ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 23-1

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 今夜は、イルマ教官のところへ行く。
 それが意味するところは、ーーもうここには居られない。
 まどかは図書館から獅子王の部屋へ戻ると、すぐに寝室に行きクロゼットからバッグを出して自分のものを詰め始めた。
 寝室は薄暗かったが不自由な暗さではなかったので、明かりはつけなかった。
 明かりを点けると、獅子王との思い出が浮き上がって来そうで怖かった。ここで彼と過ごした時間は、複雑ではあったけれど、居心地が良かったのも確かだった。
 後日寮へ運ぶつもりで荷物をまとめ始めた。手を動かしながら、獅子王に何と話せばいいかそればかり考えていた。
 しかし、何を言っても言い訳に聞こえるのではないか。
 いきなりイルマ・ルイの名前を出したら彼はどんな顔をするだろう。
 騙されたと思うだろうか。今まで彼を利用した作為に憤慨し、罵るだろうか、否、彼にはそれが出来る筈も無い。
 そんな自分の立場に気がつき、憤懣ふんまんし、固い拳を震わせるだろうか。

「何してるの」
 声に振り向くと、寝室のドアに獅子王が腕を組んで寄りかかっていた。
「あ……」
 彼の瞳は何も語らず、ただ静かにまどかを見下ろしていた。
「あの……これは、」
「ちょっと、話したいんだけど、いいかな」
 まどかの言葉を遮り、彼は言った。近づき、手から服をとると、バッグの上に無造作に置いた。手を引いて彼はベッドの縁に腰掛ける。
 まどかも、彼に体を向けて隣に座った。
 彼は何も言わずに、まどかを見つめていた。言葉を選んでいるようにも見えた。
「……おまえがザンク・イネアで言ったこと、覚えているか? 『傷の舐め合いをして慰みにする』ってやつ。オレはおまえの慰みになった? 少しは傷が癒えたか? オレがおまえを抱かなかったのは……抱けなかったのは、ただ……ただ、これ以上おまえを傷つけたくなかったからだ。おまえから『鳳乱の匂いがする』っていう言葉を本当に信じた? そんなの嘘に決まってるだろ。おまえに触れるだけで罪の意識を感じた。……オレは取り返しのつかないことをした。そんなオレをおまえが許すなんて都合のいいことは考えていない。だから、オレはおまえのために何が出来るか、それだけを考えた。もしくは、無理矢理にでも抱いて、本当におまえの身も心もぼろぼろにして、ずっとオレの側に縛り付けておこうかとも。……結局は何もせずに見ているだけだったけど」
 弱い男なんだ、と彼は弱々しい笑みを浮かべた。
「『済まない』と謝って少しでもおまえの気が済むなら何度でも謝ろうと思った。でも、そんな言葉を使ったところで、おまえを、自分も誤摩化している気がした。……今になれば、もっと早くに謝っておけばと後悔している。そうしたら、オレたちの間はもっと違っていたかもしれない。……やっぱり、言葉にするって大事なんだな。……なあ、こんなオレに嫌気がさした? オレがこれからどんな努力をしても無理なのか? もう用が済めば捨てて、オレの元から去るのか?」
 彼は苦しそうに顔を歪めると、項垂れた頭を両手で抱えた。
「す、捨てるなんてそんな……獅子王は、私についてここへ帰って来なくてもよかったのよ? 私の下らない陰謀くらい、お見通しだったんでしょ」
「それでも期待はあった、って言ったら笑うか?」
 顔を上げた彼の琥珀色の瞳は、色を濃くしていた。
 ーー笑えない。この企みだって、笑える程幼稚なものではなかったか。
 手を伸ばして、彼の指先に触れた。
「さっき、ルイがオレのところに来た。おまえたちが陰で会っているのは薄々感じていた。ルイがおまえに何を吹き込んだか知らないが、あいつは……とんだ策士だぜ?」
(……やっぱり、それもわかっていたんだ)
 まどかは唇を噛んだ。
「策士って、そんな……」
「あいつは他人の女しか欲しがらないんだ。昔からそうだ。ガッコに行ってる時も自分の友達から彼女を横取り、なんてことはよくあった。盗られた本人が気がつかないうちに、いつの間にか女があいつの横にいるんだ。責められれば『好きとかそういうわけじゃないけど……』って悪びれもせずに言う。聞き飽きたヤツの常套句だ」
 確かに、その言葉に聞き覚えはあった。
 彼は続けた。
「オレはバーシスを辞める。もともと鳳乱の件で、追放された身だ。おまえの為に戻って来たようなものの、用無しになった今、正直おまえの側にいるのが辛い。おまえといて鳳乱を思いださないときは無いんだよ。鳳乱のことだけじゃない。全てが限界なんだよ、オレには。……オレ、これからシャムと話を付けて今夜にでも船に乗ってイリア・テリオを出る」
「そんな、辞めるなんて。それに、どこに行くの」
 彼は苦しそうに眉を寄せた。まどかの視線を捕らえたまま静かに言った。
「おまえが地球に帰るまで、今のようにおまえの側で罪を償うことを許してくれるなら、そしてオレを受け入れる可能性があると言うのであれば、ここに残る」
 まどかは小さく息を飲んだ。
「まどかは……地球に帰るんだろ? もう式はほとんど完成してるってシャムが言ってたぜ。……それ、ルイには話したのか?」
「……まだ。っていうか、話さなくてもいいと思うの。多分イルマ教官には、私が帰ろうが残ろうが重要じゃないと思う。単に私の『女』に興味があるのよ。それだけよ」
「………おまえ、それでいいのか? それなのにあいつに付いていくのか?」
「だって、私だってあの人の……彼自身に、興味があるもの」
「おま、……おまえ……意外だな。でも、なんだか不憫だ。オレならおまえにそんなことは言わせないし、そんな思いをさせない。って、オレなんかが言える身分じゃないけどな」
 彼は恥じるように俯いた。
「あのさ、おまえに……キスしてもいいか? オレが辞めるか辞めないか、その答えはそれで自然に出ると思う。おまえの気持ちも確かめたい。別れのキスってことでもいい」
 まどかは戸惑い、そして気がついた。
 獅子王と暮らしたのは半年くらいだったが、キスをした数は両手にも満たない。それも、その全てがまどかからだった。
 機嫌が良い時だったり、または鳳乱を思い起こしては怒りを覚え、挑発のためのキスを仕掛けたり。
 獅子王がまどかにキスすることがあっても、それは頬や額、珍しくて肩に唇で触れる程度。
 だから、改めて聞かれると頬に血が上った。ーー別れのキス……。その言葉が胸の中で疼いた。
 彼の指が頬をゆっくり上下している。琥珀の瞳の奥に淡い光が揺れている。
「いい……?」
 まどかは目を伏せてやっと「……うん」と一言漏らした。
 彼は手をまどかの髪の間に滑らせると、頭を軽く支えて、そっとくちづけた。
 何度か啄んでいた唇が、ゆっくり押し付けられる。瞼を閉じ、まどかは控えめに口を開く。
 様子を伺うように相手の舌が入り込む。
 昔、ザンク・イネアでかわしたそれの強引さはまるで無かった。あのキスが随分昔のことのように思えた。
 まどかはそんな獅子王が少し可哀想になり、勇気づけるように彼の舌をすくい取る。
 彼は顔の角度を変えながら、深くそれを絡ませ、じっくりと味わい始めた。
「ん……」
 舌の裏をくすぐられる。弱いところだ。たちまち体の力が抜ける。

 ーー金目?

 イルマ教官の声が聞こえた気がした。それは、少しでも後ろめたく思っているからか。
 獅子王は軽く舌に歯を立てた。そしてすぐに謝るように、ぬるりと舌をその部分に擦り付ける。ぴちゃ、と小さな水音が立つ。
「金目?」
 さっきよりも近くで声がした。空耳なんかじゃない。
 獅子王の、頭を支えている手に力がこもる。
「なにやってるんだよ」
 声がはっきりと聞こえた瞬間、まどかは咄嗟に腕に力を入れて、獅子王の胸を突き放す。振り向くと寝室の入り口に、イルマ・ルイが立っていた。
 極力、怒りを押し殺しているように顔を歪めて、立っていた。
(ピースも無しで……どうして……?)
「何って、ただのお別れのキスだよ」
 獅子王は、呆然と教官を見ているまどかの頬にもう一度音を立ててキスをした。
 まどかは我に返った。獅子王は立ち上がり、イルマ教官に歩み寄る。
「無理矢理なんかじゃないぜ。本人に聞いてみてもいい」
「興味ない。オレはこいつを迎えに来ただけだ」
 二人の長身の男は、胸を付き合わせるようにして睨み合っていたが、教官はすっ、と獅子王の視線を避け、まどかに近づくと有無を言わさぬ鋭い眼差しで見下ろした。
「行くぞ」
 まどかは、背徳な行為を見つかったかのようなみじめな気持ちで、のろのろと立ち上がると、先に立つ彼の背中に付いていった。
「あぁ、コレ。おまえに返しておく。オレにはもう必要ないから」
 教官がピースを獅子王の目の前にぶら下げた。
(あ……獅子王が、渡したの)
 獅子王はまどかと目を合わせようとしなかった。 
「まどか……」
 獅子王がすれ違い際にまどかの名を呼んだ。振り向くと、彼は口だけ動かした。

ーーさよなら。

 その言葉は鳳乱に対するものか、まどかに向けたものか。その言葉を振り払うようにまどか軽く頭を振った。
 そして、教官の後を追った。

 イルマ教官は宵の帳が下りた街の中、車を走らせる。
「あんな風に獅子を甘やかす必要なんて無いだろ。そう言う態度があいつをダメにするんだよ」
 不快指数120%丸出しにして、さっきから一度もまどかを見ようとしない。
「甘やかすなんて……」
「じゃあ、さっきのあれはなんだったんだ?」
「お別れの挨拶だって言うから……」
「お別れなら誰とでもあんなことするのかよ」
 どうして教官はキスに、ここまでこだわるのだろう。自分がまどかにすることの方が、もっと度が過ぎているではないか。
 彼がそこに執拗に絡む意図が全く解せずに、まどかは黙ってしまう。
 何を言っても全てまどかが悪いと思っているらしい。
 否定する気も失せてしまう。ここは、波風を立てない方が懸命だろう。
 相手はそんなまどかをじろりと睨んで、苛立たしげに前髪をかき上げると、ぶすっと黙り込んでしまった。
 しばらくして、彼は低く呟く。
「……あいつに少しでも同情したオレがバカだったよ。別れの挨拶なんかさせる必要なんかなかったんだ」
「キスくらいでそんな……」
 突然、彼は何も言わずに急にスピードを上げた。
(あれ……ここ……)
 車は見慣れた角を左に曲がる。少し走ると、Dr.リウの診療所が入っている建物だ。
 車はその前で停まった。
「教官、ここは……」
「オレのうち。オヤジのものなんだけど、管理はフローナに任せてる。四階……日本じゃ五階か。その最上階がオレの部屋。フローナから聞いてなかった?」
「いえ、全く」
 ま、どーでもいいことだけどな。と、隣に並んだまどかの手を取った。痛いくらいに握られ、そのまま引っ張られるようにして中に入る。
 入り口の金の猫が挨拶をする。
ーーおや、今夜は珍しい組み合わせで。
「そ、そうね」
 素通りも悪いと思い、まどかは答えた。
「律儀にいちいち答えなくてもいいんだよ」
 彼は吐き捨てるように言う。
 エレベーターでも、カエルが上機嫌で二人を迎えた。
ーーまどかさんは、Dr.リウのところに忘れ物でも?
「オレの客だよ」
 カエルの上機嫌と相異なって、憮然と彼は答えた。
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