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第五章 あなたと家族と明日のこと

2.私にできること

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「だいたい想像がついているところもあるだろうけど、父は――多比良たいら統久のりひさは、多比良家の婿養子なんだ」
「それで、ながれくんのお母さんが強気の姿勢なんですね」
「そう。そのうえ、婿養子の分際で不倫なんかしちゃったものだからね」
「不倫……」
「うん、相手は僕の母。僕はそういう関係の果てに生まれた子だ」

 自嘲じみた口調に、なおはなにかを言おうとした。
 が、その顔の前で、瀬央せおの指がぴっと口を塞ぐ。最近、時折見せるようになった悪戯っ子の笑みに、直はどきりと胸を鳴らした。

「大丈夫だよ、直ちゃん。別に自分の生まれを卑下してる訳じゃない。あ、いやえっと……君がもし、不倫の結果として生まれた子どもに対してなにか思うところがあれば、それについては謝るけど」
「えっ?」
「君も父親がいないんでしょう? 死別じゃなければ、僕と同じ立場か……あるいは、僕とは逆の立場か」
「ああ……同じ、方、です。でも、そもそも、私の父のことと瀬央さんのお母さんのことは全然関係ないですから」
「うん、そうだね」

 あっさりと頷いて、瀬央は肩を竦めた。

「ま、そんな訳で父の方は、二重の意味で肩身が狭いんだ。創業者一族のご意向には背けない」
「それで、流くんのお母さんはあんな言い方してたんですね」
「そう。そもそも、僕の存在自体が美咲みさきさんからすれば気に食わないんだ。だから、流が僕に関わるのは最悪」
「……でも、流くんはたぶん、瀬央さんのことが好きなんですね」
「小さい頃から、なぜか慕ってくれるんだ。一人っ子だし、年の近い親戚もいないから……それに、ご両親への反発もあるんだろうね」
「反発ですか」

 母親にやりたいことを頭ごなしに止められる姿を見れば、確かにその気持ちはわかる。
 そう言おうとした直を、なぜか瀬央がじっと見つめていた。

「……えっと、なにか変なこと言いましたか?」
「いや、ちょっと寂しく思っただけなんだけど」
「寂しい?」
「流のことはどうして『流くん』なのに、僕のことは『瀬央さん』なのかなって。ほら、こないだは『仁誉きみたかさんって呼びましょうか』って言ってくれたのに」
「えっ……いやいや、それはっ!? 瀬央さんだって冗談みたいに笑ってたじゃないですか! だいたい瀬央さんは上司で、普通の会社員は上司を名前で呼んだりしませんし」
「もう僕らの関係は上司部下じゃないよ」
「それはですねぇ……あっ、それに流くんを名前で呼んでるのは彼が偽名の苗字を名乗ってたからで! ふとした瞬間に間違ったりしないように、名前の方で呼んでただけで、瀬央さんには別にそんな対応は必要なくて!」
「上司だからかぁ……」

 後半の理由を無視して、瀬央はしばし悩むように額に手を当てた。
 その横顔は本当に寂しそうで、直は思わずのぞきこんでしまう。

「あの、本当にそんな……深い理由があるわけでは」
「深い理由がなくても呼べるなら、僕のことも名前で呼んでもいいんじゃないかな?」
「そっ……そっ、それはっ!」
「あ、おぼえてないか。下の名前」
「そんなバカな。さっきも自分で言ったじゃないですか、おぼえてますよ。仁誉きみたかさんですよね!」

 勢い込んで答えると、途端に瀬央はにこりと笑った。

「うん、じゃあ、次からそれでよろしく」
「えぇぇぇぇ……」
「いや? 流は呼べてもやっぱり僕はだめかな。僕の方は君を直ちゃんってずっと呼んでるけど」
「うぅぅぅぅ……」

 これは、喫茶店のときの仕返しなのか。
 あのときは直も泣いた直後で少し
 ぐいぐい迫ってくる瀬央から身体をそらして逃げようとしたが、椅子の上ではそうそう逃げる先もない。

「うっ、もう……わかりましたぁ……」
「やった!」
「あの、前からちょくちょく思ってましたけど……瀬央さんって」
?」
「うう……仁誉きみたかさんって、いつも優しいのに、案外押しが強いですよね?」
「言ってるでしょう。営業っていうのは、そういうところもないとうまくいかないもんなんだって。チャンスは逃さないよ」
「……チャンス、ですか」

 出会ってからの印象は、ずいぶん変わった気がする。
 誠実で穏やかな人柄であることに変わりはないが、案外茶目っ気があるし、流の家に忍び込もうとしていたときのように斜め上の行動力もあったりする。
 出世頭とは言え、まだ若い。会社のお歴々に対する力は、あるようで、ない。
 コールセンターの企画も、きっとそういう無理を通したうえでようやく実現したのだろうと思うと、始まったばかりで外された瀬央の無念もよくわかる気がする。

「その……瀬央さ――仁誉さんは、今の会社やめようとか思ったことないですか?」
「やめる?」

 こんなに無理をして苦労して、自分の思うことができるようになったら、無関係な部外者の声で自分のことさえ勝手に動かされる。
 なんとなく直の感じていた無力感が、口をついて出てきた。
 いつもポジティブな瀬央に呆れられるかと不安に思ったが、言い始めたら止まらない。そもそも、瀬央には泣いているところも見られているのだ。もう、流れ出る言葉を止める術はなかった。

「私の場合は辞める前に辞めさせられましたけど……なんかそんな、一生懸命頑張ってもぜんぶ無駄だし、結局えらい人だけがえらくて、私なんかなにやっても別に認められてる訳じゃないんだなって思うと……仁誉さんにせっかく色々してもらってるのに、こんなこと言うと申し訳ないんですけど」

 ひとしきり愚痴のような言葉をこぼしたところで、反応が怖くなって瀬央の顔を見上げる。
 瀬央はじっと直の目を見ていたが、目が合うと苦笑とも自嘲とも言えない顔でぽつりと呟いた。

「……たくさんあるよ」
「仁誉さんでも?」
「うん。入社してから何度だって。僕が多比良たいらの血縁であることを知るのは、せいぜい専務と本人たちくらいだからなぁ。佐志波さしばが言うような親の七光りなんて全然なかったし、むしろ自分でもなんでこの会社に入ったんだろうって悔しいことばかりだった」
「そう、なんですか」
「そうなんだ。最近ならそうだね……君が頑張ってるのをよく知ってるのに、会社が最低の結論を出すのを止められなかった時かな。僕の声なんて、なんの力もないんだってよくわかった」

 でも、と瀬央は笑って腰をかがめ、直の顔を正面からのぞきこんだ。
 窓から吹き込んだ強い風が、一瞬、大きくカーテンを揺らす。

「でも、だからってなにもできない訳じゃない」

 視界を遮ったカーテンの布が、直の頬に優しく触れた。
 その感触の向こうに、温かい肌があったような気がしたのは――もしかしたら、錯覚かもしれないけれど。

 風がやんだ後には、いつも通りの瀬央の笑顔があった。


「……と、いうことで、どうせ辞めるならやるだけやって気が済んでから辞めようって思ってたら、こんな時期まで続けてきちゃった、ってとこかな。もちろん今回も、ただで辞めるつもりはないです。それが、これから説明する件だね」

 頬に熱がのぼっているのは直だけだろうか。
 説明するよ、と促され、直は慌てて頷いたのだった。
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