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8 壊れたドールの涙
しおりを挟む彼女の体は限界をとうに超えていた。
そんな彼女が
迫り来る灰色のそれを避けれるはずが無かった。
ただ呆然と、まるで人ごとのように
眩いほどの光を
『綺麗』だと思った。
いつからか
眠ることが怖くなった。
朝、起きたら
あの世界に戻ってるかもしれない。
『女らしさ』を求められ続けて
消費物のように使われて
人形のように
死んでいくのかもしれない。
もう二度と
この暖かい場所にいられないかもしれない。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
この世界にずっといたい。
そうだ。
何故気づかなかったのだろう。
『眠らなければいい。』
彼女の様子が、おかしい。
何故か分からない。
『おはよう。』
「おはよう!」
一見、何処もおかしくない。
凄く気持ちの悪い何かを感じるのに。
生きていないような。そんななにかを。
ああ、そうか。
その宝石のような蒼眼に、何も映さないからだ。
まるで何処か別世界に心を置いてきたように。
そもそも、心などない。
『人形』のように。
彼が言っていることはあながち間違っていない。
彼女は『人形』だ。
幸せな、その身に余るほどの経験をして
幸福が自らの心を蝕み
『櫻』という人生に
執着をしてしまった、『人形』ほかならない。
意識を無くす、つまり眠ることを
極端に恐れた彼女は。
この数ヶ月間
一切の睡眠をとっていなかった。
休息を求める体は
傷ついた心は
彼女に助けを求めた。
けれど
追い詰められた彼女は。
それに気づかなかった。
いや、気付こうともしなかった。
そんな彼女に、体は適応せざるを得なかった。
眠らなくても
大丈夫なように。
脳や、体が動くように。
それがたとえ、歪で異様な事だとしても。
『元の世界にもどること』
このことがどれ程恐ろしかったのだろう。
普通の人間にここまでする事はできない。
傷ついた体を、永遠に拷問されるようなものだ。
彼女ができてしまったのは多分。
自身の限界を知らなかったことも大きかっただろう。
そう。彼女は、自らの限界を知らなかった。
自分ができる量よりはるかに多い仕事をこなし
睡眠時間を全て秘書のための勉強に費やし
周りの人間が止めても
「大丈夫」の一点張りだった。
とっくに彼女の限界は超えているというのに。
不安だという思いも
恋を諦めることの苦しさも
全てを抑えて。
もう、脆くなった鎖は
いつ壊れてもおかしくないと気づいていない。
『お願いだから、休んでくれ。』
これ以上したら、本当に死んでしまう。
けれど彼女は嗤って言う。
「大丈夫」と。
その笑みが歪なものだと気づかないまま。
違う。違う。違う。違う。
大丈夫じゃないんだ。
もう、限界なんだよ。
『俺は…櫻が好きで、大切だから。』
『櫻にもちゃんと自分を大切にしてほしい。』
『何時だって苦しそうで、悲しそうで。』
『泣きそうな顔で大丈夫って言うくせに。』
『どうして助けてさせてくれないんだよ。』
脆いくせに頼ろうとしない彼女に。
怒りが溢れた。
そこに居たのは。
櫻では無い誰か。
蒼眼が怒りに染る。
初めて見る顔だった。
「……す、き?」
思いが、こぼれ落ちる
「意味がわかりませんわ。」
「好き?大切?そんなもの、いりません。」
「櫻なら、なんて言っても良いと?」
「彼女が、傷つかないとでも?」
「平気だとでも言うんですか?」
「…ッ、そんな訳ありません!」
好きだと、簡単に言うことに怒りがわく。
櫻に言った言葉。
平気ではなかった。
心はボロボロだった。
それも、好きな人からの言葉。
いつも泣いていた。
無かったことになんて、できるはずがない。
『うん。』
「悲しかった!」
「寂しかった!」
「苦しかったッ!」
櫻の想いも、私の想いも。
捨てないで欲しい。
一度緩んだ糸は次々と解けていく。
『ルーナ』の感情が溢れて止まらない。
「ふふっ」
笑いが零れる。
助けさせろと、身勝手に言うこの人に。
一番助けを求めてはいけないこの人が
それを言うことに。
「何も、何も。知らないくせに…!」
「私は、櫻じゃないのに。」
「ただ!彼女の代用品でしかないのに…!」
そう。『ルーナ』なんて、最初から
この世界の何処にも、存在しないのだ。
『女らしさ』と戦う事だけが、ルーナである証。
けれど、それすらも危うくなった今。
彼女の存在を確かにするものは何処にもない。
そして、一番言ってはいけないことが
口から零れる。
「…ッ、櫻だったら良かったのに!!」
それは『ルーナ』自身を否定する言葉。
「彼女になりたかったッ…!」
「…可愛くて!」
「…自分の想いに素直で!」
「自由に好きと言える彼女が羨ましい!」
「優しい世界に居られる事が羨ましい…!」
私は、私は。
あの世界に明日にでも、戻るかもしれないのに。
要らない。
向こうで辛くなる優しい思い出なんて。
絶対に叶えてはいけない恋心なんて。
だから。
「早く。」
「早く。」
「棄てて下さいませ。」
「優しさなんて、無くても平気ですから。」
「お前など要らないと、言ってください。」
優しく甘い香りが、突然広がる。
安心する彼の匂い。
抱きしめられた腕のなかで
『大丈夫』と言う穏やかな声に。
最後の糸が切れてしまった。
「………っ」
「ぅゔぁぁっ……!」
ああ、これが本当の彼女なのだなと。
全くの別人だ。
自分の知る櫻では無い。
いつもの凛々しい彼女の面影もない。
「……ぅ、助けてっ……。」
「…ひとっ…りぼっちにっ、しない…でっ。」
声を押し殺そうとして
けれど、嗚咽はとめどなく漏れて
結局子供のように声を上げて泣く彼女は。
母親を探す子供のようで。
まるで初めて泣くような下手な泣き方で。
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我に返った。
「…ごめんなさい。」
なんてことをしてしまったのだと。
自分を罵りながら。
彼の元を飛び出した。
『愛しい』と自覚をして。
どんな彼女でも、受け入れる覚悟があった。
何度でも『大丈夫』だと抱きしめるつもりだった。
だけど
まさか、冷たくなった彼女と対面するとは。
夢にも、思わなかった。
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