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しおりを挟む一つの傘に二人で入って歩くのは難しい。
普段女の子と行動をしない俺には、女の子の歩く速度やちょうどいい距離感というのが分からず、かなりぎこちない動きになっているが、藤谷さんは気にしないでいてくれているようだ。
「大丈夫?左側、濡れてない?」
「大丈夫だよ。ごめんね、気を遣わせて」
「いや、全っ然迷惑じゃないよ。俺が勝手に気を遣っただけだから」
むしろありがとうございますと言いたくなったが、気持ち悪がられそうだからやめておいた。
我ながら英断だと想う。
いつも遠くから眺めていただけの藤谷さんがすぐ隣にいる。
彼女の存在を意識すると、鼓動が高鳴る。
「教育実習どうだった?」
沈黙が気まずかったため、俺から話題を振った。
藤谷さんは前を向いたまま答えてくれた。
「うん、思ったより大変だったけど、生徒がみんないい子で、なんとか終わらせられたよ」
「そうなんだ。みんな、すごいなー。俺は、全然だめだった。塾の講師やってたから、少しは自信があったんだけど、やっぱり塾と違って、学力とか、意欲とか、全然違う子たちを一斉に教えるのって、難しんだなって」
「あ、それ分かる。物わかりのいい子に合わせると、分からない子が困っちゃうし、逆に理解するのに時間がかかる子に合わせると、分かる子は退屈しちゃうんだよね」
「そう、その部分、よく注意された」
「でも、橘君が行ったのは、たしか付属だったよね?生徒、みんな頭がいいから大変だったんじゃない?学力のある子は、物わかりの良い分、大人びているみたいだし」
「確かにみんな学力がすごかったけど、うまくいかなかったのは確実に俺の力不足だったよ。確かに中には、教育実習生を馬鹿にしているような子もいて少し怖かったけど、授業を邪魔する子がいたわけじゃないし、授業後とか質問に来るんだけど、理解できているようで簡単なところが理解できてなかったりして、やっぱり中学生なんだなって思えて、かわいかったよ」
「そうだったんだー。橘君、生徒のこと、いろいろ見てたんだね。先生になる気になった?」
「うん、なりたいなって思える実習だった。藤谷さんは?」
「私は、考え中かな」
「そっか」
そこで話が途切れてしまった。
何か好印象な会話をして少しでも好感度を上げたい。
俺は、慌てて次の話題を探した。
今までの人生で一番必死になったかもしれない。
いや、二番目だ。一番必死だったのは小学校の頃父親と山の中をドライブしている最中に腹痛を我慢していた時だ。
あれは地獄だったな。
そんな事はどうでもいい。
話題だ話題。
「雨、やまないね」
良い話題がなかったため、仕方なく天気の話を振った。
「あたしは雨好きだからいいけど、殆どの人は困るよね」
藤谷さんは自嘲気味に笑った。
しかし雨が好きな事を悪い事だとは思っていないようで、目はキラキラと雨模様を捉えている。
「だって、余計な雑音とか、全部雨の音でかき消してくれるし、気温が低くなるから夜寝苦しくないし、何より、運動会が中止になるんだよ。すごくない?」
彼女は俺を見て目を見開いて言った。
自論に熱が入ったようだ。
真面目でふざけたことを言わない女の子だと思っていただけに、今の発言があの藤谷さんから発せられていると認識するのに少し時間がかかった。
「運動会嫌いだったの?」
「わたしが運動得意そうに見える?」
俺はどうこたえるのが正解なのか考えたが、結局分からず、「ああ」とか「え」とか発したあと、うん、とだけ言った。
失礼だったかもしれないが他に答えようがなかった。
「でしょう?だから、運動会が中止になるように、小学校六年間、ずっとお祈りしてたんだから!」
「お祈り?」
「雨が降りますようにって」
彼女は毎年雨乞いをしていたらしい。
小学校時代の彼女が天に祈りを一生懸命捧げている姿を想像して顔が綻んでしまった。
「でもそういう時に限って降らないんだよね」
「結局降らなかったの?」
「一回だけ。五年生の時降ったよ。嬉しすぎて雨の中駆け回っちゃって、風邪ひいちゃった」
その頃から雨の中駆け回るのが好きだったんだな。
彼女の過去を知る事ができて少し嬉しかった。
「藤谷さんも、はしゃいだりするんだね」
「そりゃあ、するよ。人間だもの」
「あ、いや、いつも落ち着いているから、あんまり感情的になったりしてるの、見たことなくて」
俺は笑顔の藤谷さんをあまり見たことがない。
だからこそ、あの日の出来事が、あの笑顔が眩しく思えたのだ。
いつも無表情で口元だけで笑っている藤谷さんが、興奮して呼吸を荒立たせているところなど想像できない。
今日ここで笑顔を見せてくれている事さえ夢のように現実味がないというのに。
藤谷さんはケラケラ笑った。いつものクールな様子とは違う一面がたくさん見られて幸せな気分だった。
「まあ、そうだよね。あんまり愛想はいい方じゃないから」
「でも、今は笑っているよ」
「だって、橘君が思っていたより親しみやすくて、面白くって」
俺は少し驚いた。
藤谷さんにとって俺は背景の一部くらいにしか思われていないと思っていたが、ちゃんと存在を意識してもらっていたのか。
誰だ?クラスメイトAなんて言ったやつは。俺か。
藤谷さんの笑顔は上品でいて明るいプルメリアの花のようだった。
大きな眼を細め、頬を自然に上げて、顔全体で微笑んでいる。
彼女の周りだけ晴れ間が差し込んでいるように見えた。
「ていうか、思っていたより親しみやすいって、俺のことどう思ってたの?」
藤谷さんが俺の事をどう思っているかは非常に気になるところだ。
かといってマジな顔で聞いて引かれても嫌なので、少し自虐気味に笑って聞いた。
「うーん、どうって言われると難しいけど、クールであまり感情のない人だと思ってた」
第一印象としてはそれはあながち間違っていないと思う。
俺はあまり社交的ではない。
小学校から人付き合いがうまい方ではなかった。
もちろん、身体を理由に休み時間に一人でいることが多かったことも一つの原因であるのは間違っていないだろうが、そもそも他人が自分のことをどのように見ているか、人一倍気にしてしまうところが一番の原因であると思う。
誰かと話した後は、酷いことを言ったのではないか、傷つけてしまったのではないか。
一緒に遊べば、迷惑をかけたのではないか、自分といてもつまらなかったのでないか、といろいろと悪い方向へ考えてしまう。
かといって、人間が嫌いなわけではないので、話しかけられれば嬉しい。
自分からアプローチすることが少ないので、相手から働きかけさえあれば、飼い主を見つけた犬のように喜んで応じる。
人付き合いに関しては異様なほど臆病なのである。
だから、周囲からみると人とあまり付き合わない冷たい人間だと思われてもおかしくはない。
そんな人間がよく教師になろうとしてるもんだ。
「でも橘君みたいな人が話しかけてきてくれて嬉しかったな。わたしに話しかけてくる人って、ちょっと変わった人が多いから、橘君みたいな人ってちょっと新鮮」
それは良い意味なのか悪い意味なのか気になるところだ。
前者だったらこの上ない喜びだが、後者だったら立ち直る事が出来ないくらい悲しい。
「新鮮?」
「うん。わたしに話しかけてくる男の子って、ちょっとわたしを見下している感じの人が多くてさ。お嬢様だからね、とか、世間知らずだねって感じで上から目線なんだよね」
人を見下したり蔑んだりすることで優位に立とうとする人間はいる。
特に女性を下に見て相対的に自分が上だと横柄にふるまう自尊心の塊のような男がいるのも事実である。
まあおそらく誰しもが人より上になりたいと心の底では思っているだろうが、それを表に出すか隠す事ができるかが人間としての器の違いになるのだろう。
そして、おそらく藤谷さんのような美人だけど声をかけづらそうな高根の花のような女の子には、『自分に話しかけられてなびかない女はいない』という自信を持った器が小皿程度の男しか話しかけないのかもしれないな、などと考えを巡らせる。
「意外だった。いろんな男に声かけられているのかと思った」
「それ、どういう意味?軽そうってこと?」
藤谷さんは半目になって俺を睨め付けた。
大きく開いている時はかわいらしいが、半目になるとミステリアスな雰囲気が強い。
「いや、そういうことじゃなくて、えーと、ああ。失礼だったね、ごめん」
「ふふっ。冗談だよ。橘君は面白いなー」
藤谷さんはまた笑った。
俺は恥ずかしさと自分のふがいなさに、苦笑した。
「あ、そこの右側の幼稚園までで大丈夫。うち、そこから角を曲がってすぐなんだ」
「そうなんだ。この辺なんだ」
もう着いてしまったのか。
藤谷さんと過ごした時間はあっという間だった。
もう少し話していたかったが、時計を見ると図書館を出てから二十分ほど経っている。
アルバイトの時間にギリギリ間に合うかどうかだ。
「ありがとう。橘君の家はどのあたりなの?」
「えっと、山形駅の方」
「そうなんだ。近いようで遠いね。ごめんね、付き合わせちゃって」
「ううん。言い出したのは俺だから」
「ありがとう、助かっちゃった。じゃあ、また学校でね」
「うん。また……」
藤谷さんは傘から出た。
ああ、幸せな時間が終わってしまった。
明日からは、またクラスメイトAに戻ってしまうのだろうか。
「あの、藤谷さん」
無意識に俺は藤谷さんの背中に声をかけていた。
藤谷さんはは振り返ってくれた。
雨のしずくが藤谷さんの綺麗な髪や華奢な肩を濡らしていく。
やばい。長く呼び止めるわけにはいかないのに何も考えてなかった。
「えーと、あの」
俺が言いよどんでいると、藤谷さんはにっこりと笑った。
「また、傘を忘れたら、橘君の傘にいれてもらってもいい?」
思いがけない藤谷さんの言葉で、俺の気持ちに光が差し込んだ。
「え、あ、うん、もちろん」
「ありがとう。じゃあ、またね」
俺は藤谷さんの後ろ姿を見えなくなるまで見送った。
藤谷さんの言葉一つ一つを反芻し、藤谷さんの光のような笑顔を思い出す。
今日一日で、一生分の笑顔を見てしまったのではないかと不安になるくらい俺の心は満たされていた。
アルバイトまではあと三十分。
急がなければいけないのに、俺はそこから動くことができなかった。
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