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第一章 企画
入学
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2 入学
お父さんに買ってもらった慣れないスーツを着たまま、私はなかなか家から出られない。もうじき、かれこれ三十分は経過する。家って言っても、小さなアパートだけど。
一週間前にこのアパートに越してきてから、私はほとんど外に出ていない。かと言って、ここが特別居心地がいいわけではないけれど、自分の家の近くの地理も碌に把握していない状況で外に出るよりは、独りの方がマシだと錯覚した。その結果、今の状況を二重に陥れてしまった。家を出る予定の時間まではまだ余裕がある。だからこそ、こうしていられるのだけれど、結果的にそれは大失敗だった。甘える時間を作っただけだ。甘える相手もいないのに。
どうしよう。入学式は別に出席しなくてもいいらしいけど、ガイダンスやらなんやらは出ておいた方がいいって聞いた。というか、出ないと困るのは自分だ。システムもわからず時が進み、気付いたら履修登録期間が終わっている、そんな状況になって終わるのは、私の人生である。それなりに勉学に励み、それなりに苦労を重ね、それなりにレールの上を歩いてきたこの十八年が無駄になる、のだろうか。
たった一回サボっただけでそんな訳ないのはわかっている。でもたぶん、私の場合、今日の一日が、これから先のすべての一日なんだと思う。今日サボれば、明日もサボる。明日サボれば、明後日もサボる。明後日サボれば、一ヵ月後も、二ヵ月後も、一年後も、もしかしたら、その先も。だから、今日を頑張れ、って、好きな小説の主人公が言っていたから、頑張るしかない。そういう主人公をいずれ、私が創り出すためにも。
太陽の光を浴びながら外に出るのは、本当に引っ越してきた日以来だった。三月よりも暖かな風が、自然に曝されることに慣れていないスーツを撫でる。同時に、私の肌に囁きかける。これから起こる様々な出来事の予告をするように、春という季節を誘惑する。もちろんそれは、喜び、怒り、哀しみ、楽しみを、森羅万象と共に私たちの感性に届けてくれる、春夏秋冬の一つに過ぎない。
だが、私はどこか、その風に心当たりがあった。今までのではなく、これからのだ。正直、何を言っているか自分でもわからない。昨日、現実逃避のためにかの主人公の小説を読み耽ったのが原因だともわかっている。
しかし、少なくとも私は、この風にまた出会うことになるのを予感した。
電車とモノレールを乗り継ぎ、大学へと到着した。ここまで来れば、スーツ姿も見事なまでに風景に溶け込む。大学構内にはまだ二回ほどしか行ったことがなかったが、漠然と人々の流れに乗っていたら、目的の教室に辿り着いた。
教室内に入り、事前に渡されていた席番号を探していると、案外簡単に見つかった。結局家を出るのをギリギリまで粘っていたため、着いたのは開始時刻の五分前であったが、両隣はまだ空席だった。
このとき、若干の期待が湧いた。もしかしたら隣の人も、同じように家を出るのを躊躇い、同じような気持ちでこの教室に辿り着き、斯くして、共鳴できるのではないか。思ったより簡単に、友人ができてしまうのではないか。それがもし男子だったら、ギャルゲームのように呆気なく、恋人を手に入れられるのではないか。私の人生はそんな風にして、新たな一歩を踏み出せるのではないか。
しかし現実に訪れたのは、ただの現実だった。左隣の人は、結局最後まで来なかった。対して右隣の人は、ガイダンスが始まって十分くらいが経過したところで、悪びれる様子もなく、友人と話しながらやって来た。髪が茶色と金色の中間ぐらい派手な女性で、同じように派手な女性の友人と並んで席に座った。ガイダンス中もずっとひそひそと喋っていたため、ガイダンスで流れている話を碌に聞くことができなかった。
その代わりと言ってはなんだが、彼女たちのことをちょっと知ることができた。どうやら彼女たちは大学の附属校出身で、他にも大学内に友人が大勢いるらしく、早くも講義の情報を掴んでいるようだった。この後は高校時代の先輩に話を聞きに行くため、入学式はサボるという。やはり、入学式は出なくてもいいみたいだ。それから彼女が言っていた。昨日マッチングアプリで知り合った中年男性と会い、お金を貰い、性交したと。その額の大きさに二人のテンションは上がり、周りの注目を集めていた。
その頃の私はというと、二人の話に耳を傾けつつ、これが大学というものなのかということに打ちひしがれつつあった。私の方は履修のシステムさえまともに把握できていないのに、彼女たちはその先に進んでいる。それどころか、私にはない世界を堪能している。もちろん私は彼女たちほどお金の使い方も荒くないだろうから、そんな大金を手にする必要などないのだろうけど、それでも目の前に広がる大海に、溺れかけている自分がいた。
そのままガイダンスは終了し、学生たちは一旦解放された。気が付けば、多くの人たちがさっきまで各々の隣に座っていた人と親交を結び、午後の入学式に備え、そのまま昼食のために学食へと向かっている。私の隣に座っていた女子二人組の姿も、いつの間にか消えていた。全員が全員、そういう相手を携えていたわけではなかったが、私が完全に正規ルートから乗り遅れたことは確かだ。昼食を食べる当てさえない。男子でも女子でも、附属生でも上京者でも、誰でもいい。誰でもよかったから、左隣が埋まってほしかった。私にとって右隣の人たちは、いくら何でも引きが悪すぎる。
結局、午後を待たずして大学から立ち去った。別に両親がわざわざ来ている訳でもないし、むしろ来てなくて良かったと思うくらいだ。入学式の写真を撮ってきてと母から頼まれていたが、適当に体調不良だったとでも言っておこう。でも、そっか、入学式って、一生に一度だったんだよね。そう考えると──、ま、いっか。
アパートに戻り、行き帰りに無作為に貰ってきたサークルのビラを眺めながら、夜を過ごす。元々サークルという存在にあまり興味はなかったが、東京でやっていくためにはサークルで知り合いを作ることが絶対条件だと一花から釘を刺されていたため、とりあえずたくさんの候補を確保してきた。
しかし、思い描いていたものは見つからない。それどころか、この大学内には存在してないのかもしれない。興味のないものに入ったって先は知れているし、そもそも私は、適応できる環境に限りがある。それなら無理に入らなくてもいいのかもしれないけど、でもこのままだと、本当にこのままだ。だけど、今できることは何もない。
とりあえず明日もあるガイダンスに備え、いつものように小説を携えながら、夜に従った。
翌日、アラームが鳴るだいぶ前に目を覚まし、案の定、時間を持て余した。
寒さに身を悶えながらも思い切って窓を開けてみると、そこに広がるのは、清澄かつ朧気に滲む払暁が織り成す、色鮮やかな朝焼けの空だった。本当に綺麗で、私とは大違いだ。でも心なしか、昨日の暖かな風を思い出した。もしかしたらこの朝焼けも、私に何かを与えてくれるのだろうか。一度でも出会ったことが奇跡だと思えるこの朝焼けを、再び目に焼き付けることができるのだろうか。そのとき、今の私はどこにいるのだろうか。
前日と違って私服に着替え、家を出る準備をした。思えば結果的に、昨日わざわざ窮屈なスーツを着る必要はなかったけれど、周りのほとんどがスーツ姿の中で一人ポツンと私服だというのも、それはそれで窮屈だっただろう。結果的にはあれでよかった。その一方で、隣の女子二人は堂々と私服だったというのも、私の目には強烈に焼き付いている。
時が経ち、時計は今日のガイダンスの開始時刻を指し示している。その頃には私も、昨日とは違って自由に座ることを許された席の一画で、小さく縮こまっていた。気のせいかもしれないが、昨日よりも圧倒的に一人でいる人が減った気がする。もしかしたら昨日の入学式の後、学部内で大規模な飲み会やLINE交換会が開かれたのではないか思わせるほど、心細くなった。
同時に、人々の会話の中に時折登場するサークルの話題も、私の心を侵食していった。しかしまだ諦めたわけではない。この大学のどこかに、小規模でも明るく、かと言ってお酒に塗れて遊び惚ける場所ではなく、実直に私の好きなことに向き合える、そんなサークルがあるのではないか。
「サークルってどうする?」
「私ね、小説とか読むの好きだから、そういう文芸サークルみたいのに入りたいんだよね」
「へえ、そうなんだ」
「だけどここ、あんまそういうサークルないみたいだから、インカレで探そっかな」
こんな都合良く私の入りたいサークルの話題が聞こえてくるのだから、この会話はきっと幻聴だろう。
「あ、私昨日、文芸サークルっぽい張り紙見たよ」
「え? ホント?」
「うん。すっごい端っこに貼ってあったから超地味だったけど、でも過去に何かの賞受賞した人がいたとか書いてあったから、薄らだけど覚えてる」
「ええー! すご! 待って、超入りたいんだけど!」
ん? 待って。これ、もしかして現実?
いや、ありえない。聞こえてくる会話がちょうど私の入りたいサークルの話で、しかもそのサークルが存在し、さらにはそんな実績があるなんて、そんなの、まるで小説だ。
「でもその張り紙、小っちゃくだけど、メンバー四人とか書いてあったかも」
「え……、それ、ホント?」
「うーん、私も記憶曖昧なんだけど、そんなすごい人いたのに、なんでそんなにしょぼいんかい!ってツッコんだ記憶あるんだよね」
「なにそれ! おもしろ!」
やばい、理想的だ。理想的すぎる。理想的すぎて、本当に怖くなる。
「とりあえずさ、学食の掲示板の端っこに貼ってあったから、後で見に行こうよ」
「うん、そうだね。でも、そんなに少ないのはさすがに嫌だなー」
私もとりあえず、その掲示板を見てから判断しよう。
張り紙が存在するのかどうか。私の妄想が、遂に壊れてしまったのかどうか。
その張り紙は、本当に存在した。カラフルに彩られたテニスやフットサルのサークルに紛れ、細々と、まるで居させてもらっているようだった。
加えてそこには、はっきりと書いてあった。「第〇回○○賞受賞者在籍歴あり!」、それと、「メンバー現在四人」。やはり、私はある程度、現実と向き合えていた。理想的なサークルが、本当にこの大学内に存在する。今すぐにでも一花に連絡したい気持ちを抑え、必死に平穏を装った。そこに書かれていた部室か、或いは溜まり場のような場所をメモし、その場を離れた。
どうする。そのサークルは文面上、本当に現実だとは思えないくらい理想的なサークルだった。メンバーも少ないし、いきなり押しかけてもアウェイの雰囲気にはならない、はず。
だけどやっぱり、気が引ける。全く知らない赤の他人のテリトリーに飛び込むなど、私が一番苦手にしてきたことだ。別に今日行かなくても、最悪明日でも、明後日でも──
「今日やめれば、明日もやめる。明日やめれば、明後日もやめる。明後日やめれば、一ヵ月後も、二ヵ月後も、一年後も、もしかしたら、その先も」
誰かの言葉が、頭の中で反芻する。
「だから、今日を頑張れ」
私はこの日のために、小説を読んできたんじゃない。これは一生に一度の入学式じゃない。明日でも、明後日でも、一ヵ月後でも、二ヵ月後でも、一年後でも、サークルにはいつでも入れる。
「今日やめれば、明日もやめる」
そのとき、昨日の暖かな風が、私の背中を押した。
「回収するには、早すぎたかな」
周りに誰もいないことを周到に確認し、独り言を呟いた。
暖かな風はいつの間にか、私をそこに運んでいた。
お父さんに買ってもらった慣れないスーツを着たまま、私はなかなか家から出られない。もうじき、かれこれ三十分は経過する。家って言っても、小さなアパートだけど。
一週間前にこのアパートに越してきてから、私はほとんど外に出ていない。かと言って、ここが特別居心地がいいわけではないけれど、自分の家の近くの地理も碌に把握していない状況で外に出るよりは、独りの方がマシだと錯覚した。その結果、今の状況を二重に陥れてしまった。家を出る予定の時間まではまだ余裕がある。だからこそ、こうしていられるのだけれど、結果的にそれは大失敗だった。甘える時間を作っただけだ。甘える相手もいないのに。
どうしよう。入学式は別に出席しなくてもいいらしいけど、ガイダンスやらなんやらは出ておいた方がいいって聞いた。というか、出ないと困るのは自分だ。システムもわからず時が進み、気付いたら履修登録期間が終わっている、そんな状況になって終わるのは、私の人生である。それなりに勉学に励み、それなりに苦労を重ね、それなりにレールの上を歩いてきたこの十八年が無駄になる、のだろうか。
たった一回サボっただけでそんな訳ないのはわかっている。でもたぶん、私の場合、今日の一日が、これから先のすべての一日なんだと思う。今日サボれば、明日もサボる。明日サボれば、明後日もサボる。明後日サボれば、一ヵ月後も、二ヵ月後も、一年後も、もしかしたら、その先も。だから、今日を頑張れ、って、好きな小説の主人公が言っていたから、頑張るしかない。そういう主人公をいずれ、私が創り出すためにも。
太陽の光を浴びながら外に出るのは、本当に引っ越してきた日以来だった。三月よりも暖かな風が、自然に曝されることに慣れていないスーツを撫でる。同時に、私の肌に囁きかける。これから起こる様々な出来事の予告をするように、春という季節を誘惑する。もちろんそれは、喜び、怒り、哀しみ、楽しみを、森羅万象と共に私たちの感性に届けてくれる、春夏秋冬の一つに過ぎない。
だが、私はどこか、その風に心当たりがあった。今までのではなく、これからのだ。正直、何を言っているか自分でもわからない。昨日、現実逃避のためにかの主人公の小説を読み耽ったのが原因だともわかっている。
しかし、少なくとも私は、この風にまた出会うことになるのを予感した。
電車とモノレールを乗り継ぎ、大学へと到着した。ここまで来れば、スーツ姿も見事なまでに風景に溶け込む。大学構内にはまだ二回ほどしか行ったことがなかったが、漠然と人々の流れに乗っていたら、目的の教室に辿り着いた。
教室内に入り、事前に渡されていた席番号を探していると、案外簡単に見つかった。結局家を出るのをギリギリまで粘っていたため、着いたのは開始時刻の五分前であったが、両隣はまだ空席だった。
このとき、若干の期待が湧いた。もしかしたら隣の人も、同じように家を出るのを躊躇い、同じような気持ちでこの教室に辿り着き、斯くして、共鳴できるのではないか。思ったより簡単に、友人ができてしまうのではないか。それがもし男子だったら、ギャルゲームのように呆気なく、恋人を手に入れられるのではないか。私の人生はそんな風にして、新たな一歩を踏み出せるのではないか。
しかし現実に訪れたのは、ただの現実だった。左隣の人は、結局最後まで来なかった。対して右隣の人は、ガイダンスが始まって十分くらいが経過したところで、悪びれる様子もなく、友人と話しながらやって来た。髪が茶色と金色の中間ぐらい派手な女性で、同じように派手な女性の友人と並んで席に座った。ガイダンス中もずっとひそひそと喋っていたため、ガイダンスで流れている話を碌に聞くことができなかった。
その代わりと言ってはなんだが、彼女たちのことをちょっと知ることができた。どうやら彼女たちは大学の附属校出身で、他にも大学内に友人が大勢いるらしく、早くも講義の情報を掴んでいるようだった。この後は高校時代の先輩に話を聞きに行くため、入学式はサボるという。やはり、入学式は出なくてもいいみたいだ。それから彼女が言っていた。昨日マッチングアプリで知り合った中年男性と会い、お金を貰い、性交したと。その額の大きさに二人のテンションは上がり、周りの注目を集めていた。
その頃の私はというと、二人の話に耳を傾けつつ、これが大学というものなのかということに打ちひしがれつつあった。私の方は履修のシステムさえまともに把握できていないのに、彼女たちはその先に進んでいる。それどころか、私にはない世界を堪能している。もちろん私は彼女たちほどお金の使い方も荒くないだろうから、そんな大金を手にする必要などないのだろうけど、それでも目の前に広がる大海に、溺れかけている自分がいた。
そのままガイダンスは終了し、学生たちは一旦解放された。気が付けば、多くの人たちがさっきまで各々の隣に座っていた人と親交を結び、午後の入学式に備え、そのまま昼食のために学食へと向かっている。私の隣に座っていた女子二人組の姿も、いつの間にか消えていた。全員が全員、そういう相手を携えていたわけではなかったが、私が完全に正規ルートから乗り遅れたことは確かだ。昼食を食べる当てさえない。男子でも女子でも、附属生でも上京者でも、誰でもいい。誰でもよかったから、左隣が埋まってほしかった。私にとって右隣の人たちは、いくら何でも引きが悪すぎる。
結局、午後を待たずして大学から立ち去った。別に両親がわざわざ来ている訳でもないし、むしろ来てなくて良かったと思うくらいだ。入学式の写真を撮ってきてと母から頼まれていたが、適当に体調不良だったとでも言っておこう。でも、そっか、入学式って、一生に一度だったんだよね。そう考えると──、ま、いっか。
アパートに戻り、行き帰りに無作為に貰ってきたサークルのビラを眺めながら、夜を過ごす。元々サークルという存在にあまり興味はなかったが、東京でやっていくためにはサークルで知り合いを作ることが絶対条件だと一花から釘を刺されていたため、とりあえずたくさんの候補を確保してきた。
しかし、思い描いていたものは見つからない。それどころか、この大学内には存在してないのかもしれない。興味のないものに入ったって先は知れているし、そもそも私は、適応できる環境に限りがある。それなら無理に入らなくてもいいのかもしれないけど、でもこのままだと、本当にこのままだ。だけど、今できることは何もない。
とりあえず明日もあるガイダンスに備え、いつものように小説を携えながら、夜に従った。
翌日、アラームが鳴るだいぶ前に目を覚まし、案の定、時間を持て余した。
寒さに身を悶えながらも思い切って窓を開けてみると、そこに広がるのは、清澄かつ朧気に滲む払暁が織り成す、色鮮やかな朝焼けの空だった。本当に綺麗で、私とは大違いだ。でも心なしか、昨日の暖かな風を思い出した。もしかしたらこの朝焼けも、私に何かを与えてくれるのだろうか。一度でも出会ったことが奇跡だと思えるこの朝焼けを、再び目に焼き付けることができるのだろうか。そのとき、今の私はどこにいるのだろうか。
前日と違って私服に着替え、家を出る準備をした。思えば結果的に、昨日わざわざ窮屈なスーツを着る必要はなかったけれど、周りのほとんどがスーツ姿の中で一人ポツンと私服だというのも、それはそれで窮屈だっただろう。結果的にはあれでよかった。その一方で、隣の女子二人は堂々と私服だったというのも、私の目には強烈に焼き付いている。
時が経ち、時計は今日のガイダンスの開始時刻を指し示している。その頃には私も、昨日とは違って自由に座ることを許された席の一画で、小さく縮こまっていた。気のせいかもしれないが、昨日よりも圧倒的に一人でいる人が減った気がする。もしかしたら昨日の入学式の後、学部内で大規模な飲み会やLINE交換会が開かれたのではないか思わせるほど、心細くなった。
同時に、人々の会話の中に時折登場するサークルの話題も、私の心を侵食していった。しかしまだ諦めたわけではない。この大学のどこかに、小規模でも明るく、かと言ってお酒に塗れて遊び惚ける場所ではなく、実直に私の好きなことに向き合える、そんなサークルがあるのではないか。
「サークルってどうする?」
「私ね、小説とか読むの好きだから、そういう文芸サークルみたいのに入りたいんだよね」
「へえ、そうなんだ」
「だけどここ、あんまそういうサークルないみたいだから、インカレで探そっかな」
こんな都合良く私の入りたいサークルの話題が聞こえてくるのだから、この会話はきっと幻聴だろう。
「あ、私昨日、文芸サークルっぽい張り紙見たよ」
「え? ホント?」
「うん。すっごい端っこに貼ってあったから超地味だったけど、でも過去に何かの賞受賞した人がいたとか書いてあったから、薄らだけど覚えてる」
「ええー! すご! 待って、超入りたいんだけど!」
ん? 待って。これ、もしかして現実?
いや、ありえない。聞こえてくる会話がちょうど私の入りたいサークルの話で、しかもそのサークルが存在し、さらにはそんな実績があるなんて、そんなの、まるで小説だ。
「でもその張り紙、小っちゃくだけど、メンバー四人とか書いてあったかも」
「え……、それ、ホント?」
「うーん、私も記憶曖昧なんだけど、そんなすごい人いたのに、なんでそんなにしょぼいんかい!ってツッコんだ記憶あるんだよね」
「なにそれ! おもしろ!」
やばい、理想的だ。理想的すぎる。理想的すぎて、本当に怖くなる。
「とりあえずさ、学食の掲示板の端っこに貼ってあったから、後で見に行こうよ」
「うん、そうだね。でも、そんなに少ないのはさすがに嫌だなー」
私もとりあえず、その掲示板を見てから判断しよう。
張り紙が存在するのかどうか。私の妄想が、遂に壊れてしまったのかどうか。
その張り紙は、本当に存在した。カラフルに彩られたテニスやフットサルのサークルに紛れ、細々と、まるで居させてもらっているようだった。
加えてそこには、はっきりと書いてあった。「第〇回○○賞受賞者在籍歴あり!」、それと、「メンバー現在四人」。やはり、私はある程度、現実と向き合えていた。理想的なサークルが、本当にこの大学内に存在する。今すぐにでも一花に連絡したい気持ちを抑え、必死に平穏を装った。そこに書かれていた部室か、或いは溜まり場のような場所をメモし、その場を離れた。
どうする。そのサークルは文面上、本当に現実だとは思えないくらい理想的なサークルだった。メンバーも少ないし、いきなり押しかけてもアウェイの雰囲気にはならない、はず。
だけどやっぱり、気が引ける。全く知らない赤の他人のテリトリーに飛び込むなど、私が一番苦手にしてきたことだ。別に今日行かなくても、最悪明日でも、明後日でも──
「今日やめれば、明日もやめる。明日やめれば、明後日もやめる。明後日やめれば、一ヵ月後も、二ヵ月後も、一年後も、もしかしたら、その先も」
誰かの言葉が、頭の中で反芻する。
「だから、今日を頑張れ」
私はこの日のために、小説を読んできたんじゃない。これは一生に一度の入学式じゃない。明日でも、明後日でも、一ヵ月後でも、二ヵ月後でも、一年後でも、サークルにはいつでも入れる。
「今日やめれば、明日もやめる」
そのとき、昨日の暖かな風が、私の背中を押した。
「回収するには、早すぎたかな」
周りに誰もいないことを周到に確認し、独り言を呟いた。
暖かな風はいつの間にか、私をそこに運んでいた。
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