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第1章 あなたは誰

あなたは誰①

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 この宿舎の裏側に、彼が暮らすカステン軍の事務所があった。

 そこに間借りしているのがアンドレなのだが。ここで一つ疑念が湧く。

 なんだか変な感じがする。事務所の管理人って、そもそもこんな若い人がするものかしら? 退役兵が務めるものではないのか? それも、魔力が並みの兵士より俄然多い男が、どうして隊員ではないのか? いや、普通に考えれば隊長クラスだろう。

 そんな風に考えてしまうほど、彼のことを探ると疑問は尽きない。


 だがしかし、彼に個人的な話を聞けば、こっぴどく拒絶された昨日の記憶が鮮明に残る。

 これ以上怒らせる必要もないから、もう聞く気はない。

 何も持たない身だし、世渡り上手になっておこう。
 追い出されたら、行き場に困るのは自分だ。

 結果、彼の年齢さえ聞けていないが、見た目年齢は二十歳ってところか。

 彼は事務所と呼んでいるが、レンガ造りの結構大きな建物は、相当に立派な邸宅である。

 彼にエントランスの扉を開けてもらいその中へ入ると、建具一つ一つに金の装飾やら彫刻が彫られている。

 この邸宅は妙に豪華だ……。

 わたしは建築関係の知識は疎い方だと思う。そんなわたしでさえ、丁寧な造りね、と感じる住居だ。

 ただの事務所にしてはもったいない。
 どう見ても、あり合わせの材料で安価に建てたものではないだろう。

 そのうえ清潔で埃一つない。
 こんな綺麗な場所にくれば、今の自分の格好が恥ずかしく思える。
 ここは遠慮せず、駄目元で頼むことにした。
 
「シャワーを浴びたいわ。このまま買い物へ行くのは汚れすぎている気がして、アンドレに申し訳ないから」

 髪を手櫛でとかすが、なんとなく砂っぽい、
 情けないことに、外で眠りこけたわたしは酷く汚れている。自分でいうのもなんだが、可憐な乙女のくせにね。

 それに、このまま買い物へ行くのは、店の人にも悪いだろう。

 店員から試着を断られそうだし、一緒に歩くアンドレに恥をかかせる気もする。

「僕は気になりませんが、汗を流したいなら遠慮なくどうぞ。それから買い物に行きましょう」
「ありがとう。助かるわ」

 彼の心遣いで、手始めに浴室を借りる。
 とはいえ場所の分からないわたしは、促されるまま邸宅内をついて歩く。

 そして一通りの準備を終え、意気揚々服を脱いで、いざ浴室へ。
 人の家の浴室を使うのは、ちょっと緊張するのよね、なんてどきどきしながら入ったのだ。

 とても丁寧に石鹸やシャンプーが並べられ、なんなら蛇口に水垢一つなくピカピカと輝いている。

 アンドレって綺麗好きなのね、なんて思いながら蛇口をひねる。
 ――だがしかし、お湯が出ない……。

 大司教のガラス玉をちゃんと手に握りながら、蛇口をひねっている。
 それ以上の使い方はないって、アンドレから教えられた。

 それなのに、お湯はおろか水もでない。

 ――何故だ……。

「あれ? おかしいな。どうなっているのよ!」
 予期せぬ事態に動揺して、バンバンと蛇口を叩く。
 そんなことをしたとて、お湯が出るわけもない。

「お湯を出したいだけなのに、どうして少しも出てこないのよ!」
 ――しばらく様子をみるが、シーンと静まり、色んな意味で寒いだけ。
 やっぱり出てこない……。

 言葉が必要なのかと考えた結果、優しく語りかけてみた。

「ねえお願い。出てきてちょうだい。寒いのよ」
 やはり、そんなことをしてもシャワーからお湯が出る気配は一切ない。一切よッ!

 ねえ。――どういうこと?
 わたしは、なんと言っても魔力なしだ。だから毎日このガラス玉にお世話になっていたはず。

 それなのに使い慣れている『大司教のガラス玉』の使い方が、さっぱり分からない。

 しばらく悪戦苦闘していたが、体が冷えてぶるぶると震えてきた。

 蛇口と睨めっこを続けたところで、いつまでたっても一滴たりともお湯が出ない。
 痺れを切らし、「ああぁ~。もう何なのよ! 次から次へと困らせないでッ!」と、大絶叫してしまう。

 すると、わたしの怒鳴り声を聞いたアンドレが心配してくれたのだろう。

「どうかしましたか?」と、平然と入ってきた。その途端、彼は慌てて、くるりと背中を向けた。

「ねぇ! 寒いのにお湯が出ないの」

「エッ。あッ、何っ! ジュ、ジュディは、こっこれを巻いて、そっちを向いて!」

 アンドレが、しどろもどろにそう言うと、後ろ手に「ほらっ」と、バスタオルを差し出す。

 へッ? と思うわたしは下を向き、自分の姿を見る。
 ――ぽろんと、ちょっと大きめで丸出しの胸が目に飛び込む!

「キャァアァー」

 それに気づいた途端、顔から火が出ているんじゃないかと思うほど熱くなり、あたふたする。わたしの馬鹿!

「こ、こらっ。変な悲鳴を上げないで」

「だって、急に入ってくるからでしょうッ!」

「ジュディが一人で大騒ぎをしているから、何かあったのか心配しただけです」
 彼の言いたいことも分かるが、それどころじゃない。

 年若い男女が二人っきりの場所で、良からぬ状況じゃないか。
 そんな正論はいいから……早く出て行ってよ。いや、出ていく前にお湯を出してくれ。

 何としてもシャワーを浴びたいんだから、お湯が欲しいのよ!
 そんなわたしは、己の中で選ぶべき言動を冷静に見極める。

 その結果、彼から奪うように受け取った大きなバスタオルを、勢いよく体にぐるっと一周、巻いた。

 そして、ちらりと後ろに顔を向け、彼がわたしの方を見ていないか確認する。

 真後ろを向く彼は、一ミリたりとも動く気配はない。
「なッ、何か見たかしら?」
「い、いいえ、見ていないです!」

 嘘くさい返答をした瞬間、彼の髪が赤く変化した気がしたけれど、きっと気のせいだろう。

 だって、赤は特殊な色だ。……王族の色。絶対にあるわけない。
 おそらく動揺したわたしの目が血走っているせいだと、自分に言い聞かせる。

「うッ、嘘だわ。何か見たでしょ!」

「み、見ていたとしても。べ、別にジュディの裸に興味はありません。見たくもないものを見せられる僕の迷惑も考えてください」

「悪かったわね、変なものを見せて」
「……」

 それ以降、何も言わないアンドレがシャワーのお湯を出して、そのまま、そそくさと立ち去っていった。

 どうして彼が、恥ずかしそうに耳を赤くしているのよ。
 こっちが、気まずいじゃない……。

◇◇◇
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