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第二章 出会い・前進・家族の問題
8.初白星
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電話が鳴り出した。
受話器に手を伸ばす直に、瀬央がサムズアップを送る。
正面の板来は、ホワイトボードに視線を向けて、こくりと一つ頷いた。
その視線を追いかけてから、直も頷き返す。
最後に、瀬央に目で合図して、直は静かに受話器をあげるた。
「お電話ありがとうございます。多比良オフィスレンタルサービス株式会社、お客様サポートコールセンターです」
『もしもし? ちょっとご相談したいんですがいいですか?』
「はい、どのようなことでしょうか?」
板来がキーボードに書かれた文字を指している。
「まずは明るく」。
説明していたときの板来の声が、脳裏によみがえる。
『一般にコールセンターの第一声は、とにかく明るい方がいい、と言われてる』
『そうなの?』
『ああ、だがここは違う。このコールセンターにかかってくる電話は、基本的には修理の依頼だ。顧客は困ってかけてきてるんだから、あんまり明るすぎると、かけてきた相手との温度差が大きくなる』
『じゃあ……暗い方がいいかな?』
『んなワケねぇだろ、バカかお前は。適度に印象いいくらいに明るくしろ。初対面の相手が暗い声で電話に出たら、顧客だって困るだろうが』
ひどくバカにされたが、瀬央さんも苦笑しつつ頷いていた。
怒りをぐっと抑えて、直も納得した。
確かに、自分がかけた電話相手が暗い声をしていたら、まず会話する気が起こらない。
まずは明るく。
クリアした、と思う。
視線で問うと、板来が、ふんと鼻を鳴らした。
及第点のようだ。
安堵の息をこっそりとついたところで、顧客の声が話を続ける。
『そちらからお借りしている複合機なんですけどね、最近調子が悪いんです』
「それは……大変ご迷惑をおかけしております」
『ええ、困っていましてね。すぐに紙が詰まってしまって、日に何度も作業が止まるの。私がいるときはいいけれど、ほら、うちは男手の方が多いくらいだから。車には詳しいけれどコピー機はてんでダメでねぇ』
「そうでしたか……紙が何度も詰まってしまうのですね」
相槌を打ちながら、直は再び板来を見た。
濃いルージュの塗られた唇が、音を出さずにぱくぱく動く。
『よ・く・き・け』。
『それで、それからどうすればいいの?』
『前にも言ったが、俺は細かい敬語なんかより先に気にすることがあると思ってる。お前が伝えたい気持ちは顧客に伝わる。だから、電話に必要なのは、三つの『きく』だ』
『きく……?』
聞。聴。訊。
ホワイトボードに書かれた三つの字をちらりと見て、直は電話に意識を戻した。
ひとまず、顧客の状況を『聞く』ことはできたようだ。
次は、『聴く』こと。
彼女が言いたいことはなんなのか、それをうまく捉えないと、次の話にスムーズに移行しない。
瀬央がウインクを飛ばしてくる。
板来の言う『聴く』については、瀬央も一家言あったようだ。
『そうだなぁ、僕もわかるよ、その感覚。こっちが焦って話を進めようとすればするほど、なぜか話は進まなくなるんだよね。結局、向こうは言いたいことがあるんだ。それは、必ずしも僕のしたい話と一致していない。最終的に、お客様が言いたいことを言い切らない限り電話は終わらない。だから、話を丁寧に聴くことは、実は回り道じゃなくて一番の近道なんだ。話を進めるためにもね』
これが一番の近道だ。耳を傾ける。
もう一度その言葉を繰り返して、電話の向こうに耳を傾ける。
『そうなのよ、紙が詰まるでしょう? そのたびに私ばっかり呼ばれるのよ。修理してってねぇ……私だって別に直せる訳じゃないのよ。紙がどこに詰まってるかって、画面に出てる通りなのにね』
顧客が言いたいことはなんだ。知りたいことはなんだ。
このタイミングで、代替品を用意する、と言えばそれですむのか。
いや、と直は心の中で否定した。
「頼りにされているのですねぇ。ですが、お手を煩わせてしまってすみません」
『ええ、いえ。いいのよ。まあ機械だからね、壊れることもあるでしょう。ずいぶん長くお借りしてるしね』
「はい、長くご利用いただいて本当にありがとうございます」
『いいえ、まあこちらこそお世話になってねぇ……!』
言葉が区切れた。
直はふっと息を吸いなおして、最後の『訊く』に集中した。
「ご迷惑をおかけいたしました。それでは、代替品をご用意できるよう、ご登録を確認させていただきます」
『ええ、お願いしますね』
顧客の情報を漏れなく聞き取って、直はゆっくりと電話を切った。
談笑の混じるような、良い電話だった。
「……はあぁぁぁぁ……」
長い緊張の糸がほどけ、力が抜ける。
その肩を、ぽん、と優しく瀬央の手が叩いた。
「煙咲さん、お疲れ様。いい電話だったね」
「そう……でしょうか? うまくできていましたか?」
「後で録音を聞くといいよ。お客様の話をよく聞けていた。板来くんもびっくりするくらいね」
「びっくり……?」
最初のうち、板来が何度かアイコンタクトを取ってくれていた。
それで落ち着いて、板来の教えてくれたことを思い出せた。
今はディスプレイの影になっているが、きっとこちらを気にして何度も様子をうかがってくれたのだろう。
直はディスプレイ越しに頭を下げた。
「あの、板来くん、ありがとう。私、あなたのおかげで――」
「いい、言うな」
「えっ……?」
制止され、びっくりして立ち上がる。
板来はディスプレイの向こうで、ぐったりとキーボードの上に伏せていた。
「……板来くん?」
「他人の電話って、自分の電話以上に緊張するもんだな……。いつポカするかと思って気が気じゃなかった……」
「えぇ……そんな言い方ってある?」
直が顔をしかめた途端、背後でくっくっと笑い声が上がる。
思わず振り返ると、嬉しそうに口元を緩めた瀬央と目が合った。
「やだなぁ、板来君。そういうのは、心配してるって言うんだよ。教え子が君の言う通りに果敢に挑戦していくものだから、期待と不安でハラハラしたんだろう?」
「……瀬央さん」
「やったじゃないか、初白星――それも見事な金星だ」
「……瀬央さん、言葉のチョイスが古いっす」
じろりと瀬央を見上げた板来を、笑顔を消さない瀬央が迎え撃つ。
無言の攻防は、動揺の少ない方に勝ちがあったらしい。
結局、板来は無言のまま、もう一度机に顔をくっつけたのだった。
受話器に手を伸ばす直に、瀬央がサムズアップを送る。
正面の板来は、ホワイトボードに視線を向けて、こくりと一つ頷いた。
その視線を追いかけてから、直も頷き返す。
最後に、瀬央に目で合図して、直は静かに受話器をあげるた。
「お電話ありがとうございます。多比良オフィスレンタルサービス株式会社、お客様サポートコールセンターです」
『もしもし? ちょっとご相談したいんですがいいですか?』
「はい、どのようなことでしょうか?」
板来がキーボードに書かれた文字を指している。
「まずは明るく」。
説明していたときの板来の声が、脳裏によみがえる。
『一般にコールセンターの第一声は、とにかく明るい方がいい、と言われてる』
『そうなの?』
『ああ、だがここは違う。このコールセンターにかかってくる電話は、基本的には修理の依頼だ。顧客は困ってかけてきてるんだから、あんまり明るすぎると、かけてきた相手との温度差が大きくなる』
『じゃあ……暗い方がいいかな?』
『んなワケねぇだろ、バカかお前は。適度に印象いいくらいに明るくしろ。初対面の相手が暗い声で電話に出たら、顧客だって困るだろうが』
ひどくバカにされたが、瀬央さんも苦笑しつつ頷いていた。
怒りをぐっと抑えて、直も納得した。
確かに、自分がかけた電話相手が暗い声をしていたら、まず会話する気が起こらない。
まずは明るく。
クリアした、と思う。
視線で問うと、板来が、ふんと鼻を鳴らした。
及第点のようだ。
安堵の息をこっそりとついたところで、顧客の声が話を続ける。
『そちらからお借りしている複合機なんですけどね、最近調子が悪いんです』
「それは……大変ご迷惑をおかけしております」
『ええ、困っていましてね。すぐに紙が詰まってしまって、日に何度も作業が止まるの。私がいるときはいいけれど、ほら、うちは男手の方が多いくらいだから。車には詳しいけれどコピー機はてんでダメでねぇ』
「そうでしたか……紙が何度も詰まってしまうのですね」
相槌を打ちながら、直は再び板来を見た。
濃いルージュの塗られた唇が、音を出さずにぱくぱく動く。
『よ・く・き・け』。
『それで、それからどうすればいいの?』
『前にも言ったが、俺は細かい敬語なんかより先に気にすることがあると思ってる。お前が伝えたい気持ちは顧客に伝わる。だから、電話に必要なのは、三つの『きく』だ』
『きく……?』
聞。聴。訊。
ホワイトボードに書かれた三つの字をちらりと見て、直は電話に意識を戻した。
ひとまず、顧客の状況を『聞く』ことはできたようだ。
次は、『聴く』こと。
彼女が言いたいことはなんなのか、それをうまく捉えないと、次の話にスムーズに移行しない。
瀬央がウインクを飛ばしてくる。
板来の言う『聴く』については、瀬央も一家言あったようだ。
『そうだなぁ、僕もわかるよ、その感覚。こっちが焦って話を進めようとすればするほど、なぜか話は進まなくなるんだよね。結局、向こうは言いたいことがあるんだ。それは、必ずしも僕のしたい話と一致していない。最終的に、お客様が言いたいことを言い切らない限り電話は終わらない。だから、話を丁寧に聴くことは、実は回り道じゃなくて一番の近道なんだ。話を進めるためにもね』
これが一番の近道だ。耳を傾ける。
もう一度その言葉を繰り返して、電話の向こうに耳を傾ける。
『そうなのよ、紙が詰まるでしょう? そのたびに私ばっかり呼ばれるのよ。修理してってねぇ……私だって別に直せる訳じゃないのよ。紙がどこに詰まってるかって、画面に出てる通りなのにね』
顧客が言いたいことはなんだ。知りたいことはなんだ。
このタイミングで、代替品を用意する、と言えばそれですむのか。
いや、と直は心の中で否定した。
「頼りにされているのですねぇ。ですが、お手を煩わせてしまってすみません」
『ええ、いえ。いいのよ。まあ機械だからね、壊れることもあるでしょう。ずいぶん長くお借りしてるしね』
「はい、長くご利用いただいて本当にありがとうございます」
『いいえ、まあこちらこそお世話になってねぇ……!』
言葉が区切れた。
直はふっと息を吸いなおして、最後の『訊く』に集中した。
「ご迷惑をおかけいたしました。それでは、代替品をご用意できるよう、ご登録を確認させていただきます」
『ええ、お願いしますね』
顧客の情報を漏れなく聞き取って、直はゆっくりと電話を切った。
談笑の混じるような、良い電話だった。
「……はあぁぁぁぁ……」
長い緊張の糸がほどけ、力が抜ける。
その肩を、ぽん、と優しく瀬央の手が叩いた。
「煙咲さん、お疲れ様。いい電話だったね」
「そう……でしょうか? うまくできていましたか?」
「後で録音を聞くといいよ。お客様の話をよく聞けていた。板来くんもびっくりするくらいね」
「びっくり……?」
最初のうち、板来が何度かアイコンタクトを取ってくれていた。
それで落ち着いて、板来の教えてくれたことを思い出せた。
今はディスプレイの影になっているが、きっとこちらを気にして何度も様子をうかがってくれたのだろう。
直はディスプレイ越しに頭を下げた。
「あの、板来くん、ありがとう。私、あなたのおかげで――」
「いい、言うな」
「えっ……?」
制止され、びっくりして立ち上がる。
板来はディスプレイの向こうで、ぐったりとキーボードの上に伏せていた。
「……板来くん?」
「他人の電話って、自分の電話以上に緊張するもんだな……。いつポカするかと思って気が気じゃなかった……」
「えぇ……そんな言い方ってある?」
直が顔をしかめた途端、背後でくっくっと笑い声が上がる。
思わず振り返ると、嬉しそうに口元を緩めた瀬央と目が合った。
「やだなぁ、板来君。そういうのは、心配してるって言うんだよ。教え子が君の言う通りに果敢に挑戦していくものだから、期待と不安でハラハラしたんだろう?」
「……瀬央さん」
「やったじゃないか、初白星――それも見事な金星だ」
「……瀬央さん、言葉のチョイスが古いっす」
じろりと瀬央を見上げた板来を、笑顔を消さない瀬央が迎え撃つ。
無言の攻防は、動揺の少ない方に勝ちがあったらしい。
結局、板来は無言のまま、もう一度机に顔をくっつけたのだった。
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