初めてのリアルな恋

黒木メイ

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「本当にいいのね?」
「はい。ばっさりいっちゃってください」

 ためらいなく告げた華恋に、店長も真剣な顔で頷き返し、華恋の髪へと手を伸ばした。
 健ちゃんを推し始めてからずっと伸ばし続けてきた髪。このロングヘアを保つために、この美容室には大変お世話になってきた。

 特にいつも担当してくれている店長とはもう数年来の仲だ。華恋の髪事情だけではなく、伸ばし続けてきた理由や推し活への熱量も知っている。
 だからこそ、何度も念を押してきたのだろう。
 ――――もしかしなくても……失恋したと思われてそう。

 華恋が髪を切ろうと思い至った理由はおそらく店長が考えているものとは少々ずれているのだが、いかんせん説明が難しい。ある意味今までの推し活への区切りとも言えるのでわざわざ否定する必要もなあ……というのが正直なところだ。

 何とも気まずい心地で華恋はカットが終わるのを黙って待っていた。いつもは何かと推しの話を振って会話を弾ませようとする店長も今日は黙っている。

 華恋が髪を伸ばし続けていたのは健ちゃんがロングヘアの女性が好みだと言っているのを聞いたのがきっかけだった。推しが言っているなら伸ばさないと!というよくわからない使命感に駆られたのだ。
 推しに会いにいくつもりはなくても世の中何があるかわからない。万が一、推しに出くわした時に後悔しないようにと常に自分磨きには力をいれていたのだ。

 そんな華恋が大切にしていた髪を切ろうと思ったのは……健ちゃんが結婚したからでもなければ、奥さんの裕子さんがショートヘアだったからでもない。
 今までの健ちゃんへの気持ちに区切りをつけるためだった。結果として恋愛感情ではなかったとはいえ、似た感情を持っていたことは事実だ。
 だから、これからは健ちゃんのことを一人の人間として推していこうという気持ちの切り替えが必要だと思ったのだ。そう、完全なる自己満足だ。

 恋愛初心者の私はそうでもしないと、進めないと思ったから。

 じょきじょきとハサミの音が近くで聞こえ、パサパサと髪の毛が床に散らばっていく。今まで見たことのない量だ。
 ふと鏡を見ると、ミディアムボブになった自分と目があった。
 ロングの自分を見慣れていたせいかまるで別人に見える。思わず鏡の中の自分をじっと見つめた。

「はい。完成」

 鏡に映った店長が満足そうに微笑んでいる。華恋は瞬きを繰り返し、そして、改めて鏡の中の自分を見つめた。多少幼くなった気もするが、案外似合っているようにも見える。
 なにより、すっきりした。見た目も、心も。

「ありがとうございます」

 華恋は満面の笑みを浮かべた。

 店長に見送られ、美容室を出て、歩く。駅……ではなく反対方向に、ぶらぶらとあてもなくウインドウショッピングを楽しむ。足取りは最初より軽かった。

「あれ?」

 すれ違いざま、聞き覚えのある声が聞こえてきて、華恋は半身を翻した。

「えっ」

 思わず漏れた声。何故か目の前に健ちゃんがいた。いや、健ちゃんではない。だ。

「…………」
「…………」

 華恋はぺこりと頭を下げ立ち去ろうとした。が、

「ちょっと待ったあ!」
「?!」

 手を引かれ止められる。驚いて大声を上げなかった自分を褒めたい。

「な、なんでしょうか?」
「ヘアスタイル違うけど……この前英治といた子だよね?」
「……はい」

 嫌な予感はしたが嘘はつけない。コクリと頷く。すると、健太はにこにこと笑みを浮かべて思いがけない提案をしてきた。

「今暇?」
「ひま?……私は、暇ですけど」

 戸惑いながら返すと、健ちゃんが目を輝かせた。

「じゃあ、ちょっとお茶付き合ってよ!」
「え、いや、ええ?」

 華恋が応える前に健太が歩き始める。華恋は慌てて健太の後ろ姿を追いかけた。

 健太が入ったのは近くのファストフード店。時間帯関係なく客が多い店だ。華恋は人の目が気になって気が気では無い。一方の健太は全く気にしていないようでさっそくレジに並んでいる。

「メニュー何にする?」
「え、あ、コレで」
「お、じゃあ俺はこっちで」

 とにかく早くこの場から逃げたい一心で華恋はメニュー表の目についたものを適当に選んだ。店員の視線が、並んでいる他の客たちの視線が気になって仕方ない。
 ――――健太さんはいったい何を考えてるの?!

 華恋ははやる気持ちを押さえ、注文の品を受け取ると足早に人気の少ない席を目指して足を進めた。奥の人目が付きにくい席に座り、ようやくまともに呼吸ができた。そんな華恋の様子を見て健太はクスクス笑う。

「そんなに気にしないでもいいのに~」
「無理です」

 つい、口調強めで答えてしまった。
 こんなところで過激なファン達に見つかったら何をされるかわからない。健太さんは芸能界を卒業して一般人のつもりかもしれないが、未だに自称ファンクラブ会員を名乗っている健太さんのファン達はたくさんいるのだ。

「俺達の間には何も無いのに?」

 華恋は顔を上げた。意味深な視線を華恋に送る健太と目が合う。華恋はグッと眉間に力を入れて睨み返した。

「話が通じる相手だとは限らないじゃないですか」
「確かに」

 それはそうだ、と肩をすくめ、苦笑する健太。その笑みは先程までのものとは違い、素に見えた。

「ありがとうね」
「何がですか?」
「裕ちゃんのこと、気にかけてくれて」

 ああ、と華恋は目を瞬かせる。

「余計なお世話だったかもしれませんけど。……逃げ場所は多い方がいいかなと」
「女性の味方がいなかったから本当に助かる。俺や英治も気にかけてはいるけど、俺らが相手だと裕ちゃんは強がろうとするから……」
「そう、何ですね」

 わかる気がする。ここ数日の記憶を思い出す。
 森さん経由だったおかげか、あの後本当に裕子さんから連絡がきた。主に森さんとのことをあれこれ聞かれただけだったが……何となくそのやりとりだけでも裕子さんがどんな人かわかった。
 裕子さんは他人(特に年下)には優しく、自分に厳しく、なタイプなんだと思う。THE・姉御肌という感じだ。私の友達にも似ている人がいるからなんとなくわかる。

 健太が目を伏せ、呟く。

「昔から裕ちゃんは隠しごとが上手いんだよね。大丈夫? って聞いても大丈夫しか返ってこないし。俺ってそんなに頼りないのかな。本当なさけねぇっ」
「それだけ、裕子さんも健太さんのことを大切に思ってるってことじゃないんですか。余計な心配はかけたくないというか」

 自嘲するような言葉に思わず言葉を被せる。健太が顔を上げ華恋をじっと見つめた。
「まあ、甘え下手……っていうのもあるかもしれませんけど。そこはほら、旦那さんの出番なんじゃないですか?」
 ね? と華恋が微笑むと、「そうだね」と健太も微笑み返した。

 その後、健太と華恋はたわいもない会話をして和やかな雰囲気のまま別れた。

 ――――――――


 出社した華恋はすぐにいつもと違う雰囲気を感じとった。痛いくらいに視線が華恋に集中している。
 最初は髪を切ったからだと思ったが違うようだ。――――何?


 訝しげに周りの様子を窺っていると、森と目が合った。
 華恋は声をかけようとしたが、それよりも先に森がフイッと顔を逸らした。

「え?」

 小さく声が漏れた。不安が募る。

「渡辺さ~ん。これって渡辺さん?」

 近くにいた女性社員から声を掛けられる。
 困惑したまま、差し出されたスマホを覗く。そこには目にモザイクがかかっているが確かに華恋が映っていた。向かいの席に座っているのは健太だ。すぐにその画像がいつ撮られたものなのかわかった。

 ファンに見られた可能性は考えていたが、まさかゴシップ記事に載る可能性までは考えていなかった。
 しかも、そこには何故か、華恋が健太と結婚した一般人女性として載っていたのだ。

「はあ?!」と叫びそうになったのを堪えて口を閉ざす。
 代わりに冷静な口調で

「違いますね」

 とだけ答えた。内心の焦りはバレなかったようで、ざわざわ騒いでいた周りが、「なんだー」と声を上げ散っていく。

 女性社員も、
「そうよね~。渡辺さんが結婚したなんて話聞いてないし、そもそも渡辺さんって恋愛に興味なさそうだしね~」
 と頷きながらさりげなく華恋の左手をチェックする。もちろん、そこには何もない。

「俺なら、こんな可愛い奥さんができたら結婚指輪は絶対に外させないもんなあ」

 どこから現れたのか八木が近づいてきて華恋の左手を見てうんうんと頷く。いつもならさりげなくこの場から逃げだすところだが、今日は我慢してその場に留まった。
 記事に載っていた健太は例の指輪をしていた。一方の華恋の左手はいいのか悪いのかちょうど隠れていた。そのことに安堵しながらも、帰ったら真っ先にあの日着ていた服を捨てようと心に誓った。

 皆がいつも通りに業務を始める中、華恋は心がざわついて上の空だった。
 記事については冷静さを取り戻したが、先程の森の態度が脳裏に張り付いて剥がれないのだ。

 まさか、誤解しているのだろうか。それとも、呆れているのだろうか。
 とにかく華恋は森とはやく話がしたかった。けれど、この日から森は華恋を避けるようになったのだった。

 好きな人に避けられることがこんなに辛いなんて知りたくもなかった。
 正直、辛い。泣きたい。
 裕子さんに相談したくても、健太さんとのことがあるから連絡がとりづらい。
 というより、まずそのことについてどう思われているかもわからない。怖い。

 やましいことは何もない。だからといって何もない顔で連絡をするのも違うだろう。
 いったい、どうしたらいいのか。
 そんな時、まさかの裕子さんの方から連絡がきた。しかも、二人の住居にお呼ばれだ。
 華恋は二つ返事で応え、ドナドナされる気分で指定されたマンションへと向かった。
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