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3章
35 夜は明ける ②
しおりを挟むぎゅっとハサミを握り、引き寄せようとした瞬間、手首に痛みが走る。
「何をしている!?」
血相を変えて飛び起きたルディオが、シェラの腕を掴んでいた。
「放してください」
彼の手を引き剥がそうともがく。そのまま二人もつれ合うようにして、床に倒れた。
「っ……」
身体を打ち付けた痛みに耐えていると、ルディオは素早くハサミを奪う。さらに抵抗しようとしたシェラの身体を、馬乗りになって押さえつけた。
仰向けの状態で前を見ると、柳眉を寄せたルディオの視線とかち合う。
「なにを馬鹿なことをしている!」
怒りを滲ませた表情で、シェラを見下ろす。
いつもは鮮やかな緑の瞳が、だんだんと黒く染まっていくように見えた。
おもむろに手を伸ばし、指先で彼の目元に触れる。
「わたしは、怖くありません」
ルディオが大きく目を見開いた。
「もし、あなたが怒りに駆られこのまま獣に変わろうとも、わたしは怖くありません。あなたに喉元を食いちぎられようとも、後悔はしません」
「……なぜ」
震える声で、彼は問いかけた。
「あなたは呪いの力で、川に落ちたわたしを助けてくれた。あなたにとっては忌まわしい力でも、わたしにはそれが恐ろしいだけのものとは思えません。たとえそれが諸刃の剣だとしても、わたしが今生きているのは、あなたの呪いがあったからです」
呪いが忌まわしいだけの力であれば、シェラはすでにこの世にはいないだろう。
確かに恐ろしい部分はある。でも、それが全てではない。シェラはそれを知ってしまった。
「だから、あなたのそばにいては、いけませんか?」
手のひら全体で包み込むように彼の頬を撫でる。暗く濁っていた緑の瞳が、徐々に透き通った色に変わっていった。
彼は顔を歪ませて、じっとシェラを見つめる。その唇が、かすかに震えていた。
「あなたの本心を、聞かせてください」
目を閉じて、彼は観念したようにぽつりと言葉をこぼす。
「君に……嫌われたくない……」
それはとても小さな声で。
だけど、シェラの耳にははっきりと届いていた。
「はい」
続きを促すように優しく頬を撫でると、堰を切ったように言葉を紡いでいく。
「君のそばにいたいし……そばに、いてほしい。本当は……誰にも、渡したくない」
「はい」
彼の声は、酷く掠れていて。だが、力ないその様子が、間違いなく本心であることを物語っていた。
「シェラ、君が好きなんだ。だからこそ……これ以上君を傷つけたくない」
「あなたに傷つけられたことはありません」
「だがこれは……!」
カーゼで覆われたシェラの左手をとる。
「それは、わたしが不用意に踏み込んだのがいけないのです。でも、後悔はしておりません。本当のあなたを、知ることができたのだから」
シェラの手首を握る、彼の手は震えていた。
それはまるで、触れたことによってまた壊してしまうのではないかと、そう考えているように見えた。
「それでももし、あなたが納得できないのであれば……この傷の責任をとってください」
「責任……?」
「はい。わたしの命が尽きるまで、あなたのそばにいさせてください」
きっと、そう長くはない。もって数年。
歴代の聖女たちも、シェラのような状態になってからは、長くとも三年程度しか生きてはいない。だからその短い間だけでも、普通の夫婦でいたい。
これはただの我がままだ。
だけど、あきらめることもできなかった。
「本当に、いいのか?」
「はい」
ルディオはぎゅっとシェラの手を握りなおす。
それから大きく息を吐いて、脱力したように隣に仰向けで寝ころんだ。
「これも……惚れた弱みか」
聞こえるか聞こえないかという程の大きさの声で呟かれた言葉に、シェラはくすりと笑って問いかけた。
「ルディオ様は、どうしてわたしを好きになってくださったのですか?」
もう隠しても仕方がないと思ったのか、彼は素直に話してくれる。
「初めて会ったあの時、毒入りのワインを飲もうとして、グラスを持った君の顔が忘れられなかった。死を前にして、覚悟を決めた女の顔に惚れるなんて……私は最低な男だ」
それは、ほぼ最初からシェラのことを気にしていたということで。
予想していなかった言葉に、思わず顔が赤くなる。
「君は?」
頬を染めたシェラを見て、彼は苦笑しながら同じ質問をした。
「わたしも……あの時、助けていただいた瞬間から、あなたのことが気になっていたんだと思います」
いつから好きになっていたのかはわからない。気持ちを自覚したのは夜会の日だが、きっとそれよりも前から、彼に惹かれていたのだと思う。
ルディオは少しだけ空いていた距離をつめ、シェラを抱き寄せた。
彼の手が背中に回された瞬間、あることを思い出す。
「そういえば、ルディオ様もお怪我をされていましたよね!?」
腕の中で顔を見上げると、彼は自身の右手を見て言った。
「あぁ、これか……もう血は止まっているから大丈夫だ」
「ちゃんと手当てしないと、化膿してしまいます!」
あの血の量では、そこそこ深い傷のはずだ。放っておくことはできない。
「君こそ、その左手は処置したのか?」
「これはハランシュカさんがやってくださいました」
「ハランが……君に触れたのか?」
眉を寄せたその表情を見るに、彼はハランシュカに対して嫉妬しているようだ。
「ああだめだな……これでは本当に、呪いが発動してしまう」
たしかハランシュカは、嫉妬も怒りの一部として認識されると言っていた。
わき上がる感情を押さえなくてはいけないというのは、本当につらいことだろう。
「一緒に、呪いの解きかたを探しましょう」
「……そうだな」
感情を押し殺すように、シェラの身体を力強く抱きしめる。
「でもまずは、怪我の手当てからです」
「それはやるから、今は……もう少しだけ、このままで……」
鉄格子のついた窓から、日が差し込む。
傷跡だらけの床の上で寝転がる二人を、淡い光が照らしていた。
この先、穏やかな日々が訪れてくれたらいい。
そう、思っていたのに。
――神様はなんて、残酷なんだろう
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