魔物憑き

火吹き石

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 それから数日が経った。その朝、イドは家の裏手の庭で仕事をしていた。庭にはいつも香草がいくつも生え、いろいろな野菜が植えられていた。ここ数日は怪我人の世話に忙しかったから、何の仕事もできないでいたが、いまは少し具合がよくなっていたから、余裕があった。

 若者が小さな籠に香草とねぎの類を積んで立ち上がると、村のほうからまたツルが近づいてくるのが見えた。ツルは、やはりいつもと同じで何歩も距離を空けて立ち止まった。

「あのお客はどうだい。」

 ツルがたずねた。イドは肩をすくめた。

「悪くないよ。ほとんど寝てるけど、たまに起きてる。水は飲んでいるから、まあ、死なないと思うな。」

 イドは言いながら、籠を家の中に持っていき、食料置き場にある箱の上に置いた。そしてもう一度家から出てくると、立ったままのツルに向けて眉をひそめた。

「なんだ。まだなにか用があるのか。仕事を手伝ってくれるのか?」

 イドは大して期待もせずにそう言いながら、また庭に回った。ツルはついてきたが、距離を空けたまま、何もしようとはしなかった。しかししばらくして、黒髪の若者は言った。

「あの人、もう具合がいいんなら、おれたちのほうで引き取ろうか?」

 ツルが言うと、イドは顔を上げた。

「なんでだ?」

「だって、ずっとあの人が寝床を取ってたら、お前だって大変だろ。」

「まあな。夜はずっと手当してるから、寝るのも座ったままさ。おかげで、体があちこち痛いよ。」

 そう言って、イドは腰を手で叩いた。ツルは頷いた。

「じゃあ――」

「けどだめだ。あの人はまだそっちには寄越せない。」イドはツルを遮って言った。「たぶん、まだだめだ。おれがの手がないと、きっとまた傷が開く。いまだって、熱は出てるんだ。おれの手が必要だよ。」

 ツルは頷いたが、その顔にはなにか心配そうな色が浮かんでいた。イドは皮肉げに笑った。

「それにお前だって、おれのことを考えて言ってくれてるんじゃないんだろ。あの戦士を、おれが喰い殺すか、呪い殺すかするって、どうせ誰かが話してたんだろ?」

「違う!」

 イドの言葉に、ツルはぱっと顔を上げた。イドは若者の目を冷たく見据えた。すると、ツルは再び顔を下に向けた。

「違うか? なら、おれと一緒に茶でも飲んでけよ。」イドは若者に向けて笑いかけた。「ほら、来いよ。」

 そしてイドが足を踏み出し、手を差し出すと、ツルは身を引いた。まるで燃える松明でも差し出され、熱と光に恐れをなしたようだった。だがすぐに、若者は後悔に顔を歪めた。

「違う――おれは、おれは……。」

 いまにも啜り泣きそうなツルを見て、イドは鼻を鳴らして笑った。

「ほら、とっとと村に帰りな。あの人を喰ったりしないから、心配するなよ。」

 イドは言って、畑仕事に戻った。ツルはしばらく、その場に残っていたらしい。しかし少ししてイドが仕事を切り上げる頃には、若者はいなくなっていた。

 それから昼に今朝の残り物を食べると、大鍋で湯を沸かし、怪我人の手当をした。まずは敷き布を替えるところからだった。ずっと寝ているばかりでも、出るものは出るのだ。イドは、患者が来た次の日には、その服をぜんぶ脱がせ、腰のあたりに厚く布を敷いていた。若者はその汚れた布を取ると、桶に放り込み、体を拭って、新しい布に替えた。

 汚れ物を処理すると、今度は足の傷の手当だった。汚れた包帯を取り、沸かしておいた湯に漬けておく。そして汗と他の滲出液で汚れた生々しい傷口を洗って、新しい包帯に替える。血は止まっていたが、それでもまだ熱をもっていたし、傷は完全には塞がりきっておらず、いやな匂いのする汁を少しばかり滲ませていた。

 足の手当を済ますと、体の他の部分も湯を含ませた布で拭っていった。それが済んでしまうと、イドは戦士の体に毛布をかけ、汚れものを持って家を出た。それらは、いつも若者が水を汲んでいる小川で洗うのだ。

 洗い物が済む頃には、すでに日は大きく傾いていた。イドは洗濯物を干して家に入ると、溜め息をついた。これから食事を作らなくてはならなかった。

 若者は自分の寝台で横たわる戦士に目を向けた。まったく手間のかかる患者だった。いっそツルに言って連れて行ってもらったほうがよかったかもしれなかった。

 そう考えていると、ふと、戦士が身じろぎした。イドは甕から椀に水を掬って、怪我人のそばで屈んだ。戦士は目を薄っすらと開いて、なにかを言おうとしたが、聞き取れなかった。

「さあ、水だよ、飲みな。そして早く元気になってくれ。」

 イドは戦士の頭の下に腕を回して持ち上げ、唇に椀を押し当てた。戦士は一口水を飲むと、ぐったりとまた頭を下ろした。イドは椀を寝台の足下の箱の上に置くと、食事の用意に取りかかった。

 それからしばらくして煮物が煮えた頃に、戦士が呻き声を上げた。イドが見ると、戦士は目を開け、こちらを見つめていた。その顔には困惑の色が浮かんでいた。どうやらはっきりと意識が戻ったようだった。

 イドは戦士のそばに屈んだ。

「気分はどうだ。これから飯ができるんだけど、食べられそうか?」

 戦士はイドに顔を向け、ゆっくりと囁いた。若者は耳を近づけ、辛抱強く聞いた。そしてようやく意味のある言葉を聞き取ることができた。

「ここは、どこだ。」

 戦士が言った。

「村だよ。ちっぽけな村さ。地元じゃ赤丘の村って呼ばれてるけど、そう言っても、たぶんあんたはわからないだろうな。けど南森の村の西って言ったら、なんとなくわかるんじゃないか。」

 イドはそう言った。南森の村は、深森を貫く街道に近いところだった。この旅人が深森のあたりで見つかったということだったから、たぶん南森の村だったら知っていると思ったのだ。

 そしてその推量は当たったようで、戦士は納得したような顔をした。だがすぐにみょうな顔をした。

「おれはどこで見つかったんだ?」

「深森の近くって言っていたな。けど、詳しく聞いてないや。」

「そうか……。それで――」と言いかけて、戦士は苦笑した。「おや、礼儀を忘れていた。許してくれ。おれはトリデと呼ばれている。」

「おれはイド。さて、互いに名乗りあったところで、飯にしないか。あんた、もう三日は何も食べてないぜ。腹が減っているだろ。」

 イドはそう言うと返事も聞かずに立ち上がり、煮物を二つの椀によそった。トリデは呻きながらなんとか上体を起こし、椀と匙とを受け取った。だが戦士はまだふらふらして危なっかしかったので、イドはトリデの隣に腰を下ろし、肩で背中を支えてやった。

 トリデは何口か食べると、また話しはじめた。

「おれの荷物はあるか?」

 イドは黙って、部屋の隅を顎で示した。そこに、戦士の剣と鎧、そして荷袋も置いてあった。トリデは息を漏らし、頷いた。それから、また食べはじめた。

 そうして静かな食事が終わると、イドは食器を炉のそばに置いた。それからトリデを振り返って言った。

「さあ、あんたは寝てくれよ。早く元気になってもらわなきゃ、おれが困る。」

 トリデは寝床に横になろうとしたが、しかし壁に肩を預けると、不審そうに言った。

「さっきから気になっていた。お前さんは一人で暮らしているのか。」

「そうだよ。」

「そんなに歳を取っているようには見えないな。」

 イドは笑った。「そうだろうよ。おれは前の冬で十八になったところさ。けど、十五の頃から一人で暮らしてるぜ。」

 トリデはますます不審そうな顔をした。「いったいどうして――」と言いかけて、呻くと、腿を手で押さえた。イドはトリデの肩に手を置いた。

「ほら、横になってくれ。まだ本調子じゃないんだよ。」

 戦士はイドの言うことを聞いて、素直に横になった。イドは毛布をかけてやり、戦士の傷ついた腿に、布の上から手を置いた。トリデはしばし若者の手を黙って見ていたが、それから言った。

「お前さんは呪術師なのか。傷の痛みがなくなった。だが、しかし、呪文も唱えていないじゃないか。どういうことなんだ。」

 イドは苦笑して首を振った。

「こいつは呪術じゃないよ。魔物だ。おれには魔物が憑いてる。」

 若者がそう言うと、トリデは訝しげな顔をした。若者は続けた。

「おれは手を当てるだけで傷を治せる。不思議だろ。」

「そいつは――便利なことだな。」

「そうだよ、それだけだったら、便利なことだ。」イドは自嘲気味に笑った。「けど、それだけじゃない。おれは人を呪うこともできるんだ。いや、できるっていうより、呪っちまうんだな。その気がなくても、人を病気にさせてしまうんだ。」

 トリデはどこか考え込んでいるふうで、黙って聞いていた。イドは、しかしそれを気にしていなかった。まるで自分に語りかけるように、若者は話していた。

「ちびの時はよかったんだけどな。手を切ったり、転んだりしたやつがいたら、おれがいつも手当してやったんだ。おれに触れられると、痛くなくなるってな。そしてちびさんは、不思議な力をみんながありがたがるのを、うれしく思っていた。」

 若者は暗い顔をしていた。イドが語っているのは、一人でこの家で暮らしているあいだ、何度も思い返してきたことだった。若者は首を振って、遠い記憶を追い払った。懐かしんでも胸が痛むだけだった。そしてトリデの顔を見て言った。

「おれと喧嘩したやつは、みんな後から熱を出したり、夢にうなされたりしたんだ。おれが小さな時には誰も気にしなかったけど、少しずつ、みんな勘づいていったんだな。そのうち、おれは魔物憑きって呼ばれるようになった。」

「それで、ここで一人で暮らしているのか。」

 イドは頷いた。「十五になるまでは、みんなおれを子どもの家に置いてくれた。それまでだっておれを不気味がって、距離を空けていたけどな。そして十五になってからこのかた、村外れのここで一人で暮らしているってわけだ。」

 トリデはしばし黙ったまま、何事かを考えていた。イドは戦士の腿に手を置いたまま、にやっと笑いかけた。

「あんた、もう傷の具合がよくなったんなら、村に移ってもいいぜ。今朝、村から人が来て、あんたを引き取ろうかって言っていた。あいつらは、おれがあんたを呪い殺しやしないかと心配しているみたいだ。おれだってあんたを呪わないか、保証はできないぜ。自分でも、いつもこうやって手を当てているだけで、どうやって傷を治してるのか、よく分からないんだから。」

 イドは皮肉に口元を歪めた。すると、トリデは、ばかにしたように鼻で笑った。イドは眉をひそめた。戦士は若者の表情を見て、穏やかに微笑んだ。

「お前のことを笑ったんじゃない。村人のことだ。」

「……なにかおもしろいことでもあったのか?」

 イドは不快に口を尖らせて言った。戦士はまた、軽蔑したような笑みを浮かべた。

「おもしろくはないな。ただ、お前の村人は、愚かだ。おれの氏族にはそんな愚か者はいない。」

 戦士の言葉に、イドはちらと戦士の前腕にある、白い模様を見た。若者がそれに目を向けたことに気づいたトリデは、腕を持ち上げた。

「白牙の氏族は魔術師を、そんなふうに迫害したりしない。」

「……なんだって。魔術師? なんだよ、それ。まじない師のことか?」

 トリデはふっと笑った。

「魔術師とは、お前さんのことだ。イド、お前さんは魔物に取り憑かれているわけではない。迷信だ。お前さんの手にあるのは魔術だ。呪術の一つだよ。」

 トリデは腕を下ろすと、目を瞑った。イドは混乱していた。この戦士の言ったことが、何一つ分からなかった。

「寝るなよ。おれの力のことを知ってるんだろ。もっと話してくれ。」

「明日にしないか。おれは、もう、疲れたんだ。もう夜になるぞ。」

 確かに、あたりはもう暗くなってきていた。若者は立ち上がると、窓を閉めた。夕暮れの弱い明かりもなくなって、部屋は一段と暗くなった。ただ炉に燃える小さな熾火だけが温かな光を放っていた。

 イドは戦士のそばで膝をつくと、また傷に手を置いた。そして溜め息をついて、言った。

「……分かった。けど、明日、また話してくれよ。」

「約束しよう。」そう言ってから、戦士は目を開けた。「待てよ、お前さんはどうやって寝るんだ。」

「別に……このままだよ。あんたの傷を手当しなきゃならないから。」

「お前さん、何日もそうしていたのか? そりゃあ、大変な思いをさせたな。」

「まあな。だから、あんたには早くよくなってもらわなきゃならない。」

 トリデはそれを聞くと、壁際に身を寄せながら言った。「お前さんも横になったらいい。」

 イドは躊躇した。「いいよ。もう何日かの辛抱だろうし。」

「横になってくれ。そんなふうにずっと座ったままでいられたら、こっちが落ち着かない。それならおれが下で寝る。」

 そう言って、トリデは起き上がろうとした。イドは慌てて戦士の肩を押さえた。それからしばらく、イドは寝台で一人で寝るようにと言い聞かせたが、トリデは首を縦に振らなかった。それで、けっきょくイドのほうが折れた。

「分かったよ、一緒に寝るよ。だから起きないでくれ。」

 イドはそう言って、寝台に腰を下ろし、ぎこちない動作で横になろうとした。トリデはおかしそうに笑った。

「お前さんは、靴も脱がずに寝るのか?」

 そう言われて、イドは靴を脱ぎ、腰の帯を解いた。そして短衣を脱ごうとしたところで、手が止まった。短衣の下には、薄い肌着と下着を着ているだけだった。いつもだったらそれも脱いでしまうところだったが、いまはトリデがいるし、しかも相手は裸だった。

 それで、イドは短衣だけ脱ぐと、肌着を着たままで、恐る恐る戦士の隣で横になった。

 小さな寝台に二人で寝るとひどく狭かったが、それでも座ったままでいるよりはよほど快適だった。とはいえ、イドは体を横に向けなければ落ちてしまいそうだったし、すぐそこに人の体があるというのは落ち着かなかった。

 トリデはくっくと喉を鳴らして笑った。

「お前さんは、どうしてそんなに緊張しているんだ?」

「あんたがいるからだよ。こんなふうに人と寝るの、がきの頃以来だよ。」

 イドはそう言ってから、戦士の胸に手を置いた。そして慌てて付け加えた。

「これは、手当してるだけだからな。手で触れてないと、治せないんだ。」

 トリデが黙って、若者の手の上に自分の手を重ねた。手が触れ合ったところから、イドは、自分の体の中をなにか熱い感覚が走るのを感じたが、それを顔には出さなかった。

 トリデが眠たげに、ゆっくりとした口調で言った。

「ああ、ありがとう。」

 トリデはそれだけ言うと、口を閉ざした。そしてしばらくすると、規則的な寝息を立てはじめた。

 イドは黙って、少しも身動きしなかった。だが若者の胸の内では、これまでに感じたことのない、熱く激しいものが頭をもたげようとしていた。

 狭い寝台の上だったから、もとより肩が触れていたところ、腕を伸ばし、手を戦士の胸に置いていたから、余計に体が密着していた。触れ合わせた肌から体温とともに、甘美な疼きが若者の体の中に染み込んでいく。イドが息を吸うたび、成熟した大人のなんとも言えぬ匂いがして、いっそう若者の心を乱した。

「……起きてるかい?」

 イドは囁いた。戦士はなんの返事もしなかった。

 若者は、いけないことだと思いながらも、胸に置いた手をずらし、戦士の体をゆっくりと撫でた。トリデは取り立てて巨躯の持ち主というわけではなかった。だが引き締まった体には鍛えられた筋肉が付き、強靭で、逞しかった。イドはうっとりと戦士の肉体を撫でた。

 それから、胸元から腹にかけて手を這わせた。薄っすらと生えた体毛が指を撫でる。ごつごつとした腹を撫でながら、手はゆっくりと下に降りていこうとした。

 しかしそこで、若者は思いとどまり、こんなことをしてはいけないと、自分自身に言い聞かせた。そして手をまた元通り、胸の上に置いた。

 だが、もうイドの体は火照ってしまっていた。若者は片手で戦士の胸に触れながら、片手で自分の股を、薄い腰布の上から撫でた。すでに固くなったそこは、触れられてぴくぴくと震え、若者に快感を与えた。

「……ふっ、うっ、んっ――」

 イドは声を抑えようとしたが、できなかった。いつも一人で処理している若者には、逞しい裸の戦士が横で寝ているという状況が、あまりにも気を昂ぶらせていた。くぐもった声を上げながら、若者は一心に自分のものをごしごしと布の上から扱いた。

 そしてすぐに、甘美な解放感を味わい、若者は達してしまった。どくどくと精液が溢れ、腰布をぐっしょりと濡らし、股の間を汚した。

 しばらく、イドは荒く息をしながらじっとしていた。しかしいつも以上の量が出ていたため、早くどうにかしなければ、精が毛布にまでかかってしまいそうだった。

 イドは戦士を起こさないように静かに起き上がると、腰布を解いた。そして、どうしたものかと考えた。炉の火はすでに熾がいくらか残っているだけで、あたりは真っ暗だった。どこになにがあるのか見えなかったし、手探りで動き回れば、戦士が気づいてしまうだろう。

 けっきょく、若者は脱いだばかりの腰布の、それなりに乾いたところで自分の股と手を拭って、明日洗うためにそれを戸のすぐ外に置いた。それから目が見えないまま、なんとか寝台の足下にある箱を開け、替えの腰布を取ると、大雑把に巻き付けた。そしてまた寝台で横になり、毛布の中に体を入れた。
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