虎藤虎太郎

八尾倖生

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★ 六月

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 おはよう諸君。人によってはこんにちは諸君。こんばんは諸君。もしくは初めまして、諸君。
 突然だが、この機会に毎回冒頭に書いている「おはよう諸君」からの挨拶について、若干の説明を施したいと思う。この挨拶のコンセプトとしては、まず小学校に入る前に教えられるような基本中の基本である挨拶をしっかりするという意味合いと、「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」、さらには「初めまして」を使い分けることによって、「どんな人でもこのサイトに訪れてくれたことを歓迎します」という、人と人との繋がりを意識した心のこもった厚い精神を見ていただきたくて、この文言を冒頭に置くことにしたのだ。
 どうしても私と読者の諸君らとの間には現実という高い壁があって、諸君ら一人一人と顔を合わせる機会がない分、こんな風にして細やかなコミュニケーションを取りたいという思いが少しでも伝わってもらえると嬉しい。これからもこのサイトを運営するスタッフ一同、と言っても私だけだが、虎藤虎太郎を探し出す責任と誇りを持って一つ一つの書き込みを行なっていくので、温かい目で見守ってもらえると嬉しい。
 ちなみに唐突にこんなことを書き始めて、漫画のような連載物だともうこのあたりから終盤なのではと勘繰る人もいるだろうが、全くもってそんなことはないので安心してもらいたい。むしろ、物語はまだ始まったばかりなのだ。

 そうだ、私たちはまだ、虎藤虎太郎について何も知らない。私はついこの間、虎藤虎太郎らしき男に二度も遭遇した。その男は二度とも、普通の人間では成し得ないような手を使って、私のような普通の人間の度肝を抜いた。
 私はあの男が取った行動について、ずっと疑問を抱えていた。ラーメン屋で二枚の五十円玉を手にしたとき、あの男は何を考えていたのだろうか。喫茶店でアイスコーヒーからホットカフェラテに注文を変更したとき、何を求めるがゆえにそのような決断に至ったのだろうか。
 例えばラーメン屋での場合、私だったら一〇〇円のお釣りに五十円玉二枚が返ってきたら、少し嫌な気持ちになるかもしれない。本来返ってくるはずの百円玉というのは、帰り道にコーヒーが飲みたくなったらコンビニでその百円玉を使って一杯飲むなんていう場面がパッと思いつくくらい非常に実用的であるが、逆に五十円玉二枚で返ってきた場合、その二枚でコーヒーを飲もうと思ってコンビニを訪れても、「あ、こいつコーヒーを飲みたいんじゃなくて、多くなった五十円玉を消費するために来たんだな」と内心思われてしまうかもしれない。「五十円玉を消費するためだけにわざわざ来てんじゃねえよ。そんなしょうもない理由でいちいち接客したくねえんだよ」と思われてしまうかもしれない。
 しかし虎藤虎太郎だったらきっと、こんな他人の顔色をうかがうようなことは考えない。それから虎藤虎太郎だったらまず、返ってきた小銭の音が一回ではなかった時点で通常とは違う状態が起きていることに気付くだろう。五十円玉二枚だけでなく百円玉二枚だったパターンを想定して、もしそうだったらそのうちの一枚を使って大盛りにしようなんて考えたかもしれない。もしかしたらそれは店主からの細やかなサービスなのかもと思い、小銭を確認する前から心の中で店主に感謝していたのかもしれない。
 このように虎藤虎太郎は、小銭が一枚で返ってこようが二枚で返ってこようが気にしない大らかな心を持っているのだ。だが虎藤虎太郎だってきっと、百円玉一枚と五十円玉二枚だったら百円玉一枚を選ぶだろう。虎藤虎太郎だってきっと、一〇〇円の会計を五十円玉二枚で支払う際の気まずさは出来得る限り避けたいに決まっている。それを文句一つ言わずに許す引き際の潔さと、それ以前に小銭の音や機械の誤作動を予測して一瞬で五十円玉か百円玉のどちらかが二枚返ってきたのではないかと即座に感じ取れる勘の良さを併せ持つのは、まさしく只者ではない証だろう。私が探している虎藤虎太郎という男は、改めて私などとはかけ離れた存在なのだとつくづく実感する。

 しかしいくらあの虎藤虎太郎であっても、人間臭い一面は必ず持ち合わせている。そういった瞬間は、ふとしたときにやって来るのだ。
 私が喫茶店で目撃したのは、まさにそういった瞬間だったのかもしれない。おそらく虎藤虎太郎は、店に入った瞬間からこの店は自分の趣味に合っていると悟ったのだろう。しかし最初は様子を見ようと、かなり置きにいった結果アイスコーヒーを反射的に頼んでしまったのだが、こういう喫茶店で常連客として扱われる自分を頭の中で想像し、そうすると毎回アイスコーヒーを頼んでいるとなんとなく身持ちが悪いのではないかと内心焦る気持ちが押し寄せて、店員に程よい常連客と思ってもらえるように若干値段の張るカフェラテに、慌てて注文を変えたのではないだろうか。しかし現時点ではまだ常連客の域には達しておらず、あくまで店員側も客の人間性を探っている状態だということを思い出して、嫌な客だと思われないように少しでも迷惑がかかったと感じた瞬間に、必要以上に謝罪の心意気を見せたのではないだろうか。次訪れたときに同じ店員がいたら、前回の出来事を冗談気味に装って若干はにかみながら、「今回もカフェラテお願いします」と言おうと心の中で画策していたのではないだろうか。
 そういった適度な器の小ささも含めて、虎藤虎太郎は毎日を全力で生きている。菜の花がせわしなく風に揺れているような良い天気の日だろうと、洗濯物を部屋干しするしかない良くない天気の日だろうと、風が吹いたときや日陰だとひんやりする少し肌寒い日だろうと、虎藤虎太郎は、一日一日を生きている。毎日が平和な日でありますようにと心で祈り、ラーメンを食べ、喫茶店でカフェラテを飲みながら、一日一日を生きている。
 私は心のどこかで、あの男は虎藤虎太郎ではないかもしれないと不安になっていた。初めてラーメン屋で店に入ってくる姿を見たとき、この男はどこかで見覚えがあるという勘が働き、大家から聞いていた外見的特徴と合わせて、即座に虎藤虎太郎ではないかという直感に繋がった。しかし、働いた勘はあくまで見覚えであり、その男が虎藤虎太郎だという根拠は何一つなかった。
 だが今、その男の行動を一つ一つ解き明かしていくうちに、直感は確信へと変わった。彼こそが、私の求めていた虎藤虎太郎像と完璧に一致するという確信に変わったのだ。
 あの男は虎藤虎太郎だ。私がずっと探し求めていた、正真正銘の虎藤虎太郎だ。
 私は間違いなく、確信という名の確信を得た。まさに、確信中の確信を得た。
 これから社会がどうなっていくかなど、私にはわからない。日経平均株価がどう変動しようが、内閣の支持率がどう変動しようが、世界の平均気温がどう変動しようが、私にそれを操る術はない。私が手にできるのは、虎藤虎太郎という存在だけだ。世界の誰にも見向きされなくとも、私はこの世界で虎藤虎太郎を見つけ出したのだ。
 そんな世界で、私は、明日も生きていきたいと思った。本当に、ただ、それだけだった。

 それでは、また会う日まで。
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