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前編
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「あ」
どうりで寒いと思った。窓の外にはよく見なければわからない程の小さな雪がはらはらと舞っている。
しばらく外を見ているとスマホが鳴った。身体がビクリと跳ねる。
――――きた。
永莉は緊張した面持ちでスマホに手を伸ばした。
◇
二月十四日。バレンタイン。家族や仲のいい友人、好きな人にチョコを渡す日。渡す相手のいない永莉にとっては変哲の無い日――――だった。
元々、後藤 永莉は人付き合いが嫌いでも苦手でもない。ただ、何度も家庭の事情で転校を繰り返していくうちに、新しい人間関係を築くのが億劫になっていっただけだ。今の学校に転入してきた時も親しい友人を作るつもりはなかった。当たり障りのない程度の関係を築ければいい。そう思っていた。
最初のうちは永莉に興味津々だったクラスメイト達も次第に落ち着いていった。自ずと永莉は一人になることが多くなる……はずだった。なのに、一人だけ、永莉に声をかけ続ける人がいた。
それが、彼だ。初めてできた永莉にとって特別な存在。
「はよ」
「おはよ」
玄関の扉を開けた瞬間、挨拶が飛んでくる。そこには、いつもどおり佐々木 慶久が待っていた。
ほぼ毎日のように一緒に登下校をしている男女。はたから見れば付き合っていると勘ぐられても仕方がない。が、別に付き合っているわけではない。
永莉が転入初日に迷子になっているところに、面倒見のいい慶久が出くわしたのがきっかけだった。とはいえ、転入してきてからもう数ヶ月以上経っている。さすがの永莉も迷子にはならない……はずなのだが、今も二人は一緒に登下校を続けていた。
教室に入るとすぐにいつもと空気が違うことに気づいた。バレンタインだからか、皆どことなく浮ついているようだ。独特の空気感に影響されてか、なんだか永莉もそわそわしてきた。
帰りの挨拶が終わり、各々動き出す。そそくさと教室を出る者、教室で時間を潰そうとする者、我関せずで過ごす者など様々だ。
永莉も覚悟を決め、立ち上がった。
――――いつもどおり。いつもどおりで大丈夫。
そう何度も心の中で唱えて慶久に近づく。騒いでいた男子達が永莉に気づいた。その中の一人が慶久に耳打ちをする。何を……言っているのだろうか。思わず足が止まった。
振り向いた慶久と目が合う。
「帰るか」
「うん」
その瞬間男子達が冷やかすような声を上げた。慶久の眉間に皺が一気による。
あっ、と思ったと同時に永莉は慌てて慶久の服の裾を引いた。
「行こうよ」
「ああ……そうだな」
慶久が素直に頷き返してくれたことにホッとする。周りの囃し立てるような声は一切聞こえないフリをして教室を出る。気づかないうちにどんどん早足になっていた。それでも、身長差が三十センチもある慶久との距離は開かなかったけれど。
ちらりと、慶久の横顔を見上げる。
慶久は……いつも輪の中心にいて場を盛り上げてくれるムードメーカーだ。ちょっと(いや、だいぶ)おばかだけど、運動はできるし、顔も整っているし、気も利く。他の人達から見た慶久の印象も概ね同じだと思う。
ただ、女子にモテるかと言われたら微妙だ。ノンデリ発言が多いせいで女子から残念男子と言われている。黙っていればいいのに、とか言われているのをよく聞く。正直、それがなければかなりモテると思う。
でも……多分だけど……慶久自身がそれを望んでいない。女性側がラインを超えようとした瞬間に壁をつくって突き放す。
『いいやつ止まりの慶久』そう自他ともに認めている慶久。
だけど、ここ最近そんな慶久にも浮ついた噂が流れている。その相手というのが、他でもない永莉だ。
そのことに、永莉も気づいている。周りのあからさますぎる反応に気づかない程鈍感ではない。それでも、気づかないフリを続けているのは、慶久がその話題を避けたがっているから。
永莉は慶久に特別な感情を抱いているが、うぬぼれているつもりはない。恋愛対象として見られていると思ったこともない。ただ、他の人よりは少しだけ特別な存在になれている……とは思っていた。
だから、勝手に大丈夫だと思っていたのだ。……結局、うぬぼれていたらしい。
「悪い。これは……受け取れない」
「え」
チョコを突き出したまま呆然と慶久を見上げる。眉間に皺を寄せた慶久と目があった。気まずげに慶久が視線を逸らす。
「実はこの後あいつらと会う約束しててさ……だからその、チロルチョコとかならともかく……さすがにこれ持ってたら勘違いされそうっていうか」
「そっ、か」
チョコを持った手がだらりと落ちる。気まずい空気が流れる。――――このままじゃダメだ。
永莉は無理矢理笑顔を浮かべて顔を上げた。
「今日も送ってくれてありがとうね」
「あ、ああ」
「それじゃあ、また明日」
いつもどおりの永莉に安堵したのか、堅かった表情の慶久に笑顔が戻る。
「おう。またな」
「うん」
手を振り、永莉は家の中へ入った。扉の向こうで足音が遠ざかっていく。完全に足跡が聞こえなくなってから永莉はその場に座り込んだ。
万が一にでも慶久に聞こえないようにと口を両手で覆う。目から溢れた液体が頬を伝い、指を伝い、服を濡らしていく。滲む視界の端に、床に落ちたチョコの箱が見えた。初めて用意したチョコ。きっと箱の中はぐちゃぐちゃになっているだろう。今はそのチョコを見たくなくて目を閉じた。
◇
次の日の朝、扉を開けるといつものように慶久が待っていた。
「おはよう」
「はよ」
いつも通りの挨拶。
――――よかった。気づいていないみたい。
昨晩何度も目を冷やして温めてを繰り返したおかげだ。
学校に到着し、いつも通り授業が始まる。
一つだけ違ったのは……
「後藤」
「はい」
帰りのホームルームの時間。担任に呼ばれ、前に出る。何度しても慣れないこの時間。特に今回は……永莉は声が震えないように気をつけながら言葉を紡いだ。
「突然ですが、今日を最後に転校することになりました。短い間でしたが、今までありがとうございました」
簡潔に告げ、頭を下げる。ざわめきが聞こえてくる。視線をたくさん感じた。一度目にぎゅっと力をいれ、ゆっくり顔を上げる。ただ、まっすぐに前を見ることはできず、視線を少しだけずらした。
――――今、慶久はどんな顔をしているのだろう。驚いているかな? 怒っているかな? 傷ついているかな? それとも何も感じてない?
気にはなるけど、そちらを見る勇気はない。
本当は昨日慶久に告げるつもりだった。でも、言えなかった。チョコを受け取ってもらえなかったあの時点でもう永莉の勇気は砕け散ってしまっていた。
ホームルームが終われば後は帰るだけだ。ただ、今日はさすがにいつもとは違った。転入してきた時と同様に人に囲まれる。適当に返答しながら、いつこの輪から抜け出そうかと考える。
いきなり腕を引っ張られた。驚いて顔を上げる。
「帰るぞ」
「う、ん」
無表情の慶久に反射的に頷き返す。声のトーンがいつもとは違った。周りも慶久の雰囲気が違うことを感じ取ったのか、二人に声をかける人は誰もいなかった。掴まれた手は離れたが、永莉は無言で慶久の後をついていく。
いつも慶久は永莉の歩幅にあわせて歩いてくれていたのだとよくわかる。必死についていくのが精一杯だ。しばらく歩くと、遅れている永莉に気づいたのか慶久の歩くスピードが緩くなった。永莉がホッと息を吐く。慶久が口を開いた。
「なんで言わなかった」
「え?」
「転校すること」
慶久が今どんな顔をしているのか確かめたくて見上げたが、慶久は前を見ていてよくわからない。諦めて視線を逸らして口を開いた。
「それは、言うタイミングがなかったというか」
「タイミングなんかいつでもあっただろう」
「それは、そう、なんだけど。慶久にはお世話になったし、本当はもっとはやく言おうとは思ってたんだけど……何となく言い出しにくくてずるずる伸ばしちゃって結局言えなくなって……ごめん」
「ふーん。……で?」
「で?」の意味がわからず、もう一度顔を上げる。
「引っ越しする前に会える日あるの? てか、どこに引っ越すの?」
予想していなかった質問に瞬きする。慶久の眉間にさらに皺がよった。慌てて口を開く。
「土曜! 土曜なら会えると思う。引っ越し先は〇〇の△△ってとこ」
「〇〇の△△……ここか。……遠いけど、会いに行けなくはないか」
「え」
スマホ片手に思案している慶久に動揺する。
まさか、転校した後も会おうとしてくれるのか。もう今日が最後だと思っていたのに。いいようのない嬉しさがじわじわと込み上げてくる。にやける顔を隠すように下唇を噛み地面を見つめた。
「おまえさー」
「な、なに?」
呆れたような声が聞こえてきて慌てて顔を上げる。慶久は永莉をじっと見つめた後、深く息を吐き出した。
「まあ、いいわ。じゃあ、土曜は俺に時間くれる?」
「土曜なら、うん。一日慶久のために空けておく」
悩む時間はなかった。頭で考えるよりも先に頷き返していた。
「約束な」
慶久がやっと表情を和らげる。永莉も自然と笑みを浮かべていた。
「じゃあ、朝迎えにくるから」
「朝から?」
「そ。朝から遊ぶから準備しとけよ」
「わかった。楽しみにしてる」
「おう」
気づいたら自宅の前だ。話に夢中になっていて道中の記憶がない。
慶久が微笑み、片手を上げて帰って行くのを見送る。
永莉は玄関に入ると扉に背中をつけ、両手で口元を覆った。
――――これは……もしかしてデートというやつ?!
いや、あの慶久のことだから深い意味はないのかもしれない。でも、それでもいい。
永莉にとっては、間違いなく特別な日になる。
どうりで寒いと思った。窓の外にはよく見なければわからない程の小さな雪がはらはらと舞っている。
しばらく外を見ているとスマホが鳴った。身体がビクリと跳ねる。
――――きた。
永莉は緊張した面持ちでスマホに手を伸ばした。
◇
二月十四日。バレンタイン。家族や仲のいい友人、好きな人にチョコを渡す日。渡す相手のいない永莉にとっては変哲の無い日――――だった。
元々、後藤 永莉は人付き合いが嫌いでも苦手でもない。ただ、何度も家庭の事情で転校を繰り返していくうちに、新しい人間関係を築くのが億劫になっていっただけだ。今の学校に転入してきた時も親しい友人を作るつもりはなかった。当たり障りのない程度の関係を築ければいい。そう思っていた。
最初のうちは永莉に興味津々だったクラスメイト達も次第に落ち着いていった。自ずと永莉は一人になることが多くなる……はずだった。なのに、一人だけ、永莉に声をかけ続ける人がいた。
それが、彼だ。初めてできた永莉にとって特別な存在。
「はよ」
「おはよ」
玄関の扉を開けた瞬間、挨拶が飛んでくる。そこには、いつもどおり佐々木 慶久が待っていた。
ほぼ毎日のように一緒に登下校をしている男女。はたから見れば付き合っていると勘ぐられても仕方がない。が、別に付き合っているわけではない。
永莉が転入初日に迷子になっているところに、面倒見のいい慶久が出くわしたのがきっかけだった。とはいえ、転入してきてからもう数ヶ月以上経っている。さすがの永莉も迷子にはならない……はずなのだが、今も二人は一緒に登下校を続けていた。
教室に入るとすぐにいつもと空気が違うことに気づいた。バレンタインだからか、皆どことなく浮ついているようだ。独特の空気感に影響されてか、なんだか永莉もそわそわしてきた。
帰りの挨拶が終わり、各々動き出す。そそくさと教室を出る者、教室で時間を潰そうとする者、我関せずで過ごす者など様々だ。
永莉も覚悟を決め、立ち上がった。
――――いつもどおり。いつもどおりで大丈夫。
そう何度も心の中で唱えて慶久に近づく。騒いでいた男子達が永莉に気づいた。その中の一人が慶久に耳打ちをする。何を……言っているのだろうか。思わず足が止まった。
振り向いた慶久と目が合う。
「帰るか」
「うん」
その瞬間男子達が冷やかすような声を上げた。慶久の眉間に皺が一気による。
あっ、と思ったと同時に永莉は慌てて慶久の服の裾を引いた。
「行こうよ」
「ああ……そうだな」
慶久が素直に頷き返してくれたことにホッとする。周りの囃し立てるような声は一切聞こえないフリをして教室を出る。気づかないうちにどんどん早足になっていた。それでも、身長差が三十センチもある慶久との距離は開かなかったけれど。
ちらりと、慶久の横顔を見上げる。
慶久は……いつも輪の中心にいて場を盛り上げてくれるムードメーカーだ。ちょっと(いや、だいぶ)おばかだけど、運動はできるし、顔も整っているし、気も利く。他の人達から見た慶久の印象も概ね同じだと思う。
ただ、女子にモテるかと言われたら微妙だ。ノンデリ発言が多いせいで女子から残念男子と言われている。黙っていればいいのに、とか言われているのをよく聞く。正直、それがなければかなりモテると思う。
でも……多分だけど……慶久自身がそれを望んでいない。女性側がラインを超えようとした瞬間に壁をつくって突き放す。
『いいやつ止まりの慶久』そう自他ともに認めている慶久。
だけど、ここ最近そんな慶久にも浮ついた噂が流れている。その相手というのが、他でもない永莉だ。
そのことに、永莉も気づいている。周りのあからさますぎる反応に気づかない程鈍感ではない。それでも、気づかないフリを続けているのは、慶久がその話題を避けたがっているから。
永莉は慶久に特別な感情を抱いているが、うぬぼれているつもりはない。恋愛対象として見られていると思ったこともない。ただ、他の人よりは少しだけ特別な存在になれている……とは思っていた。
だから、勝手に大丈夫だと思っていたのだ。……結局、うぬぼれていたらしい。
「悪い。これは……受け取れない」
「え」
チョコを突き出したまま呆然と慶久を見上げる。眉間に皺を寄せた慶久と目があった。気まずげに慶久が視線を逸らす。
「実はこの後あいつらと会う約束しててさ……だからその、チロルチョコとかならともかく……さすがにこれ持ってたら勘違いされそうっていうか」
「そっ、か」
チョコを持った手がだらりと落ちる。気まずい空気が流れる。――――このままじゃダメだ。
永莉は無理矢理笑顔を浮かべて顔を上げた。
「今日も送ってくれてありがとうね」
「あ、ああ」
「それじゃあ、また明日」
いつもどおりの永莉に安堵したのか、堅かった表情の慶久に笑顔が戻る。
「おう。またな」
「うん」
手を振り、永莉は家の中へ入った。扉の向こうで足音が遠ざかっていく。完全に足跡が聞こえなくなってから永莉はその場に座り込んだ。
万が一にでも慶久に聞こえないようにと口を両手で覆う。目から溢れた液体が頬を伝い、指を伝い、服を濡らしていく。滲む視界の端に、床に落ちたチョコの箱が見えた。初めて用意したチョコ。きっと箱の中はぐちゃぐちゃになっているだろう。今はそのチョコを見たくなくて目を閉じた。
◇
次の日の朝、扉を開けるといつものように慶久が待っていた。
「おはよう」
「はよ」
いつも通りの挨拶。
――――よかった。気づいていないみたい。
昨晩何度も目を冷やして温めてを繰り返したおかげだ。
学校に到着し、いつも通り授業が始まる。
一つだけ違ったのは……
「後藤」
「はい」
帰りのホームルームの時間。担任に呼ばれ、前に出る。何度しても慣れないこの時間。特に今回は……永莉は声が震えないように気をつけながら言葉を紡いだ。
「突然ですが、今日を最後に転校することになりました。短い間でしたが、今までありがとうございました」
簡潔に告げ、頭を下げる。ざわめきが聞こえてくる。視線をたくさん感じた。一度目にぎゅっと力をいれ、ゆっくり顔を上げる。ただ、まっすぐに前を見ることはできず、視線を少しだけずらした。
――――今、慶久はどんな顔をしているのだろう。驚いているかな? 怒っているかな? 傷ついているかな? それとも何も感じてない?
気にはなるけど、そちらを見る勇気はない。
本当は昨日慶久に告げるつもりだった。でも、言えなかった。チョコを受け取ってもらえなかったあの時点でもう永莉の勇気は砕け散ってしまっていた。
ホームルームが終われば後は帰るだけだ。ただ、今日はさすがにいつもとは違った。転入してきた時と同様に人に囲まれる。適当に返答しながら、いつこの輪から抜け出そうかと考える。
いきなり腕を引っ張られた。驚いて顔を上げる。
「帰るぞ」
「う、ん」
無表情の慶久に反射的に頷き返す。声のトーンがいつもとは違った。周りも慶久の雰囲気が違うことを感じ取ったのか、二人に声をかける人は誰もいなかった。掴まれた手は離れたが、永莉は無言で慶久の後をついていく。
いつも慶久は永莉の歩幅にあわせて歩いてくれていたのだとよくわかる。必死についていくのが精一杯だ。しばらく歩くと、遅れている永莉に気づいたのか慶久の歩くスピードが緩くなった。永莉がホッと息を吐く。慶久が口を開いた。
「なんで言わなかった」
「え?」
「転校すること」
慶久が今どんな顔をしているのか確かめたくて見上げたが、慶久は前を見ていてよくわからない。諦めて視線を逸らして口を開いた。
「それは、言うタイミングがなかったというか」
「タイミングなんかいつでもあっただろう」
「それは、そう、なんだけど。慶久にはお世話になったし、本当はもっとはやく言おうとは思ってたんだけど……何となく言い出しにくくてずるずる伸ばしちゃって結局言えなくなって……ごめん」
「ふーん。……で?」
「で?」の意味がわからず、もう一度顔を上げる。
「引っ越しする前に会える日あるの? てか、どこに引っ越すの?」
予想していなかった質問に瞬きする。慶久の眉間にさらに皺がよった。慌てて口を開く。
「土曜! 土曜なら会えると思う。引っ越し先は〇〇の△△ってとこ」
「〇〇の△△……ここか。……遠いけど、会いに行けなくはないか」
「え」
スマホ片手に思案している慶久に動揺する。
まさか、転校した後も会おうとしてくれるのか。もう今日が最後だと思っていたのに。いいようのない嬉しさがじわじわと込み上げてくる。にやける顔を隠すように下唇を噛み地面を見つめた。
「おまえさー」
「な、なに?」
呆れたような声が聞こえてきて慌てて顔を上げる。慶久は永莉をじっと見つめた後、深く息を吐き出した。
「まあ、いいわ。じゃあ、土曜は俺に時間くれる?」
「土曜なら、うん。一日慶久のために空けておく」
悩む時間はなかった。頭で考えるよりも先に頷き返していた。
「約束な」
慶久がやっと表情を和らげる。永莉も自然と笑みを浮かべていた。
「じゃあ、朝迎えにくるから」
「朝から?」
「そ。朝から遊ぶから準備しとけよ」
「わかった。楽しみにしてる」
「おう」
気づいたら自宅の前だ。話に夢中になっていて道中の記憶がない。
慶久が微笑み、片手を上げて帰って行くのを見送る。
永莉は玄関に入ると扉に背中をつけ、両手で口元を覆った。
――――これは……もしかしてデートというやつ?!
いや、あの慶久のことだから深い意味はないのかもしれない。でも、それでもいい。
永莉にとっては、間違いなく特別な日になる。
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