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事実は小説よりも『き』なり
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小林 薫は個室の居酒屋にして良かったと目の前の彼女を見て思った。
『彼女』と言っても薫には愛する妻がいるので、所謂男女の関係では全くない。さらに言えばこんな風に食事を供にする仲でも無いはずだ。
それなのになぜ、こんな狭い空間で二人で食事をしているのかというと。先日、宮前 渚からどうしても聞いて欲しい話があると頼まれたからだ。その本人は今、目の前で顔を真っ赤にしてくだを巻いている。
「どうしてなんですかぁ~」
たいしてお酒は強くないと言っていた渚は、宣言通りかけつけ一杯ですでにぐでんぐでんに酔っぱらっている。しかも、あまり良い酔い方とは言えない。だいぶ精神的にキテいるようだ。
渚がこうなった原因は、今の編集担当者にある……らしい。
今年度から担当が変わり、早速いろいろとあったようだ。その結果、前担当者の薫が呼び出されたのである。電話で済ませて、上に相談するなど別の方法もあったのだが……。
薫は渚の現担当者鮫島 一成の不愛想な顔を思い浮かべた。そして、目の前の小説家『鳥居先生』の顔を見て、溜息を洩らす。
『だから言っただろう』とここには居ない人物に向かって言葉を投げかけた。もちろん返ってくるわけはないが。
「私言ったじゃないですかぁ。担当は小林さんのままにしてくださいって。それができないなら、優しい人がいいですって言ったじゃないですかぁ」
シクシクと泣き出してしまった渚の言葉を薫はうんうんと聞きながら、アイロンがしっかりとかけられたハンカチを差し出した。渚はそれを受け取り見つめた後、ジロリと薫を見て何か不穏な言葉を吐いて、思いっきり鼻をかんだ。
……え? いや、いいけどさ。
言葉にせずとも内心引いていることが渚にも伝わったのだろう。フンッと鼻で笑われた。渚にしては珍しい態度。まぁ、今日は仕方がないかと苦笑して続きを話すように促す。
「新しい担当に鮫島さんを推したのは小林さんだって聞きました」
「うん。あいつは同期で、仕事ができるやつって知っているからね」
正しくは、一成から頼まれたのが決定打なのだが。
「そうですね。仕事もできます」
「……何か問題があった?」
「仕事上では、まぁちょっと言葉はキツイですけど、助けてもらっていることの方が多いくらいですし、問題はありません」
「仕事以外で何かあるの?」
薫がきょとんとして、首を傾げる。というのも、『鳥居先生』とのやり取りは今までほぼメールと電話で済んでいたからだ。そんな中、仕事以外で何が起きるというのか。皆目見当もつかなかった。渚が言い辛そうに顔を背けて小さな声で説明を始める。
「一度体調崩して締め切り過ぎっちゃったことがあるんです」
「うん」
季節の変わり目に渚が体調を崩すことは薫も重々承知している。まぁ、元々締切なんてものは本来の期日よりも余裕をもって決めているので問題は無いのだが。
だからこそ、鮫島に引き継ぐ際に伝え忘れていた。
「そうしたら、あの人家まできたんです」
「ああ。まぁ、でもそれはあいつもほら。鳥居先生の事を心配して……」
「確かに看病をしてくれた時は顔に似合わず優しい人だな、と思ったんです。でも……」
「でも?」
その先に興味が湧いて前傾姿勢になる。一体あの仕事人間のヤツが何をやらかしたのか。
「その後もあの人、毎週のように家に来ては勝手に家の中掃除したり、せ、洗濯までしたり、しまいには私の服装にまで口を出すんです! 『外出しないからといって着替えないなど言語道断』とか言って……ご飯作ってくれるのは助かってはいるんですけど。でも、仕事している間も背後にたって無言で圧力をかけてきたりして……正直、限界なんです!」
「なっ……、そうなんですね。それは確かに……干渉しすぎですね」
『何をしてるんだあいつは!』と叫びそうになるのをギリギリで止めた自分を褒めたい。
いや、それにしても……。毎週鳥居先生の家に行って家政婦まがいのことをしてるって……いや、え? まず、あいつにそんな暇あったか? というよりも、もしや、あいつ自腹でわざわざ通ってるっていうことか?
頭の中がぐわんぐわんしてきて、手で押さえる。
「小林さん? 大丈夫ですか? 酔っちゃいました?」
「ああ、うん。そうかも。……えっと、それよりも聞きたいんだけど」
「はい」
「鮫島がそういうの止めたら、今のままでも問題なかったりする?」
「んー。そうですね。仕事面では助けられてることも多いですし。不思議と鮫島さんは私が必要としているものを曖昧に伝えてもきっちり揃えてくれるんですよね。そういう意味では鮫島さんとの相性は良いと思います」
なるほどと頷く。
「それなら」
薫はあることを渚に提案する。渚は目を瞬かせ、しばらくの間思案した後、頷いた。
—————―――
鮫島 一成は呼び出された店の前で腕時計を一度確認した。どう見ても約束の時間は過ぎている。とりあえず、さっさと入ろうと店の扉に手をかけた。店の入口ですれ違った女性二人組が一成を見て、黄色い声を上げた。
騒がれた当人は彼女達に目をくれることも無く、まっすぐに薫がいるであろう個室へと向かい、襖を開いた。
「すまない。遅れた」
「いや、仕事お疲れ。はい、これメニュー」
お品書きを受け取りさっそく目を通す一成を見ながら、薫は先程聞こえてきた声の原因はコイツだなと推測していた。そして、その彼女達への対応の仕方も。
清潔感のある黒髪にオフィスカジュアルな服装。装飾品はアナログの腕時計のみという至ってシンプルな装いだが、その分スタイルの良さと整った顔立ちが際立っている。女性受けする見た目だ。
ただし、シルバーの眼鏡から覗く瞳は真正面から見ると少々つり上がり気味で、しばしば他人に冷たい印象を感じさせることがあった。実際そういう一面が無いとは言わないが、懐に入れた人間には甘いという一面も持ち合わせている。ということを付き合いの長い薫は良く知っていた。だからこそ、一成が渚の担当に立候補した時も後押しをしたのだが……渚の話を聞いた後だと、自分の認識が間違っていたのではと思わざるを得ない。
お通しとビールが届き、まずは乾杯をする。ビールを一口喉に流し込むと、注文した料理が届くのを待たずに薫は口を開いた。
「なぁ、念願だった鳥居先生の担当はどうよ?」
鳥居先生の名前を出した途端に一成の肩がピクリと動いた。お通しに手をつけようとしていた箸も止まっている。薫はその様子を見て、遠回しに聞くのを止めた。
「鳥居先生に相談されたよ。『担当を変える事はできませんか』って」
ガバリと顔が上がる。その顔色は暗めの照明の下でもわかる程に悪くなっている。どうやら、心当たりはあるらしい。自覚がないわけではなさそうでホッとした。
「と、鳥居先生はな、なんと?」
声が震えている。
ここまで動揺する一成を見るのは初めてで、薫は少し楽しくなってきた。————お酒が回ってきたせいもあるかもしれない。
渚が言っていたことをそのまま一成に伝える。伝え終わった時には一成は頭を抱えていた。かなりショックを受けているらしい。自業自得だと思うのだが、さすがにそれは言わなかった。
「っ!」
一成がいきなり顔を上げたかと思うとジョッキに残っていたビールを一気に飲み干した。普段無茶な飲み方は絶対にしない一成の行動に驚いて、止める暇もなかった。
……まぁ、一杯目だしな。
なんて思っていたら襖をあけて近くにいた店員に空になったジョッキを突き出し、おかわりを頼んでいる。
「おい。明日も仕事だろ?あんまり無茶は」
「明日も仕事だろうが関係ない。鳥居先生から嫌われたかもしれないんだぞ」
「……そう思うなら、なんでそんなことしたんだよ」
「それは……」
言い辛そうに一成が黙り込む。良いタイミングで店員がキンキンに冷えたビールを持ってきた。一成が受け取る。薫は襖を閉めて、振り返ると唖然とした。またもや一成が一気にビールを流し込んでいたのだ。さすがに慌ててジョッキを奪う。
「とりあえず落ち着け! 話してみろ。聞くから」
一成にそう言えば、頭が少しは冷えたのか一拍置いた後話し始めた。
「鳥居先生の家に初めて行った時、倒れている先生を見て心臓が止まるかと思った。真っ白な顔がまるで仏さん見ているみたいで。抱き抱えたら軽すぎて、驚いた」
ああ、とその点については薫も同意した。平均身長はあるのだろうが、細すぎてこちらが心配になる体型をしている。鳥居先生は集中したら他の事に目がいかなくなるタイプらしく、ご飯を抜いてしまったなんて話しを本人から聞いたことがあった。なので、薫は片手で食べれて長期保存できるものを差し入れとして定期的に送りつけていたのだが————そうか、これも鮫島には話していなかったなと思い至る。心当たりがあることに気付かれたのかジロリと睨まれたがそしらぬ顔で続きを促す。
「ほっとけないと思ったんだ。この人をほうっておいたら死んでしまうんじゃないかって。それから時間がある時には様子を見に行っていた。掃除とかは……鳥居先生が執筆に集中している間他が疎かになるって言うなら俺が代わりにすればいいと思って……。も、もちろん下心あってしたわけじゃないぞ!」
いや、その言い方は怪しいヤツ。とは思ったが口にはしない。それで? と先を話すように促した。
「ただ……その服装にまで口を出したのは……どうかと自分でも思った。だがな!」
「お、おう」
瞳孔が今にも開きそうな剣幕に薫は若干引き気味になる。一成は薫の様子を気にも留めず続ける。
「あの人、していないんだ!」
「へぇ……ん? ……何を」
「あれだよ、あの」
口元を隠すように片手で覆ってはいるが、その顔はお酒のせいだとは思えないほど真っ赤だ。一成ができるだけ小さな声で呟く。その単語は薫の耳にもきちんと届いた。
ガタン
隣の個室で何かが落ちた音がする。しかし、一成はそんなことも気にならないくらい自分の発言に動揺していた。
「直接言うわけにもいかないし。でも、あの恰好で宅配が来た時にそのまま出ているのかもしれないと考えると言わずにはいられなくてだな」
「ああ、そうだな。それは……確かに」
さすがにこれは渚を庇うこともできない。むしろ、よく言ったと一成を褒めてやりたいくらいだ。
「うーん」
「なんだ? 何が言いたいんだ?! むしろ、俺はどうしたら鳥居先生の担当のままでいられるんだ?!」
「まぁ、落ち着けって。多分大丈夫だよ」
「で、でも……俺は嫌われているんだろう?!」
「鳥居先生は誤解しているだけだからさ。ちゃんと、話せばわかってくれるよ。お前の仕事は認めていたしさ」
「ほんとうに?」
「ああ。あ……でも、あれは?」
「あれ?」
「ほら、仕事の時背後にたって無言で圧力をかけているっていう」
「? そんなことをした覚えはないが」
心当たりはないと首をひねる一成。しばらくして、もしやと呟いた。
「あの神タイムのことか?」
「神タイム?」
「神作品が創られている瞬間をこの目で見ることができる至福の時間」
「……なるほど」
真顔で語る一成に、それ以上何も返さなかった。またもや、隣からガチャンと音がする。さすがに一成もこれには眉を上げ、視線を向けた。
「な、なぁ。そういえばお前わざわざ参考になりそうな画像や、映像を編集して鳥居先生に渡してるって聞いたんだけど本当にそこまでしてるの?」
「ああ」
「へぇ。ちなみに、もしキスシーンとか濡れ場シーンの男の心理とか聞かれた時はどうするんだ?」
参考までにと軽い気持ちで聞いた質問だが、途端に一成が微動だにしなくなった。しばらくして、固い表情を浮かべたまま答える。
「その時はインタビューをして、その結果を渡す」
「え、そこまですんの?! 俺なら当たり障りのない答えを言うけど」
「だ、だってお前そんな……も、もし話してる途中で、間違って手とか出してしまったらどうするんだ」
「……いや、まずその発想がないから。……手、出すなよ鳥居先生に」
ジト目で告げれば、一成の目が泳ぐ。
「あ、当たり前だ……多分」
「めちゃくちゃ自信なさげじゃん」
「し、仕方がないだろう! 好きな人にそんな質問されたら、冷静でいられるはずがない」
なるほど、やはりそうだったのか。
一成から決定的な一言を聞けて、思わず口角が上がる。もう、これくらいで充分だろうと立ち上がった。
「薫?」
訝し気に見上げる一成に不敵な笑みを見せると、背中を預けていた壁をノックした。
「だってよ? 鳥居先生」
ガタガタと隣から今まで一番大きな音が聞こえる。
しばらくすると一成達がいる個室の襖が開く。視線を泳がせ、顔を真っ赤にした渚が現れた。現状を理解しきれず未だに呆然としている一成の肩を叩き、薫は個室から出た。代わりに渚に座るように伝える。お会計の札を二つ持ってレジへと向かった。
先程までいた個室から必死に謝り続ける男女の声が聞こえた気がするが、気のせいだろう。
ひと仕事終えた後の達成感を覚えた薫は、スマホを取り出して愛する妻へと帰宅の連絡をいれた。すぐに返事が戻ってくる。レスポンスの早さに思わず頬が緩んだ。
「たまには、ケーキでも買って帰るかな」
この時間でも開いているケーキ屋を思い出しながら、駅方面へ向かって足を進めた。
『彼女』と言っても薫には愛する妻がいるので、所謂男女の関係では全くない。さらに言えばこんな風に食事を供にする仲でも無いはずだ。
それなのになぜ、こんな狭い空間で二人で食事をしているのかというと。先日、宮前 渚からどうしても聞いて欲しい話があると頼まれたからだ。その本人は今、目の前で顔を真っ赤にしてくだを巻いている。
「どうしてなんですかぁ~」
たいしてお酒は強くないと言っていた渚は、宣言通りかけつけ一杯ですでにぐでんぐでんに酔っぱらっている。しかも、あまり良い酔い方とは言えない。だいぶ精神的にキテいるようだ。
渚がこうなった原因は、今の編集担当者にある……らしい。
今年度から担当が変わり、早速いろいろとあったようだ。その結果、前担当者の薫が呼び出されたのである。電話で済ませて、上に相談するなど別の方法もあったのだが……。
薫は渚の現担当者鮫島 一成の不愛想な顔を思い浮かべた。そして、目の前の小説家『鳥居先生』の顔を見て、溜息を洩らす。
『だから言っただろう』とここには居ない人物に向かって言葉を投げかけた。もちろん返ってくるわけはないが。
「私言ったじゃないですかぁ。担当は小林さんのままにしてくださいって。それができないなら、優しい人がいいですって言ったじゃないですかぁ」
シクシクと泣き出してしまった渚の言葉を薫はうんうんと聞きながら、アイロンがしっかりとかけられたハンカチを差し出した。渚はそれを受け取り見つめた後、ジロリと薫を見て何か不穏な言葉を吐いて、思いっきり鼻をかんだ。
……え? いや、いいけどさ。
言葉にせずとも内心引いていることが渚にも伝わったのだろう。フンッと鼻で笑われた。渚にしては珍しい態度。まぁ、今日は仕方がないかと苦笑して続きを話すように促す。
「新しい担当に鮫島さんを推したのは小林さんだって聞きました」
「うん。あいつは同期で、仕事ができるやつって知っているからね」
正しくは、一成から頼まれたのが決定打なのだが。
「そうですね。仕事もできます」
「……何か問題があった?」
「仕事上では、まぁちょっと言葉はキツイですけど、助けてもらっていることの方が多いくらいですし、問題はありません」
「仕事以外で何かあるの?」
薫がきょとんとして、首を傾げる。というのも、『鳥居先生』とのやり取りは今までほぼメールと電話で済んでいたからだ。そんな中、仕事以外で何が起きるというのか。皆目見当もつかなかった。渚が言い辛そうに顔を背けて小さな声で説明を始める。
「一度体調崩して締め切り過ぎっちゃったことがあるんです」
「うん」
季節の変わり目に渚が体調を崩すことは薫も重々承知している。まぁ、元々締切なんてものは本来の期日よりも余裕をもって決めているので問題は無いのだが。
だからこそ、鮫島に引き継ぐ際に伝え忘れていた。
「そうしたら、あの人家まできたんです」
「ああ。まぁ、でもそれはあいつもほら。鳥居先生の事を心配して……」
「確かに看病をしてくれた時は顔に似合わず優しい人だな、と思ったんです。でも……」
「でも?」
その先に興味が湧いて前傾姿勢になる。一体あの仕事人間のヤツが何をやらかしたのか。
「その後もあの人、毎週のように家に来ては勝手に家の中掃除したり、せ、洗濯までしたり、しまいには私の服装にまで口を出すんです! 『外出しないからといって着替えないなど言語道断』とか言って……ご飯作ってくれるのは助かってはいるんですけど。でも、仕事している間も背後にたって無言で圧力をかけてきたりして……正直、限界なんです!」
「なっ……、そうなんですね。それは確かに……干渉しすぎですね」
『何をしてるんだあいつは!』と叫びそうになるのをギリギリで止めた自分を褒めたい。
いや、それにしても……。毎週鳥居先生の家に行って家政婦まがいのことをしてるって……いや、え? まず、あいつにそんな暇あったか? というよりも、もしや、あいつ自腹でわざわざ通ってるっていうことか?
頭の中がぐわんぐわんしてきて、手で押さえる。
「小林さん? 大丈夫ですか? 酔っちゃいました?」
「ああ、うん。そうかも。……えっと、それよりも聞きたいんだけど」
「はい」
「鮫島がそういうの止めたら、今のままでも問題なかったりする?」
「んー。そうですね。仕事面では助けられてることも多いですし。不思議と鮫島さんは私が必要としているものを曖昧に伝えてもきっちり揃えてくれるんですよね。そういう意味では鮫島さんとの相性は良いと思います」
なるほどと頷く。
「それなら」
薫はあることを渚に提案する。渚は目を瞬かせ、しばらくの間思案した後、頷いた。
—————―――
鮫島 一成は呼び出された店の前で腕時計を一度確認した。どう見ても約束の時間は過ぎている。とりあえず、さっさと入ろうと店の扉に手をかけた。店の入口ですれ違った女性二人組が一成を見て、黄色い声を上げた。
騒がれた当人は彼女達に目をくれることも無く、まっすぐに薫がいるであろう個室へと向かい、襖を開いた。
「すまない。遅れた」
「いや、仕事お疲れ。はい、これメニュー」
お品書きを受け取りさっそく目を通す一成を見ながら、薫は先程聞こえてきた声の原因はコイツだなと推測していた。そして、その彼女達への対応の仕方も。
清潔感のある黒髪にオフィスカジュアルな服装。装飾品はアナログの腕時計のみという至ってシンプルな装いだが、その分スタイルの良さと整った顔立ちが際立っている。女性受けする見た目だ。
ただし、シルバーの眼鏡から覗く瞳は真正面から見ると少々つり上がり気味で、しばしば他人に冷たい印象を感じさせることがあった。実際そういう一面が無いとは言わないが、懐に入れた人間には甘いという一面も持ち合わせている。ということを付き合いの長い薫は良く知っていた。だからこそ、一成が渚の担当に立候補した時も後押しをしたのだが……渚の話を聞いた後だと、自分の認識が間違っていたのではと思わざるを得ない。
お通しとビールが届き、まずは乾杯をする。ビールを一口喉に流し込むと、注文した料理が届くのを待たずに薫は口を開いた。
「なぁ、念願だった鳥居先生の担当はどうよ?」
鳥居先生の名前を出した途端に一成の肩がピクリと動いた。お通しに手をつけようとしていた箸も止まっている。薫はその様子を見て、遠回しに聞くのを止めた。
「鳥居先生に相談されたよ。『担当を変える事はできませんか』って」
ガバリと顔が上がる。その顔色は暗めの照明の下でもわかる程に悪くなっている。どうやら、心当たりはあるらしい。自覚がないわけではなさそうでホッとした。
「と、鳥居先生はな、なんと?」
声が震えている。
ここまで動揺する一成を見るのは初めてで、薫は少し楽しくなってきた。————お酒が回ってきたせいもあるかもしれない。
渚が言っていたことをそのまま一成に伝える。伝え終わった時には一成は頭を抱えていた。かなりショックを受けているらしい。自業自得だと思うのだが、さすがにそれは言わなかった。
「っ!」
一成がいきなり顔を上げたかと思うとジョッキに残っていたビールを一気に飲み干した。普段無茶な飲み方は絶対にしない一成の行動に驚いて、止める暇もなかった。
……まぁ、一杯目だしな。
なんて思っていたら襖をあけて近くにいた店員に空になったジョッキを突き出し、おかわりを頼んでいる。
「おい。明日も仕事だろ?あんまり無茶は」
「明日も仕事だろうが関係ない。鳥居先生から嫌われたかもしれないんだぞ」
「……そう思うなら、なんでそんなことしたんだよ」
「それは……」
言い辛そうに一成が黙り込む。良いタイミングで店員がキンキンに冷えたビールを持ってきた。一成が受け取る。薫は襖を閉めて、振り返ると唖然とした。またもや一成が一気にビールを流し込んでいたのだ。さすがに慌ててジョッキを奪う。
「とりあえず落ち着け! 話してみろ。聞くから」
一成にそう言えば、頭が少しは冷えたのか一拍置いた後話し始めた。
「鳥居先生の家に初めて行った時、倒れている先生を見て心臓が止まるかと思った。真っ白な顔がまるで仏さん見ているみたいで。抱き抱えたら軽すぎて、驚いた」
ああ、とその点については薫も同意した。平均身長はあるのだろうが、細すぎてこちらが心配になる体型をしている。鳥居先生は集中したら他の事に目がいかなくなるタイプらしく、ご飯を抜いてしまったなんて話しを本人から聞いたことがあった。なので、薫は片手で食べれて長期保存できるものを差し入れとして定期的に送りつけていたのだが————そうか、これも鮫島には話していなかったなと思い至る。心当たりがあることに気付かれたのかジロリと睨まれたがそしらぬ顔で続きを促す。
「ほっとけないと思ったんだ。この人をほうっておいたら死んでしまうんじゃないかって。それから時間がある時には様子を見に行っていた。掃除とかは……鳥居先生が執筆に集中している間他が疎かになるって言うなら俺が代わりにすればいいと思って……。も、もちろん下心あってしたわけじゃないぞ!」
いや、その言い方は怪しいヤツ。とは思ったが口にはしない。それで? と先を話すように促した。
「ただ……その服装にまで口を出したのは……どうかと自分でも思った。だがな!」
「お、おう」
瞳孔が今にも開きそうな剣幕に薫は若干引き気味になる。一成は薫の様子を気にも留めず続ける。
「あの人、していないんだ!」
「へぇ……ん? ……何を」
「あれだよ、あの」
口元を隠すように片手で覆ってはいるが、その顔はお酒のせいだとは思えないほど真っ赤だ。一成ができるだけ小さな声で呟く。その単語は薫の耳にもきちんと届いた。
ガタン
隣の個室で何かが落ちた音がする。しかし、一成はそんなことも気にならないくらい自分の発言に動揺していた。
「直接言うわけにもいかないし。でも、あの恰好で宅配が来た時にそのまま出ているのかもしれないと考えると言わずにはいられなくてだな」
「ああ、そうだな。それは……確かに」
さすがにこれは渚を庇うこともできない。むしろ、よく言ったと一成を褒めてやりたいくらいだ。
「うーん」
「なんだ? 何が言いたいんだ?! むしろ、俺はどうしたら鳥居先生の担当のままでいられるんだ?!」
「まぁ、落ち着けって。多分大丈夫だよ」
「で、でも……俺は嫌われているんだろう?!」
「鳥居先生は誤解しているだけだからさ。ちゃんと、話せばわかってくれるよ。お前の仕事は認めていたしさ」
「ほんとうに?」
「ああ。あ……でも、あれは?」
「あれ?」
「ほら、仕事の時背後にたって無言で圧力をかけているっていう」
「? そんなことをした覚えはないが」
心当たりはないと首をひねる一成。しばらくして、もしやと呟いた。
「あの神タイムのことか?」
「神タイム?」
「神作品が創られている瞬間をこの目で見ることができる至福の時間」
「……なるほど」
真顔で語る一成に、それ以上何も返さなかった。またもや、隣からガチャンと音がする。さすがに一成もこれには眉を上げ、視線を向けた。
「な、なぁ。そういえばお前わざわざ参考になりそうな画像や、映像を編集して鳥居先生に渡してるって聞いたんだけど本当にそこまでしてるの?」
「ああ」
「へぇ。ちなみに、もしキスシーンとか濡れ場シーンの男の心理とか聞かれた時はどうするんだ?」
参考までにと軽い気持ちで聞いた質問だが、途端に一成が微動だにしなくなった。しばらくして、固い表情を浮かべたまま答える。
「その時はインタビューをして、その結果を渡す」
「え、そこまですんの?! 俺なら当たり障りのない答えを言うけど」
「だ、だってお前そんな……も、もし話してる途中で、間違って手とか出してしまったらどうするんだ」
「……いや、まずその発想がないから。……手、出すなよ鳥居先生に」
ジト目で告げれば、一成の目が泳ぐ。
「あ、当たり前だ……多分」
「めちゃくちゃ自信なさげじゃん」
「し、仕方がないだろう! 好きな人にそんな質問されたら、冷静でいられるはずがない」
なるほど、やはりそうだったのか。
一成から決定的な一言を聞けて、思わず口角が上がる。もう、これくらいで充分だろうと立ち上がった。
「薫?」
訝し気に見上げる一成に不敵な笑みを見せると、背中を預けていた壁をノックした。
「だってよ? 鳥居先生」
ガタガタと隣から今まで一番大きな音が聞こえる。
しばらくすると一成達がいる個室の襖が開く。視線を泳がせ、顔を真っ赤にした渚が現れた。現状を理解しきれず未だに呆然としている一成の肩を叩き、薫は個室から出た。代わりに渚に座るように伝える。お会計の札を二つ持ってレジへと向かった。
先程までいた個室から必死に謝り続ける男女の声が聞こえた気がするが、気のせいだろう。
ひと仕事終えた後の達成感を覚えた薫は、スマホを取り出して愛する妻へと帰宅の連絡をいれた。すぐに返事が戻ってくる。レスポンスの早さに思わず頬が緩んだ。
「たまには、ケーキでも買って帰るかな」
この時間でも開いているケーキ屋を思い出しながら、駅方面へ向かって足を進めた。
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