「月が、綺麗ですね。」

八尾倖生

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第三章 出版

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5 春

 月日は矢のようにあっという間に過ぎ、ていくことなどなかったが、奏さんと紅白書房を訪れ、正式に奏風朱悟の作家デビューが決まったる冬の一日から、年が明け、後期の期末試験も終わり、出版も無事になされ、そして明日遂に、奏さんが卒業するという現春の一日までは、想像していたより経過するのが早かった。
 そんな春の空気に身体を浸していると、スマートフォンが鳴った。
「久しぶり、朱美ちゃん! 元気だった?」
「ご無沙汰してます、尊さん」
 予定もなく、ただなんとなく大学の部室に来ていた私は、暇を持て余していた。
「てか聞いたよ! 小説、めっちゃ売れてるんだって!?」
 尊さんが言った通り、約一ヵ月前に正式に発売された我々の小説は、予想を遥かに上回るペースで売れた。もちろん元々の評判もあったが、既に述べた通り、かの裁判は地上波のニュースで取り上げられるなどかなり話題となり、それも相まって知名度が全国的に普及したことで、予想以上に売れる結果となった。ある意味、裁判や盗作騒動が売名行為のように働いたのは、神が我々に与えた皮肉だろうか。
「しかも飛鳥あすかさんが色々やってくれたんだって!?」
 またしても尊さんが言った通り、かの有名な飛鳥わたる先生、すなわち我がサークルの伝統そのものと言える最大の出世頭であろうお人が、我々の小説を絶賛し、世間に対して強く推薦してくださったのだ。それだけでも感極まる想いがはち切れそうであったが、なんと飛鳥先生は、我々のサークルが相手の攻撃を受け、廃部の危機に陥った今年の四月から五月頃、大槻さんから事情を聞き、裏で事の鎮静化に動いてくれていたそうだ。
「本当に、たくさんの人に支えられて、ここまで来たんですね」
「それもこれも、君たちが頑張ったからだよ」
 神様はこんな私たちでも、見てくれていたのだろうか。
「そういえば、印税ってどうするの?」
 何事もなかったかのように、尊さんは話のテンションを戻した。
「一応折半することになりそうです」
「へー。じゃあ、そのうちガッポリ入ってくるね」
「まあ、ボチボチです」
「そんなに稼げそうなら、そろそろ奢ってもらっちゃおうかなー」
「いいですね! それなら最初の四月に初めて三人で行った、あのお店行きましょうよ!」
 今では尊さんとも、緊張せずに堂々と話せる。
「懐かしいなーあの店。そういえばあのとき、朱美ちゃん、ずっとウーロン茶飲んでたよね」
「だってあのときはまだ、奏さんのこと、よく知らなかったんですもん。酔っ払っちゃったら、何されるか怖くて怖くて。それにまだ普通に未成年でしたし」
「うん、それは正しい判断だったな」
 お互い笑い合っているのが、耳を塞いでもわかる。
「でも、今回も結局奢ってやるからな。これでも俺、結構給料いいんだぜ?」
「それなら遠慮なく甘えさせていただきます。あとこれからお腹減ったら、いつでも尊さんに連絡しますね!」
「そうしてくれ」
 誰かの言い方を真似た尊さんの声は、目の前にいるかのように、近くに感じた。
「それじゃ、これからもお互い頑張ろうな!」
「はい!」
 お元気で、尊さん。
「また、いつの日か」
「はい」
 また、会いましょう。

 誰もいない部室に一人でいる時間は、なんとなく、しかし確かに、気持ちがいい。
 いつの日か、美月が私と一花の関係を羨んだときのことを思い出す。輝いている人が輝いてない人たちを見て、「そっちの方が疲れないし、本当に楽しそう」、みたいな感じで言う、あれだ。
 だが今は、そんなこと、全く無意味だったと反省する。輝いているとかいないとか、そんなものを決められる人間など、この世にはいない。輝いていたって時間は止まらないし、輝いていなくても、時計の針は進む。そうしていつの日か、たった一つしかない世界の上で同化する、それが我々人間のなのだ。
 しかし、自分の時間は違う。小さなことを一つ一つ気にしていたら、そのうち、自分だけの時計の針が止まってしまう。入学式に行こうが行かないが大学生活は自動的に始まるが、あの日、この部室の前に来ていなかったら、このドアを開けていなかったら、私の時間は、私の夢は、始まってはいなかった。今、ここにいることもなかった。今日、明日、明後日、一ヵ月後、二ヵ月後、一年後、そしてその先に、こんな感情を味わうこともなかった。一度は後悔しかけたその勇気が、何よりも私の背中を押してくれる風になることもなかった。決して、無駄なことにはならなかった。
 それだけは、確かなことだ。
「あれ? 誰かいるのか?」
 そのとき、部室のドアが開いた。
「え、奏さん?」「え、朱美?」
 同時に同じ疑問が口から出る。
「なんで来たんですか?」「なんでいるんだ?」
 訊きたいことも、言いたいことも、きっと同じだ。
「……、君から話せ」
「いや、私は別にその、暇つぶし、的な?」
「まあ、俺もそんなところだ」
 思っていることも、感じていることも、きっと同じだ。
「奏さん、明日、卒業式なんですよね?」
「そうだけど?」
「明日が終わったら、もうここに来たらダメですよ? ただの不審者ですからね?」
「余計なお世話だ」
 奏さんは中に入り、定位置に座った。
「私たち、出会ってからもう二年も経つんですね」
「まだたったの二年なのか。随分長く感じるが」
「それは同感です」
 おそらく、こうして部室で二人で会うのも、今日が最後になるだろう。
「奏さん、明日、泣いたりするんですか?」
「さすがにしないだろうな。別にこのキャンパスに思い入れはないし」
「五年もいたのに?」
「一年余計だ」
「それは自業自得です」
 奏さんがあそこに座るのも、今日が最後になるかもしれない。
「奏さんはお金、何に使うんですか?」
「うーん、特に決めてないけど、親孝行にでも使おうかな。旅行とか行ったり」
「へえ、偉いですね。じゃあ私も、お世話になった人への恩返しに使うようにします」
「そうしてくれ」
「……なんで奏さんに使い道決められなきゃならないんですか」
「……言いたくなっただけだ」
 開いている窓から風が差し込み、あんな風に奏さんの髪の毛を揺らすのも、今日が最後になるかもしれない。
「そう考えると、俺、このキャンパスのこと、知らないことばかりだな」
「どう考えたのかは知りませんけど、それならこれから色々周ってみたらどうですか?」
 それを聞いた奏さんは、ニッコリと笑いかけた。
「やめておくよ。それより今は、できるだけここに居たい」
 そのまま室内を一周見渡し、目を閉じた。
「ここだけは、永遠にり続けてほしいから」
 そうして目を開け、私を見る。
「目、真っ赤ですよ? 奏さん」
「……、花粉症だ」
 真っ赤に溢れた目で、真っ直ぐに、私を見る。
「頼んだぞ、朱美」
「はい、奏さん」
 お元気で、奏さん。
「これからも、よろしくな」
「はい」
 また、会いましょう。


「朱美、部室あっちだっけ?」
「うん。今日は付き合ってくれてありがとね!」
「ううん! 私も色々やりたいことできたからちょうどよかった!」
 月は沈み、日は昇る。また日が沈み、月が昇る。そんな風にして月日は巡り、また新年度がやって来た。
 今日私は、サークル活動の申請のために大学に来ている。遂にメンバーは一人になってしまったが、一応今回の小説の実績が認められ、存続と部室の維持が無事に許された。最低限、奏さんの願いは叶えられたことになる。
 そんなこんなで友人にも付き添ってもらい大学事務室に顔を出したが、さて、これから何をしよう。友人には部室に行くと言ったため、そのまま部室に行くのが定石じょうせきなのだろうが、果たして行って何をしよう。奏さんがいるわけでもないし、新学期早々人が大勢歩き回るキャンパス内で、一人部室でのんびりするというのも、なんだか落ち着かない。かと言って部室を無視して帰るのも、何か違う。仕方ない、とりあえず行って、行ってからまた考えよう。
 と思って部室まで行ってみると、部室の周りに、何やら二十人から三十人ほどの人だかりができていた。何事かと思い、彼らを避けながら部室に入ろうとしたが、どうやら彼らは部室に用があるのか、その道が完全に塞がれている。
「あ! あのもしかして、夏目朱美さんですか!?」
 唐突に近くにいた女の子に名前を呼ばれ、思わず肩に力が入る。
「そ、そうですけど」
「やっぱり! すごい! 本物だ!」
 彼女がそう言うと、その近くにいた人々もこちらに集まり、人だかりは私を中心と化していった。
「あの私、『月が、綺麗ですね。』、大好きなんですよ! それでその小説がこのサークルで生まれたって聞いて、ぜひ入りたいって思って!」
「え、もしかして、ここにいる皆さんは、ウチのサークルの入会希望者ですか?」
「「はい!!」」
 見事という言葉はこの瞬間のためにあったのかと思うくらい、全員の声が揃った。
「……もしかして、もうメンバー募集してないんですか……?」
「ううん、違う違う! こんなことになるなんて思ってもみなかったから──」
 そのとき、二年前に誰かから聞いたある言葉を思い出した。

【君が三年生ぐらいになった頃、すなわち俺が卒業している頃には、全盛期のようにたくさんの人間がこの部室を埋め尽くしているだろう】

「あのちなみに奏風朱悟さんって、じゃなかった、遊佐奏さんって、どんな方だったんですか?」

【その頃君は、きっとサークルを救った伝説の英雄を目の当たりにした人間として、必要以上に崇められるだろう】

「……あなたの妄想力も、捨てたもんじゃないですね」
「え? どうされたんですか?」
「ううん! 何でもない! とりあえず、部室入ろっか! ……入り切るかなあ?」
 神はどうやら、この世界から、まだまだ創作という概念を消すつもりはないみたいだ。
 ひいてはまたこの世界に、喜びや怒り、哀しみや楽しみを、絶えず供給してくれるつもりらしい。
 もちろん、人間の世界においてそれを生み出すのは、人間である。人間が創り、人間が感じ、人間が評価し、そして、人間の元にかえっていく。そうやって、世界は少しずつ色づけられていく。今日もまた世界のどこかで、新たな色が誕生したのだろう。
 そこに生まれる正の感情も負の感情も、人間だから生まれることだ。人間だから、受け取れることだ。人をわらい、傷つけ合うのも、人間だからなのかもしれない。
 でももし小説の力で、創作の力で、そして、感性の力で、少しでもそれを明るい色に変えられるのなら、私はやっぱり、この世界に居続けたい。この世界の色に、染まり続けたい。
「それでは皆さん、これから、よろしくお願いします!」
 それが私の、夢、だったから。

 いつか私の前に訪れた暖かな春の風は、光となって、人々の明日を照らした。
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