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悲劇の皇子
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◆
建武2年7月23日夜、鎌倉・二階堂村。
足利家に仕える淵野辺義博は重い足取りで牢に向かっていた。
信濃で蜂起した北条時行の軍は、あと数日で鎌倉という距離まで迫っている。すでに幕府側は名だたる武将を撃破され、逃げ出す者も数知れない。己もこの気鬱な命を遂げ次第、出陣せねばならない。
護良親王を殺せ。
主である足利直義がそう命じた。御家人である自分は従うしかない。謀反人どもに皇子を奪われれば、恰好の旗印にされてしまう。殺す外ない。
(だが殺したくない)
警護兼監視として半年以上、幽閉された皇子に仕えてきた。
眉目秀麗かつ文武に優れた第三皇子。人品は優れて高貴であったが、淵野辺ごとき下級武士にも驕ることはなかった。
鎌倉に幽閉された後、皇子が狭い牢の外に出ることはなかった。かつて武勇を誇った身体は痩せ衰えた。だがその眼にはまだ覇気があった。
まだあきらめてはいないのだろう。いつか帝がお許しくださることを。
武人皇子として甦ることを。
◆
淵野辺はため息を一つ吐き、牢の扉を開けた。灯火の光が写経をする皇子の背中を照らす。
皇子は気配に気づき、筆を止めた。
「どうした」
「……」
淵野辺は答えられない。無言で鯉口を切る。
皇子の肩をぴくりと動いた。顔を向けぬまま、
「父の命か?」
と静かな声で問うた。
「決してそのような!」
「…では斬れ。お主を恨みはせぬ」
淵野辺は震える手で、鞘を払った。
「御免!」
一刀のもと、皇子の首を斬り落とした。
後醍醐帝の第三皇子・護良親王。征夷大将軍にまで登り詰めた皇子は、この夜、28の若さで死んだ。
◇
皇子の魂魄は霊界とも幽玄界ともつかぬ場所を彷徨っていた。
しばらくして気が付くと、唐風の部屋に佇んでいた。
(どこだ。ここは)
いぶかしんで辺りを見回すが、家具調度の類は見当たらない。白い石造りの床に漆喰の壁、戸も窓も無い。ただを紫檀の見事な彫り物で飾られた大きな机と椅子があるばかりだ。自身はその机の前に立っている。
(ここが伝え聞く地獄の閻魔大王の法廷であろうか。幼いころに見た絵草紙とは随分違う)
「お待たせして申し訳ない。護良親王で相違ございませんか?」
やおら声をかけられ、振り向くといつの間にか鬼がいた。鬼は紫檀の椅子に座り、巻物を読みながら皇子に語り掛ける。肌や髪の色は人間と何ら変わりなく、ただ5寸ほどの一本角が額の真ん中から生えている。中肉中背、唐風の衣を着た20代半ばの青年にしか見えない。
「相違ない」
皇子はぞんざいに答えた。どうやら閻魔大王ではないようだ。
「日本担当の者です。只今より、あなたの人生録の確認を行います」
(『人生録』とは何だ?閻魔帳というものだろうか?)
「えー、お名前は護良親王、称号は大塔宮。延慶元年生まれ。後醍醐天皇の第三皇子で、16歳で出家。二度天台座主に就任。25歳で還俗し倒幕活動に身を投じる。26歳の時に征夷大将軍に就任…」
鬼が淡々と皇子個人の歴史を語る。なるほど、鬼の持つ巻物は皇子の生前の記録であった。
「…建武2年に捕縛され、鎌倉に幽閉、同年7月23日処刑される…」
倒幕の後、父は皇子に再び出家するよう命じていたが、皇子は頑としてこれを拒否した。
足利氏に対抗する勢力で在り続けようとしたのだ。
それを簒奪の意思ありと、尊氏と帝の寵姫によって謀られ、宮中で捕らえられた。
帝位を望んだことはないと、何度も父に訴えようと試みた。
だが、許される日はこなかった。
◇
「ここまではよろしいですか?」
「ああ」
「問題はここからです。あなたが殺した人間の数は覚えていらっしゃいますか?」
鬼の問いに、皇子はしばらく考えたが、
「いや、覚えておらぬ」
正直に答える。斬った敵の数などいちいち数えていない。
「ですよね…。お教えしましょう。千人弱です」
「存外少ないな。もっと斬った気がするが」
「それ以外はあなたの部下が殺してるんですよ。ちなみに村上彦四郎義光さんは三千人以上です」
(彦四郎か。さもありなん。あれは豪の者であった)
元弘3年・吉野城が陥落した折、皇子を逃すために村上は死んだ。皇子の甲冑をまとい、その身代わりとなって自害して果てた。
村上だけではない。何人もの忠臣が皇子のために散った。
(その全てを無駄にしてしまった……)
「武家の方はそもそも殺し合いが生業ですが、あなたは皇族です。しかも僧侶でした」
鬼は困った顔で言った。
「本来皇族は自らの手を汚したりしません」
確かに己ほど戦場で刀を振るった皇子は思いつかない。
「我々も決めかねているのです。皇族に再度生まれるか、僧として極楽へ送るか…」
「地獄でよい」
「地獄で罪を償うと?」
驚いた鬼は巻物を机に置き、皇子を見た。
(俺だけ極楽になぞ行けるものか…)
皇子の投げやりな態度に一本角の鬼は眉をしかめる。自ら地獄行きを望む者など初めて会ったのだろう。
だが、しばし黙考の後、皇子にある提案を示した。
「…実はもう一つ選択肢があります。あなたにぜひ来てもらいたいという世界があります」
「“世界”?」
「ここからは菅原さんがお話しします」
そう言うと、現れた時と同様に、唐突に鬼は消えた。
建武2年7月23日夜、鎌倉・二階堂村。
足利家に仕える淵野辺義博は重い足取りで牢に向かっていた。
信濃で蜂起した北条時行の軍は、あと数日で鎌倉という距離まで迫っている。すでに幕府側は名だたる武将を撃破され、逃げ出す者も数知れない。己もこの気鬱な命を遂げ次第、出陣せねばならない。
護良親王を殺せ。
主である足利直義がそう命じた。御家人である自分は従うしかない。謀反人どもに皇子を奪われれば、恰好の旗印にされてしまう。殺す外ない。
(だが殺したくない)
警護兼監視として半年以上、幽閉された皇子に仕えてきた。
眉目秀麗かつ文武に優れた第三皇子。人品は優れて高貴であったが、淵野辺ごとき下級武士にも驕ることはなかった。
鎌倉に幽閉された後、皇子が狭い牢の外に出ることはなかった。かつて武勇を誇った身体は痩せ衰えた。だがその眼にはまだ覇気があった。
まだあきらめてはいないのだろう。いつか帝がお許しくださることを。
武人皇子として甦ることを。
◆
淵野辺はため息を一つ吐き、牢の扉を開けた。灯火の光が写経をする皇子の背中を照らす。
皇子は気配に気づき、筆を止めた。
「どうした」
「……」
淵野辺は答えられない。無言で鯉口を切る。
皇子の肩をぴくりと動いた。顔を向けぬまま、
「父の命か?」
と静かな声で問うた。
「決してそのような!」
「…では斬れ。お主を恨みはせぬ」
淵野辺は震える手で、鞘を払った。
「御免!」
一刀のもと、皇子の首を斬り落とした。
後醍醐帝の第三皇子・護良親王。征夷大将軍にまで登り詰めた皇子は、この夜、28の若さで死んだ。
◇
皇子の魂魄は霊界とも幽玄界ともつかぬ場所を彷徨っていた。
しばらくして気が付くと、唐風の部屋に佇んでいた。
(どこだ。ここは)
いぶかしんで辺りを見回すが、家具調度の類は見当たらない。白い石造りの床に漆喰の壁、戸も窓も無い。ただを紫檀の見事な彫り物で飾られた大きな机と椅子があるばかりだ。自身はその机の前に立っている。
(ここが伝え聞く地獄の閻魔大王の法廷であろうか。幼いころに見た絵草紙とは随分違う)
「お待たせして申し訳ない。護良親王で相違ございませんか?」
やおら声をかけられ、振り向くといつの間にか鬼がいた。鬼は紫檀の椅子に座り、巻物を読みながら皇子に語り掛ける。肌や髪の色は人間と何ら変わりなく、ただ5寸ほどの一本角が額の真ん中から生えている。中肉中背、唐風の衣を着た20代半ばの青年にしか見えない。
「相違ない」
皇子はぞんざいに答えた。どうやら閻魔大王ではないようだ。
「日本担当の者です。只今より、あなたの人生録の確認を行います」
(『人生録』とは何だ?閻魔帳というものだろうか?)
「えー、お名前は護良親王、称号は大塔宮。延慶元年生まれ。後醍醐天皇の第三皇子で、16歳で出家。二度天台座主に就任。25歳で還俗し倒幕活動に身を投じる。26歳の時に征夷大将軍に就任…」
鬼が淡々と皇子個人の歴史を語る。なるほど、鬼の持つ巻物は皇子の生前の記録であった。
「…建武2年に捕縛され、鎌倉に幽閉、同年7月23日処刑される…」
倒幕の後、父は皇子に再び出家するよう命じていたが、皇子は頑としてこれを拒否した。
足利氏に対抗する勢力で在り続けようとしたのだ。
それを簒奪の意思ありと、尊氏と帝の寵姫によって謀られ、宮中で捕らえられた。
帝位を望んだことはないと、何度も父に訴えようと試みた。
だが、許される日はこなかった。
◇
「ここまではよろしいですか?」
「ああ」
「問題はここからです。あなたが殺した人間の数は覚えていらっしゃいますか?」
鬼の問いに、皇子はしばらく考えたが、
「いや、覚えておらぬ」
正直に答える。斬った敵の数などいちいち数えていない。
「ですよね…。お教えしましょう。千人弱です」
「存外少ないな。もっと斬った気がするが」
「それ以外はあなたの部下が殺してるんですよ。ちなみに村上彦四郎義光さんは三千人以上です」
(彦四郎か。さもありなん。あれは豪の者であった)
元弘3年・吉野城が陥落した折、皇子を逃すために村上は死んだ。皇子の甲冑をまとい、その身代わりとなって自害して果てた。
村上だけではない。何人もの忠臣が皇子のために散った。
(その全てを無駄にしてしまった……)
「武家の方はそもそも殺し合いが生業ですが、あなたは皇族です。しかも僧侶でした」
鬼は困った顔で言った。
「本来皇族は自らの手を汚したりしません」
確かに己ほど戦場で刀を振るった皇子は思いつかない。
「我々も決めかねているのです。皇族に再度生まれるか、僧として極楽へ送るか…」
「地獄でよい」
「地獄で罪を償うと?」
驚いた鬼は巻物を机に置き、皇子を見た。
(俺だけ極楽になぞ行けるものか…)
皇子の投げやりな態度に一本角の鬼は眉をしかめる。自ら地獄行きを望む者など初めて会ったのだろう。
だが、しばし黙考の後、皇子にある提案を示した。
「…実はもう一つ選択肢があります。あなたにぜひ来てもらいたいという世界があります」
「“世界”?」
「ここからは菅原さんがお話しします」
そう言うと、現れた時と同様に、唐突に鬼は消えた。
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