さんに見抜かれるとは。
「いえ、べつに。ちょっと自分に嫌気がさしていただけです」
「……ひとつ教えておいてやろう。先週の話だ。客人から連絡があってな。ひどく動揺した様子で、一度起きた出来事を無効にしたいと申し出てきた」
「どう、答えたんですか」
「あの客人に与えた品には、エンキムという名の〈怪奇なるもの〉が宿っている。とはいえ、あれは邪視から身を守る程度の低級な働きしかせんよ。その程度のもので、因果関係により発生した事象が覆えることなどない。そして、俺が客人に品を与えるのは一度かぎりだ」
そのようなルールがあったとは初耳だ。
「……ということは、椎堂さん。……騙くらかしましたね?」
「都合のいい解決策など、そう簡単に与えられるものか。だがしかし、いつの世も人はそれを求めずにはいられないから憐れなのだ」
椎堂さんの味方も、鞘崎の擁護も、どちらの立場も選びがたい。
しかし、そろそろ僕も認めざるを得ないのだろう。
世界には、この世ならざるものの手助けが必要な人間もいる。そういう者たちのために〈怪奇なるもの〉が存在し、九遠堂で縁を結ぶ。ここはそういう境界の場だ。
ふと、帳場の上に置かれたプラスチックの容器が目に入る。
輪ゴムで留められた容れ物の中には和菓子が二つ。
水まんじゅうだ。つるりとした半透明の葛に、絵の具をこぼしたように小豆色がにじんでいる。これはなにかと尋ねると。
「曽根河だよ。食らえと言って持ってきた。ちょうどいい、茶を煎れてこい。炊事場なら奥にある」
「煎れていいんですか? 店では飲食をしない主義とばかり」
「そこまで堅苦しくするつもりはないさ。お前も一息入れたいだろう」
おや、優しい。お言葉に甘えて炊事場へ駆け込む。
連絡があったということは、店主が携帯電話は持たずとも、店内には固定電話が設置してあるのだろう。お湯を沸かせて急須を温めて、肝煎りの玉露を湯飲みにそそいだら。水まんじゅうを御茶請けにして。
そして――椎堂さんに連絡先を尋ねよう。
翌週には修業式を終えて夏休みに突入し、バレー部にとっては決戦の場となるインターハイが始まった。試合には観戦に行かず、僕はのちほど万鐘高校バレー部が一回戦目で負けたことを伝え聞いた。
大会を最後に三年生が部を引退したそうだが、あれ以来、四ノ宮くんとは話をしていない。
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