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第五章 あなたと家族と明日のこと
7.あなたとわたしと明日のこと
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爽やかな朝の廊下を、直は笑顔で挨拶を交わしながら事務室へ向かう。
ずっと在宅を続けていた後の久々の出勤だが、やはり家を出ると気が引き締まる。
再び同僚に戻った社員は、たぶん思うところも色々あるのだろうけど、そんなことはおくびにもださず笑顔で挨拶をしてくれる。
それで十分だ、と直は思った。
だって、外からなんて本当のことなど、なにもわかりはしないのだから。
見慣れた扉を開けて、直は元気に挨拶する。
「――おはようございます!」
「おはよ」
手前の机に座っている流が、こちらを見ないままぽつりと返した。
直は駆け寄って、机の脇に立つ。
「流くん、久しぶり! 今日はワンピースじゃないんだね」
「……もう着る意味あんまないでしょ。隠す必要なくなったから、名前も本名で登録して貰ってるし」
「えっ、でも、似合ってたから」
「僕もそう思う」
ふう、と息を吐いて、流が顔を上げた。
無表情に近いが、直には、その唇がいつもより緩んでいることがわかる。
久しぶりに合っても変わらないな、とむしろ安心した。
「元気そうじゃん」
「まあ、久しぶりの出勤だからね! 正社員に戻るにあたってお給料も上げてもらったから、在宅の間に色々買っちゃった」
「ま、それくらいは当然だよね。あんたを巻き込んだのこっちなんだから」
「うーん、当然とまでは……や、それより、もうワンピース着ないの?」
「あれ着て行こうとしたら、母さんに泣いて止められた」
「……それは」
「から、週に一回だけにした。そうすると、一週間の間、次はなに着ようかって色々考えられて、それはそれで面白いなって思ったし」
洗濯も楽だし、クリーニング代も浮いたし、着回しもしやすくなるし、と生活感のある理由がいくつか提示された後に、流がぽつりと付け加えた。
「……父さんとも話し合って、その辺で手を打つのもいいなって思えたし」
「そっか」
どうやら、以前よりも少しはうまくいっているらしい。
直は、ひっそりと笑顔を浮かべて、自分の席に向かった。
「――おはよう」
扉が開いて、瀬央が姿を見せる。
直は座りかけていた腰を上げて挨拶を返す。
「おはようございます!」
「おはよう、直ちゃん」
「またそれ……社内では苗字でって言ったじゃないですか」
思わず顔を赤くした直を、対面のディスプレイ越しに流が覗き込む。
「もういい加減諦めたら。ここには俺しかいないし」
「だめだめっ! だって付き合ってるとか社内恋愛とか噂になったら困るよ」
「困るの? 僕は特に困らないけど」
「次期社長――ううん、副社長? どっちかわかんないけど、そんなひとと付き合ってるなんて言われたら、大変です!」
現時点での社長は、以前同様に多比良統久が務めている。
親族連中に頭を下げ、専務と美咲夫人を社内の決定に関わらせないこと、社長交代は流の卒業後、数年後働かせてから再検討するということで、いったん猶予を貰った形だ。
その先に、社長の椅子を流が継ぐか、瀬央が継ぐかは、まだ決まっていない。
ただし――どちらが社長になっても、もう片方が補佐として副社長の座につくことが決定している。
これも多比良社長の説得の末に決まったことだ。
「実際のとこ、兄さんはどうなの? 社長と副社長とどっちがやりたい?」
直の話を受けて、流が気安げに瀬央に呼びかけた。
どうやら、以前より更に距離が縮まっているようで、直としては嬉しいところだ。
「うーん、そうだな。正直、どっちもそう変わらないし、流が好きな方を取っていいと思うよ。無難なところを言うと、流が社長に就く方が親族連は納得しやすそうだね」
「俺そういうの合わないって言ってるんだけどなぁ……」
あからさまにうんざりした風の流に対し、瀬央は是非を言葉に出すことはない。
この辺りを見ても、流には今のままでは社長業は重たすぎるだろうと、直にも思える。
が、それも、まだ先のことだ。
働いてみれば、ぐっと成長していくのかもしれないし。
後ろを通り抜けざまに、とん、と瀬央が直の肩を叩いた。
「おかえり、直ちゃん。今日もよろしく」
「はい!」
それから耳に口元を近づけて、小声で囁く。
「今日金曜日だし、終わったら、いつもの喫茶店で待ち合わせ」
「あ……はい」
「ちょっとぉ、デートの約束は勤務時間外にしてくださいねー。学生の目の毒だろ」
「まだチャイム鳴ってないから勤務時間外だよ」
流の抗議に重なって、くすくす笑う声が離れていく。
瀬央が席につき、準備ができたところで、チャイムが鳴る。
すぐに、机の端で、最初の電話が鳴り始めた。
どうやら今日も忙しいようだ。
受話器をとった直は、笑顔で話し始める。
「――お電話ありがとうございます。多比良オフィスレンタルサービス株式会社、お客様サポートコールセンターです」
ずっと在宅を続けていた後の久々の出勤だが、やはり家を出ると気が引き締まる。
再び同僚に戻った社員は、たぶん思うところも色々あるのだろうけど、そんなことはおくびにもださず笑顔で挨拶をしてくれる。
それで十分だ、と直は思った。
だって、外からなんて本当のことなど、なにもわかりはしないのだから。
見慣れた扉を開けて、直は元気に挨拶する。
「――おはようございます!」
「おはよ」
手前の机に座っている流が、こちらを見ないままぽつりと返した。
直は駆け寄って、机の脇に立つ。
「流くん、久しぶり! 今日はワンピースじゃないんだね」
「……もう着る意味あんまないでしょ。隠す必要なくなったから、名前も本名で登録して貰ってるし」
「えっ、でも、似合ってたから」
「僕もそう思う」
ふう、と息を吐いて、流が顔を上げた。
無表情に近いが、直には、その唇がいつもより緩んでいることがわかる。
久しぶりに合っても変わらないな、とむしろ安心した。
「元気そうじゃん」
「まあ、久しぶりの出勤だからね! 正社員に戻るにあたってお給料も上げてもらったから、在宅の間に色々買っちゃった」
「ま、それくらいは当然だよね。あんたを巻き込んだのこっちなんだから」
「うーん、当然とまでは……や、それより、もうワンピース着ないの?」
「あれ着て行こうとしたら、母さんに泣いて止められた」
「……それは」
「から、週に一回だけにした。そうすると、一週間の間、次はなに着ようかって色々考えられて、それはそれで面白いなって思ったし」
洗濯も楽だし、クリーニング代も浮いたし、着回しもしやすくなるし、と生活感のある理由がいくつか提示された後に、流がぽつりと付け加えた。
「……父さんとも話し合って、その辺で手を打つのもいいなって思えたし」
「そっか」
どうやら、以前よりも少しはうまくいっているらしい。
直は、ひっそりと笑顔を浮かべて、自分の席に向かった。
「――おはよう」
扉が開いて、瀬央が姿を見せる。
直は座りかけていた腰を上げて挨拶を返す。
「おはようございます!」
「おはよう、直ちゃん」
「またそれ……社内では苗字でって言ったじゃないですか」
思わず顔を赤くした直を、対面のディスプレイ越しに流が覗き込む。
「もういい加減諦めたら。ここには俺しかいないし」
「だめだめっ! だって付き合ってるとか社内恋愛とか噂になったら困るよ」
「困るの? 僕は特に困らないけど」
「次期社長――ううん、副社長? どっちかわかんないけど、そんなひとと付き合ってるなんて言われたら、大変です!」
現時点での社長は、以前同様に多比良統久が務めている。
親族連中に頭を下げ、専務と美咲夫人を社内の決定に関わらせないこと、社長交代は流の卒業後、数年後働かせてから再検討するということで、いったん猶予を貰った形だ。
その先に、社長の椅子を流が継ぐか、瀬央が継ぐかは、まだ決まっていない。
ただし――どちらが社長になっても、もう片方が補佐として副社長の座につくことが決定している。
これも多比良社長の説得の末に決まったことだ。
「実際のとこ、兄さんはどうなの? 社長と副社長とどっちがやりたい?」
直の話を受けて、流が気安げに瀬央に呼びかけた。
どうやら、以前より更に距離が縮まっているようで、直としては嬉しいところだ。
「うーん、そうだな。正直、どっちもそう変わらないし、流が好きな方を取っていいと思うよ。無難なところを言うと、流が社長に就く方が親族連は納得しやすそうだね」
「俺そういうの合わないって言ってるんだけどなぁ……」
あからさまにうんざりした風の流に対し、瀬央は是非を言葉に出すことはない。
この辺りを見ても、流には今のままでは社長業は重たすぎるだろうと、直にも思える。
が、それも、まだ先のことだ。
働いてみれば、ぐっと成長していくのかもしれないし。
後ろを通り抜けざまに、とん、と瀬央が直の肩を叩いた。
「おかえり、直ちゃん。今日もよろしく」
「はい!」
それから耳に口元を近づけて、小声で囁く。
「今日金曜日だし、終わったら、いつもの喫茶店で待ち合わせ」
「あ……はい」
「ちょっとぉ、デートの約束は勤務時間外にしてくださいねー。学生の目の毒だろ」
「まだチャイム鳴ってないから勤務時間外だよ」
流の抗議に重なって、くすくす笑う声が離れていく。
瀬央が席につき、準備ができたところで、チャイムが鳴る。
すぐに、机の端で、最初の電話が鳴り始めた。
どうやら今日も忙しいようだ。
受話器をとった直は、笑顔で話し始める。
「――お電話ありがとうございます。多比良オフィスレンタルサービス株式会社、お客様サポートコールセンターです」
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