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季節がめぐることを望んで
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明くる日、午後七時十分。今日は大きな仕事が多く午前中からバタバタとしていたけれど、それはお昼を過ぎると段々と数が減っていき、閉店間際になる頃にはすっかり落ち着いて静けさを取り戻していた。
最初はどうなるかと思ったけれどこれは好都合だ。私は昨日から悶々としていたことに対しての答えを知るという望みがとうとう叶うことに喜び、いつになく時間が進む速さが遅いとやきもきしていたのだから。来る時間の前に立ちふさがっている仕事へ終止符を打つべく震える手を堪えながらタイムカードをタイマーに差し込む。ちょっとだけ勢いよく入れてしまって大丈夫かと思ったけれど、いつもなら二、三回やり直す羽目になっていたことが一回で済むことが出来て、私は今日で何回目になるか分からないガッツポーズを作ったのだった。
「あ、あの……ごめんなさい、お先に失礼しますっ……」
「ん、ああ、はいはい! お疲れ様ー!」
「すみません、失礼しま……っす?!」
そう言いかけて何かに足をぶつけ、もつれが解けないまま私の身体は地面へ腹から倒れ込み叩きつけられる。思わず自宅に居る時のような野太い声が漏れ出てしまった……。
「ちょ……! 愛衣ちゃん! 平気!?」
「あああ……き、効く……!」
「もう、慌てるからだよ。はい、飛んでったメガネ。……そういえば今日の愛衣ちゃん落ち着きがないなー? 今日は珍しく愛衣ちゃんが《魔の羽毛布団コーナー》の雪崩を起こしちゃうし。ダメダメ。短気は損気よ?」
「う……! ご、ごめんなさいみきさん……。その、あの……」
「うんうん、分かればいいのよ。でもらしくないぞー? 何をそんなに焦ってるの?」
みきはそう言いながら私の前にしゃがみ込みこちらの顔を覗き込んでいる。その顔には困っているような表情が浮かび、いつも良くしてくれているみきにそんな表情をされてしまうと私の中で申し訳無さが一気に湧き出してしまう。
確かにみきが言っている通り、いつもの私らしくない行動ばかりしているのは自覚しているつもりだ。今日は午前中が忙しいということもあったからだけれど、昨夜かりんから貰ったメッセージを忘れることが出来ずその真相を確かめたいとばかり思ってしまいミスばかりが続いていたのである。
その度にみきたちに注意を受けていたのだから軽率すぎた自らの行動が少しばかり憎く思えてしまう。よく「焦らず急げ」と言われるけれど、私にとっては難しいものだ。けれどもそれはきっと自分自身のためにもなり得るもののはずだ。ならば気になっていることを気持ち良く知りたいのならもっとしっかりとこなさなければ……。
今日あったことを反省し失敗に頭を冷やしていると前から視線を感じて私の注意もその方向を辿る。きっとみきは話を途中で切り黙り込んだ私を変に思っているのかもしれない。おそるおそるみきの顔を見てみると、みきは私の心配をよそにニヤニヤとしながら良からぬことを考えている表情を向けて私のことを見つめていたのだった。
「ど、どうしました……?」
「いやー? あの愛衣ちゃんが冷静さを欠いてるってことはよほど楽しみなことがあるんだろうなって思って……」
「う……」
「さては今日もおっパブに行くんだな!? 明日のシフト休みだしね! もーこのスケベ! 味をしめちゃってぇ!」
「……。違います」
どうやら、みきの鋭い勘も外れることがあるようだ。
「うわ! 急に冷静になったし! 温度差が激しいなァもう」
みきはそう言って私に手を差し伸べて立ち上がらせてくれる。それどころかこちらの服の汚れを払ってくれた。
「これでよし! さ、夜は危ないからね。気を付けて帰るのよ……ああ、用事を済ませてから気を付けて帰るのよ!」
「は、はい……! ありがとうございます、みきさん……おかげで頭が冷えました……」
「あははっ! うんうん、結構よ! それじゃあね! また明後日、元気に出勤してきてね!」
そんな言葉ととともに私の背中は優しく叩かれる。振り返るとみきが私に見せていた表情というのはその叩いた強さと同じようでにこりとして温かなものであった。
その表情を見ながら挨拶を交わし礼をしてから今度こそ会社の職員出入り口へと向かっていく。今度は先ほどまでと違う落ち着きを取り戻して回りに気を配ることが出来ている。こうやって気付くことが出来ると、自らの気持ちばかりが先走って居たことが何故だろうと会社の外に出ながら思えてしまうものだ。
「……。よし、行こう……」
気を取り直し今まで居た会社から視線を外し振り返る。私の直ぐ側では何台もの車が通り過ぎて行き、こちらが進む歩道の何倍もの数がこちらの前に現れては走り去っていく。都心とは違い郊外都市であるこの周辺では国道が通っていることもあり昼夜関係なく車の通りが多いのだ。
人によってはうるさいと思うだろうし環境問題を重視している人からすれば由々しき光景であるのだろう。けれども私にとってはとても都合のいいものであるのだ。こうやって何かの影に紛れられることは、自らの望むことに集中出来るのだから。
いくつかの信号を横切り、まだ明かりが消えない幾つかの事業所が入ったビルの光をかすめ、会社を出る前に起きた焦りにも似た気持ちがついぶり返しそうになってしまうことを堪えながら、段々と人通りが多くなっていく中を歩いていく。このまま進んでいけば私は昨日みきと待ち合わせていた駅前広場へと辿り着くことができるのだ。その目的はもちろん、昨日私宛にメッセージをくれたかりんと出会うために。……いいや、あれが本当に私を喚んでくれたものなのかを確かめるために。
「……ついた。……ここなら、分かるよね」
私はまだ、〝かりん〟という人物をよく知らない。昨日出会ってもっと知ってみたいと思ったかりんという人の全貌をまだ知らないのだ。
だから彼女が私宛にくれたものが本気のものだったのかどうか見極めるには難しいものがある。あれだけ私のことを「かわいい」などと連呼していたことを思えば、単純に誂っていただけだったのかもしれない。面白半分、あまり気持ちの良いものではない過去の記憶を思い出し、いらつきは私にため息をつけと感情に促した。
面白がって私に秘密のささやきを持ちかけたのかもしれない。けれどももし、それが本当のことだとしたら、かりんの本心だったとしたら? ――もし私が人を疑うばかりに彼女の気持ちに応えてあげられなかったのなら、私はひょっとしたらかりんが渡してくれた本心を握りつぶしてしまうかもしれない。だから、確かめて知りたいのだ。
……昨夜、たまらず性欲を吐き出したことが脳裏を過ぎっているから、掻き出し愛液にまみれた指を見て期待に胸を膨らませていた私自身が居たのだから確かめてみたい。
それは私の好奇心を抱く臆病な心がそうさせるのか、はたまた昨日から治まらない醜い性欲がそうさせるのか。だからこそ確かめたいのである。
「……ま、最初からここに来るつもりではあったんだけどね……。……かりんちゃんにもう一回、会いたかったから……難しく考えても仕方ないや」
会社を出てから十分の道のりを歩いてきていまさら深く考えすぎるのはよそうとズボンのポケットから自らのスマートフォンを取り出す。手帳型のケースを開き、スマートフォンの隣にはコンビニへ行った時しか使わないポイントカードと一緒に昨日貰ったかりんの名刺が差し込まれている。すぐ取り出せるようにと私が昨日の内に入れたものだ。
ケースから名刺を取り出し一度辺りを見渡す。一週間の真ん中の日とは言え人通りがかなり多く私の直ぐ側はたくさんの人が歩いていきこちらを抜かしていく。このまま路上で電話をかけてしまうと迷惑極まりないだろうからと、辺りを見渡し一番最初に視界へ飛び込んできた自動販売機の前に近付いて、とりあえず行動ができる自由を手に入れたのだった。
「……ここなら邪魔にならないよね。……えっと、080……」
スマートフォンを片手に電話番号を打ち込んでいく。全てを打ち込み発信してからスマートフォンを耳に当てると「お呼び出し中です」というアナウンスの次に賑やかな音楽が聞こえてきて、その音楽が聞こえている間はずっと電話に出てくれるだろうかという気持ちで一杯になってしまう。そんな風に不安と緊張の間挟みになっていても私の目の前を行き交う風景は変わることはなかった。
相変わらずの人の多さも夜の中に浮かぶ街の中の光も、急いでタクシーに駆け込む人の姿さえも、忙しく急発進したタクシーから投げかけられたヘッドライトの光に目が眩んでも。その全てが同じものとして映りこんでくるのである
――けれどその瞬間、私の耳に聞こえていた賑やかなダンスミュージックは聞こえなくなった。その代わりに聞こえてきたのは雑音と、昨日も聞いていたかりんの元気な可愛らしい声であった。
『――よっこらしょ……っと。はいはーい! モロハシでーっす!』
「……え」
聞こえてきた声は間違いなくかりんの声であると確認出来たが、彼女が名乗った単語に聞き覚えがなく思わずスマートフォンを耳から離して画面を確認してしまう。しかし、そうしても画面に映し出されているのは私が打ち込んだ電話番号だけ。もう一度名刺と照らし合わせてみるけれど間違ってはいないようだ。
『……? おーい! もしもーし!』
「も、もしもし」
『……あ! もしやその声はメイちゃんかな!? やったーっ! えへへ、電話してくれたんだ……! ……うれし、ありがとね……って、あーッ』
耳を当てている受話器からは嬉しくも恥ずかしがっているかりんの声が聞こえてくる。同時に何かに気がついた声が、叫んでいると言った方が正しい音が私の耳を突き刺し驚いて耳元からスマートフォンを遠ざけてしまう。まるで衝撃波のような叫びだ……。
「び、びっくりした……!」
『ご、ごめんごめん! ていうか別な意味でもごめんね! いつも電話に出る時みたいな名乗りで出ちゃって、分かんなかったよね! 下の名前しか知らないメイちゃんにとって本名言われてもアンタ誰ってなるよね! アハハ! ごめーん!』
そんな笑い声が私の耳に届き、やがて一杯になって顔がほころび始める。――嬉しい、その言葉が今の気持ちに当てはまるものだ。
「い、いいよ。大丈夫、気にしないで」
『うー! 今日もメイちゃんの声が聞けてあたし嬉しいよ! ……あ。ということは、あたしに会いに来てくれたってことで良いのかな?』
「う、うん。そうだけど……それより、今電話して大丈夫だったの? お仕事あるんじゃ……」
『だいじょーぶ! 今日はオフだったから! ヒマ人してました!』
かりんからその言葉を聞くと何となくであるが勿体なく思えてしまう。ひょっとしたら私も休みだったら一日一緒に居ることが出来たのではないのだろうか。
『ねね! お互いに時間が取れたんだからさこれから会わない? あたし晩ごはん食べようと思って外に出てるからさ!』
「あ……うん、そうだね。……えっとね、私が居る場所は」
「――よーっ!」
辺りを見渡し今私が居る場所を説明しようとしていると――両腕を上に伸ばしバンザイしながら私の視界に誰かが映り込む。突然そうされて驚いたけれど、よく見てみると、そこに居たのは昨日も見た綺麗なアッシュブロンドヘアーをなびかせたかりんの姿であった……!
昨日見た時のような色っぽいドレスではなく、もこもことした淡いピンク色の暖かそうな上着にカジュアルなジーンズ、スニーカーと言った、いかにも休日の服装という格好で佇み淡いピンク色のマスクで顔を隠していた。
「……! か、かりんちゃん……!?」
「どもどもーっ! ……えへへっ。昨日ぶりだねメイちゃん! 良かった、来てくれてあたし本当に嬉しいよ!」
「う、うん……ふふっ……! それより、かりんちゃんも駅前に来てたんだね」
「たまたま来てたんだよ! そしたらメイちゃんから電話かかってきて、よっしゃーって思ってたらコソコソ電話してるメイちゃん見つけてさ!」
ということはどうやら偶然のことのようだ。それを裏付けるようにかりんは通話を切っていた私の手を握りその場で飛び跳ねし始めている。
「えへ、えへへっ……。よーし! じゃあ早速デートしよっか!」
「デ、デート……?!」
「うん! あたしお気に入りのメイちゃんとそういうことしたくって! あとそういう気分だし! ……ごめん、はしゃぎすぎだったかな」
飛び跳ねていた勢いは落ち着きを取り戻し、それに伴ってかりんからは心配そうな声色が聞こえてくる。私の手を握り、大事そうに握ってはしっかりと離さないように私の指を絡め、言葉と行動を重ねながら私の顔を覗き込んでいた。
私とは違いどんどん話を進めていくかりんの性格を彼女自身でも分かっているからこその行動のようで、彼女の手を通して感じているこの震えは、今この瞬間を大切にしていたいと思っているかのように感じ取れるのだ。
他人に流されがちな今までの経験があるから私の目にはかりんの様子がとても新鮮に映り込んでくる。だからこそ私は私自身の意志でかりんの手を握り返す。そんなことはない、むしろ嬉しいと気持ちを込めて。そうすると自然と笑みはこぼれた。――嬉しかったから。
「……ううん、そんなことないよ。……デ、デート……しよっか……?」
「……。……くーっ! デートとかそういう単語を言い慣れてない女の子にそう言われるのって……すごくイイ……! 快感……!」
「……なんだかバカにされた気がする……」
「してないしてない! もーっ、いじけないでよォ」
そう言われながらこの身体はかりんの体温に包まれる。こうして改めて見ていると昨日見た背が高いと思っていたかりんの姿はなく、それほど背の高くない私と同じくらいの高さでこちらの身体は包まれていく。例えヒールを履いていたとしてもこんなに違うように思えるのだろうかと、正直な話、この華奢な身体つきには驚いてしまう。
それより、こんな人の目が多いところで抱きつかれると変に緊張してしまうのだが……。
「よーし! それじゃあさご飯食べに行こうよ! メイちゃんもまだでしょ? さっきお仕事終わったんだろうからさ」
「うん、ちょうどお腹すいたかな」
「決定ー! えへへ、それじゃあ行こうよ」
「うん、そうだね。ところで……何を食べに行くの?」
「あたしラーメンが大好きなんだ! だから今日の予定はそういう方向で行こうと思いまして! ……まあ、昨日もラーメン食べたんだけどさ?」
「ふふ……よっぽど好きなんだね」
「そうなんですよ! いっそのことお風呂もラーメンだったら良いのになぁって!」
「……それは、さすがにヤダな……」
正直に感想を伝えると私の目の前はかりんの不満そうな表情で一杯になる。先ほどの憂いを漂わせた雰囲気とは正反対の顔を見ていると楽しくなる。可愛いと素直に思えるのだった。
私たちがどこへ向かうのか決め合ってからの行動は早く、私たちは互いに手を繋ぎながら歩き出した。
人通りの多い駅前の通路の中を二人で歩いていく。一人で歩いていた時は速く感じた周りの様子さえもこうして二人で歩いているとなぜか周りの速さに乗って歩いている気持ちがしてくるのだ。
なぜだろう、この気持ち。
今までに感じたことのない気持ちなのだ。今までは一人で居ることの多かった私だからそんな風に思えて楽しいと感じるのだろうか。
「……ふふ、これってあれかな。夏休みとかがあっという間に過ぎていっちゃう感覚と、おんなじなのかな」
よく聞く話だ。何かを楽しみにしていたりはしゃぐような気分でいる時に限って自分自身を取り巻く時間の進む速さというのはあっという間に終わってしまう、ということ。それを思ったらどうしてか、なるほどなとため息をついてしまった。
いつもの日常の中に訪れた、いつもの日常じゃないひと時。いつもなら「またか」と聞き流してしまう電車の遅延を知らせるアナウンスを聞くことも、遊び癖の強そうな男の人たちをあしらうことさえも何だかとても楽しい。こうやってはしゃいでいるかりんの姿を見ていると何もかもを感じていたい。――今この瞬間をいっぱいに感じていたいのである。
「こっちこっち! メイちゃんこっちですよー!」
「ふふ、分かってるよ」
私たちは南口を出て駅の裏を歩いていく。こっちの方はあまり来ないためか初めて見る風景や雰囲気で包まれている。不気味、というわけではなく静かなところだなというものが正直な感想である。しかしこの場所ではかりんの目指している食事にありつく場所など無さそうに思えるのだが、それでもかりんは元気に足を進めていく。
どんな所に行くのだろうと周囲を見渡していると、かりんから見つけたと声があがりその方向を指で示している。線路がある側のフェンスのすぐ近く、彼女の指先にあったのは、テレビドラマなどでよく見かける少しだけ古ぼけたラーメン屋の屋台であった。
「……こんなところにラーメン屋さんが……しかも屋台……」
「すごくない?! 隠れた名店って感じがするでしょ! しかもめちゃめちゃ美味しいんだココ! 毎週水曜日しか開けないから週に一度のお楽しみな場所なんだ! うーっ! おーいおっちゃーん! 来たよーっ!」
かりんはそう言って私から手を離し小走りで屋台の方へと走っていく。よく状況を飲み込めなかったが私はかりんの後に続いた。
「どもーおっちゃん! こんばんは!」
「へぇい」
「今日もいつもの煮干し醤油で……それを二つね! あ、あとビールも一本お願い!」
「へぇい」
「こ、こんばんは」
「……。へぇい」
屋台の主人は私の顔を見るなりすぐそっぽを向いてしまう。それでも挨拶をちゃんと返してくれて、彼は再び作業をし始める。なんというか、無愛想な人だ。
「えへへ、照れ屋さんなんだよねおっちゃん! そりゃこーんな可愛い子が二人も来ちゃ無理もないか! もう、そんなところがカワイイんだからー!」
「……。へっ」
「ちょっ! なんであたしだけ見て鼻で笑うワケー!? ムカツクー!」
「……ぷっ、あははっ」
私はここへやって来たのは今日が初めてだから主人と話すことはないけれど、常連客であるかりんとは心なしか楽しそうに和気藹々としている。そんな二人の様子は眺めているだけでも楽しくて面白いものだ。
「お待ち」
「早っ」
面白くもおかしい二人の様子に腹を抱えていると、テーブルの上にはとても美味しそうなラーメンが二つ差し出される。裸電球の下で湯気を立てているなんの変哲もない一般的なラーメンだけれどとても美味しそうだ。
「おっちゃん仕事早いでしょ? あたしもこのおっちゃんを見習ってるんだ! ミスらないようにするのも大事だけど、やっぱり待たせるのは悪いしね!」
「な、なるほど」
「ビール」
「おっちゃんありがと!」
主人はそう言って蓋の開けた瓶ビールをかりんに手渡す。しかもいつの間にかこちらのテーブルにはコップが二つ置かれているではないか。席につきながらこういうところを見ると昨日見たかりんの手際の良さと重なって感心してしまう。
「さ、メイちゃんどうぞ! お仕事おつかれさま!」
「うん、ありがとう……! ……かりんちゃんも、昨日はありがとうね」
「いえいえ、なんの! ……えへへ……」
かりんから勧められて空のコップを差し出すとねぎらいの言葉とともにこちらのコップには冷たいビールで一杯になる。ついでもらったお礼にとこちらも瓶を手に取り勧めると、マスクを顎にずらしたかりんの表情は非常に嬉しそうな顔をして頷いた。
そして私たちは乾杯の合図とともにコップの中身を飲み込む。隣にかりんが居て外で飲んでいるからなのかもしれないが、一気に飲み干したビールは今まで飲んだものの中で一番に美味しかった。
「んぐ……ふう……。う、うまい……!」
「えへへっ! さすがはメイおじさん! 良い飲みっぷりだ!」
「おじさんって言わないで。ヘコむ」
「……へへっ」
「……わ、笑われちゃったし……」
「あはは!」
「……。それじゃあ、いただきます……」
昨日の今日で言われたことであるが、そう呼ばれてしまうのは不本意きわまりないものだ。けれどもかりんが楽しそうにしているのだから別に構わないと思ってしまう。そんないつもとは違う自分自身を見つけて呆れつつ、楽しい気持ちになりながらラーメンを頂くために眼鏡を外す。すると隣に居るかりんからは不思議そうな声が上がった。
「どうかした?」
「ううん……メイちゃん、ご飯食べる時はメガネ外すんだなって」
「ご飯、というか湯気が出るものを食べる時はいつも外してるよ。そうしなきゃメガネが曇って集中できないから……」
「ああ、なるほど! ……ふうん?」
眼鏡を外し視界がぼやける中、かりんは興味深そうな声が上がり私の方を向いてこちらを見つめている。どんな表情をしているか分からないけれど、きっと良からぬ顔をしているに違いない。
「ねえねえ、あたしの顔見える?」
「……あんまり」
「あちゃー。相当目が悪いんだねぇ……。……ふふっ、メガネ外したメイちゃん……めちゃくちゃ美少女じゃん……!?」
「ゴフッ」
「あーあ! そんなにむせること? うふふっ……」
「……美少女って年齢じゃないんですけど……! アラサーだし……からかわないでよ……」
「へえ……? アラサーだとか関係なくない? ……あたし、好きだよ――メイちゃんの仕草とか性格とか、その顔とか、さ?」
「ん゛っ……!? ……んぐ。……な、何を言って……」
麺をすすっている時にとんでもないことを言うものだから吸い込んだ麺を戻しそうになってしまう。なんとかそれを堪えて飲み込み、涙目になりながらかりんの姿をちらりと見てみる。――すると、かりんは先ほどよりも……いいや、マスクを外した彼女の顔がよく見えるほど私の身体にぴったりとくっついているではないか……!?
「か、かりんちゃん……?」
「えへへ。肌寒いからさ! 温め合おうじゃあないか! じゃ、いっただきまーす!」
かりんはそう言って私との間に隙間を作るまいと言っているほどに密着したまま私の隣でラーメンをすすり始める。
誰かと肩を並べて、くっつきながら食事するなんて久しぶりのことだからどんな反応をして良いのか分からなくなってしまい、視界がぼやけながらも私の視線はかりんの姿に釘付けだ。
それにしても、かりんは私に対して密かに伝えてまで会いたかったのはこれが目的だったのだろうか。至って普通通りの食事やデートをしたいと言うのであればあんなに密やかにすることはなかっただろうに。
……むしろ、別なことを望んでいる私の胸の中にあるこの気持ち、ある意味下心と言っていい気持ちは一気に恥じるべきものとなって、今まで抱いていた楽しい気分を押し殺してしまう。かりんは私と気が合うから誘ってくれたのに何を先走っていたのだろうか。そんな自己中心的な欲を抱く自分自身が憎かった。
「……改めて、最っ低……私……」
「うん? どったの?」
「! う、ううんっ。なんでもないよ……」
「……。あ、そういえばさメイちゃん」
かりんはそう言って私の方へと向き直っている。
「このあとどっかに行く予定とかあるの? いつも仕事終わったら家に直行な感じ?」
「え……えっと、特に予定は……ないよ。いつも仕事が終わったらまっすぐ帰っちゃうし」
「そっか! ……ふふ、そっか」
「……? どうして……?」
「ううん、ちょっとね! ……ね、メイちゃん? もし良かったらさ、このあと一緒に居ようよ! 色々お話したいしさ!」
かりんはそう言いながら頬杖をついてこちらを見つめ続けているようだ。彼女はどこかねだるような声色を漂わせて私からの応えを待っているように受け取れる。その様子に応えようと、私は素直な気持ちを伝えるために口を開いたのであった。
「う、うん。いいよ」
「……えへへっ。よーし! おっちゃん、餃子も追加して! 今日の代金はあたしが全部払っちゃいまーす!」
「へぇい」
そんな声とともにかりんは立ち上がり笑い声を私に聞かせてくれる。
――その様子がなんだか不思議に思えたものだ。なぜわざわざ私の予定など聞いてくるのだろう? 別に不自然な訳でもないというのに。そんな気持ちは膨れていくばかりで、私とやり取りを交わした後からかりんは私の身体によく触れてくる。そのことは私の気がかりに拍車を更にかけるのだった。
季節がめぐることを望んで・終
最初はどうなるかと思ったけれどこれは好都合だ。私は昨日から悶々としていたことに対しての答えを知るという望みがとうとう叶うことに喜び、いつになく時間が進む速さが遅いとやきもきしていたのだから。来る時間の前に立ちふさがっている仕事へ終止符を打つべく震える手を堪えながらタイムカードをタイマーに差し込む。ちょっとだけ勢いよく入れてしまって大丈夫かと思ったけれど、いつもなら二、三回やり直す羽目になっていたことが一回で済むことが出来て、私は今日で何回目になるか分からないガッツポーズを作ったのだった。
「あ、あの……ごめんなさい、お先に失礼しますっ……」
「ん、ああ、はいはい! お疲れ様ー!」
「すみません、失礼しま……っす?!」
そう言いかけて何かに足をぶつけ、もつれが解けないまま私の身体は地面へ腹から倒れ込み叩きつけられる。思わず自宅に居る時のような野太い声が漏れ出てしまった……。
「ちょ……! 愛衣ちゃん! 平気!?」
「あああ……き、効く……!」
「もう、慌てるからだよ。はい、飛んでったメガネ。……そういえば今日の愛衣ちゃん落ち着きがないなー? 今日は珍しく愛衣ちゃんが《魔の羽毛布団コーナー》の雪崩を起こしちゃうし。ダメダメ。短気は損気よ?」
「う……! ご、ごめんなさいみきさん……。その、あの……」
「うんうん、分かればいいのよ。でもらしくないぞー? 何をそんなに焦ってるの?」
みきはそう言いながら私の前にしゃがみ込みこちらの顔を覗き込んでいる。その顔には困っているような表情が浮かび、いつも良くしてくれているみきにそんな表情をされてしまうと私の中で申し訳無さが一気に湧き出してしまう。
確かにみきが言っている通り、いつもの私らしくない行動ばかりしているのは自覚しているつもりだ。今日は午前中が忙しいということもあったからだけれど、昨夜かりんから貰ったメッセージを忘れることが出来ずその真相を確かめたいとばかり思ってしまいミスばかりが続いていたのである。
その度にみきたちに注意を受けていたのだから軽率すぎた自らの行動が少しばかり憎く思えてしまう。よく「焦らず急げ」と言われるけれど、私にとっては難しいものだ。けれどもそれはきっと自分自身のためにもなり得るもののはずだ。ならば気になっていることを気持ち良く知りたいのならもっとしっかりとこなさなければ……。
今日あったことを反省し失敗に頭を冷やしていると前から視線を感じて私の注意もその方向を辿る。きっとみきは話を途中で切り黙り込んだ私を変に思っているのかもしれない。おそるおそるみきの顔を見てみると、みきは私の心配をよそにニヤニヤとしながら良からぬことを考えている表情を向けて私のことを見つめていたのだった。
「ど、どうしました……?」
「いやー? あの愛衣ちゃんが冷静さを欠いてるってことはよほど楽しみなことがあるんだろうなって思って……」
「う……」
「さては今日もおっパブに行くんだな!? 明日のシフト休みだしね! もーこのスケベ! 味をしめちゃってぇ!」
「……。違います」
どうやら、みきの鋭い勘も外れることがあるようだ。
「うわ! 急に冷静になったし! 温度差が激しいなァもう」
みきはそう言って私に手を差し伸べて立ち上がらせてくれる。それどころかこちらの服の汚れを払ってくれた。
「これでよし! さ、夜は危ないからね。気を付けて帰るのよ……ああ、用事を済ませてから気を付けて帰るのよ!」
「は、はい……! ありがとうございます、みきさん……おかげで頭が冷えました……」
「あははっ! うんうん、結構よ! それじゃあね! また明後日、元気に出勤してきてね!」
そんな言葉ととともに私の背中は優しく叩かれる。振り返るとみきが私に見せていた表情というのはその叩いた強さと同じようでにこりとして温かなものであった。
その表情を見ながら挨拶を交わし礼をしてから今度こそ会社の職員出入り口へと向かっていく。今度は先ほどまでと違う落ち着きを取り戻して回りに気を配ることが出来ている。こうやって気付くことが出来ると、自らの気持ちばかりが先走って居たことが何故だろうと会社の外に出ながら思えてしまうものだ。
「……。よし、行こう……」
気を取り直し今まで居た会社から視線を外し振り返る。私の直ぐ側では何台もの車が通り過ぎて行き、こちらが進む歩道の何倍もの数がこちらの前に現れては走り去っていく。都心とは違い郊外都市であるこの周辺では国道が通っていることもあり昼夜関係なく車の通りが多いのだ。
人によってはうるさいと思うだろうし環境問題を重視している人からすれば由々しき光景であるのだろう。けれども私にとってはとても都合のいいものであるのだ。こうやって何かの影に紛れられることは、自らの望むことに集中出来るのだから。
いくつかの信号を横切り、まだ明かりが消えない幾つかの事業所が入ったビルの光をかすめ、会社を出る前に起きた焦りにも似た気持ちがついぶり返しそうになってしまうことを堪えながら、段々と人通りが多くなっていく中を歩いていく。このまま進んでいけば私は昨日みきと待ち合わせていた駅前広場へと辿り着くことができるのだ。その目的はもちろん、昨日私宛にメッセージをくれたかりんと出会うために。……いいや、あれが本当に私を喚んでくれたものなのかを確かめるために。
「……ついた。……ここなら、分かるよね」
私はまだ、〝かりん〟という人物をよく知らない。昨日出会ってもっと知ってみたいと思ったかりんという人の全貌をまだ知らないのだ。
だから彼女が私宛にくれたものが本気のものだったのかどうか見極めるには難しいものがある。あれだけ私のことを「かわいい」などと連呼していたことを思えば、単純に誂っていただけだったのかもしれない。面白半分、あまり気持ちの良いものではない過去の記憶を思い出し、いらつきは私にため息をつけと感情に促した。
面白がって私に秘密のささやきを持ちかけたのかもしれない。けれどももし、それが本当のことだとしたら、かりんの本心だったとしたら? ――もし私が人を疑うばかりに彼女の気持ちに応えてあげられなかったのなら、私はひょっとしたらかりんが渡してくれた本心を握りつぶしてしまうかもしれない。だから、確かめて知りたいのだ。
……昨夜、たまらず性欲を吐き出したことが脳裏を過ぎっているから、掻き出し愛液にまみれた指を見て期待に胸を膨らませていた私自身が居たのだから確かめてみたい。
それは私の好奇心を抱く臆病な心がそうさせるのか、はたまた昨日から治まらない醜い性欲がそうさせるのか。だからこそ確かめたいのである。
「……ま、最初からここに来るつもりではあったんだけどね……。……かりんちゃんにもう一回、会いたかったから……難しく考えても仕方ないや」
会社を出てから十分の道のりを歩いてきていまさら深く考えすぎるのはよそうとズボンのポケットから自らのスマートフォンを取り出す。手帳型のケースを開き、スマートフォンの隣にはコンビニへ行った時しか使わないポイントカードと一緒に昨日貰ったかりんの名刺が差し込まれている。すぐ取り出せるようにと私が昨日の内に入れたものだ。
ケースから名刺を取り出し一度辺りを見渡す。一週間の真ん中の日とは言え人通りがかなり多く私の直ぐ側はたくさんの人が歩いていきこちらを抜かしていく。このまま路上で電話をかけてしまうと迷惑極まりないだろうからと、辺りを見渡し一番最初に視界へ飛び込んできた自動販売機の前に近付いて、とりあえず行動ができる自由を手に入れたのだった。
「……ここなら邪魔にならないよね。……えっと、080……」
スマートフォンを片手に電話番号を打ち込んでいく。全てを打ち込み発信してからスマートフォンを耳に当てると「お呼び出し中です」というアナウンスの次に賑やかな音楽が聞こえてきて、その音楽が聞こえている間はずっと電話に出てくれるだろうかという気持ちで一杯になってしまう。そんな風に不安と緊張の間挟みになっていても私の目の前を行き交う風景は変わることはなかった。
相変わらずの人の多さも夜の中に浮かぶ街の中の光も、急いでタクシーに駆け込む人の姿さえも、忙しく急発進したタクシーから投げかけられたヘッドライトの光に目が眩んでも。その全てが同じものとして映りこんでくるのである
――けれどその瞬間、私の耳に聞こえていた賑やかなダンスミュージックは聞こえなくなった。その代わりに聞こえてきたのは雑音と、昨日も聞いていたかりんの元気な可愛らしい声であった。
『――よっこらしょ……っと。はいはーい! モロハシでーっす!』
「……え」
聞こえてきた声は間違いなくかりんの声であると確認出来たが、彼女が名乗った単語に聞き覚えがなく思わずスマートフォンを耳から離して画面を確認してしまう。しかし、そうしても画面に映し出されているのは私が打ち込んだ電話番号だけ。もう一度名刺と照らし合わせてみるけれど間違ってはいないようだ。
『……? おーい! もしもーし!』
「も、もしもし」
『……あ! もしやその声はメイちゃんかな!? やったーっ! えへへ、電話してくれたんだ……! ……うれし、ありがとね……って、あーッ』
耳を当てている受話器からは嬉しくも恥ずかしがっているかりんの声が聞こえてくる。同時に何かに気がついた声が、叫んでいると言った方が正しい音が私の耳を突き刺し驚いて耳元からスマートフォンを遠ざけてしまう。まるで衝撃波のような叫びだ……。
「び、びっくりした……!」
『ご、ごめんごめん! ていうか別な意味でもごめんね! いつも電話に出る時みたいな名乗りで出ちゃって、分かんなかったよね! 下の名前しか知らないメイちゃんにとって本名言われてもアンタ誰ってなるよね! アハハ! ごめーん!』
そんな笑い声が私の耳に届き、やがて一杯になって顔がほころび始める。――嬉しい、その言葉が今の気持ちに当てはまるものだ。
「い、いいよ。大丈夫、気にしないで」
『うー! 今日もメイちゃんの声が聞けてあたし嬉しいよ! ……あ。ということは、あたしに会いに来てくれたってことで良いのかな?』
「う、うん。そうだけど……それより、今電話して大丈夫だったの? お仕事あるんじゃ……」
『だいじょーぶ! 今日はオフだったから! ヒマ人してました!』
かりんからその言葉を聞くと何となくであるが勿体なく思えてしまう。ひょっとしたら私も休みだったら一日一緒に居ることが出来たのではないのだろうか。
『ねね! お互いに時間が取れたんだからさこれから会わない? あたし晩ごはん食べようと思って外に出てるからさ!』
「あ……うん、そうだね。……えっとね、私が居る場所は」
「――よーっ!」
辺りを見渡し今私が居る場所を説明しようとしていると――両腕を上に伸ばしバンザイしながら私の視界に誰かが映り込む。突然そうされて驚いたけれど、よく見てみると、そこに居たのは昨日も見た綺麗なアッシュブロンドヘアーをなびかせたかりんの姿であった……!
昨日見た時のような色っぽいドレスではなく、もこもことした淡いピンク色の暖かそうな上着にカジュアルなジーンズ、スニーカーと言った、いかにも休日の服装という格好で佇み淡いピンク色のマスクで顔を隠していた。
「……! か、かりんちゃん……!?」
「どもどもーっ! ……えへへっ。昨日ぶりだねメイちゃん! 良かった、来てくれてあたし本当に嬉しいよ!」
「う、うん……ふふっ……! それより、かりんちゃんも駅前に来てたんだね」
「たまたま来てたんだよ! そしたらメイちゃんから電話かかってきて、よっしゃーって思ってたらコソコソ電話してるメイちゃん見つけてさ!」
ということはどうやら偶然のことのようだ。それを裏付けるようにかりんは通話を切っていた私の手を握りその場で飛び跳ねし始めている。
「えへ、えへへっ……。よーし! じゃあ早速デートしよっか!」
「デ、デート……?!」
「うん! あたしお気に入りのメイちゃんとそういうことしたくって! あとそういう気分だし! ……ごめん、はしゃぎすぎだったかな」
飛び跳ねていた勢いは落ち着きを取り戻し、それに伴ってかりんからは心配そうな声色が聞こえてくる。私の手を握り、大事そうに握ってはしっかりと離さないように私の指を絡め、言葉と行動を重ねながら私の顔を覗き込んでいた。
私とは違いどんどん話を進めていくかりんの性格を彼女自身でも分かっているからこその行動のようで、彼女の手を通して感じているこの震えは、今この瞬間を大切にしていたいと思っているかのように感じ取れるのだ。
他人に流されがちな今までの経験があるから私の目にはかりんの様子がとても新鮮に映り込んでくる。だからこそ私は私自身の意志でかりんの手を握り返す。そんなことはない、むしろ嬉しいと気持ちを込めて。そうすると自然と笑みはこぼれた。――嬉しかったから。
「……ううん、そんなことないよ。……デ、デート……しよっか……?」
「……。……くーっ! デートとかそういう単語を言い慣れてない女の子にそう言われるのって……すごくイイ……! 快感……!」
「……なんだかバカにされた気がする……」
「してないしてない! もーっ、いじけないでよォ」
そう言われながらこの身体はかりんの体温に包まれる。こうして改めて見ていると昨日見た背が高いと思っていたかりんの姿はなく、それほど背の高くない私と同じくらいの高さでこちらの身体は包まれていく。例えヒールを履いていたとしてもこんなに違うように思えるのだろうかと、正直な話、この華奢な身体つきには驚いてしまう。
それより、こんな人の目が多いところで抱きつかれると変に緊張してしまうのだが……。
「よーし! それじゃあさご飯食べに行こうよ! メイちゃんもまだでしょ? さっきお仕事終わったんだろうからさ」
「うん、ちょうどお腹すいたかな」
「決定ー! えへへ、それじゃあ行こうよ」
「うん、そうだね。ところで……何を食べに行くの?」
「あたしラーメンが大好きなんだ! だから今日の予定はそういう方向で行こうと思いまして! ……まあ、昨日もラーメン食べたんだけどさ?」
「ふふ……よっぽど好きなんだね」
「そうなんですよ! いっそのことお風呂もラーメンだったら良いのになぁって!」
「……それは、さすがにヤダな……」
正直に感想を伝えると私の目の前はかりんの不満そうな表情で一杯になる。先ほどの憂いを漂わせた雰囲気とは正反対の顔を見ていると楽しくなる。可愛いと素直に思えるのだった。
私たちがどこへ向かうのか決め合ってからの行動は早く、私たちは互いに手を繋ぎながら歩き出した。
人通りの多い駅前の通路の中を二人で歩いていく。一人で歩いていた時は速く感じた周りの様子さえもこうして二人で歩いているとなぜか周りの速さに乗って歩いている気持ちがしてくるのだ。
なぜだろう、この気持ち。
今までに感じたことのない気持ちなのだ。今までは一人で居ることの多かった私だからそんな風に思えて楽しいと感じるのだろうか。
「……ふふ、これってあれかな。夏休みとかがあっという間に過ぎていっちゃう感覚と、おんなじなのかな」
よく聞く話だ。何かを楽しみにしていたりはしゃぐような気分でいる時に限って自分自身を取り巻く時間の進む速さというのはあっという間に終わってしまう、ということ。それを思ったらどうしてか、なるほどなとため息をついてしまった。
いつもの日常の中に訪れた、いつもの日常じゃないひと時。いつもなら「またか」と聞き流してしまう電車の遅延を知らせるアナウンスを聞くことも、遊び癖の強そうな男の人たちをあしらうことさえも何だかとても楽しい。こうやってはしゃいでいるかりんの姿を見ていると何もかもを感じていたい。――今この瞬間をいっぱいに感じていたいのである。
「こっちこっち! メイちゃんこっちですよー!」
「ふふ、分かってるよ」
私たちは南口を出て駅の裏を歩いていく。こっちの方はあまり来ないためか初めて見る風景や雰囲気で包まれている。不気味、というわけではなく静かなところだなというものが正直な感想である。しかしこの場所ではかりんの目指している食事にありつく場所など無さそうに思えるのだが、それでもかりんは元気に足を進めていく。
どんな所に行くのだろうと周囲を見渡していると、かりんから見つけたと声があがりその方向を指で示している。線路がある側のフェンスのすぐ近く、彼女の指先にあったのは、テレビドラマなどでよく見かける少しだけ古ぼけたラーメン屋の屋台であった。
「……こんなところにラーメン屋さんが……しかも屋台……」
「すごくない?! 隠れた名店って感じがするでしょ! しかもめちゃめちゃ美味しいんだココ! 毎週水曜日しか開けないから週に一度のお楽しみな場所なんだ! うーっ! おーいおっちゃーん! 来たよーっ!」
かりんはそう言って私から手を離し小走りで屋台の方へと走っていく。よく状況を飲み込めなかったが私はかりんの後に続いた。
「どもーおっちゃん! こんばんは!」
「へぇい」
「今日もいつもの煮干し醤油で……それを二つね! あ、あとビールも一本お願い!」
「へぇい」
「こ、こんばんは」
「……。へぇい」
屋台の主人は私の顔を見るなりすぐそっぽを向いてしまう。それでも挨拶をちゃんと返してくれて、彼は再び作業をし始める。なんというか、無愛想な人だ。
「えへへ、照れ屋さんなんだよねおっちゃん! そりゃこーんな可愛い子が二人も来ちゃ無理もないか! もう、そんなところがカワイイんだからー!」
「……。へっ」
「ちょっ! なんであたしだけ見て鼻で笑うワケー!? ムカツクー!」
「……ぷっ、あははっ」
私はここへやって来たのは今日が初めてだから主人と話すことはないけれど、常連客であるかりんとは心なしか楽しそうに和気藹々としている。そんな二人の様子は眺めているだけでも楽しくて面白いものだ。
「お待ち」
「早っ」
面白くもおかしい二人の様子に腹を抱えていると、テーブルの上にはとても美味しそうなラーメンが二つ差し出される。裸電球の下で湯気を立てているなんの変哲もない一般的なラーメンだけれどとても美味しそうだ。
「おっちゃん仕事早いでしょ? あたしもこのおっちゃんを見習ってるんだ! ミスらないようにするのも大事だけど、やっぱり待たせるのは悪いしね!」
「な、なるほど」
「ビール」
「おっちゃんありがと!」
主人はそう言って蓋の開けた瓶ビールをかりんに手渡す。しかもいつの間にかこちらのテーブルにはコップが二つ置かれているではないか。席につきながらこういうところを見ると昨日見たかりんの手際の良さと重なって感心してしまう。
「さ、メイちゃんどうぞ! お仕事おつかれさま!」
「うん、ありがとう……! ……かりんちゃんも、昨日はありがとうね」
「いえいえ、なんの! ……えへへ……」
かりんから勧められて空のコップを差し出すとねぎらいの言葉とともにこちらのコップには冷たいビールで一杯になる。ついでもらったお礼にとこちらも瓶を手に取り勧めると、マスクを顎にずらしたかりんの表情は非常に嬉しそうな顔をして頷いた。
そして私たちは乾杯の合図とともにコップの中身を飲み込む。隣にかりんが居て外で飲んでいるからなのかもしれないが、一気に飲み干したビールは今まで飲んだものの中で一番に美味しかった。
「んぐ……ふう……。う、うまい……!」
「えへへっ! さすがはメイおじさん! 良い飲みっぷりだ!」
「おじさんって言わないで。ヘコむ」
「……へへっ」
「……わ、笑われちゃったし……」
「あはは!」
「……。それじゃあ、いただきます……」
昨日の今日で言われたことであるが、そう呼ばれてしまうのは不本意きわまりないものだ。けれどもかりんが楽しそうにしているのだから別に構わないと思ってしまう。そんないつもとは違う自分自身を見つけて呆れつつ、楽しい気持ちになりながらラーメンを頂くために眼鏡を外す。すると隣に居るかりんからは不思議そうな声が上がった。
「どうかした?」
「ううん……メイちゃん、ご飯食べる時はメガネ外すんだなって」
「ご飯、というか湯気が出るものを食べる時はいつも外してるよ。そうしなきゃメガネが曇って集中できないから……」
「ああ、なるほど! ……ふうん?」
眼鏡を外し視界がぼやける中、かりんは興味深そうな声が上がり私の方を向いてこちらを見つめている。どんな表情をしているか分からないけれど、きっと良からぬ顔をしているに違いない。
「ねえねえ、あたしの顔見える?」
「……あんまり」
「あちゃー。相当目が悪いんだねぇ……。……ふふっ、メガネ外したメイちゃん……めちゃくちゃ美少女じゃん……!?」
「ゴフッ」
「あーあ! そんなにむせること? うふふっ……」
「……美少女って年齢じゃないんですけど……! アラサーだし……からかわないでよ……」
「へえ……? アラサーだとか関係なくない? ……あたし、好きだよ――メイちゃんの仕草とか性格とか、その顔とか、さ?」
「ん゛っ……!? ……んぐ。……な、何を言って……」
麺をすすっている時にとんでもないことを言うものだから吸い込んだ麺を戻しそうになってしまう。なんとかそれを堪えて飲み込み、涙目になりながらかりんの姿をちらりと見てみる。――すると、かりんは先ほどよりも……いいや、マスクを外した彼女の顔がよく見えるほど私の身体にぴったりとくっついているではないか……!?
「か、かりんちゃん……?」
「えへへ。肌寒いからさ! 温め合おうじゃあないか! じゃ、いっただきまーす!」
かりんはそう言って私との間に隙間を作るまいと言っているほどに密着したまま私の隣でラーメンをすすり始める。
誰かと肩を並べて、くっつきながら食事するなんて久しぶりのことだからどんな反応をして良いのか分からなくなってしまい、視界がぼやけながらも私の視線はかりんの姿に釘付けだ。
それにしても、かりんは私に対して密かに伝えてまで会いたかったのはこれが目的だったのだろうか。至って普通通りの食事やデートをしたいと言うのであればあんなに密やかにすることはなかっただろうに。
……むしろ、別なことを望んでいる私の胸の中にあるこの気持ち、ある意味下心と言っていい気持ちは一気に恥じるべきものとなって、今まで抱いていた楽しい気分を押し殺してしまう。かりんは私と気が合うから誘ってくれたのに何を先走っていたのだろうか。そんな自己中心的な欲を抱く自分自身が憎かった。
「……改めて、最っ低……私……」
「うん? どったの?」
「! う、ううんっ。なんでもないよ……」
「……。あ、そういえばさメイちゃん」
かりんはそう言って私の方へと向き直っている。
「このあとどっかに行く予定とかあるの? いつも仕事終わったら家に直行な感じ?」
「え……えっと、特に予定は……ないよ。いつも仕事が終わったらまっすぐ帰っちゃうし」
「そっか! ……ふふ、そっか」
「……? どうして……?」
「ううん、ちょっとね! ……ね、メイちゃん? もし良かったらさ、このあと一緒に居ようよ! 色々お話したいしさ!」
かりんはそう言いながら頬杖をついてこちらを見つめ続けているようだ。彼女はどこかねだるような声色を漂わせて私からの応えを待っているように受け取れる。その様子に応えようと、私は素直な気持ちを伝えるために口を開いたのであった。
「う、うん。いいよ」
「……えへへっ。よーし! おっちゃん、餃子も追加して! 今日の代金はあたしが全部払っちゃいまーす!」
「へぇい」
そんな声とともにかりんは立ち上がり笑い声を私に聞かせてくれる。
――その様子がなんだか不思議に思えたものだ。なぜわざわざ私の予定など聞いてくるのだろう? 別に不自然な訳でもないというのに。そんな気持ちは膨れていくばかりで、私とやり取りを交わした後からかりんは私の身体によく触れてくる。そのことは私の気がかりに拍車を更にかけるのだった。
季節がめぐることを望んで・終
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