ロストラヴァーズ2コール

狼子 由

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第四章 恋愛・友情・私の仕事

8.笑ってさよなら

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『辞令 煙咲直たばさきなお 五月二十日をもって退職とする』

 A4の紙を机上に、優佑ゆうすけが深い息をつく。
 辞令が出る前から、直本人は知っていたことだ。

 既に、事情は伝えてある。
 置きっぱなしの荷物は、まとめてしまえば紙袋一つに片付いた。

 片手に鞄、片手に荷物をさげたまま、直は頭を下げた。

「あんまりお役に立てなくて申し訳ありません。最後までご迷惑おかけしました。ゆ――佐志波さしば部長も頑張ってくださいね」
「この期に及んで呼び方なんて直さなくていい。もう部長も上司もクソもないだろ」
「うん、ないね」

 言われた通り、今日でもうなんの上下関係もない。
 窓の向こうには青々と晴れた空が広がっている。
 直は嬉々として頷いた。

「じゃ、優佑。元気でね。もう二度と会うこともないと思うけど」
「おま……あっさりしてるな!」
「もう恋人でもないしね。優佑と惜しむ別れはないや」
「おい、こっちはなぁ――!」

 だん、と机を叩いて立ち上がるが、直はいぶかしく思うだけだった。

「こっちはなに?」
「くっ……ああっもう! もういい、帰れ!」
「あ、そう。最後までほんと自分勝手なんだから。まあ、言われなくても帰るけどね」

 昔の彼女の気安さで、言うだけ言って手を振る。
 優佑はひどく顔をしかめてから、疲れ切ったように脱力して、ひらひらと手を振り返してくれた。


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 笑顔を浮かべたまま、通り過ぎる同僚たちに挨拶を交わす。
 退職ってほんと? なにがあったの?
 そんな質問に「いい転職先見つけたから」なんて、いちいち上機嫌に答えて歩いた。

 笑顔で手を振って、別に会社変わっても友達だよまた連絡するねなんて言い合って。
 笑ってさよならするんだ、そう心の中で言い聞かせて。

 廊下をまっすぐに突っ切って、非常階段に辿り着く。
 防火扉を越えれば、もう誰の視線もない。

 大きく息を吸う。
 鞄も紙袋も雑に抱えて、直は階段を一気に駆け下りた。

 もう、うんざりだ。
 こんな会社、無理に居残ったところでいいことなんてなにもない。

 なんにも知らないくせに気軽に人事に口を出す社長夫人おばさんも。
 社長夫人おばさんの理不尽な横やりに唯々諾々と従う社長おじさんも。

 入社してからずっと、頑張ってきたつもりだった。
 新入社員の頃は確かにお荷物だったのかもしれない。
 だけど、何年も頑張って、異動になってからは慣れない場所でも成果を出そうとして。
 別に会社のためじゃないけど、それなりに評価はされてるものだと思ってた。

 これは、未練じゃない。
 クビになるなんて、社長夫人に喧嘩を売った瞬間に、直自身も覚悟していたことだ。
 だから、断じて未練なんかじゃない。
 ただ――

 勢いのまま走って会社の敷地を飛び出した途端、直の身体を横から引いた腕があった。

「危ない!」
「――っ!?」

 ちょうど首元に自分の頬が当たっている。
 抱きとめられるような姿勢で、直はぎくしゃくと彼を見上げた。

「……瀬央せお、さん?」
「びっくりした。直ちゃん、いくら交通量が少なくても、いきなり道路に飛び出したら危ないでしょう」

 安堵のため息とともに直に向きなおった瀬央は――直の顔を見て改めて狼狽した。

「あの……ごめん。今の、どこか痛かった?」
「……いえ、痛くは……ひっ」

 しゃっくりみたいな声が出る。
 おかしいなぁと思っているうちに、なぜか目の前がぼやけてきた。
 目元がみるみる熱くなって、だらだらと頬に流れ落ちてくる感触。

 ああ、私、泣いてる。
 自覚とともに、ますますしゃっくりが止まらなくなる。
 ひっ、ひっ、と引きつけながら泣く直の頭を、瀬央の手がぎゅっと抱きしめた。

「……止められなくて、ごめん」

 たった今、危ないところを止めてくれたじゃないですか。
 笑ってそう答えたかったのに、直の喉は無意味に空気を漏らすしかしてくれない。

 瀬央はなんにも悪くない。
 ながれのせいでもない。
 私だって、こうなることくらいわかってましたから。

 そう言おうとして、うわあんと大きな声が出た。
 それは子どもみたいな泣き声だったから、ひどく恥ずかしい。
 だけど、恥ずかしさを感じるよりも先に次から次に涙が出て来てしまうものだから、直にはもうどうしようもなかった。

 瀬央は、直が落ち着くまでずっと頭をなでてくれていた。
 思い返せば、それもやっぱり恥ずかしいのだが、そのときの直はただ温かくて気持ちいいってことだけわかっていて、どうにも涙は止まらないのだった。


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 かつん、とティーカップの中でスプーンが鳴る。
 正面に座った瀬央は微かに肩を動かしたけれど、特になにも言わず直をじっと見ていた。
 背後に流れる音楽は、歌声のないジャズだ。
 天井にぶら下がるアンティークな照明は温かい光をたたえていた。
 ソファもテーブルも、そして目の前のティーセットも、少し古い感じなのに華やかで、だけどとても滑らかだ。
 店内のすべてが調和する落ち着いた空気に、ささくれた心が癒されていく。

 動ける程度に泣き止んだところで、瀬央が連れて来てくれた喫茶店。
 しゃくりあげる直を前に、なにも言わず瀬央が注文してくれたのは、温かい紅茶だった。

 薄く軽いティーカップを唇にあてる。
 お砂糖のいっぱい入った紅茶は、がさがさに荒れた喉にゆっくりと染み渡った。

 泣き腫らした目は真っ赤になっていたけれど、ひとまず直の気持ちは落ち着いていた。
 そして、落ち着けば――さっきまでの醜態に改めて頭を抱えそうになった。

「あの……ごめんなさい」
「君が謝ることないよ、直ちゃ――いや、煙咲たばさきさん」
「いえ、あの……そんな言い直さなくていいです。直って呼んでください」
「いや、でも」
「その……もう、同じ会社の人間じゃないので、セクハラとかもないですし」
「でも、僕だけそんなの馴れ馴れしいよ」
「一方的なのが気になるなら、私も仁誉きみたかさんって呼びましょうか」

 直の言葉に、瀬央は一瞬面食らった顔をした。
 しばらく視線を泳がせてから、大きな魚を逃したような顔でため息をつく。

「困ったな。そう言われると、話を切り出すのが惜しくなってくる」
「……なんのことですか?」

 カップ越しに見つめる直の頬に、瀬央が指を伸ばしてくる。
 濡れた頬を、乾いた指の腹でこすってから、瀬央はいたずらっ子のように笑った。

「君だけが泣いて終わりだなんて、とんでもないと思わないか。これは僕のワガママだけど……もう少し付き合ってほしいんだ。僕にもいくつか考えがあってね」
「そ、それは……?」

 恐る恐る尋ねた直に、瀬央はなにやら慣れたウインクを返してきたのだった。
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