「月が、綺麗ですね。」

八尾倖生

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第三章 出版

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4 冬

「有紗さん、控訴しないそうですね」
「そうか。それはよかった」
 判決の日から二週間が経ち、戦後に待ち受けていた身の回りの整理と戦うせわしない日々も、どこか心地良さを感じる。
 まずは溜まりに溜まった大学の課題を片付け、それと同時に大学に裁判の結果を報告し、廃部と部室没収はまぬがれた。と言っても、没収されてもそこまで痛手ではないおんぼろ小屋であることは事実だが、なかったらなかったで寂しくなるのも事実である。
 それからもう一つ、戦いの末に我が手に戻ってきた小説についての処理も、大学の事柄以上にやることが満載だった。権利関係の処理は本城さんが全面的に引き受けてくれたので委任しているが、それとは別の、かの書籍化に関する処理が、直接我々の目の前にりかかっている。
 ということで、今私と奏さんは、以前訪れた出版社に足を運び、以前会った人物に再び会うために、以前にも来た会議室でその人物を待っている。
「いやあすいません、お待たせしました!」
 その人物が到着し、以前とはまた違った緊張感に包まれた。
「お久しぶりです、大槻さん」
「ご無沙汰してます! そんなに固くならないでいいので、リラックスしてください!」
 その一言で、実際に肩の力が抜けた。
「裁判、本当にお疲れ様でした。正直、その節に関しては謝らなければいけませんね」
「いえいえ! むしろ感謝したいくらいです! 大槻さんがこんなに引き延ばしてくれたから、結果的に間に合ったんですから!」
 大槻さんが六月に連絡してくれた『月が、綺麗ですね。』の出版の予定時期は、今年の冬だった。そのため、裁判の結果が出たのは五木あおいの名で出版される前となり、結果的に真っさらな状態で世に出せることになった。
 また、その判決が裁判開始からこんなにも短期間で出たのは、その意思をみ取ってくれた本城さんが、争点整理をスムーズに進めたことや、さりげなく口頭弁論のスパンが短くなるよう働きかけていてくれたことに他ならない。元々の形勢が不利だった我々にとってその方策はかなり危険な賭けだったが、たくさんの人々のお陰で、今、ここに居られる。
「新しくり直すので出版は年明けになってしまいそうなのですか、大丈夫ですかね?」
「はい! もちろん! 私たちは出版していただけるだけでありがたいですから!」
 真っ新な奏風かなた朱悟しゅうごの名で、真っ新な私たちの小説を世に出せる。
「それにしても、裁判、私たちはもちろんそうですけど、他の出版社さんの間でも結構話題になってましたよ。お二人、今ではすっかり有名人ですね!」
「ま、まあ、良いのか悪いのかはわからないですけど……」
 今回の裁判は話題作をめぐってということもあり、小説の情報サイトなどの界隈を中心に世間を賑わせた。それもあって、判決の日は我々の知り合い以外もたくさん人が集まり、傍聴席は満席になっていた。大槻さんも来てくれたみたいだが、結局入れなかったらしい。
「最初の方はだいぶ非難もされましたけどね」
 久しぶりに喋った奏さんが言った通り、我々は当初、五木あおい本人のファンや、我々が起こした盗作被害の運動に関心がない作品のファンから強いバッシングを受け、結果的にそれは彼の復帰を余計に妨げた。今思えば、それも相手の作戦だったのだろう。
「遊佐さん、聞きましたよ。詐欺師相手のおとり作戦考えたの、遊佐さんなんですよね?」
「え、ええ、まあ。あれに関しては僕は提案しただけで、実際に実行してくれた二人の方がたたえられるべきですよ」
「でも間違いなく、あれで裁判の潮目は変わりましたよ。一応私も逐一経過は追いかけていたんですけど、あれと最後のがなかったら、全然わかりませんでしたもんね」
 大槻さんはどことなく楽しそうだ。
「それにしても、よくあの詐欺師見つけて、それも会うとこまでいきましたよね。当時そういう問題話題になってたのに」
「ああ、確かにそれは懸念したんですけど、初めの頃よりはだいぶ熱も冷めてましたし、彼らもそろそろ次回作について焦り始める時期でしたし、それに相手が高校一年生なら油断するかなーって、ある意味賭けだったんですが、それが上手くいった感じです」
「なるほどー。確かにその娘が相手陣営の先生の教え子だなんて、まさか思わないですもんね。さすが遊佐さん、ボーっとしているように見えて、本当はかなりの策士だ」
 私相手ならここで「一言余計だ」とでも言ってきそうだが、相手が相手だけに、奏さんはそのまま受け入れている。当の大槻さんは、その言葉を欲しそうにしている様子だが。
「あ、まずい、もうこんな時間だ。早速で悪いのですが、本題に移らせてもらってもいいですか?」
「はい! もちろん!」
 ということで、経過報告会も束の間、本題に入る運びとなった。
「えっと、まずは最終原稿についてなんですが」
「はい。こちらでお願いします」
 そう言って奏さんは、判決の日の後、二週間で微調整を施しつつ完成させた原稿を大槻さんに手渡した。
「ありがとうございます。ちなみに内容って変わってたりしてます?」
「いえ、ほとんど変えてないです。そんな時間もなかったので」
「そうですか。それなら問題ないです」
 諸々の手間が省けた安心からか、大槻さんは胸を撫で下ろした。
「あ、そうだ。ペンネームってどうされますか?」
 そう訊かれるも、奏さんは、ちょうど一年前のこの時期に決めた名を言おうとしない。
「どうしたんですか、奏さん。もう決めましたよね? 確か、奏風朱悟って──」
「あの、」
 今日の初めから、なぜか緊張していた奏さんの心の内が開いた。
「無理だったら全然大丈夫なんですけど、共同発表とかって、出来たりします?」
 その言葉を聞いた他の二人は、別の意味で緊張せざるを得なかった。
「え、えっと、まあ、お二人がよろしいのであれば……」
「奏さん、どういうことですか?」
 曖昧な大槻さんの返答を余所よそに、すかさずその意図を問いただした。
「いや、昨日一晩中考えたんだが、確かに今回の小説を執筆したのは俺だけど、そこには朱美とか、尊とか、他にも裁判に携わってくれた大勢の人の協力があって、ようやく完成したものだと思うんだ。だから、そんなたくさんの人の結晶の恩恵を受けていいのは俺だけじゃ不充分だって思って、それならせめて朱美との共同執筆って発表した方が、まだみんなの努力が報われるんじゃないかと思って、それで──」
「メンタルは強くなったのに、器は小さいのは相変わらずですね」
 思いもよらなかったであろう私の突然のに、奏さんの開いた口は塞がらない。
「恩恵がどうとか、努力が報われるとか、そんなこと、誰も求めてないですよ。みんなが求めてるのは、みんなが欲しがってるのは、たった一つです。大沢さんも言ってたじゃないですか。あなたが創り、えがき、書き上げた物語が、みんな見たいんです。そのためにみんな、一所懸命頑張ってきたんですから」
 いつの間にか緊張が解かれた大槻さんが、所々でうなずいている。
「それに私、ここで中途半端に作家デビューしちゃうと、後で困るんです。だから奏さん、私のことなんか気にしないで、あの落語家が小説出版したのかなんて勘違いされそうな名前で、思う存分、新しい世界で暴れてください。それがみんなと私の、恩恵であり、報いなんですから」
 そう奏さんに畳み掛け終えると、大槻さんの方に向き直った。
「ごめんなさい、お恥ずかしいところを見せてしまって。それじゃ、奏風朱悟でお願いしてもいいですか?」
「あ、はい、わかりました。遊佐さんも大丈夫ですか?」
 奏さんも大槻さんの方を向く。
「はい。奏風朱悟でお願いします」
 今、この瞬間、遊佐奏、もとい奏風朱悟のデビュー作、『月が、綺麗ですね。』が、正式に誕生した。
「よし、それじゃ、だいたい今日話す予定のものは終わりましたね。あ、そうだ。実は今日、お二人にあるサプライズニュースがございまして、」
 思わずそんなことを言われたため、二人は目を合わせる。
「実は、とある作家の先生のご厚意で──」
 その話の内容に、二人は目を丸くせずにはいられなかった。
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