14 / 21
四⑥
しおりを挟む
だって現に、章子は倒れているではないか。医者が問題ないと言っても、死の象徴である白黒の髑髏が見えなくとも、何より、章子自身が大丈夫だと言っているのだとしても、僕には今が、異常な事態であるだろうことが容易に想像出来るのであった。
桜が満開になる頃、章子は完全に寝たきりになってしまった。そうだというのに、医者はまだ、章子に悪いところはないと言い切る。僕はもう、医者には頼らないことにした。
章子は布団に横たわったまま、僕に申し訳ないと小さく謝罪した。僕は横になっている章子の口元に耳を持っていき、その言葉を聞き漏らさないようにする。
章子はもう、その目を開けることもやっとの様子だった。
僕たちのお気に入りの庭が見える寝室で、章子は何度も何度も謝罪する。
「もう……、私の命は、長くはないのです。ごめんなさい……」
「何を言っているのだい? 章子。例のアレは出ていない。章子の命はこれからも……」
「いいえ、直哉さん……」
僕の言葉を遮ると、章子は途切れ途切れに言葉を口にした。
今、章子の命の火は燃え尽きようとしているのだと。それは天が定めた、章子の天寿なのだと。
「天寿を全うする時……、死の象徴が目覚めることはないのです……」
「そんな……。それでは僕が章子にしてやれることはもう……」
僕の言葉に章子は何も言わなくなる。その沈黙が肯定を意味していることが分かり、僕は取り乱してしまう。
「そんな定め! 僕は認めない! 章子の寿命がここで尽きてしまうなんて、そんなこと、僕は……! 僕は……!」
悔しさから僕は血がにじむほど自身の手を握りしめる。そんな僕の様子に、章子は何も言わなかった。代わりに、
「ねぇ、直哉さん。障子を開けては、くださいませんか?」
小さな章子の願いの言葉に、僕は握りしめていた拳をほどいて立ち上がる。そうして庭に繋がる障子をがらりと開けた。春を告げる一陣の風が、寝室に入ってくる。
章子はその風を気持ちよさそうに受けながら、
「ありがとう、直哉さん……」
そう呟いた。僕が章子の傍へと戻ると、章子はゆっくりと僕の方へとその手を伸ばす。
僕はその伸ばされた章子の手を両手で大事に包み込んだ。その感触に、章子は幸せそうに微笑むと、
「あぁ……。涼しい風、ですね……」
章子はそう呟く。
「章子? ……あき、こ……?」
嘘だろう?
僕はそう思いながら章子へと声をかけるが、章子が反応を返してくれることはもう、ないのだった。
それからの日々を、僕はどう過ごしていたのか全く覚えていない。どうやら章子の葬儀なども終わっているようで、寝室には僕だけが一人座り込んでいた。
酷く頭が痛く、ぼーっとする。
章子の残り香を感じながら寝室から見える庭を睨み付けるように眺める。とっくに花の時期を終えた梅の木が、新たな命を湛えて青々としていた。その様子をしばらく見つめていた僕の視界にふと、風呂敷に包まれた荷物が目に入る。
(あんなもの、ここにあったか……?)
僕は不思議に思いながらものそのそとその荷物へと這い寄り、その包みを開けた。そこに現れた物に、僕は目を見張ることとなる。
(これ、は……)
呆然と眺めるそれは、梅の季節が終わる頃に庭で章子と撮った一枚の写真であった。写真の中の章子は白無垢に身を包み、幸せそうに微笑んでいる。
しかしもう、僕はこの笑顔に二度と会うことは出来ないのだ。
そう思うと同時に、僕の頬を一筋の涙が伝う。それに気付いた瞬間、もう僕の涙腺は堰を切ったように涙を溢れさせ、僕はそのまま写真を胸に抱いて、誰もいなくなった寝室で泣き崩れるのだった。
気付いた時、僕は写真を胸に横たわっていた。どうやら泣きながら疲れて、子供のように眠ってしまっていたようだ。
外は夕刻で、夕日が真っ赤に外を染め上げる。どこからか夕餉の香りが漂い、庭の垣根の向こう側からは家路に就く人々の笑い声と無邪気にはしゃぐ子供の声。
それはいつもの夕刻の風景ではあるのだが、僕の傍にはもう、いつものように章子の姿がない。
だから何故、彼らが笑っているのか僕には分からなかった。
何故、世界は終わっていないのか。
何故、時は進んでいくのか。
(分からない……)
何故、僕の世界も章子の世界が終わると同時に終わってはくれなかったのか。
何故、僕の時間だけが時を止めることなく進み続けているのか。
何故……。
泡沫のように生まれては消えていく数々の疑問に、答えてくれる声はもちろんない。それでも僕は考えずにはいられなかったのだ。『何故?』と。
そうしているうちに、僕は一つの答えに辿り着く。
(そうだ、僕が章子へ会いに行けば良いのだ……)
そうなのだ。
僕が、僕自身で、僕のこの惰性で続いているだけの時間を終わらせてしまえば良いだけなのだ。
そう気付いた僕はのろのろと立ち上がる。そうしてゆっくりとした足取りで玄関へと向かうとそのまま外へと出た。
今思えば僕のこの考えは全くのお粗末なもので、章子の元へ往くにも、あの歯音が僕には聞こえていなかったのだった。
しかしそんなことにも気付かないくらい僕はこの時疲弊していた。気付けば、人の往来が少なくなっている橋の欄干が目の前にある。
(ここを越えたら、僕は、章子に会えるんだ……)
しかし僕の次の行動は、意外な人物の声によって阻止されることとなる。
僕が欄干へ足をかけた時だった。
「島崎?」
僕の名を呼ぶ声に、僕は反射的に振り返る。そこで目が合った人物の名を、僕は思わず口にした。
「里見……?」
桜が満開になる頃、章子は完全に寝たきりになってしまった。そうだというのに、医者はまだ、章子に悪いところはないと言い切る。僕はもう、医者には頼らないことにした。
章子は布団に横たわったまま、僕に申し訳ないと小さく謝罪した。僕は横になっている章子の口元に耳を持っていき、その言葉を聞き漏らさないようにする。
章子はもう、その目を開けることもやっとの様子だった。
僕たちのお気に入りの庭が見える寝室で、章子は何度も何度も謝罪する。
「もう……、私の命は、長くはないのです。ごめんなさい……」
「何を言っているのだい? 章子。例のアレは出ていない。章子の命はこれからも……」
「いいえ、直哉さん……」
僕の言葉を遮ると、章子は途切れ途切れに言葉を口にした。
今、章子の命の火は燃え尽きようとしているのだと。それは天が定めた、章子の天寿なのだと。
「天寿を全うする時……、死の象徴が目覚めることはないのです……」
「そんな……。それでは僕が章子にしてやれることはもう……」
僕の言葉に章子は何も言わなくなる。その沈黙が肯定を意味していることが分かり、僕は取り乱してしまう。
「そんな定め! 僕は認めない! 章子の寿命がここで尽きてしまうなんて、そんなこと、僕は……! 僕は……!」
悔しさから僕は血がにじむほど自身の手を握りしめる。そんな僕の様子に、章子は何も言わなかった。代わりに、
「ねぇ、直哉さん。障子を開けては、くださいませんか?」
小さな章子の願いの言葉に、僕は握りしめていた拳をほどいて立ち上がる。そうして庭に繋がる障子をがらりと開けた。春を告げる一陣の風が、寝室に入ってくる。
章子はその風を気持ちよさそうに受けながら、
「ありがとう、直哉さん……」
そう呟いた。僕が章子の傍へと戻ると、章子はゆっくりと僕の方へとその手を伸ばす。
僕はその伸ばされた章子の手を両手で大事に包み込んだ。その感触に、章子は幸せそうに微笑むと、
「あぁ……。涼しい風、ですね……」
章子はそう呟く。
「章子? ……あき、こ……?」
嘘だろう?
僕はそう思いながら章子へと声をかけるが、章子が反応を返してくれることはもう、ないのだった。
それからの日々を、僕はどう過ごしていたのか全く覚えていない。どうやら章子の葬儀なども終わっているようで、寝室には僕だけが一人座り込んでいた。
酷く頭が痛く、ぼーっとする。
章子の残り香を感じながら寝室から見える庭を睨み付けるように眺める。とっくに花の時期を終えた梅の木が、新たな命を湛えて青々としていた。その様子をしばらく見つめていた僕の視界にふと、風呂敷に包まれた荷物が目に入る。
(あんなもの、ここにあったか……?)
僕は不思議に思いながらものそのそとその荷物へと這い寄り、その包みを開けた。そこに現れた物に、僕は目を見張ることとなる。
(これ、は……)
呆然と眺めるそれは、梅の季節が終わる頃に庭で章子と撮った一枚の写真であった。写真の中の章子は白無垢に身を包み、幸せそうに微笑んでいる。
しかしもう、僕はこの笑顔に二度と会うことは出来ないのだ。
そう思うと同時に、僕の頬を一筋の涙が伝う。それに気付いた瞬間、もう僕の涙腺は堰を切ったように涙を溢れさせ、僕はそのまま写真を胸に抱いて、誰もいなくなった寝室で泣き崩れるのだった。
気付いた時、僕は写真を胸に横たわっていた。どうやら泣きながら疲れて、子供のように眠ってしまっていたようだ。
外は夕刻で、夕日が真っ赤に外を染め上げる。どこからか夕餉の香りが漂い、庭の垣根の向こう側からは家路に就く人々の笑い声と無邪気にはしゃぐ子供の声。
それはいつもの夕刻の風景ではあるのだが、僕の傍にはもう、いつものように章子の姿がない。
だから何故、彼らが笑っているのか僕には分からなかった。
何故、世界は終わっていないのか。
何故、時は進んでいくのか。
(分からない……)
何故、僕の世界も章子の世界が終わると同時に終わってはくれなかったのか。
何故、僕の時間だけが時を止めることなく進み続けているのか。
何故……。
泡沫のように生まれては消えていく数々の疑問に、答えてくれる声はもちろんない。それでも僕は考えずにはいられなかったのだ。『何故?』と。
そうしているうちに、僕は一つの答えに辿り着く。
(そうだ、僕が章子へ会いに行けば良いのだ……)
そうなのだ。
僕が、僕自身で、僕のこの惰性で続いているだけの時間を終わらせてしまえば良いだけなのだ。
そう気付いた僕はのろのろと立ち上がる。そうしてゆっくりとした足取りで玄関へと向かうとそのまま外へと出た。
今思えば僕のこの考えは全くのお粗末なもので、章子の元へ往くにも、あの歯音が僕には聞こえていなかったのだった。
しかしそんなことにも気付かないくらい僕はこの時疲弊していた。気付けば、人の往来が少なくなっている橋の欄干が目の前にある。
(ここを越えたら、僕は、章子に会えるんだ……)
しかし僕の次の行動は、意外な人物の声によって阻止されることとなる。
僕が欄干へ足をかけた時だった。
「島崎?」
僕の名を呼ぶ声に、僕は反射的に振り返る。そこで目が合った人物の名を、僕は思わず口にした。
「里見……?」
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
職員室の異能者共
むらさき
キャラ文芸
とある中学校の職員室。
現代社会における教師たちの生活において、異能は必要でしょうか。いや、必要ありません。
しかし、教師達は全て何らかの異能力者です。
それは魔法使いだったり、召喚士だったり、人形遣いだったり。
二年生の英語科を担当するヤマウチを中心とした、教師たちの日常を淡々と書いた作品です。
ほとんど毎回読み切りとなっているので、どれからでもどうぞ。
生徒はほとんど出てきません。
こっそりとゲーム化中です。いつになることやら。
あなたになりたかった
月琴そう🌱*
キャラ文芸
カプセルから生まれたヒトとアンドロイドの物語
一人のカプセルベビーに一体のアンドロイド
自分たちには見えてない役割はとても重い
けれどふたりの関係は長い年月と共に他には変えられない大切なものになる
自分の最愛を見送る度彼らはこう思う
「あなたになりたかった」
鉄格子のゆりかご
永久(時永)めぐる
恋愛
下働きとして雇われた千代は、座敷牢の主である朝霧の世話を任される。
お互いを気遣い合う穏やかな日々。
それはずっと続くと思っていたのに……。
※五話完結。
※2015年8月に発行した同人誌に収録した短編を加筆修正のうえ投稿しました。
※小説家になろうさん、魔法のiらんどさんにも投稿しています。
管理機関プロメテウス広報室の事件簿
石動なつめ
キャラ文芸
吸血鬼と人間が共存する世界――という建前で、実際には吸血鬼が人間を支配する世の中。
これは吸血鬼嫌いの人間の少女と、どうしようもなくこじらせた人間嫌いの吸血鬼が、何とも不安定な平穏を守るために暗躍したりしなかったりするお話。
小説家になろう様、ノベルアップ+様にも掲載しています。
鬼道ものはひとり、杯を傾ける
冴西
キャラ文芸
『鬼道もの』と呼ばれる、いずれ魔法使いと呼ばれることになる彼らはいつの世も密やかに、それでいてごく自然に只人の中にあって生きてきた。
それは天下分け目の戦が終わり、いよいよ太平の世が始まろうというときにおいても変わらず、今日も彼らはのんびりと過ごしている。
これはそんな彼らの中にあって最も長く生きている樹鶴(じゅかく)が向き合い続ける、出会いと別れのお話。
◎主人公は今は亡きつがい一筋で、ちょいちょいその話が出てきます。(つがいは女性です。性別がくるくる変わる主人公のため、百合と捉えるも男女と捉えるもその他として捉えるもご自由にどうぞ)
※2021年のオレンジ文庫大賞に応募した自作を加筆・修正しつつ投稿していきます
【完結】陰陽師は神様のお気に入り
綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
キャラ文芸
平安の夜を騒がせる幽霊騒ぎ。陰陽師である真桜は、騒ぎの元凶を見極めようと夜の見回りに出る。式神を連れての夜歩きの果て、彼の目の前に現れたのは―――美人過ぎる神様だった。
非常識で自分勝手な神様と繰り広げる騒動が、次第に都を巻き込んでいく。
※注意:キスシーン(触れる程度)あります。
【同時掲載】アルファポリス、カクヨム、エブリスタ、小説家になろう
※「エブリスタ10/11新作セレクション」掲載作品
アルテミス雑貨店~あやかしたちの集まる不思議な店
あさじなぎ@小説&漫画配信
キャラ文芸
片田舎の商店街の一角に、イケメン店員がいると噂の雑貨屋がある。
「アルテミス雑貨店」
それがお店の名前だった。
従業員は3人。店長と店員と学生バイト。
だけど店長は引きこもりで出てこない。
会えたら幸せになれるなんて噂のある店長、笠置(かさぎ)のもとにはおかしな客ばかりが訪れる。
そんな雑貨屋の、少し不思議な日常。
※むかーしなろうに投稿した作品の改稿版です
※イラストはフォロワーのねずみさんに描いていただいたものになります
ハバナイスデイズ!!~きっと完璧には勝てない~
415
キャラ文芸
「ゆりかごから墓場まで。この世にあるものなんでもござれの『岩戸屋』店主、平坂ナギヨシです。冷やかしですか?それとも……ご依頼でしょうか?」
普遍と異変が交差する混沌都市『露希』 。
何でも屋『岩戸屋』を構える三十路の男、平坂ナギヨシは、武市ケンスケ、ニィナと今日も奔走する。
死にたがりの男が織り成すドタバタバトルコメディ。素敵な日々が今始まる……かもしれない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる