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第一章
五 瀬織津姫/橋姫①
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奏がようやく『見える』世界に慣れて来た頃。
晩夏ではあったがまだまだ暑さの厳しい日々が続いていた。
奏は田んぼのあぜ道を歩いている。そうして歩いていると、大カブトエビと対峙した田んぼに差し掛かった。大カブトエビのいる田んぼの稲は健やかに育っていた。当の大カブトエビは姿を現さなかったが、きっと今でも田んぼを守っているのだろう。
奏が来た道を戻ろうとした時だった。
「あら、ヤタガラスじゃない」
目の前に何度目になるか分からない、見知ったカラスが舞い降りた。これはツクヨミからの呼び出しだろう。そうあたりをつけて、奏はヤタガラスの後を追った。
ヤタガラスも慣れたもので、ゆっくりと舞いながら奏を導いていく。そうして山の中に入っていくと、やはり見慣れた祠のある開けた場所へと通じた。
「こんにちは、奏くん」
透明な声に顔を向けると、そこには銀髪の美しい青年の姿があった。ツクヨミだ。
「今回はどんなご依頼なのかしら?」
奏はこの美しい神に臆することなく尋ねる。尋ねられたツクヨミは少し微苦笑していた。
「そろそろあずさも来るはずなんだ。そしたら今回の依頼をお願いするね」
ツクヨミはそう言うと、空を見上げた。
「こんな昼間に動けるのは本当に久しぶりだ……」
それは少し懐かしそうなツクヨミの声だった。
ツクヨミは夜を司る神様だ。昼間はアマテラスが司っている。そのアマテラスとの不仲をあずさが仲裁した。だからこうして昼間でも姿を現せるようになっていた。
「相変わらず、山道を行くのね」
声のした方を振り返るとあずさが汗を垂らしながらやって来ていた。
「ヤタガラスが現れると必ずツクヨミの所に連れて来られちゃう」
あずさは少しげんなりした様にツクヨミを見て言った。それを受けたツクヨミは苦笑いを浮かべていた。
「揃ったようだね」
ツクヨミがそう言うと、祠が小さく光った。それは瓊瓊杵尊が降臨した時と同じ現象だ。今度は何の神が降りてくるのか。奏は緊張した面持ちで祠を見つめるのだった。
小さく光った祠の後ろから現れたのは、雪のように真っ白な肌をした二十歳過ぎ頃の女だった。その女には右腕が無かった。美しいその姿に、腕がないことが痛々しい。
「お初にお目にかかります。私、瀬織津姫と申します」
瀬織津姫と名乗った女性は丁寧に奏たちにお辞儀をした。
「瀬織津姫?」
さすがの奏も、その名前にはぴんと来なかったようだ。その様子に瀬織津姫は、
「橋姫、と名乗った方が通りが良いでしょうか」
「橋姫ですって?」
今度は奏の中でぴんと来たようだった。
「橋姫って?」
あずさは素直な疑問を口にする。それに奏は答えた。
「平家物語って知っているかしら? そこに書かれている橋姫の伝説があるの」
橋姫にはどうしても呪いたい相手がいた。それで貴船のタカオカミノカミへと願いごとをする。するとタカオカミノカミは彼女へ条件を出したのだった。橋姫はその条件を飲み、その願いは成就することとなる。
しかしその後も無差別に都の人間を呪い殺していた橋姫はある日、一人の青年によって腕を切り落とされてしまう。その腕を切った刀の名が髭切と言われている。
「橋姫は非常に嫉妬深い神と言われているわ。橋姫が守る橋を男女で渡ると、その男女の縁は切られてしまう、と。それから橋姫は縁切りの神様とされているの」
「うわぁ~……」
それで片腕がないのか、とあずさは妙に納得していた。話を聞いていた橋姫はそこで口を挟む。
「殆ど事実ですけど、事実と異なることもありますわ。私は、最早誰も恨んではいません」
橋姫は続ける。
男女が仲睦まじく橋を渡ったところで、嫉妬心は生まれてこないこと。その縁を切ったこともないと言うこと。ただ一つだけ、髭切に関してだけは今でも根に持っているらしい。
そんな橋姫の元にはたくさんの『縁切り』を祈願する人間たちが集まっていた。橋姫はそれらの縁《えにし》を、気分によって選び、切ってきたと言う。それが自分に課せられた仕事だったからだ。
「しかし私も、縁を結びたいと、考えているのです」
そこで橋姫は話を切った。
「つまり、縁を結ぶ手伝いをして欲しい、というご依頼なのかしら?」
奏の言葉に橋姫はこくりと頷いた。
「期限は設けておりません。私は私なりに縁を結びたいのです」
そう言う橋姫の強い瞳は本気であることの証明だった。
「私は普段、あちらの橋のたもとにおります。用がありましたら、そちらまで会いに来ていただきたいのです」
橋姫が指差す方角には大きな川にかかる橋が一つ。その橋のたもとには柳の木が植えてあった。橋姫はその橋からあまり動けないと言う。橋を守ること、それが橋姫のもう一つの使命だからだ。
奏は少し苦い顔をしていた。この依頼は難しそうだ。縁切りの橋と言われいている橋に、縁結びを祈願するものなどいないだろう。しかしあずさは明るく言った。
「つまり、縁結びがしてみたいってことよね。任せて!」
あずさの言葉に、橋姫は美しい顔を破顔し頷いた。そしてゆっくりと祠の方へと消えていく。橋姫の気配が消えた頃に、ツクヨミが心配そうにあずさに声を掛けた。
晩夏ではあったがまだまだ暑さの厳しい日々が続いていた。
奏は田んぼのあぜ道を歩いている。そうして歩いていると、大カブトエビと対峙した田んぼに差し掛かった。大カブトエビのいる田んぼの稲は健やかに育っていた。当の大カブトエビは姿を現さなかったが、きっと今でも田んぼを守っているのだろう。
奏が来た道を戻ろうとした時だった。
「あら、ヤタガラスじゃない」
目の前に何度目になるか分からない、見知ったカラスが舞い降りた。これはツクヨミからの呼び出しだろう。そうあたりをつけて、奏はヤタガラスの後を追った。
ヤタガラスも慣れたもので、ゆっくりと舞いながら奏を導いていく。そうして山の中に入っていくと、やはり見慣れた祠のある開けた場所へと通じた。
「こんにちは、奏くん」
透明な声に顔を向けると、そこには銀髪の美しい青年の姿があった。ツクヨミだ。
「今回はどんなご依頼なのかしら?」
奏はこの美しい神に臆することなく尋ねる。尋ねられたツクヨミは少し微苦笑していた。
「そろそろあずさも来るはずなんだ。そしたら今回の依頼をお願いするね」
ツクヨミはそう言うと、空を見上げた。
「こんな昼間に動けるのは本当に久しぶりだ……」
それは少し懐かしそうなツクヨミの声だった。
ツクヨミは夜を司る神様だ。昼間はアマテラスが司っている。そのアマテラスとの不仲をあずさが仲裁した。だからこうして昼間でも姿を現せるようになっていた。
「相変わらず、山道を行くのね」
声のした方を振り返るとあずさが汗を垂らしながらやって来ていた。
「ヤタガラスが現れると必ずツクヨミの所に連れて来られちゃう」
あずさは少しげんなりした様にツクヨミを見て言った。それを受けたツクヨミは苦笑いを浮かべていた。
「揃ったようだね」
ツクヨミがそう言うと、祠が小さく光った。それは瓊瓊杵尊が降臨した時と同じ現象だ。今度は何の神が降りてくるのか。奏は緊張した面持ちで祠を見つめるのだった。
小さく光った祠の後ろから現れたのは、雪のように真っ白な肌をした二十歳過ぎ頃の女だった。その女には右腕が無かった。美しいその姿に、腕がないことが痛々しい。
「お初にお目にかかります。私、瀬織津姫と申します」
瀬織津姫と名乗った女性は丁寧に奏たちにお辞儀をした。
「瀬織津姫?」
さすがの奏も、その名前にはぴんと来なかったようだ。その様子に瀬織津姫は、
「橋姫、と名乗った方が通りが良いでしょうか」
「橋姫ですって?」
今度は奏の中でぴんと来たようだった。
「橋姫って?」
あずさは素直な疑問を口にする。それに奏は答えた。
「平家物語って知っているかしら? そこに書かれている橋姫の伝説があるの」
橋姫にはどうしても呪いたい相手がいた。それで貴船のタカオカミノカミへと願いごとをする。するとタカオカミノカミは彼女へ条件を出したのだった。橋姫はその条件を飲み、その願いは成就することとなる。
しかしその後も無差別に都の人間を呪い殺していた橋姫はある日、一人の青年によって腕を切り落とされてしまう。その腕を切った刀の名が髭切と言われている。
「橋姫は非常に嫉妬深い神と言われているわ。橋姫が守る橋を男女で渡ると、その男女の縁は切られてしまう、と。それから橋姫は縁切りの神様とされているの」
「うわぁ~……」
それで片腕がないのか、とあずさは妙に納得していた。話を聞いていた橋姫はそこで口を挟む。
「殆ど事実ですけど、事実と異なることもありますわ。私は、最早誰も恨んではいません」
橋姫は続ける。
男女が仲睦まじく橋を渡ったところで、嫉妬心は生まれてこないこと。その縁を切ったこともないと言うこと。ただ一つだけ、髭切に関してだけは今でも根に持っているらしい。
そんな橋姫の元にはたくさんの『縁切り』を祈願する人間たちが集まっていた。橋姫はそれらの縁《えにし》を、気分によって選び、切ってきたと言う。それが自分に課せられた仕事だったからだ。
「しかし私も、縁を結びたいと、考えているのです」
そこで橋姫は話を切った。
「つまり、縁を結ぶ手伝いをして欲しい、というご依頼なのかしら?」
奏の言葉に橋姫はこくりと頷いた。
「期限は設けておりません。私は私なりに縁を結びたいのです」
そう言う橋姫の強い瞳は本気であることの証明だった。
「私は普段、あちらの橋のたもとにおります。用がありましたら、そちらまで会いに来ていただきたいのです」
橋姫が指差す方角には大きな川にかかる橋が一つ。その橋のたもとには柳の木が植えてあった。橋姫はその橋からあまり動けないと言う。橋を守ること、それが橋姫のもう一つの使命だからだ。
奏は少し苦い顔をしていた。この依頼は難しそうだ。縁切りの橋と言われいている橋に、縁結びを祈願するものなどいないだろう。しかしあずさは明るく言った。
「つまり、縁結びがしてみたいってことよね。任せて!」
あずさの言葉に、橋姫は美しい顔を破顔し頷いた。そしてゆっくりと祠の方へと消えていく。橋姫の気配が消えた頃に、ツクヨミが心配そうにあずさに声を掛けた。
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