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1章
6 妻になるということ
しおりを挟む夕食のあと、床に就く準備を済ませ、シェラは離宮の廊下を進む。
「だいぶ冷えますね」
前を歩くルーゼが言った。
まだ冬の始まりだというのに、今の時期にしては今年はかなり冷え込んでいる。
「この寒さでは、雪が降ってもおかしくないかもしれません」
「ヴェータでは、雪は積もるのですか?」
「そうですね、ある程度は。と言っても時期的にはまだ先ですが」
豪雪というわけではないが、冬の短い間、ヴェータでは雪が積もる。
時期的にはまだ一か月以上先の話だが、今年は冷え込むのが早く、粉雪程度ならいつ降り出してもおかしくない様子だった。
「本格的に降りだす前に、ヴェータを発たなければなりませんね」
雪が積もれば街道の行き来は困難になる。
道が使えなくなる前に、アレストリアに戻らなくてはいけないのだろう。
ルーゼの言葉に、シェラは複雑な気持ちで窓の外を見た。
真っ暗な窓枠の中に、ぽつぽつと明かりの灯る主城が見える。
この国にいる理由はなくなった。もうすぐ、あの城を見ることもなくなるのだろうか。
ぼんやりと浮かぶ明かりを見つめながら、少し前の出来事を思い出す。
夕食を済ませたタイミングで、ハランシュカが離宮へと戻ってきた。
彼は言われた通りに書類を用意し、ルディオに手渡す。
ざっと目を通してから、二人はサインした。
『あとはこれを届ければ、私たちは晴れて夫婦になる』
『今から届けるのですか?』
『いや、明日の朝一で行く。昼からはバルトハイル王と面会するから、それまでには戻ってくる。君は離宮で待っていてくれ』
『わかりました』
シェラが頷くと、二人の様子をそばで見守っていたハランシュカが口を挟む。
『今夜は独身最後の夜だねぇ。久しぶりに呑み明かすかい?』
『呑むのはアレストリアに戻ってからだ。おまえも明日早いんだから、とっとと寝ろ』
『はいはい』
ひらひらと手を振って、残念そうな表情をつくりながら、ハランシュカは部屋を出て行った。
それから湯浴みと着替えを済ませ、今に至る。
婚姻が成立すれば、シェラはもうヴェータの王女ではなく、アレストリアの王太子妃だ。
本当にこの国から出られるのだろうか。
先行きに不安は残るが、ルディオの傍にいれば全てが上手くいくような、そんな予感がした。
前を行くルーゼが足を止める。
豪華な装飾が施された扉の前に、警備の騎士が三人立っていた。
「こちらがお二人のお部屋です。私は下がりますので、何かありましたら外の騎士をお呼び立てください」
「わかりました、ありがとうございます」
丁寧に礼をして扉をノックすると、中から入室を促す声が聞こえた。
少しだけ緊張に強張る手で、ゆっくり扉を開く。
部屋の中は思いのほか広く、大きなベッドがひとつと、ソファやテーブルなどの生活に必要な道具が一式揃っているようだった。
その中で窓際に置かれたソファに、金色の長い髪を無造作に垂らした人が座っている。
どんなにくすんだ景色の中でも、彼のさらさらとした金糸のような髪だけは、すぐ目に入る。
「失礼します」
一礼して部屋の中を進むと、彼は読んでいた本をそばにある机に置き、立ち上がった。
「随分冷えるな、寒くないか?」
「大丈夫です、慣れているので」
「そうか、君の方が寒さには強そうだ」
苦笑しながらシェラの手をとり、ベッドの方へと歩いていく。
その時点で、やっと現状に気がついた。
ピタリと足を止めて、控えめに口を開く。
「……ベッドは、ひとつだけなんですね」
「ああ、もともとこれしか用意されていなかったからな。私はソファで寝るから、ベッドは君が使うといい」
「え……いけません! それならわたくしがソファで寝ます!」
居候の身である自分がベッドを使って、わざわざ遠方からやってきた客人をソファに寝かすなどできるわけがない。
抗議の声をあげると、彼は眉を寄せて困ったような声で言った。
「こんな寒い夜に、女性をソファになど寝かせられない」
「わたくしのほうが寒さには強いはずです。もしあなたがソファで寝ると言うなら、わたくしは床で寝ます」
これならどうだと言わんばかりの勢いでシェラが捲し立てると、ルディオは小さく溜め息をついてから、仕方なさそうにこう言った。
「それならば私も床で寝る、と言いたいところだが、二人そろって床で寝るくらいなら、二人でベッドを使った方がましだろう」
「え」
困惑の声をもらしたシェラを気に留めず、ルディオは添えていた手を握り直して、ベッドへと無理やり引っ張った。
「君が言い出したんだ。二言はないな?」
「あ、いや、その、わたくしはそういう意味で言ったのではなくて……!」
完全に墓穴を掘った気がする。
つい一瞬前まで勝った気分でいたというのに、頭の回転の早さは彼の方が何倍も上のようだ。
まさかとは思うが、このままハランシュカの言っていた既成事実を作られてしまうのでは……
腕を引かれたシェラの顔が、だんだんと青ざめていく。
その様子を目に留めたルディオは、優しさを含んだ声音で諭すように言った。
「大丈夫だ、何もしない。一緒に寝るのが嫌なら、ベッドの端と端を使えばいい。君に風邪をひかれては困る。もちろん私もな」
二人そろって風邪でもひいたら目も当てられない、と彼は言う。
たしかに、その言い分は正しい。
見たところかなり大きなベッドであるし、これなら大人が三人横になっても余裕がありそうだ。
「……わかりました。お隣、失礼させていただきます」
「ふふ、よかった。さすがの私も、妻となる人に一緒に寝ることを拒否られたら、立ち直る自信がない」
シェラをベッドに座らせながら、彼は目尻を下げて苦笑を浮かべる。
それから、ベッドのふちを回り込むように移動した。
「すみません。嫌という訳ではないのですが、男性とお付き合いした経験がないもので……少々戸惑いました。あなたの妻になるのですから、一緒に寝るのは当たり前ですよね」
正直に打ち明ける。
反対側の側面からベッドに入り込んだルディオは、一瞬呆けた顔をしてからくすりと笑った。
「私の妻は、随分と可愛らしいことを言う」
ゆっくりと腕を伸ばし、シェラのふわふわとした銀色の髪に触れる。くるくると指先で弄び、少しして気が済んだのか手を離した。
「……身体が冷え切る前に、今日はもう寝よう」
彼が明かりを消して横になったので、シェラも続く。
同じベッドの端と端、空いた距離は一人分。手を伸ばせば届きそうで届かない、そんな距離。
「おやすみ、シェラ」
「おやすみなさい、ルディオ様」
初めて会った時のルディオは、獲物の動きを見定める、獰猛な獣のような目をしていた。あの鋭い眼光に身体が竦んだのは、まだ数時間前のことで。
だけど今の彼は、ころころと表情を変えてよく笑う。
どちらが本当の彼なのか、まだ出会ったばかりのシェラには、その本質はわからない。どちらも本当かもしれないし、どちらも違うかもしれない。
首だけを動かして、隣にいる人を見る。
もう寝てしまったのか、仰向けで目をつむっていた。
いつかあの腕の中で眠る日が来るのだろうか。
想像して、不思議と嫌ではないと、まどろんでいく意識の中で思った。
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