ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 27

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 部屋に戻ったまどかは、ユランに呼び出された当時に着ていたワンピースに着替えた。
 サイズが変わってないのには驚いた。
 バーシスで日々鍛えられたお陰で、体が締まったのは確かだった。
(まぁ、この歳になって成長も無いけど)
 アップルグリーンのワンピースを来た鏡の中の自分は、なんだか普段の自分ではないように見えた。
 そして、このワンピースを着てここに居ることが、とても場違いな気がした。でも、地球に戻れば、そんな違和感はなくなる。
 まどかは鏡の自分に向かって頷く。
(もう行かなきゃ)
 イリア・テリオのものは一切持ち出さない。だからまとめる荷物も無い。
 昼間のほんわりとした暖色の光で満る部屋を見回して、部屋を出た。
 庭には小鳥が三羽、下りては来なかった。虹も出ないし、ワンピースのボタンも取れなかった。
「残れ」というサインはやはり無かったのか。それとも、気がつかなかったのか。
 
 フーアの研究室に、まだ仲間たちは来ていなかった。
 彼のクルーがいつもよりも忙しく動いている。部屋に緊張が漂っていると思うのは、あと数時間で帰るまどかだけか。
 フーアが近づいて来た。
「今日は……よろしくお願いします……」
 まどかは彼に手を差し出した。彼はしっかりと、その手を握る。
「お前さん……どうするね?」
 一瞬、ルイの顔が浮かんだ。そして『わからない』と彼の声が再び耳に響いた。
 それらを振り払うように、小さく頭を振る。
「帰ります」
「そうか」
 そのとき、有吉が部屋に入って来た。彼もフーアと握手と挨拶を交わした。フーアは自分の席に向かった。有吉とまどかは対峙する。
「よかった。もう来てたんだな」
 彼は心底安心したように微笑んだ。
「うん。まとめる荷物もないし」
 彼は小首を傾げ、まどかを見下ろした。
「昨日の夜、連絡が取れなかったからさ、ちょっと心配していたんだ。部屋にも居なかったし」
(あ……)
 まどかが返事に困って目を泳がせた時、残りの三人が来た。
 フーアはまどかと有吉越しに彼らの姿を認め、立ち上がった。
 それぞれが、三年前の姿で目の前に居る。
 懐かしかった。懐かしいだけではなく、まるで昨日まで日本にいた気持ちにさえなった。
 つい昨日までみんなほろ酔い気分で、居酒屋のテーブルを囲んでいた。
 港の防波堤の上に並んで腰掛けていた。とてもリアルにその情景を描けるのに、そこがものすごく遠い場所になったことを一瞬で思い出し、虚しくなる。きっとこの気持ちを表すなら『郷愁』という言葉だけだろう。
「全員揃ったな。ジルケ、頼む」
 呼ばれた女性は白い靴箱のようなものを抱えて、フーアの隣に並ぶ。
 フーアは皆の顔をぐるりと見渡すと、口を開いた。
「これから君たちのコンディションを少し調べ、消毒させてもらうぞ」
「オレ、シャワー浴びてきましたけど」
 山口がすかさず口を挟む。
 フーアはその薄い水色の目を細め、おかしそうに言った。
「なに、そういうものばかりでないんでな。消毒と言っても、外側じゃなくて内側からだ。錠剤を一つ飲んでもらえば終わりだ。全体的な作業は時間がかからんのだが、薬が効いて来るのに三四十分要する。その後で最終調整し、向こうのプレートに立ってもらう。それだけだ。簡単だろう」
 フーアの口元が弧を描いたが、目は笑っていなかった。
 彼も、緊張しているのだろうか。
 それから五人はそれぞれのパルスとピースをジルケの持っていた箱に入れた。
 彼女は箱を近くの机に置いて、またこちらに戻ると、ジャケットのポケットからペンライトのようなものを取りだした。
 「一人一人、私のところへ来て下さい。波動を調べますから」
 彼女の小道具は、一人一人の体の上を丹念に走った。搭乗ゲートでコントロールされるのと似ているな、と思った。
 みちるがコントロールを受けている時、再び研究室のドアが開き、エステノレス長官とミケシュが並んで姿を現した。
「見送りに来たよ」
 長官は五人に近づきながら言った。
 口元にはいつもの優雅な笑みが浮かんでいたが、何となく残念そうに見えるのは気のせいだろうか。
 彼が紫紺のローブを身に纏っているのは、ただの偶然とは思えなかった。正装。
 彼なりにこれは儀式として認識されているのだろう。
 長官は、フーアと二言三言何か言葉をかわした。
 その間に全員のチェックが終わり、錠剤を飲まされた。ジルケはパルスの入った箱をミケシュに渡し、自分の持ち場に戻る。
 その彼女と入れ替わるように、長官が前に進み出た。
「えーと……」
 こほん、と咳払いを一つする。
「君たちが帰ってしまうのは惜しい気もするが、まあ仕方が無い。あぁ、お世辞ではなくてね。とにかく、フーアの素晴らしい働きで君たちは必ず地球に帰れるよ。私が保証しよう」
(保証だなんて)
 その自信はどこから来るのか分からなかったが、彼が言うとなんだかものすごく説得力があるのも不思議だった。長官が再び口を開いた。
「それから……」
 その時、別の声が研究室に響き渡った。
「金目! 吉野! お前らオレの授業サボってこんなところで何してるんだ!」
(うそ……この声って……)
 声の方へ振り向くと、肩で荒く息をしているルイが、開いたドアに片腕をかけて立っていた。
 授業中だったのだろう、眼鏡はかけっぱなしで前髪が、乱れていた。
「あれ? ルイ。おまえも見送り? よかったな。間に合って」
 長官がまどかたちの間を縫って、彼に朗らかに声をかけた。
 やっと息を整えたルイは、大股で部屋に入って来た。
「なに言ってるんだ。オレの授業とっくに始まってんのに金目と吉野が揃っていないから『迎えに』来たんだよ。『見送り』じゃない」
 ルイは眉間の皺をさらに深め、長官を睨んだ。
「そりゃ、バレるわな。勘が少しよければ。なんで最後にフォローしとかないんだよ」
 吉野が溜め息混じりに言った。
(肝心なところで……)
 まどかは自分の詰めの甘さを呪った。仮病メールでも出しておけばよかった。本当に、うっかりしていた。
 でも、彼は来た。
 もしこれが「サイン」なら、なんてわかり易いサインなのだろう。
 まどかはルイから目が離せなかった。
(どうしよう、どうしよう)
 とくとくと、鼓動が速くなる。
「ルイ、彼らは今から地球に帰るんだ。おまえも餞別の言葉があるなら、どうぞ?」
 長官はにっこり微笑む。
「聞いてねえ」
 ドスを効かせた声で言い、ルイはまどかを睨んだ。その殺気の前に、まどかは何も言えずにただ、立ち尽くしていた。
「言ってないし。ねえ?」
 長官は片手を上げ、怒りで全身を強張らせ、今にも噛み付きそうなルイを制する。
「とにかく、そういうことなんだ。この五人はあと三十分もしたら地球に立っているんだ。フーアの完璧な式のおかげでね」
 まどかたちは息を潜めて二人のやり取りを見ていた。誰も口をきかなかった。少しの沈黙があり、そしてルイが口を開いた。
「オレも行く」
 部屋は静かではあったが、その一瞬だけ、時間が止まった気さえした。その場の全員が、ルイを見ていた。
(今、この人、なんて……)
 まどかは、彼をまじまじと見つめた。
 どうやら、冗談を言っているような顔ではなかった。
「フーア、何とかなるだろう。オレもこいつらと地球へ行く」
 ルイはフーアに視線を投げると、彼は弱々しく頭を振った。
「あと二十分足らずでは無理だ。いくらイルマ君の頼みでもな」
「だいたい、なんで急に地球に行きたいなんて言うんだ、ルイ? 今さら里帰り?」
 腑に落ちない、と長官は腕組みし、首を傾げた。
「まどかが行くなら、オレも行く」
 不覚にも、彼の言葉が心をぎゅっと鷲掴んだ。普段なら見せない、ふて腐れた表情で答える教官が少年のようだ。可愛いとさえ思った。
「な、なんで私と一緒に来るんですか」
 考えるよりも先に言葉が出た。とにかく、それが訊きたかった。
 彼はまどかと距離を詰めた。それでも、まだ彼が遠かった。
「まどかと一緒にいたいから」
「どうして」
 彼はやや顔を傾けて、天井を見上げた。そしてすぐにまどかに向く。
「一緒にいたいっていう以外の理由がなきゃ、ダメなのか?」
(ううん。ダメじゃない)
「フーア、ごめんなさい。やっぱり私ここに残ります……長官……」
 フーアは長官に目を走らせ、エステノレス長官は頷いた。
「ごめん。私ここに残りたい」
 仲間の顔を見回す。
 みちると山口は、顔を見合わせた。
「いいんじゃない? そういう約束だったでしょ。プランBでも行けるっていう」
 みちるは苦笑する。
「オレはいいけど、有吉どうなのよ」
 吉野は、有吉の横顔を伺うように見た。
「いいわけないじゃん。オレの中には『プランB』なんてあり得ない」
 有吉は吐き捨てた。
「有吉……」
 山口は彼の肩に手をかけた。有吉はそれを払うと、ルイを睨む。
「今さらのこのこ来るなんて遅いんだよ。さんざん金目で遊びやがって、それで今頃一緒にいたいとか、おまえ、寝言も大概にしろよ」
 ルイは一瞬顔をしかめたが、腰に手を当て、高慢に顎を上げた。
「十年以上指をくわえて見ていた童貞が言うセリフにしては立派だな。指もふやけて来ただろう。悪いが、今までモノに出来なかったってことは、これからもおまえはまどかとはダメなんだよ」
「呼び捨てするな。まさか、最後の最後で、おまえみたいな腹黒策士にダメ出しされるなんて思っても見なかったよ。そんなに大事なら、こいつを鎖で縛りつけとけっつうの」
「いや、そうしようと思ったんだが……」
ーーは?
 全員の視線が真顔のルイに、それからまどかに集中した。
(ちょ……困る……)
 有吉はルイの言葉を払うように、言葉を重ねた。
「オレは断言できるぞ。おまえみたいに、いいとこ取り、美味い汁だけ吸って喜んでいるような男が、金目を幸せになんか出来ないってな。金目はまだ夢見ているようだけど、それはオレがいつもこいつを支えてたから見れた夢だ。オレがいなくなればこいつは地獄を見るよ。だから、金目はオレと帰る。オレが今決めた」
「あぁ、さすがに長いこと辛酸をなめてたヤツの言うことは違うな。大した自信だよ。おまえ墓穴を掘ったな。まどかはオレと夢を見た。最低でもオレはあいつに夢を見せることが出来る。おまえじゃ出来ないことをな、オレは出来るんだよ。その夢だって覚めなければいい話だ。いいか、おまえとはまどかは夢さえ見れない。さっさと白旗掲げて国へ帰れ。おまえ程の男だ。待ってる女もいないこともないだろう」
 一部の隙も与えないルイ。それでも堂々と真っ向から挑む有吉。
 研究室の空気は二人を中心に、ぴんと張りつめていた。
「金目がここに残って何のメリットがあるんだよ。まったく違う環境で。こいつをどうするつもりだよ、飽きたらポイ捨てできるおもちゃじゃねえんだぞ。おまえ、死ぬまで責任持てるのかよ」
(有吉……私、たとえ一人でも……ここで……)
 有吉の腕に手をかけたまどかを、彼はその強い眼力だけで制した。
『おまえは黙ってろ』。
 そして少しの間、男二人はお互い睨み合っていた。
 研究室にいるクルーも、ミケシュも、長官もまどかたちも、ただ、ただ二人を交互に見やるだけだ。おもむろに、ルイがまどかに顔を向けた。
「オレは……まどかのためならどんなことでもする。まどかが幸せになるのに、オレのようなものでも役に立つなら、喜んで全てを投げ出そう」
 静かに、言った。
 心が震えるって、このことだろうか。
 好きな男に、目の前で、その揺るぎない瞳で見つめられながらこんなセリフを言われて感動しないわけが無い。
 たとえそれが演技ウソだとしても。
「……だってさ、よかったな」
「え?」
 有吉を見ると、彼は少し影のある微笑を浮かべ、まどかを見下ろしていた。
「ここにいる、全員が証人だからな」
「オレには証人なんて必要ないけどな、それでおまえの気が済むなら」
 ルイは肩をすくめた。
「気なんか済まないけど、最低限だぜ、おまえの言ったことは」
 有吉はまどかに向き直り、腕を伸ばして抱き寄せた。
 咄嗟のことにまどかは驚いたが、大人しく彼の胸に収まっていた。彼が耳元で囁く。
「オレを振ったこと、後悔するからな。『やっぱり、有吉が良かった』なんて言った日にゃ、オレ、おまえを連れ戻しに来るからそのつもりでいろよ」
「聞こえるかな……」
 まどかは彼の背に回した手に力を込めた。
「聞こえるよ。オレ、地獄耳だから」
 彼もそれに応えるように、さらにぎゅっと抱きしめた。
ーーパンパン
 乾いた音に、我に返る。
「えーー、なかなか楽しいものを見せていただいたところ悪いんだけどね、次のプログラムの時間が押して……」
 長官が手を叩きながら近づいて来た。そして、有吉にそっと耳打ちした。
「有吉、ほんとに帰ってしまうのかい? なかなか君は面白い男なんだけどね、そして君が残ったらもっと面白くなりそうなんだけどね」
 有吉は一瞬目を見開いたが、すぐに破顔した。
「いや、オレ、今残ったら確実にあいつに殺されますんで」
 二人は悪ガキのようにくすくすと笑いながら、ルイを盗み見た。
 そこには、先ほどの落ち着きはどこへやら、ルイはすごい形相で立っている。
「ちょっと抱擁が長過ぎるんじゃないか?」
 彼は歯の間から言葉を押し出した。
「お前さんたち、悪いが本当に時間が無いんだよ。早くそこのプレートに乗ってくれ」
 一瞬で今までの緊張が緩んだが、フーアはまた別の意味で緊張した声を出した。
 そして先ほどのジルケの持っていたペンライトを一人一人に押しあてると、自分の席へ、戻って行った。
 何の変哲も無い、半径二メートルほどの銀盤。銀盤の縁を、五角形を象るように五本の細い円柱が人の背丈程に立っている。
 四人はプレートの上に立った。
 ここまでくると、まどかは彼らを見守ることしか出来なかった。
 全員があの、石が埋まっているシルバーのペンダントを首に掛けている。
 有吉が、まどかの分も首に掛けた。彼はまどかに一瞬視線を走らせてから手の中に隠すようにして、それに唇を押し付けた。
 その仕草に、まどかの中で罪悪感がうずいた。
 フーアは有吉の前に立つと、手に小瓶を握らせた。
「君が持っていた方が安定しそうなんでな。金目君の代わりになるものだよ」
 有吉は小瓶をそっと手で包んだ。そして、まどかを見据えた。それは今まで見たことの無い、毅然とした眼差しだった。
 最後に一人一人抱擁と挨拶を交わした。
ーーまたね。元気でね。嫌になったら帰って来ればいいじゃない。フーアと長官をこき使ってさ。そっちもたまには遊びに来てね。
 冗談と本気が半々の、寂しさを茶化すような彼ら流の挨拶だった。
 フーアとクルーたちが掛け声をかけ始めた。イリア・テリオの言葉ではないようだ。まどかには全くわからない。
「専門用語なのよ。宇宙士や計算士が使う」
 いつの間にか隣に来ていたミケシュが教えてくれた。ミケシュもプレートの上の友人たちに軽く手を振った。
 四人は少し緊張した面持ちだ。
 カウントダウンが始まる。
 どくんどくんと、耳のすぐ内側で心臓の鼓動を聞いていた。思わずミケシュの手を握った。彼女も強く握り返してくれる。 
「ーーゼロ」
 プレートの上に乗っていた四人の体は、だんだん濃くなる光の柱に包まれ、やがて、姿を消した。
 今まで目の前に存在していたものが、一瞬にして消えるなんて信じられなかった。
 まどかは計器の前で微動だにしないフーアを見て、そしてもう一度銀盤に目を移した。
 もしかしたら、まだ仲間が笑ってそこに立っているような気がしたからだ。
 それでも銀盤の上には何も無く、冷たく光っているだけだった。
「エステノレス指令長官、無事終了です」
 静かに、低い声でフーアが言った。
「ごくろうさん」
 長官もいつになく神妙な顔で答える。部屋の空気がふっといつものそれに戻った。
 小さな興奮の波はまだ残っていたが、クルーも成功した悦びの言葉を掛け合っていた。
(行ってしまった………)
 ミケシュが握っていた手を解き、背中を優しくさすってくれた。
「大丈夫?」
「あ……大丈夫です」
 無理に笑おうとしたが、出来なかった。
 ミケシュの視線がまどかの顔から上へ移る。
 そして彼女は再びまどかの顔を見て、柔らかく笑うと静かに離れて行った。
 後ろに人の気配を感じ、振り返ったその瞬間、まどかは抱きしめられていた。
(この香りと、温もり。私の大好きな……)
「大丈夫だから。あいつらなら」
 胸から声が響いた。体の緊張が一気に弛む。そして、彼に体を委ねる。
「うん………」
 しばらくそのままで、彼の鼓動を聞いていた。
 あのね、と長官の声が割って入った。
「悪いけどね、そういうことは他でやってもらえるかな。こんなところで当てられてもね」
 はっと顔を上げると、長官が腰に手を当て、呆れ顔で二人を見ていた。
「うるせえ、少しは勝者の美酒に酔わせろ」
 ルイはさらに腕に力を込めた。だが、まどかは場違いな行動に、さすがに慌てた。
「そういえば、ルイ、授業どうしたの?」
「自習だ。課題出しておいた」
「いいのかねえ。私情で勝手に自習にしちゃう教官なんて。ていうか、それ上司の前で言うか……減俸ものだぞ」
 ルイの言葉を聞いたエステノレス長官は呆れたように大きく溜め息をつくと、隣に立っていたミケシュに手を差し出す。
「おい、おまえ賭けに負けたんだから金よこせ」
 ミケシュはちっ、と舌打ちをし、ジャケットのポケットを探る。
「あとちょっとだったんですけどねえ。とんだ邪魔が入りましたよ」
 彼女は鋭くルイを睨む。ルイはその視線を優雅に無視した。
「こんな長官と管理部長のバーシスの未来の方が、よっぽど危ういだろうよ」
「先を的確に読めるボスで光栄、くらいに言えないかな」
 長官はミケシュから受け取った札を、ローブの下に仕舞いながら高飛車に言う。
「はいはい、どうやらオレはここでは本当に邪魔者らしいな。行くぞ、まどか」
「え……どこに……」
 急に手を取られ、引っ張られる。彼は何も言わずに長官とミケシュの前を過ぎ、部屋を出ようとする。
「ルイ!」
 まさに今ドアを通り抜けるとき、長官の声が引き止めた。ルイが肩越しに、エステノレス長官を見る。
「おまえ、今度こそ鎖でつないでおけよ」
 彼はルイにウィンクをする。それに口の端だけ上げてルイは応えた。
「おまえに言われなくても、そのつもりだよ」
 そして、その言葉に動揺しているまどかを楽しそうに見下ろし、「行くぞ」と手をぎゅっと握った。

 メタリックブルーの薄暗い廊下。
ーーバーシスに初めて来たときも、ここを通った。あの時は、仲間と鳳乱と獅子王と歩いた。
 今は私と、ルイ。
 それがなにを意味するのか、まだ分からなかった。でも、今すぐに分からなくてもいい。
 いずれ分かってくることなのだから。そういうものじゃない? ーー
 すぐにそんな風に考えられる自分にまどかは少し、驚いた。昔は、違った。答えが出ないと焦り、もがいて、前向きに切り替えられなかった。
 自分は、変わった。
 ルイは無言でぐんぐん歩いている。まどかは彼に引かれながら、小走りで付いて行く。
 屋上への出口、天井が四角く切り抜かれた窓から光が注ぎ込んでいる。
 舞台を照らすライトのように、続く階段をぼうっと浮かび上がらせている。
 この階段は狭い。外から襲撃にあった時、敵が中に一気に雪崩れ込めないためだ。
 ゆっくり一段一段上る。その頃にはまどかの息は上がっていた。
 ルイがピースを使ってルーフを開ける。
 森の香りを含んだ乾いた風が入り込み、前髪を揺らした。
 ルイと並んで屋上に立つ。
 目の前に広がる森と、白々とした水色の空。その向こうのアカルディルを望む。 
「私のこれからの楽園、かな……」
 まどかは口の中で呟いた。
「失楽園、じゃねーの?」
 ひどー……い、と最後まで言い終わらないうちに、強く抱きしめられる。
「酷いのは、どっちだよ」
「え……と」
「なんで黙って帰るんだよ。シャムに口止めまでして。そんなにオレの顔見るのが嫌だった? じゃあ、昨日のあれは何だったんだよ……。まさに天国から地獄じゃねーか。オレ、今気が狂いそうなくらいに混乱してるんだけど……」
 私は彼の背に手を回す。私がここに居ることと、ルイが居ることを実感したくて。
「顔を見たら、帰れなくなる。そんな気がしたから……せっかくの決心が揺らぐって思ったの。現に、帰れなかったでしょう……昨日のは……せめてルイを全部刻み付けたかったから……」
 彼はそっと身を離した。
 じっと見つめられる。その瞳は穏やかで、少し震えていた。
 彼はまどかの手を取ってゆっくり歩き出した。
 屋上の南側の一辺に、五本の黒々とした立派な円柱の柱が等間隔で並び、空を支えていた。長く、濃い影を落としている。
 彼は一番手前の柱の横に立つと、それらを見上げた。
「これ、ゼルペンスにもともとあったものなんだけど、バーシスとの信頼の印にかなり先代の長がここに進呈したんだ。柱の一つ一つに彫ってある文字は古い言葉でそれぞれ『木、火、土、金、水』を意味するみたいだよ」
 まどかも彼の傍にそびえる柱を見上げた。
 彼の頭の上くらいに、うっすらと何かが彫られているのがわかる。埃が白く被っている。
「あ、そういえば私、あそこで土の神の守護を受けたわ」
「そう……ちょっと待って」
 彼は一本一本柱の文字を確認した。真ん中の柱の前で止まると、おいで、と手招きをした。彼は柱に手を添える。
「これが『土』の柱だ……『土の性質を持つもの、いかなる場所でも自分の地とすれば、滋養して力を増して永遠に栄える』といったな。人それぞれ持つエレメントは違う。合う地も違う。でも、『土』は、自分が生きる場所を決めれば、自分がその世界の中心となって繁栄し、新しいものを生み出せるんだ。おまえなら、大丈夫だ。ここでも十分やっていけるよ」
 まるで人ごとのような口調だ。
「そ、そうよ。大丈夫よ。私なら、一人でも」
 まどかは寂しくなって、でもそれを悟られまいと虚勢を張った。
 彼はいささかむっとしたようで、揺れる前髪の隙間からまどかを直視した。
「可愛くないな、おまえ」
 彼の不満げな顔があまりにも露骨だったので、意外に思いつつも、まどかは折れた。
「……ルイが一緒なら、もっと心強いのだけど……」
 彼の目元が薄く朱に染まる。
「か、可愛いこというじゃん、おまえ」
 そして、一呼吸置いて継いだ。
「ごめんな、結局オレが引き止めることになっただろ。おまえがせっかく帰る決心をしたのに」
「ごめんって……」
 まどかは顔をしかめた。急に不安に襲われる。嫌な予感がした。
「ここに残るきっかけが欲しい、おまえがそう思っているのは分かってたよ。だから、なおさら『帰るな』って言えなかった」
(もしかして、残ったのは迷惑だったの? それならどうして……?)
 まどかは続きを聞くのが怖くて、後ずさりをした。背中に柱が当たった。
「オレの母親は、オヤジが帰るなって言ったから、ここに残った。彼女なりに覚悟は決めたみたいだけど。でもな、やっぱり辛いこともあるんだ。一度は決心したつもりでも、違う地で生きていればいろいろなことがある。辛いこともいいことも。その辛いことにぶつかった時、たとえ愛するものが側にいて手を差し伸べても、助けにならない場合もあるんだ。自分で乗り越えなければ行けない場合が。オレはその状態のときの母親の葛藤を子供ながらにずっと見て来たから。まあ、それでも子供のためなら、って結構自分を支えていた部分は大きかったみたいだけど……でも結局、死に際にぽつりとオレに言ったんだ。『帰りたい』ってさ。オレの前で言うつもりは無かったと思うよ。でも、ふと、本音が出たんだろうな……」
(そうだったの……)
 まどかは、彼の言葉の重みに胸が高鳴るのを感じた。
 彼は自分の感情だけで、まどかをどうにかしようと思ってはいなかった。
 彼は、母親がまどかの境遇と似ていたからこそ、まどか自身で答えを出すことを望んだのだ。
 それは責任回避とかそういう意味ではなくて。好きとか、愛してるとかそんな儚くももろい感情に陶酔し、動かされるのではなくて。
「だから突き放そうとすれば、おまえは散々、『好き、好き』なんて声上げるし……あれでかなり惑わされたけど。……あとは……おまえが他の男の腕の中にいるって考えただけで、頭に血が上る……狂いそうになるんだよ」
(結局は雄の本能で動いた、ってわけ……?)
 二つの相対する思いの板挟みになっていた彼が、結局は激情に駆られて、本能に背中を押されて引き止めに来た。
 そんな彼を、なおさら愛おしく感じた。
 小細工をして、自分の感情から目を背け、誤摩化そうとしていた自分よりもよっぽど、正直だ。
 普段は自分の感情を決して口にすることがなかったルイが本音を言ったことに、嬉しくもあったが、戸惑いを隠せない。
 ルイは少しはにかみ、眼鏡を外して白衣コートのポケットに収める。それから眩しそうに目を細めた。
「そのワンピースは今のおまえにはちょっと可愛すぎるな。おまえ、随分変わったよ。初めておまえに会った時から比べたら、ずっと、光が増してきた。……だから、オレは一気に魅かれたのかもしれない」
「三年以上も経てば、嫌でも大人っぽくなるわ」
「大人とか子供とかそういう曖昧な尺度じゃない。三年だろうが、何年経っても変わらないヤツは変わらない。おまえは本当に変わったよ。オレがずっと見ていたんだから、間違いない」
 ルイはゆっくりと近づく。
 目の前に立つ彼を見上げる。何かを伝えたかったが、空を背負った彼が、あまりにも清々しくて言葉が出ない。
 いや、今のこの思いは言葉だけでは十分に伝わらない。
ーーそれなら……。
 彼も同じ気持ちだったと思う。
 ルイは両手でまどかの顔をそっと包む。栗色の瞳を間近で捕らえ、まどかはそっと瞼を閉じた。
「受け止めて欲しい」
 彼の言葉が唇の上で震え、そしてそれが覆われた。
(私も……)
 まどかの答えは飲み込まれ、代わりに柔らかな舌が割って入ってきた。それは優しく絡まり、頬の内側を撫でたりと口内を戯れるように動いた。
 お互いがお互いの存在を確かめ合うように。
 二人の呼吸が熱く混じり合う頃に、彼はやっとまどかを開放した。
 そしてまどかは胸に抱かれる。息が止まりそうになるくらい。
「もっと、ちゃんと言えばよかったんだな。もう黙って行くなよ……どこにも……オレの側にいろよ……オレに出来ることは、どんなことでもするから」  
「……うん」
 彼の鼓動を聞きながら、背に手を回す。
「この間……鳳乱にお別れを言いに行ったの……でも、途中で気分が悪くなって、会いに行けなかった。今度は、一緒に行ってくれる?」
「いいよ、一緒に行こう」
「Dr.リウが、顔を見せに来なさい、って言っていたわ」
「そうだな。また挨拶しにいかないとな」
 彼がすべて受け入れてくれることに、だんだん安堵を覚える。
 自分を受け入れてくれる実感をもっともっと感じたくて、まどかは我が侭になっていく。
「じゃあ………また犬に、なってくれる?」
 彼が両肩に手を置いたままガバッと身を離した。
「もしかして……気に入った?」
「うん、かなり……やっぱり、だめ?」
 まどかは少し首を傾げて彼を見る。少しずるいかな、とも思ったが、たぶんルイはこういうのに、弱い。
 案の定、彼は少し頬を染めて、まどかの視線を避けた。
 だが、すぐに耳元に口を寄せると、低い声で囁いた。
「わん……」
 肌がゾクリと粟立つ。今度はまどかが赤くなる番だった。 
「なんだかなぁ、おまえの姿が見えなくて探しまわったり、挙げ句、有吉なんぞに煽られたり……けっこうオレ、感情コントロールするの得意な方だと思ってたんだけど」
「今、私のお尻を撫でながらそんなこと言う人が?」
 眉を軽く寄せて、彼を睨んだ。
 おお、いつの間に、と彼は大げさに身を引いた。
 再び手を取り、戻り始める。
(彼は、いつだって自分に忠実な人だ)
 彼の体温を感じながら、明らかに上機嫌な横顔を見上げる。
「迎えに来てくれて、ありがとう」
「よろこんで」
 彼は口の端を上げながら、得意の、色気たっぷりな流し目を向ける。
「実は、まどかが隣に居ることがまだ信じられない」
「疑り深いのね」
ーー夢を見てるのは、オレの方かも。
 彼は楽しそうに言った。
 階段を下りかけてまどかはふと振り返り、空を仰いだ。
 さっきよりもぐっと色の濃くなったコバルトブルーの空を透かして、丸いルイーゼが薄く浮かんでいた。
「どうした?」
 足を止めたまどかに、彼は下から呼びかけた。
「ううん、なんでもない」
 ルイはまどかに手を差し伸べている。
 彼の口が「おいで」と動いた。
 まどかは彼の手に自分のを重ねた。彼がきゅっとそれを握る。ごく自然に、何度もそうして来たかのように。
 そして、それはこれからもきっと。

【完】
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