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第22話

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折原 翔

 二〇二五年十一月十五日


『拝啓、折原琴音様

 そちらでは元気で過ごされてますか? 体調崩していないですか? ……なんて堅い文章はやっぱりらしくないからもっとラフに書くね(笑)
 お母さんとあの光の間で会ってから早いもんでもう一年が経ったよ。あっという間だったなぁ。僕ね、今でもお母さんと一年間、交換ノートで想いを伝えあった日々、光の間で感じたお母さんの温もりは昨日のことのように鮮明に覚えている。でもあまりにも現実味のない出来事の連続だったから、あれはもしかして夢だったんじゃないかって思う時もあるんだ。でもそんな時、お母さんがくれた紫苑の花の栞を見るんだ。これを見ればあの不思議で幸せな日々は嘘ではなかったって思える。
 あのね、お母さん、この一年間、本当に色んなことがあったんだ。お母さんがびっくりするような話もあるよ。だから今から伝えるね。
 まず僕のことなんだけどさ、ちょうど二日前にね、僕のいる土浦ユナイテッドFCが茨城県大会の決勝で勝って、全国大会出場が決まったんだ。しかも、去年負けた鹿島アントラーズJrユース相手にね。雪辱を果たせたって奴かな? 大吾が決勝点を決めてくれたんだ。永森先生なんて感極まって大泣きしてさ、それにつられて僕もチームのみんなも泣いちゃったんだけどね。僕もキャプテンとして結構頑張ったんだよ。
 それで僕ね、なんと十五歳以下の日本代表候補に選ばれちゃったんだ。まだ十二歳なのに。お父さんも大喜びだったよ。
 十月に三日間の合宿があって、そこで他の候補選手と顔を合わせたんだけど、当然みんな中学生で体も大きくてちょっと萎縮しちゃったんだけど、そこに去年決勝で戦った熱田君っていう同級生がいて、熱田君、僕のこと覚えてくれててすごい仲良くなったんだ。合宿中も熱田君、僕のパスでたくさんシュート決めてくれてさ。すごい楽しかった。代表に選ばれるかどうかはまだわからないけど、将来プロになるために頑張ってみるよ。大吾はすごい悔しがってた。妥当熱田! って言って闘志漲っていたな。大吾と熱田君は同じポジションだしね。
 和人君と夏樹君は中学校に進学して、水戸ホーリーホックのユースチームに入って、二人とも一年生ながらレギュラーを獲得している。で、僕と大吾も三月で土浦小学校卒業したら、水戸ホーリーホックユースに入るつもり。また大好きな二人とサッカーしたいしね。熱田君がいる鹿島アントラーズユースともまた戦うことになりそう。
 それと美織もすごいんだよ! 僕達と同じくミニバスで全国大会決めたんだ。最後の時に三人とも全国大会出場って、僕らもっているなぁって思った。相変わらず僕ら三人はバカな会話で笑い合っているよ。美織の暴力も相変わらずだけどね。
 あとね、話はだいぶ変わるんだけど、三ヶ月前くらい、赤ちゃんを抱っこしたすごく綺麗な女性が僕の家に来たんだ。その人は岡本里奈さんって名前で、旧姓は松岡……だったかな? お母さんの写真に手を合わせに来てくれてさ。里奈さんはね、お母さんのおかげで自分は子供を産む未来を諦めずに生きることはできた。だからどうしてもお母さんに生まれた子を見て欲しかった。そう言ってた。すごいね、お母さんは。色んな人の人生を変えている。僕、お母さんがすごく誇りだよ。
 そうそう、大した話ではないかもしれないんだけど、この前お父さんにすごく美味しい定食屋さんに連れて行ってもらったんだ。南雲亭ってところ。お母さんは知っているかな? 少し気になることはあったんだけどね。食事を終えたあと、お父さんがそこの店主と何か話していてさ、うっすらそこの店主はうちの家内がお世話になってとか言ってたのは聞こえたんだけど、そのあと僕のところに来て、『君が翔君か、大きくなったね』って言ってくれたんだ。お父さんと知り合いだったのかな? すごく美味しかったからまたお父さんと一緒に行こうねって約束したんだ。
 それともう一つ驚きのニュースがあるよ。なんとね奈央さんが結婚したんだ。交際じゃないよ? 結婚だよ? 交際ゼロ日婚ってやつ! で、驚きなのが、お相手がね、あの平木先生なんだよ! 僕すごく驚いちゃって。平木先生も隅におけないね。お二人の結婚式に今度僕とお父さんで行くんだ。奈央さんの晴れ姿お母さんの代わりにしっかり見ておくからね。
 お父さんはというとしばらく新たな恋の予定はないかな。お母さんのこと忘れられないみたい。でももし今後お父さんに好きな人が出来たら僕は拒むことはしないよ。お母さんと約束したもんね。でも、僕にとっての本当のお母さんは一人だけだよ。
 僕ね、お母さんと最後に光の間で会った時、本当はもっと感謝を伝えたかったんだ。『時を越えるノート』で僕の人生は大きく変わった。未来に希望を持つことができた。お母さんからもらったたくさんの言葉達はノートが無くなった今でも僕の心にくっきりと刻まれている。大切な宝物だよ。あの時にも言ったけどね、改めて言わせて。
 僕はまた生まれ変わってもお母さんの子供として生まれたい。その時にまた色んなお話をしよう。色んな思い出を作ろう。来世でまたお母さんと一緒に笑顔で会えるように、まずは今のこの僕の世界で僕の物語を全うしようと思う。いつかその物語をお母さんに聞かせれたら嬉しいな。
 だからさよならは言わないよ。またいつかきっと会えると思うから。また会えるその日まで──。
 またね、お母さん                                      

                                    翔 より』

「それどうしたんだ、翔?」涼太が聞いた。
「これ? お母さんへの手紙だよ。紙飛行機に折ってみた。この方がお母さんに届く気がしてさ」
「お前は粋なやつだなぁ。お母さんもきっと喜ぶぞ」
「届く……かな? 届くと……いいな」
「届くさ、必ず」
「うん、そうだね」
 翔は涼太と共に琴音のお墓参りに来ていた。十一月の中旬ともあって、吹き付ける風は冷気を纏っている。
 翔はしゃがみ込んで紙飛行機の形に折り込んだ手紙を琴音のお墓に供えた。その隣には彼女が好きだった紫苑の花を添えている。
「紫苑の花の花言葉って翔、知っている?」
 翔は振り返る涼太を見上げた。
「知らない。教えて、お父さん」
「『君を忘れない』だ。俺たちも琴音を一生想い続けよう。琴音もきっと天国で俺たちのこと想い続けてくれるはずだよ」
「そうだね。『君を忘れない』良い言葉だね」
「あぁ。まぁこんな花言葉で言われなくても忘れるわけないんだけどな」
 涼太は少しおどけて言った。
「確かに」翔は涼太につられて笑みが溢れた。
「さぁそろそろ帰ろうか。全国大会前に翔を風邪引かせたら俺が雄星君に怒られちゃうよ」
「そうだね。あ、でもちょっとトイレ行ってきても良い? すぐ戻ってくるから」
「あぁわかったよ」
 翔は霊園の管理室が入っている建屋に小走りで向かった。
 後ろで「転ぶなよ~」と言う涼太の声が聞こえた。
 翔は振り向いて「大丈夫!」と手を振る。
 建屋は歩いて二分くらいのところにある場所だ。
 すると走っている途中で、後ろで物音が聞こえた気がした。翔は振り向いて様子を確かめようと思って足を止めたが、すぐに、まぁいっか、と気にしないことにして再び走り出した。




 折原 涼太

 二〇二五年十一月十五日


 翔がトイレを目指して走り出したところで、涼太はザッという音が後方から聞こえてきた。涼太は即座に振り向いた。そして驚きのあまり目を瞬いた。
「あんたは……」
「お久しぶりですね、涼太さん」
 そこには、まん丸な目、笑ったような三日月状の口、の如く黒くペイントされた白い仮面を顔に貼り付け、ベージュ色のきつめにかかったパーマヘアー、黒のロングコートとシルクハットを纏い、荷物を大量に詰め込んでいそうなリュックを抱えた怪しい男が立っていた。
「エリーさん……」
「おや、約八年ぶりくらいの再会だと言うのによく私の名前を覚えててくださいましたね。嬉しい限りです」
「そんな見た目で、忘れる方が難しいだろう」
 そう言ってから涼太はハッとし、目を剥いた。この場面を翔に見られてはまずいと思ったのだ。涼太はガバッと振り返った。視界の中には翔の姿はなかった。だがいつ戻ってきてもおかしくない。だが、涼太は妙な違和感を感じた。さっきまで風が吹いていたはずなのに、草木が一切なびいていない。
 これは、この感覚は──。
 二十一年前に体感した、あの日の──。
「ふふふ。大丈夫ですよ。時を止めておきました。翔さんはまだ帰ってきません」
 エリーは不気味な声で笑った。
「そうか……」
 涼太はスッと肩の力が抜け、お墓を囲う巻石の上に腰を下ろして、ふぅと息を吐いた。白い息がフワッと現れすぐに消える。
「久しぶりだな、エリーさん。あんたと会うのはこれで三回目か?」
「……そうですね」
「少し、昔話でもして良いかい? ちょっと感傷に浸りたい気分なんだ」
「えぇ良いですよ。本当は忙しい身ですが、涼太さんの頼みであればお断り出来ませんので」
「妙に俺の肩を持ってくれるね」
「顧客として、ですけど」
 涼太は鼻で笑った。
「あくまでビジネスライクってことね」
 涼太は空を見上げて、目を細めた。彼は初めてエリーと出会った時のことを記憶の引き出しから引っ張り出そうとした。二〇〇四年十二月の決して忘れられない、あの日の出来事を──。




 折原 涼太

 二〇〇四年十二月


 ここは……どこだ? 一体何がどうなっている? 身体中が痛い……。眩暈がする……。息苦しい……。俺さっきまで何してたんだっけ? ……そうだ。雄星君と貴弘くんと友也の三人で試合終わりにファミレスに来て雑談して、その後、友也と二人で交差点に待っていて、そしたら目の前に大きな黒い塊が……。
「──⁉︎」
 涼太はハッとして大きく目を見開いた。勢いよく自分の体を無理やり起き上げるとズキンと身体の節々が悲鳴を上げる。視界はぼやける。頭も痛くて上手く思考が働かない。涼太は苦痛に顔を歪ませながらも周囲を見渡した。
 そこはまさに地獄絵図だった。立ち込める黒煙。騒ぎを聞きつけた人の群れ。鳴り響くサイレンの音。周囲にはガラス片や瓦礫がそこら中に散らばっている。
 涼太は黒煙が自身の後ろの方から立ち上っていることに気付き、彼は後ろを振り返った。黒煙のせいで視界が霞むが大きな車がテナントビルに突っ込み、大破しているのが見てとれた。車が突っ込み大破したビルの一角から黒煙とオレンジ色の炎が同時に噴き上げている。
 涼太は憤怒で顔を歪ませた。自分達をこんな目に遭わせたこの黒い塊とそれを操った愚者にどうしようもないほどの怒りを感じた。と同時に彼は自分の発言に違和感を感じた。
 自分……達?
「──と、友也⁉︎」
 涼太はさらに周囲を見渡した。すると自分がいる位置から二メートルほど離れた位置に血を流しながら倒れている人を見つけた。涼太は重たい身体を無理やり動かしてその人に近付いた。
 どうか嘘であってくれ──。  
 と、頭の中で唱え続けた。
 だが、涼太の視界に入ったそれは彼の願いを真っ向から否定するものだった。
「とも……や……」
 そこには口から血を流し、四肢があらぬ方向に曲がり、膝や肘からは骨が突き出している。一切の生気を感じない友也の肉体があった。
「友也ー‼︎」
 涼太は友也のそばに駆け寄り体を抱きとめた。
「どうして……なんで……」
 願いと現実の離反に心が壊れる寸前だった。
「意識を取り戻したぞ!」
 前方から第三者の声が聞こえた。涼太は顔を上げた。そこには救命救急の格好をした一人の男性がいた。まだ若そうな見た目の人だ。その男性は涼太を見ると眉間に皺を寄せ当惑した表情を見せた。そしてこう呟いた。
「どうして……君が、生きている?」
 一瞬何を言っているのか、わからなかった。だが、次の瞬間、涼太の記憶の断片が、この言葉の意味と現実の矛盾を知らせた。
 そうだ……おかしい。だってあの車が俺たちのところに迫ってきた時、俺は咄嗟に友也の体を突き飛ばしたんだ。そして大きな衝撃が自分の体に加わって、意識が途切れた。なのにどうして俺が生きていて、友也が息をしていないんだ。
 涼太が思考を巡らせていると、彼はある違和感を感じた。
 涼太は慌てて周囲を見渡す。そして息を呑んだ。
 周囲の景色が一切動いていないのだ。黒煙、人、騒音。全ての動きが止まり、辺りは静寂が包み込んでいた。
「一体、どう言うことだよ……」
「おや、目覚めましたか?」
「⁉︎」
 涼太は慌てて声の主を探した。
「こちらですよ」
 涼太は顔を見上げた。
「うわぁ!」
 涼太は思わず声を上げた。彼の目の前には丸い目と笑う口の形に黒くペイントされたいかにも怪しげな白い仮面を被り、黒いロングコートと黒いシルクハットを被った、どう考えてもこの場に似つかわしくなく、違和感しか感じさせない怪しい男が立っていた。
 涼太は男の姿に畏怖した。あまりにも現実感のないこの状況に頭がおかしくなりそうだった。
「驚かせてしまい申し訳ありません。私はエリオよろず店を営んでおりますエリーことエリオットと申します。以後お見知り置きを。エリーと呼んでいただければ結構です。色々と混乱されていると思いますので、まず順を追って説明しますね。まず外野がうるさいとゆっくりとお話も出来ないので、私の持っている寿命を使って時を止めさせてもらいました。周囲の動きが止まって見えるのは、つまりそういうことです」
 頭が全く追いつかない。一体この男が何を言っているのか。声色だけで判断しているがそもそも目の前のそれは本当に男なのかすらも不明瞭だ。
「あなたには事の経緯をしっかりとお伝えしなえればならないと思い、馳せ参じた次第です。そうでなければフェアではありませんからね。ふふふ」
 エリーと名乗るこの男は、この状況に至るまでの経緯を涼太に淡々と伝えた。それはあまりにも信じ難い、いや、信じたくないものだった。



 
 南野 友也

 二〇〇四年十二月

 
「ゔぅ」
 身体中を駆け巡る激しい痛みに、友也は目を開けた。立ち込める黒煙のせいで視界が不明瞭。うまく周囲を見渡せない。目が痛い。息苦しい。とにかくこの場から遠ざからないとと思い、友也は軋む身体に鞭を打って、なんとか四つん這いになりながらも、黒煙から遠ざかろうとした。
 遠くからサイレンの音が聞こえる。騒ぎ立てる群衆の声も聞こえる。
 頭が割れるほど痛い。友也の思考はうまく作用していないかのようだった。
 何かとんでもなく大事なことを忘れているような──。
 すると、コツンと友也の腕に何かが触れた。冷たい何かが。
 友也は視線を下に向けた。黒煙から少し遠ざかったせいでその姿ははっきりと友也の網膜に映し出された。
「り……りょう……」
 心臓が騒ぐ。身体が強張る。友也の心は目の前に広がる光景を必死に拒絶しようと試みる。だが、そのありありとした現実が彼の心に重く鋭く突き刺さる。血まみれで、身体がねじ曲がり、骨が皮膚を突き破る。一切の生体反応を感じさせないその姿は紛れもなく──。
「涼太ー‼︎」
 友也は無惨に横たわる涼太の手を持ち上げて力強く握った。慟哭するかの如く友也はその場で喉を潰すほどの声で叫んだ。
 なんで──どうして涼太が──。
 友也は数秒前の記憶を再生しようと試みた。
 そうだ──、雄星君達と別れて、俺と涼太は交差点で喋っていた。そしたら目の前に黒い車が猛スピードで迫って来て……俺は動けなかった。ただ呆然とその状況を眺めていたんだ。そしてあぁ死んだ。そう思った。
 するとバン! と体を押される感覚があったんだ。俺の体は後退し宙を舞った。目の前には腕を突き出している涼太の姿が──。
 どんどん遠ざかっていく涼太の姿がスローモーションのように映し出される。涼太の顔はうっすらと笑ってるかのようだった。
 まるでお前は、俺に、生きろと言わんばかりに──。
 友也はアスファルトを握り拳で叩いた。その手に涼太の血が付着する。
「お前! 俺を庇ったのか⁉︎   俺を助けたのか⁉︎   どうして……どうしてだよ!」
 友也は頭を掻きむしった。全身が震える。悲しみ、憤り、苦しみ、悔しさ、ありとあらゆる感情が友也を支配した。
 お前はいつもそうだ。いつも自分じゃなくて他者のことばかり考えて、こんな死に際でもお前は自分の命も顧みないで俺を助けた。こんなの嬉しくない。お前が生きてなきゃ何にも嬉しくない──。
 その時、友也のジャージのポケットからカランと何かが落ちて地面に当たる音がした。友也はそれに目を向ける。それは母、雅子からもらっていた十字架のペンダントだった。お守り代わりに友也にもたせたものだ。
 友也はペンダントを拾い上げ、憎しみのあまりそのペンダントを壊すほどの勢いで握りしめた。
「何が神だ……」
 神様がいるんならどうして俺たちをこんな目に遭わせる⁉︎   涼太のような善良な人間にどうしてこんな酷いことをする⁉︎
 友也はペンダントを振り翳し、アスファルトに叩きつけようとした。
 その時、友也の脳内に雅子へかけた言葉がフラッシュバックされた。
『やめろよ母ちゃん。みっともない真似するなよ! 神なんかいないんだよ! 俺は一生神には祈らないからな‼』
 そうだ──俺は神には祈らない。神を許さない。
 俺から夏菜子を奪い、挙げ句の果てに涼太までも奪うのか。俺になんの恨みがある? 許せない。許さない──。
 友也は横たわる涼太の亡骸をもう一度見た。
 そして割れんばかりに奥歯を強く噛み締める。
 だけど……それでも……もしも、本当に神がいるんなら、救いの手を差し伸べてくれるなら、どうか、どうか──。
 友也はペンダントを両手で握り、額に押し当てて叫んだ。
「神様。どうか、どうか涼太を助けてください……相棒なんです。大切な親友なんです。どうか……助けて……」
 その悲痛な声は空に舞い虚しく散っていった。
 と、思った時だった。
「ふふふ」
 奇妙な笑い声が友也の耳に響いた。彼は咄嗟に視線を上げた。
「おやおや、何やらお困りのようで。ふふふ。ちょっとお話だけでもどうですか? あなたにピッタリの商品をご紹介出来るかもしれませんよ?」
 あまりにもこの場に不釣り合いな言葉たち。その言葉を発した主はまるで、神は神でも死神のような出立の男だった。

 まん丸な目に三日月状の口、これらを思わせる形に黒くペイントされた白い仮面。肩まで伸びるきつめにかかったベージュ色のパーマヘアー。季節外れの黒いロングコート。英国紳士風な黒いシルクハット。キャンプにでも行くのかと思わせるどでかいリュックを背負ったその男は、ふふふと笑い声を上げながら、友也を眺めているようだった。本当に眺めているかは仮面のせいで定かではない。
 友也は唖然とした。一瞬夢なのではないかと思った。あまりにも現実味のない状況だ。だが、自身の身体の痛みに気づき、一気に現実に引き戻される。
「なんなんだ、お前は……」
 なんとか声を振り絞った。と同時に背筋がゾクりと騒ぎ立てる。得体の知れないものをに出会った時、人は形容し難い恐怖に襲われるということを友也は身をもって体感した。
「おっと、自己紹介が遅れましたね。私はエリオよろず店の店主、エリーことエリオットと申します。以後お見知り置きを」
「エリー……? エリオよろず店……?」
 友也の頭上のクエスチョンマークが無数に浮かぶ。わからない事がありすぎて逆に何を聞いて良いのかわからない。
「何かお困りごとがありそうな顔をしていますね?」
 エリーが笑い声を滲ませながら訊いてきた。
 友也は眉間に皺を寄せて、エリーを睨みつけた。
「お困りごとだと⁉︎   この状況を見てよくそんな簡易な言葉で済ませられるな!」
「まぁまぁそうご立腹なさらずに。いやね、ちょっと営業がてらこの辺をプラついていましたら、突然轟音が聞こえたもんですから、何かと思い、馳せ参じた次第です。私に何かお手伝い出来る事があるかな? と思いまして」
「お手伝い……んなもんあるわけ……」
 友也は途中で言葉を止めた。ある違和感に襲われたからだ。
 どうして誰もこの怪しい男に驚かないのだろうか。普通こんな凄惨な現場にこんなにもいかれた見た目のやつがいたら、野次馬の誰かが騒ぎ立てるだろう。いや、そもそも異様に静かすぎやしないだろうか。先ほどまでの事故による喧噪が嘘のように周囲は静寂に包まれていた。それだけではない。
 友也は周囲に目を配った。立ち昇っていた黒煙、ビルから噴き出る炎、こちらに駆け付けようとする救急隊員、野次馬の人だかり、空でゆらゆらと漂っていた雲、すべてがまるで一枚の静止画を見ているかのようにピタッと止まって動かない。
 夢を見ているのかと思うほどの超常現象に友也の身体は硬直してしまう。しかし周囲の景色のように全く動けないわけではない。体は小刻みに震えているし、息も荒い。まるで自分だけが別の世界に飛ばされてしまったかのような孤独感がまとわりつく。
 その異様な世界の中で自分以外の生命体が不気味にこちらを眺めている。
「外野がうるさいので、ちょっと時間を止めておきました。私の姿を消してあなた以外の方から私を目視できなくすることも可能ですが、何やら只事ではなさそうですし、商談にお時間もかかりそうですから。はぁ。しかし、こういうことしているからせっかくこつこつ集めた『寿命』もたまっていかないんですよね」
 男は肩をすくめながら言う。
 時間を……止めた? 姿を消す? 商談? 寿命? 何を言っている? 何が起きている?
「あんた一体何者なんだ?」
 友也は状況を飲み込み切れず、疑問を呈する言葉が口を衝いて出る。
 男は不敵に笑いながら答えた。
「さっき名乗ったじゃないですか。よろず商人のエリーです。ただのしがない商売人ですよ」
 友也がその場から動けずにいると、エリーはすたすたと近づいてきて、無惨に血を流しながら横たわる涼太の亡骸を見下ろした。
「おやおや。ここに倒れているのはもしや、あなたのお友達ですか? なんとも惨い姿ですねぇ。可哀そうに」
 友也は目を血走らせた。
「可哀そう? そんな安っぽい言葉で片付けるんじゃねぇよ。涼太は……こいつはこんなところで死ぬような奴じゃないんだ。数年後にはプロサッカー選手になって、日本代表になって世界で出ていくような、そんなすごい奴なんだ。くそ……涼太、なんで俺を助けたんだよ。涼太が一体何をしたって言うんだ。俺たち何か悪いことしたのかよ。恨まれるようなことしたのかよ。なんで……どうして、こんな惨い目に遭わないとといけないんだ」
 友也は奥歯を噛み締め、拳をアスファルトを叩きつけた。
 そんな友也を見てエリーはまたも不気味な笑い声をあげていた。その声に友也は恐怖よりも腸が煮えくり返るような怒りを覚えた。
「おい、お前、何がそんなに面白いんだ?」
「いや、すいません。可笑しなこと言うなと思いましてね」
「なんだと⁉︎」友也は怒りの剣幕でエリーににじり寄った。
 エリーは意に返さず、淡々と話し始めた。
「どんなに品行方正な聖人であっても、清く幸せな人生を送れる保証なんてない、逆に極悪人が幸せに生きられる人生だってある」
「何が言いたい?」
「清く正しく生きようが悪く道を外して生きようがそれによって死に様が決まるわけではないって事です。死はね、差別をしないんですよ。誰にでも平等なんです」
 友也はエリーの胸ぐらを掴んだ。
「だったら俺たちはただ運が悪かったっていうのか⁉︎」
「運が悪い? そう思うのですか? 本当に?」 
「どういう意味だ⁉︎」
「そう決めつけるのはまだ早いってことですよ。あなたたちをこんな目に遭わせた運転手を見てみましたか? そこに答えがあるように私は思いますがね」
「どういう……」
「論より証拠。百聞は一見にしかず。ですよ」
 友也はエリーの言葉に要領を得ないながらも、足を引き摺りながら、ビルに突っ込んで大破している黒い自動車に向かっていった。時間が止まり、黒煙も動いていないため、息苦しさはなく、近づくことは容易だった。
 友也は自動車の割れた窓ガラスからぐったりとハンドルにもたれかかる運転手を覗き見た。その瞬間、友也の顔は強張った。腹の底から憎悪と驚嘆と疑念が同時に湧き上がってくる。
「おやじ……なんで……」
 友也の父親、龍彦が運転的に座りながら頭に血を流した状態で絶命していた。
 どうしてここにいる? いつ釈放されたんだ? どうして俺の居場所を知っている?
 様々な疑問が脳裏を駆け巡るが、友也はその答えは何一つ持ち合わせておらず堂々巡りを続けるだけだった。
 友也は重たい足取りでエリーと涼太がいる場所に戻った。頭の中は真っ白だった。
「どうでしたか?」エリーが訊く。
「俺の父親だった。一体どうして……」
「やはり、そうでしたか」
 友也は目を剥いてエリーを見た。
「知っていたのか?」
 エリーは自身の顔の前で手を横に振る。
「まさか、もちろん知りませんでしたよ。ですがね、あの車からは禍々しいほどの殺意がこもっていました。あれほどの殺意が芽生えるなら、無差別ではなく明確な目的があったように思いましてね。そうですか……父親でしたか。ということはこれはそう……つまり、必然ですね」
「え」
「この際はっきり言いましょうか? お友達が死んだのはあなたのせいですよ」
「⁉︎   ……そんな──」
「どんな理由があったのか、私には知りようがないですが、あなたのお父さんは明確な殺意を持って、あなたを殺そうとした。そしてお友達は殺されかけたあなたを自身を身代わりにして助けたのです。つまり、あなたが彼と出会わなければ彼は死ななかった」
 友也は思わず両手で耳を塞いだ。
「やめろ、やめてくれ。そんなこと、言わないでくれ。俺が俺が……ごめん……ごめん、涼太! 俺のせいで……ゔぅぅ」
 胸がぎゅっと押しつぶされそうだった。あまりにも残酷すぎる現実を直視できない。
「それと、先ほどあなたは面白いことを言ってましたね? 神様がどうとかって。ふふふ。これ以上笑わせないでくださいよ。目に見えないものに縋るなんてのは弱者のすることです」
「んだと……」友也はエリーを睨み据える。
「まぁ人間はみんな弱い生き物です。何かに縋りたい、救ってほしい。助けてほしい。その儚き弱さこそが人間らしさとも言えますがね」
「うるせぇな! そもそも俺は神なんてもんは信じてない! さっきはつい……」
「おや? これは驚いた。普段は無神論者なのにここぞとばかりに神頼みですか? それはよっぽど質が悪いですねぇ」
 エリーは友也の元ににじり寄り、彼の顔にぐいっと自身の仮面顔を近づけた。
「都合の良い時だけ、神にすがるなよ」
「っぐ……」
 友也は俯いた。酷い言われように言い返したい気持ちが募るが、何一つ言い返せなかった。言い返す気力すら湧いてこない。ここで自分が何かを言い返したところで、もう涼太は帰ってこない……。
「助けたいですか? お友達を?」
「……え?」
 すぐには聞き取れなかった。
 友也はエリーに聞き返した。
「なん……だって?」
「ですから、お友達を助けたいですか? と訊いたのです」
「あるのか……そんな方法が」
「えぇ、ありますよ。さっきも言いましたが私は、よろず商人。何でも屋です。あなたの望みを叶える道具くらい取り扱っています」
 嘘なのか、からかっているだけなのか。だが例えそれが嘘だとしても、今はそれに縋るしか友也に出来ることはなかった。
「教えてくれ。涼太を救う方法を」
「わかりました。ただ、相応のリスクは負ってもらいますよ。そうでないとフェアじゃない。私の商売も成り立ちませんから。得られる成果が大きければ大きいほど、それ相応に失うものも大きくなります。それがこの世の常です。あなたにそのリスクを負う覚悟はありますか?」
「勿体ぶらないでくれ。どんなリスクでも背負う覚悟はとっくに出来ている」
「では訊きますが、あなたは彼のように友のために死ねますか?」
「え……」
 死という思いがけない言葉に理解が追いついてくれない。
「どういうこと?」友也は恐る恐る訊いた。
「言った通りの意味ですよ。ちょっとだけお待ちくださいね」
 エリーは背負っているリュックを地面に下ろし、チャックを開けるとそこに手を入れて、がさごそと弄り、何やら手のひらサイズの石垣に囲まれている泉の模型を取り出し、それを目の前に放り出した。
 するとその模型は一気に膨れ上がり、直径三メートル近い大きさの泉に変わった。
 友也は思わず体を後ろに仰け反らせ、尻餅をついた。摩訶不思議な光景に息を呑む。
「これは『命の泉』。あなたの百年分の寿命と引き換えに死んだ人を生き返らせる不思議な泉。生き返らせたい人の名を唱えて、この泉の中に入れば、取引完了です」
「寿命……百年……だと?」
「死んだ人を蘇らせるということは輪廻の法則に反すること。世の理に抗うこと。百年はそれに見合う対価です。それほど命というものは重たいものなのです」
 友也は黙ってエリーの説明に耳を傾けた。エリーはさらに続ける。
「念の為、正確に言うと、あなたが今後生きる予定だった百年分の寿命と引き換えに、あなたとそちらのお友達の身体状況を入れ替えます。つまり、あなたの負っている軽い傷はお友達が負う、お友達の惨たらしいほどの凄惨な傷はあなたが負います」
「もし……」
「はい?」
「もし、俺が今後、百年生きないのであれば不足分の寿命はどうなる? 俺は今年で十九歳だ。百十九歳も生きれる気がしないから」
「良い質問ですね。本来であれば、百年に到達しない不足分はあなたの来世の寿命からいただくのですが、今回は初回ご利用ということで出血大サービスです。不足分の寿命は不問と致しましょう。ふふふ。これは大変お買い得ですねぇ」
 友也は依然として言葉を発せられずにいた。
「まぁ、無理にとは言いませんよ。こちらも無理強いをしているわけではありません。例え大切な友人とはいえ、誰もが自分の命を犠牲にして助けられるわけでは──」
「やるよ」
「え?」
 友也は立ち上がった。
「やるって言ってんだろ。やらせてくれ」
 エリーは指でシルクハットをトントンと小突いた。
「そんな即決して大丈夫ですか? 後悔しても遅いんですよ?」
「後悔? そんなもんあるわけないだろ。ここでこの決断をしない方が俺は一生後悔をし続けることになる。涼太は俺にとって絶望の世界から救い出してくれたヒーローなんだ。そしてこんな俺のために命を犠牲にして助けてくれた。涼太のためなら、俺は……命を差し出す覚悟がある」
「そうですか。……わかりました。ではこちらへ」
 エリーは友也を導くように泉に向けて手を差し伸ばした。
 友也はゆっくりと泉に向かって歩いていく、石垣の上に立った。
「心の準備はよろしいですか?」
「あぁ」
「では、蘇らせたい方のお名前を言って、入水してください」
 友也は深呼吸をして言った。
「折原涼太を救ってくれ」
 友也は青く澄んだ泉中に足を踏み入れた。さらさらと心地よい水の感触。友也の体は徐々に泉に吸い込まれていく。
「ご利用ありがとうございました。またのご利用をよろしくお願いします」
 エリーの声が聞こえた。その言葉に確かに商売人だなと友也は片頬で笑った。
 これから死ぬ人間にまたの利用なんてないだろ、とも思った。
 不思議と怖くはなかった。
 なぁ涼太。きっとお前は怒るよな。せっかくお前が繋いでくれた命なのに、どうしてこんなことしたんだって思うだろうな。でも、俺はお前に生きてほしい。生きて琴音ちゃんを幸せにしてほしい。
 俺はお前に出会うまで、生きている心地しなかったんだ。世界のすべてを憎んでいた。でも、お前に出会って俺は生まれ変われたんだ。最高に楽しい人生を送れた。全部お前のおかげだ、涼太。俺にとって今は第二の人生なんだ。お前はもう既に俺に第二の人生の命をくれていたんだよ。
 だから今度は俺がお返しをする番だ。お前は俺をずっと助けてくれていた。俺にとっての憧れのヒーローだったんだ。だからさ、最後くらい俺もお前にとってのヒーローになりたいんだ。
 だから──。
 ごめん。許せ、涼太──。
 生きろ、涼太──。
 全身が泉に沈んでいく。痛みはない。苦しくもない。
 意識がどんどん薄れていくのを感じ、友也はゆっくりと瞼を閉じた。




 折原 涼太

 二〇〇四年十二月


 静寂が空間を包み込む。
 涼太は慄然とし、呼吸することも忘れてエリーの話に耳を傾けていた。喉が締め上げられる思いがした。彼は腹の底から膨れ上がってくる負の感情を必死に抑え込んでいた。だが、それももう限界だった。
「以上がことの顛末です。あなたは友に生かされたのです。だからその命を大事に──」
「ゔぁあぁー‼︎」
 涼太は勢いよく立ち上がるとエリーに向かって殴りかかった。だが、エリーはその拳をするりと交わした。
 涼太はすぐに立ち上がってエリーを睨む。
「よくも……よくも、友也を……悪魔……いや、この死神が!」
 涼太は涙を流しながら、目は赤らんでいた。彼に対する圧倒的なまでの憎悪が涼太を支配していた。
「お門違いも甚だしいですねぇ。私は彼の求めに応じて人助けをしただけなのに。強要だってしてないですからね」
「だったら……もう一度その泉を出せ。俺が友也を蘇らせる」
「一度泉を使用した人は二度と使うことは叶いません」
「なんだと!」
「大切な友だったんでしょ? 悲しい気持ちはわかります。でもせっかくその大切な友からもらった命、ないがしろに使ってはいけませんよ。あなたには彼の分もしっかり生きる責任がある。私はそう思います。まぁせいぜい死なないことです。では」
「ま、待て‼︎」
 次の瞬間、エリーは跡形もなく消え去った。
 その場には、涼太と亡骸となった友也の肉体だけが残った。
「く、くそぉ‼︎」
 涼太は自身の頭を振りかぶり、アスファルトに叩きつけた。何度も、何度も。額から血が止めどなく流れてくる。
 涼太は傍で横たわる、友也の体を持ち上げて、力強く抱きしめた。涼太の額の血が友也の頬にこべりつく。
 どうしてだよ、友也。なんで俺を蘇らせた。
 違うんだよ……俺はヒーローなんかじゃないんだよ。
 涼太は頭と心に激痛を感じながら、かつてのことを思い出していた。
 覚えているか、友也? 俺たちが出会ったあの日のこと。俺が土浦に引っ越してきて、公園で俺と友也が出会った日、俺が泣いていたこと、お前気付いてたよな? 
 俺がサッカーを始めたのは父さんの影響だった。父さんと一緒にサッカーをすることが俺は大好きだった。でも父さんは俺を母さんを裏切った。俺たちを捨てて他の女のところに行ったんだ。
 母さんは父の名残がある新潟の土地が嫌で親戚がいるここ、土浦に引っ越した。大好きだった父の裏切りに俺は人間不信に陥った。本当はさ、サッカーをやめるつもりだったんだ。父との思い出があるサッカーを憎んでいたから。ボールを蹴るのこれで最後にしようと思って、あの日俺は公園でサッカーをした。
 その時、友也が俺の前に現れた。
 あの時、俺は友也のことを放っておくことができなかった。あの時の友也は俺と同じような、いやそれ以上に絶望を感じている目をしていたから。あんまり良い言い方ではないし、お前は怒るかもしれないけど、仲間を見つけたようでちょっと嬉しかったんだ。一人じゃないって思えたんだ。
 その後、友也とボールを蹴っていて気付いたんだ、やっぱり俺はサッカーが好きなんだって。いくら父親を嫌いになっても、サッカーだけは捨てれない、嫌いになれないんだって。
 友也は俺を絶望から救ってくれたっていうけど、それは俺も同じなんだ。俺の絶望なんてお前が感じていた絶望とは比較するのもおこがましいくらい程度の低いものだとは思うけど、それでも当時の俺にとっては本当に辛いことだった。
 俺だってお前に救われたんだ。お前に出会えて前を向いて生きていこうと思えたんだ。こんなことしてくれなくても俺にとってのヒーローはお前だけなんだ。
 止まっていた景色が少しずつ動き出すのを感じた。野次馬の騒ぎ声、立ち込める黒煙の気配、救急隊員たちの声が徐々に五感を刺激し始める。
 だが、それと反するように涼太は自分の意識が遠のいていくのを感じた。何度も頭をアスファルトに打ちつけたからだろうか。あまりのショックな出来事に脳が現実を受け入れまいと拒絶反応を示しているのだろうか。
「呆けるな! 新人! 早く搬入しろ!」
「は、はい!」
 誰かの声が聞こえる。
 救急隊員だろうか。
 友也の声だったら……良いのに、な。
 薄れる意識の中、涼太は叶いもしない願いを唱え続けた。




 折原 涼太

 二〇二五年十一月十五日


「そうですね、そんなこともありましたね」エリーは言った。
 涼太は琴音のお墓を囲む巻石に座りながらエリーを見た。
「あぁ、あれが俺とエリーさんの初めての出会いだったな。正直あの当時ははあんたが憎くて憎くてたまらなかった。友也が俺の身代わりに死んだ事実を受け入れられなくて、あいつの葬式にも出席できなかった。家に篭ってずっとごめんと言い続けていた。でも四十九日の日、友也は俺に会いに来てくれた。あいつの言葉で生きてほしいと言われた。あいつのいない未来なんて生きたくなかった。けど、そう言われちまったら、どんなに辛くても歯を食いしばって前を向いて生きるしかないだろ。ただ、サッカー選手になる道に進む気にはなれなかった。友也がいないんじゃ俺は仮にプロになっても頑張れなかったと思う。それまでの俺は生きていることが申し訳なくて、どうして俺が生きているって思う毎日で、でも友也に言われた『生きろ』という言葉を原動力になんとか生き続けて、死なないために職に就かなきゃいけないと思って勉強して公務員になった。でもまだこの時も俺の心は澱み切っていた。そんな俺を救ってくれたのが琴音だった。彼女が俺をまた見つけてくれて、声をかけてくれて。やっぱり俺琴音を忘れられないって思った。おかげで俺は立ち直れた。それまでは義務として生きなきゃいけないって思っていたけど、彼女のおかげでこの先もまた生きたいって心から思えたんだ」
「立ち直るのに中々時間を要したみたいですね」
「俺にしてみれば立ち直れたのが奇跡みたいなもんだったけどね。その後のことも話していいか?」
「えぇ良いですとも」
「その後、俺は友也のように自分の命を顧みずにあんたの顧客になるような奴が二度と現れないようにネットの掲示板にエリオよろず店のことを呟いた。だけど、翌日にはその掲示板自体が消されていた。あれはもしかしてあんたが?」
「ふふふ。バレちゃいましたか? まぁあんなこと書かれてしまったら商売あがったりですからね。念の為です」
「そういうところは抜け目がないんだな」
「お褒めの言葉と受け取りますよ」
「まさかその時はもう一度あんたに会えるなんて思っていなかった。琴音が亡くなった日、俺は担当医である平木医師と喋ったんだ」

 二〇一三年十一月、涼太は琴音が亡くなった後の病室のベッドの前で佇んでいた。どんなに悲しくても退院の手続き、荷物の整理はしなくてはいけない。
 するとコンコンとドアがノックされた後、病室の扉が開いた。そこには平木医師が立ち竦んでいた。彼は涼太と目が合うと、頭を深く下げた。
「力及ばず申し訳ありませんでした」
 涼太は口元を緩めた。怒ってなどいなかった。
「平木先生は琴音を救うために懸命に頑張って下さいました。謝ることはないですよ。むしろ感謝したいくらいです」
 平木医師はその言葉を受けて、無言でさらに頭を下げた。そして少し躊躇いの表情を見せた後、口を開いた。
「涼太さん……翔君のためにも、おかしなことは考えないでくださいね」
「……どういうことですか?」
 涼太は平木医師の言葉の真意を掴めず、思わず訊き返した。
「エリオよろず店」
「⁉︎」
 平木医師から思いがけない単語が発せられ、涼太は面食らい、当惑した。
「なんで……どうして、その名前を⁉   平木先生──」
「僕が若い頃、とあるネットの記事を見ました。そこにはにわかには信じられないことが書かれていました。『命の泉』。死んだ者を自分の寿命と引き換えに生き返らせる」
 涼太の心臓は強く脈を打った。あまりの衝撃に言葉が出てこない。
「涼太さん、私はあなたに見覚えがあった。ただ、ずっとどうしても思い出せなかった。でも、ようやく思い出したんです。二〇〇四年十二月のあの凄惨な事故があった忘れもしないあの日。僕は研修医として救急救命業務で現場に行っていたのです。そこで見た光景は今でも脳裏に焼き付いている。だって、つい数秒前まで身体中ボロボロで明らかに息をしていなかった人間が突然、軽症になって息を吹き返していたんだから。その一方で意識があったはずの人がボロボロの身体で息絶えていた。一瞬だけ目を離した瞬間にです。あの光景を実際に目の当たりにしたのは現場でおそらく僕だけだったと思います。涼太さん、あなたは『命の泉』で生き返った人なんですね?」
 涼太は当時のことを思い出し、苦悶に満ちた表情で俯いた。彼のその姿は平木医師の問いを肯定していると同義であった。
「そうなんですね……涼太さん。私はあなたにお伝えしたいことがある。もし仮にあなたがネットの記事で書いていた『エリオよろず店』がまた涼太さんの元に現れたとしても、自分の命と引き換えに琴音さんを蘇らせるなんて思っちゃいけない。翔君にはあなたが必要なんだ」
「……わかっていますよ。平木先生。僕がそんなことしようもんなら天国にいる琴音に叱られてしまいます。もしまたあれが、エリーが僕のもとに現れてくれたら、お願いすることはもう決まっています。誰の命も犠牲にしないお願いです」

 涼太はその時本当にエリーがまた彼の前に現れてくれるとは微塵も思っていなかった。だが、翔が三歳になった頃、寝かしつけを終えた後、リビングで一息ついていた涼太の前にエリーは姿を現した。
 涼太は驚きのあまりソファから転げ落ちた。突然出現したエリーをフローリングにお尻と手を付きながら見上げた。あの時の変わらない出立。夜に現れればホラー映画さながらの恐怖だ。
「……どうして?」涼太は唇を震わせながら言った。
「ふふふ。お久しぶりです。私も義理堅い男でして」
「?」
「ところで、また何かお望み、いやお悩みがあるように見受けられますが」
 涼太は頬を少し緩めた後、ゆっくりとその場に立ち上がった。
「また、エリーさんが俺のところに現れてくれたなら、どうしてもお願いしたいことが一つあった」
「ほう。興味深いですね。なんですか?」
「翔は、俺の息子は三歳になった。今後、物心がついて自分には母親がいないことで悩み苦しみこともあると思う。だから翔が物心ついた時、ちゃんと分別がついた頃に、少しの時間でも構わない。なんとか翔と琴音を引き会わせてほしい。そんな無謀なお願いでも、あんたの力なら可能なんだろ? 頼む。エリーさん。対価の寿命は俺が責任を持って支払う」
 エリーは涼太の傍まで近づいて行き、ぽんと彼の肩に手を置いた。
「……わかりました。お約束しますよ」
 その時、何かが体の中から抜けていく、そんな感覚があった。

 涼太は座っていた巻石から立ち上がり、エリーの元に近づいた。
「翔はこの二年間で見違えるように成長した。母の死に向き合えるようになった。そして今あんたが現れてくれた。約束を果たしてくれたんだろ? 翔は……琴音と、お母さんと会えたのか?」 
 エリーは浅めに頷いた。
「えぇ、約束は果たしましたよ。少々回りくどいやり方だったかもしれませんが。対価としての寿命もきっちり二年分、涼太さんから既にいただいております。ご利用ありがとうございました」
 涼太は自身の頬に滴が流れ落ちるのを感じた。親指でその滴をサッと払う。
「そうか……会えたのか。よかった。本当に……良かった。ありがとう、エリーさん」
「いえいえ。あ、そうだ。一つ訂正させていただいても良いですか?」
 涼太は首を傾げながらも、こくんと頷く。
「先程私は涼太さんに、出会ったのが三回目と言われ、同意しましたが、実は違うんです。正確には四回目なんです」
「四回目? まさか。あんたみたいな見た目の奴と会った回数を間違えるなんて思えないよ」
「まぁそうでしょうね。さらに正確に言うと、涼太さんにとっては三回目、私にとっては四回目ということです」
「どういうことだ?」
 涼太は怪訝な顔を見せた。
「涼太さんは気付きようがなかったと思います。何せ『時を越えるノート』に触れていないので」
「時を越える……ノート?」
「あ、いえ。今はその話はいいです。実は涼太さんが預かり知らぬところで翔さんは過去を変えたのです。涼太さんにとっての事実は琴音さんは翔君を産んだ二ヶ月後に亡くなったというものでしょうが、それは翔さんが懸命に変えた過去です。変える前の過去では琴音さんは翔さんを産むと同時に亡くなっています」
「なんだって⁉︎」
「事実です。ですから私は過去が変わる前の涼太さんと過去が変わった後の涼太さん、二度会いに行ったということです。過去が変わったことで私が涼太さんに二度目に会った事実も無くなってしまったのでね。過去と未来の辻褄を合わせるためにも改めてあなたに会いに行きました。そして涼太さんは、過去改変後でも私に前回と全く同じお願い事をしました。すなわち、翔さんと琴音さんを巡り合わせるというお願いです。それだけこの願いは涼太さんにとって、なんとしてでも叶えてほしいものだったのでしょうね」
「俺が知らないところそんなことが……」
「翔さんは懸命に運命に抗おうとしました。結果は彼が最も望むものにはならなかったと思います。ですが、それでも少なくとも私は彼のその姿に感動しました。素晴らしい息子さんです」
「そうか」
 涼太は俯いた。
 翔……お父さんが知らないところでそんなにも懸命に戦っていたんだな……。
 涼太はハッとして顔を上げた。
「エリーさん。実は一つ、ずっと疑問に思っていたことがある」
「なんでしょうか?」
「そもそもどうしてまた俺に二回目、会いに来てくれたんだ? あの時あんたが言っていた『私は義理堅い男』という言葉がずっと引っかかっていたんだ」
「……」
「その言葉から類推するに、つまり……誰かにお願いされたってことか?」
 エリーは、仮面を手で押さえながら、はぁとため息をついた。
「本当は、内緒にしてくれって言われたんですけど、私も口が軽いですね。ついついヒントを散りばめてしまう。お察しの通り、とある方々にお願いをされたからです」
「方々? 一体誰が──」
「友也さんと夏菜子さんです」
「え──」思いがけない名に涼太は狼狽した。エリーは続けて言葉をつなぐ。
「涼太さんは死後の世界を信じますか?」
「て、天国のことか? 信じる、というかあってほしいとは思っているけど……」
「こちらではそう呼ぶのですね。私共の言い方では『黄泉の国』といいます。黄泉の国は実在します」
「⁉︎」
「私は仕事柄、度々『黄泉の国』に出向くことがあるのですが、その時にとあるお二人に声をかけられました。一人の女性は初見でしたが、もう一人はの方はっきりと覚えていました。それが友也さんでした。もう一人は妹の夏菜子さんと言っておりました。とてもお綺麗な方でした。私はお二人と少しばかり会話をしました」
 エリーはその当時の話を詳しく聞かせてくれた。

 エリーが仕事の都合で『黄泉の国』の玄関口、通称、天界の扉に降り立った時、そこに二人の人が自分を待っているように立っていたという。男は彼に近づき、こう言った。
「よう、待っていたよ。村の仲間からここで待っていればあんたに会えるかもしれないって言われてね。相変わらず不気味な格好してるな。エリーさんとやら」
 エリーは男のことをはっきりと覚えていた。
「あなたは……先日は大変失礼な物言い。申し訳ございませんでした」
「俺の名前は友也だ。んで隣にいるのが妹の夏菜子」
「夏菜子です。こんにちわ」
「これこれはご丁寧に。こんにちわ。ところで私に何か御用でしょうか?」
「あぁ。でもその前に一つ言わせてくれ」
「はい?」
 友也はエリーの胸ぐらを掴んだ。そしてものすごい剣幕で凄んだ。
「涼太を救ってくれたあんたにはもちろん感謝している。でもな、あの時のあんたの俺への言葉。正直マジでムカついた。なんでこんなわけのわからん怪しいやつにこんなズタボロに言われなきゃいけないのかってな!」
「本当に反省してます。いくら本心だからとはいえ、見ず知らずの人に流石に言い過ぎました」
「本心かよ!」
「あ、すいません」
「本当に反省してる?」
「えぇ、本当に」
「よし、じゃあ許す」
 友也はエリーの胸ぐらに掴んでいた手を離した。
「え」
「でも、その代わりに俺たちのお願いを一つ聞いちゃくれないか?」
「え……」
「なんだよ。不服か? じゃあ許さないぞ?」
「はぁ、わかりましたよ」
 何か口車に乗せられているようで、すっきりしなかったが、エリーは彼の頼みを受け入れることにした。
「そうこなくちゃ。お願いってのは他でもない。涼太のことだ。エリーさん。もう一度、涼太のところに現れてはくれないか?」
「ほう、それはどうして?」
「あいつはさ、心が繊細なところがある。俺がやった行為をいつまでも気にするかもしれない、生きることが申し訳ないとかいらんこと考えそうな気がして。そんな涼太のことが俺は気がかりでならないんだ。だから、何か一つでも涼太の願いを叶えてあげてほしいんだ。でも、あいつのことだ。自分の幸せのためには使わないかもしれなけど、それでも構わない。頼む。ほっとけない大切な親友なんだ」
「エリーさん、私からもお願いします。私にとっても涼太君はとても大切な人なんです」夏菜子は懇願するように言う。
 エリーは少し考え込むように仮面の顎部分に手を乗せた。そしてまた不敵な笑い声を発した。
「ふふふ。まぁ女性の頼みとあれば、断るわけにはいきませんね」
「俺、関係ねぇのかよ」
「ふふふ。冗談です」
「あ! でもあんまり寿命取りすぎるアイテムはやめてくれよ! 涼太にはまだ死んでほしくないんだ! 頼むぞ?」
「ふふふ。わかりましたよ。お約束いたします」
「あと、俺たちがお願いしたってことは涼太に内緒な。別に恩を売りたいわけじゃない。頼むぞ、エリーさん」

「友也と夏菜子がそんなことを……」涼太は視界を滲ませながら呟いた。
「友也さんは自分の命を与えてもなお、あなたを心配していたんです。それだけあなたは友也さん、そして夏菜子さんにとっても、とても大切な存在だったんですよ」
「友也と夏菜子は……二人は元気でしたか?」
「えぇ、楽しく過ごしているようでしたよ」
「そうか、良かった……良かった」
 涼太は俯いて腕で涙を拭った。
「おっと。時を止めたとはいえ、結構長いこと居座ってしまいましたね。それではそろそろお暇しようかと。何度もいうようですが私も暇じゃないんでね」
「ま、待ってくれ。最後に聞かせてくれ。あなたは……一体何者なんだ? 一体なんだって人の寿命を集めるようなことをしている?」
 涼太は立ち去ろうとするエリーの背中に問いかけた。
「ふふふ。気になりますか? 私のことなんてどうでもいいじゃありませんか」
「これは、俺の勘で思い込みなのかもしれないけど、エリーさん、あんたは昔、人だったんじゃないか? あなたの力は化け物じみている。人のそれとは到底思えない。でも、うまく言えないけど、どこかあなたには人としての温情を感じるんだ。約束を守ってくれるところとか。あなたはただ人の寿命を貪るだけの存在ではないんだろ?」
「……ご想像にお任せしますよ」
「……そうかい」
 涼太は俯いた。
 すると数秒後「はぁ」というため息が聞こえ、涼太は顔を上げた。
「……救いたい人が、いるんです」
「え?」
「どんな犠牲を払っても、誰になんと思われようとも、救いたい人がいます。そのためなら私は悪魔にでも死神にでもなりますよ」
「エリーさん……」
「では、もうよろしいですね?」
「あ! じ、じゃあ、最後にもう一つだけ!」
「なんですか? あなたもしつこいですね」
「最後にあんたの顔を拝ませてくれないか? 仮面を外してほしいんだ。そもそもどうして仮面なんて被っているんだ?」
「それは出来ません」
「……嫌なのか?」
「いいえ」
「?」
「この仮面は呪いであり自分自身への戒めでもあります」
「え?」
「外したくても外せないんですよ。私にはね」
 エリーは振り返り、琴音のお墓の前までスタスタと歩いてきた。そして翔の折った紙飛行機の手紙を手に取った。
「何を?」涼太が言った。
「私が今日ここに来た理由はこのお手紙を『黄泉の国』にいる琴音さんに届けるためです。涼太さん、もうあなたにお会いすることはないでしょう。お互い大変な人生ですが、頑張って生きていきましょうね。月並みの言葉ですが、生きていればきっと良いことがあります。では」
「おい、ちょっと!」
 その瞬間、エリーは瞬く間に姿をくらませた。
 冷たい風が涼太の頬をかすめる。いつの間にか時計の針は進み始めていた。
「お父さん! お待たせ!」
「翔……」
「どうしたの? キツネにつままれたような顔して……」
 涼太は翔の髪を手でくしゃくしゃにした。
「ちょっと、何⁉︎」
「翔。よく頑張ったな」
「え? なんの話?」
「いや、なんでもない。よし帰ろうか。今日のご飯は翔の好きなカレーだ」
「やった! お父さんのカレー楽しみだなぁ~」
 翔は駐車場に向け、走り出した。
「おい、翔! 砂利道は走ると危ないぞ!」
 涼太はやれやれと言った様子で頭を掻いた。

 これから待っている未来がこの砂利道のようにたとえ険しくても、もう迷わない。
 涼太は確かな自信を胸に、翔の元に駆け出した。
 
 エリーさん。言われなくても、親友から貰ったこの命、決して無駄にはしないよ。
 友也が救ってくれたこの命、琴音が支えてくれたこの命。
 そのおかげで俺には『翔』という大切な守るべき存在が出来たんだ。
 生きてやるさ! 
 この先も、ずっと、ずっと──。
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