吉祥寺行

八尾倖生

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終章

17時

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1 17時

「ねね! あれ乗ってよ!」
「マジっすか? いやあ、さすがに恥ずかしいっすよ……」
 女に促され、男は無理やりブランコに乗らされる。
 もう片方のブランコに乗っている少年に見せつけるように、高く、大きく、男はんだ。
「マジでそろそろ勘弁してくださいよ……」
「ダメ。忘れてない? これ、命令ってこと」
 一時間に一回、二人はじゃんけんによって主導権を競い合っている。じゃんけんに勝った方が一時間の間、負けた方に命令できるという、至ってシンプルでわかりやすい、二十歳そこそこの若者たちの遊びだ。
 事の発端は、男がデートの場所を二人の地元から離れた吉祥寺にしようと提案をしたところ、その見返りに、女が提案したこのスリル満点のゲームを承諾させられたという運びである。
 男がなぜ吉祥寺をわざわざ選んだか、それは、神のみぞ知る。
芽結めいさん!? ちょ、どこ行くんすか!?」
「ダメだよ? 降りちゃ。そのまま、そのままね」
 そう言うと女は、男を子供たちの中に置き去りの状態にして、離れたところからスマートフォンのカメラを起動させた。
 用事を済ませた女は、ようやく男をブランコから解放した。
「なにやってんすか!? さすがに放置はきついっすよ!」
「ほら見て! これ!」
 女が見せたのは、子供たちの中で一人ポツンとブランコに乗る、男の不憫ふびんな姿の写真だった。
「これ、インスタに載っけちゃおっかなー?」
「ちょ、勘弁してくださいよ……。友達にこんなの見せて誰得なんすか……」
「嘘だよー。インスタなんかそもそもやってないし」
 行き交う男たちは皆、端麗たんれいという言葉に愛されたこの女性を一度は見入り、そのかたわらにいる平凡な男を見て、無念を抱く。中には、男に対していきどおりを覚える者もいるだろう。
「あ! ほら、もう時間っすよ!」
「残念! まだ一分残ってます!」
「いやいや、さすがにもう終わりですよ。俺この一時間、だいぶ頑張ったんですから」
「仕方ないなー。じゃあ、最後に一つだけ! 安心して。簡単なことだから」
「なんすか?」
 女の方は少し緊張して、時間を置いている。
 それを見て男は、このまま時間が過ぎることを期待している。
「私のこと、好き?」
「え?」
 そのとき、一時間の経過を知らせるタイマーが鳴った。
「なに言い出すのかと思ったら……」
「命令、はもう使えないのか。じゃあ、普通に答えて」
「ええ……。強引っすね」
「でも、簡単でしょ?」
 女は一心不乱に、男を見つめている。その勢いに押されながらも、男は反撃を試みる。
「好きだよ。心の底から」
「ふふっ、なーにカッコつけてんだか」
 男の反撃は芸術という言葉以外当てはまらないほど、綺麗にかわされた。
「え!? なんすかそれ!?」
「ホントみのるは、私のてのひらの上だね」
 しかし男は、そう言ってもらえるのが嬉しかった。そういう趣味ではない。そういう関係性でもない。ただ一緒に居られるだけで、男は幸福を味わった。
 それほどこの内井芽結という女性は、人々にとって憧れの的だった。
「じゃあ次のターン行くよ? じゃーんけーん──」
「ええ!? ちょ、待っ──」
 慌てて男は握りこぶしを出した。
「ちぇ、なーんだ。あいこか、つまんない」
「はー、よかった。それズルいっすよマジで」
 このゲームには、引き分けというルールが存在する。
 この場合、主従関係は消え、一般の男女としての付き合いが許される時間となる。交際してまだ間もない二人にとって、緩衝帯かんしょうたいのようなありがたいルールだと、男は受け取っている。一方で、あどけなさを隠さない女にとっては、少し物足りない制約であった。
 ちなみに今日、二人はこの引き分け以前に五回しのぎを削り合っており、その戦績は男の一勝一分三敗である。男が精魂尽き果てかけているのも、納得していただけるだろう。その一回の勝利というのも、先ほどのような女の術中に嵌った妨害に遭い、結局敬語の関係が逆転するという謎の時間に気を取られ、碌な復讐を果たせぬまま終始した。
 だが女自身、ろくな復讐がなされなかったということに、どこか心残りを感じていた。
 それ故に、彼女は勝利を望み、同時に敗北を望んでいた。
「どうする? これから」
「とりあえず、公園周りましょ」
 今日一日、二人は吉祥寺を堪能した。
 駅周辺でのショッピングにいそしみ、話題になっていたスープカレー屋にも行き、この井の頭公園をゴールに、最後の吉祥寺の休日を楽しんでいた。
 まだまだ行けていないところもたくさんある。その大きな原因は言うまでもないが、今日が二人にとって忘れられそうもない日になったのは、それのお陰でもある。
 刺激的で、新鮮で、普段はできないことを思い切ってさせ合い、言い合える、このバカバカしい遊び。そしてそれを邪魔しない、吉祥寺の街。最初は遠征に少々の抵抗があった女の胸にも、今でははっきりとした充実が宿っている。
「新しいバイト先、どうっすか?」
「楽しいけど、やっぱり前よりは忙しいなー」
「渋谷でしたっけ?」
「うん。そうそう、初日にね、部屋にゴキブリ出たと思ってビックリしたら、全然違かった!」
「なんすかそれ」
 約一週間前、二人の運命は渋谷で転機を迎えた。特に女の方は、それ以前に深い暗闇を彷徨さまよっていた。その再出発の早さに、男の方は若干の心配を施していたが、女は強かった。
 新しく前を向いた女は、もっと強かった。
 その強さと、比例する美しさに、男は圧倒された。女のことを知れば知るほど、圧倒された。だからこそ彼は、誰よりも彼女を愛した。
 彼女はそれを知っていた。だから彼女も、彼を愛した。
「そういえば思ったんだけど、」
 池に浮かぶいくつものボートを見ながら、女は言った。男は当然、それ関係の提案が続くと予測していた。
「実、なんか紙ヒコーキみたいの持ってなかった?」
 まさかの問いかけに、男は若干動揺した。しかし、答えづらい質問ではなかった。
「ああ、これっすか?」
 そう言うと男は、バッグの中からくしゃくしゃになりかけた紙ヒコーキを取り出した。
「なにそれ?」
「よくわかんないんすけど、一昨日、大学歩いてたら学食の方から飛んできて」
「余計よくわかんなくなったよ」
「でも、なんか面白そうじゃないっすか。だから拾っちゃいました」
 女はその紙ヒコーキを手に取った。
「ん? なんだろうこれ。中見てもいい?」
「いいっすよ」
 中を見ると、それは女の想像していたものとはかけ離れた内容だった。
「え……。なに、これ?」
「ああ! 内容は気にしないでください! 俺全く関係ないんで! ただ拾っただけっすから」
「ああ、そうだよね。ビックリしたー。実、大学だとこういうのやってるのかと思った」
「まさか! あ、でも、ここちょっと見てくださいよ」
 男が指差したのは、ビラの余白に書かれていた、芸能人のサインのようなイラストだった。
「なにこれ。もっと意味わかんないよ」
「でも、なんか面白くないっすか? 誰かがこんな紙にサイン書いたんすよ。小学生みたいに」
「男の子ってそういうの好きだよねー」
 若干呆れていたものの、女はサインの周りに描かれたいくつかの絵に反応し、目を輝かせた。
「ねね、この花とか鳥の絵みたいの、なに?」
「ああ、これ、サインと一緒に描かれてたんすよ。しかも実は、この中に一つ、俺が描いたのもあるんすよ」
「これでしょ、絶対」
「うわ、見抜くの早いっすね。ちなみにこれ、なんだかわかります?」
「たぶんだけど、風?」
「正解! よくわかりましたね」
「花と鳥と月って来て、風間の『風』、ってことでしょ? それにしてもへたっぴだなあ、実が描いた『風』。この月も大概だけど」
 個性的な絵の数々を見て、女は微笑む。そのままその紙を、元の紙ヒコーキに戻した。
 そこに宿った感情を暴くことは、誰にもできない。
「ねえ実」
「なんですか?」
 二人の目が、再び合う。
「これ、飛ばしてみたいんだけど、いい?」
「いいですよ」
「ホント!? もう無くなっちゃうかもしれないよ?」
「そんな心配するなら、なんでそんなことしたくなったんですか」
「だって、したくなったんだもん」
 あまりにも簡素な返答の応酬に、思わず笑い合う。
「じゃあ、いくね?」
 満を持して投げられた紙ヒコーキは、飛んだ。
 風に乗り、風を切り、どこまでも飛んだ。
「おお、すげえ」
「本当に、無くなっちゃったね」
 遂に、見えなくなった。公園を出て、駅の方へ飛んでいった。
「あの紙ヒコーキ、どこに行くんだろう」
「最初に書いた人のところに、届くといいね」
 二人で飛んでいった空を見る。
 まるで紙ヒコーキを運んだ風と会話しているように、二人の心は赤かった。
 赤く、燃え上がった。
「実」
 差し出された手を、男は優しく握りしめる。
 花火のように派手でなくても、それは確かに、熱く燃えさかる赤い線だった。
「もうちょっと、周ろっか」
「はい」
 そのまま歩き出す。どこまでも、どこまでも。
 赤く染まった日常が、再び虹を描き出すまで。
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