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六
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窓の外から男女の楽しそうな声が聞こえる。気遣わしげな視線が仕事を手伝ってくれている文官から注がれたがベアトリーチェは無視した。
そんなことよりも今はこの書類を片付けるのが先だ。書類と睨めっこをしているとノック音が聞こえてきた。返事をすれば書類の束を持った文官が入ってくる。ベアトリーチェは顔を上げ、その書類を受け取った。目を見開く。
「これは……」
「王太子妃殿下が必要になるだろうからと……渡すよう頼まれました」
誰に頼まれたなんて聞かなくてもわかる。見覚えのある生真面目な筆跡を指でなぞる。
「そう。ありがたく使わせてもらうわ。……ありがとうと伝えてちょうだい」
「かしこまりました。では、失礼します」
「ええ」
文官が出て行き、ベアトリーチェは手元に届いたばかりの書類に視線を落とす。ちょうど今悩んでいる問題もこれで解決するだろう。目元が緩む。
何故か、先程まで気にもならなかった外のざわめきが耳障りに感じた。
「そこの窓、閉めてくれる?」
「かしこまりました」
これで幾分かマシになるだろう。ベアトリーチェは再びペンを持ち、仕事の続きに取り掛かった。
◇
「次の孤児院への慰問はアンナと行く」
もう少しで完全に瞼が閉じる時だった。ベアトリーチェは閉じかけていた重い瞼を開く。ベッドの端に上裸のまま腰かけているマルコの背中が目に入った。
「そう」とだけ返す。マルコが振り向いた。ベアトリーチェの返答が気にくわなかったのか不機嫌そうな顔をしている。ギシリとベッドが音を立てた。
布団をめくり、マルコが入ってくる。ベアトリーチェはモゾモゾと動き隙間を開けようとしたが、マルコから抱き寄せられ腕の中に囲われてしまった。じっとりと汗ばんでいる肌が直頬に触れ何とも言えない気持ちになる。
「いいのか?」
マルコの低音が響く。ベアトリーチェは顔を上げずに答えた。
「子供達と会えないのは寂しいけれど、今は仕事が立て込んでいるから。私が行ったところで少ししかいられないだろうし、代わりにアンナ様が行ってくれるのなら助かるわ」
「……それだけか?」
「え? きゃっ?!」
いきなり肩を掴まれたかと思ったら、ベッドに仰向けに押し付けられ、マルコが覆いかぶさってきた。じっとりした瞳がベアトリーチェを捉える。
「他に言うことは無いのか?」
「他?」
「っ。……もういい。久しぶりだからもう少し付き合え」
「ちょっ。もうっんう」
強制的に話は終了となり、ベアトリーチェが解放されたのは空が白み始める頃だった。
マルコが寝ているのを確認し、ベアトリーチェはゆっくりと身体を起こした。剥ぎ取るように脱ぎ捨てられた衣服を身に着ける。ああ、喉が痛い。ベッド近くのサイドテーブルから水差しとカップを手に取った。引き出しを開け、包み紙の一つを取り出す。
「ふぅ」
喉の渇きが癒え、ようやく人心地ついた。
ちらりとマルコを見る。深い睡眠に入っているようで気持ちよさそうに寝ている。
その寝顔をじっと見つめた。
見ているうちに無意識にマルコの首へと手が伸びていた。後少しで触れる。その時、横から邪魔が入った。驚いて顔を上げる。全身真っ黒な衣装に身を包んだ人と目が合った。
「どうして、影が……」
普段、よほどのことがない限り表に出てこない彼らがどうしてと動揺する。というか、こんなところを見られたら言い訳のしようもない。
青ざめるベアトリーチェに影が手を伸ばした。慌てて抵抗しようとしたが、あっさり掴まってしまう。諦めて目を閉じた瞬間、浮遊感を覚えた。
「え?」
慌てて目を開ける。なぜか縛り上げられることもなく、横抱きにされていた。そのまま寝室から連れ出される。――――未遂だったのと、一応王太子妃だから手荒な真似ができないのかしら。
連れて行かれた先は牢屋……ではなく王妃陛下の私室だった。
王妃陛下はベアトリーチェがくるのをわかっていたかのように夜着にカーディガンを羽織り、椅子に腰かけていた。影が、戸惑うベアトリーチェを向かいの椅子に降ろす。その際に衣服が乱れ、慌てて正した。
胸元に執拗につけられた赤い痕はしっかり見られてしまったらしい。
「お疲れの所ごめんなさいね」
「い、いえ」
いたたまれなくなって俯く。とりあえず先手を打とうとベアトリーチェは顔を上げ口を開いた。
「もしや、王妃陛下もご存じでしたか?」
あえて『なにが』とは言わない。王妃陛下はベアトリーチェをじっと見つめた。緊張感で息が詰まる。しばらく見つめ合った後、なぜか王妃陛下はクスリと笑った。
「あ、あの?」
「ふふふ。……ええ知っていましたよ」
「やはり。でしたらなぜ?」
知っていたなら、なぜ止めたのか。つい、咎めるような視線を向ければ、王妃陛下はクスクスと先程よりも笑いを大きくした。ベアトリーチェの眉間の皺がさらに深くなる。いったい何を考えているのか。
「ベアトリーチェが優秀なのは間違いないけれど、それでもまだまだね」
ベアトリーチェの頬に朱が差す。何も言い返せずに黙っていると王妃陛下は困ったような笑みを浮かべた。
「気持ちはわかるけど、もう少し我慢してほしいわ。まだ、その時ではないから」
「それは、どういう?」
「そうね……少し話が長くなりそうだからお茶をいれるわね。ちょっと待ってて」
「いえ。それなら私が」
「いいのいいの。たまには周りの目なんて気にせずお茶を楽しみましょう」
王妃陛下自らお茶をいれるのをベアトリーチェは黙って見ていた。差し出されたのはカモミールティーだった。恐縮しながらいただく。甘い香りとおだやかな飲み心地にホッと息を吐く。なんとなく緊張がほぐれた気がした。
「コレはね。カルロからもらった紅茶なの」
「カルロ様から?」
「そう。カモミールティーはリラックス効果があって、睡眠前に飲むといいんですって。……喉の痛みにも効くらしいわよ」
「そう、なんですか」
「残りはあなたにあげるわ」
「え?」
驚いて顔を上げる。王妃陛下はいたずらな笑みを浮かべていた。
「私、ハーブティーって苦手なのよ。一応こうして飲んだんだし、残りをあなたにあげてもあの子は怒らないでしょう。もらってくれるかしら?」
「っ。そういうことでしたら、いただきます」
王妃陛下が満足気に微笑み頷く。そして、笑みを完全に消した。
「ベアトリーチェが知ったのは最近?」
「は、はい。つい、先日です」
それは偶然だった。最近のアンナとマルコの異様な近さに危機感を覚え、影に二人の監視を頼んだのがきっかけだった。
ある日。アンナがマルコに告白まがいのことを言った。それに対して、マルコはアンナを振った。ただ、その時のセリフが問題だった。
影の報告では、マルコはアンナにこう言ったらしい。
「アンナ。君の気持ちは嬉しい。でも、俺はその気持ちに応えることができない。今くらいの関係ならベアトリーチェも許してくれる。けど、もし俺達が一線を越えようとしたらベアトリーチェは何をしてくるかわからない。もしかしたら君に危害が及ぶかもしれない。……兄上のように。だから、俺達は今まで通り友達以上、恋人未満のままでいよう」
もちろん、ベアトリーチェがそんなことをするわけがない。けれど、ベアトリーチェが引っかかったのはそこではなく、マルコが具体的に話したベアトリーチェの悪行についてだった。
マルコ曰く、悪女ベアトリーチェは『マルコに嫉妬してもらいたくて他の男との噂をわざと流している』、『マルコの気を引く為に仕事の邪魔をしている』。そして、『マルコと結婚したくてカルロに暗殺者を仕向けた』らしい。
実際は全てマルコがしたことだ。カルロの話を除いて。
そんなまさか、いくらなんでも、と思いつつベアトリーチェはマルコの周りを探ることにした。
結果として、マルコは何もしていなかった。したのは全て側妃だ。マルコを王太子にする為に画策したこと。マルコは薄々それに気づいていて何も行動をしなかった。何もせず、全てが自分の手に入ってくるその時を今か今かと待ち構えていただけだ。
『自分は何もしていない。だから、悪くない』とマルコは思っているだろう。だが、ベアトリーチェには到底許せるものではなかった。そんなマルコに少しでも心身を許してしまった自分自身にも。
こんな人生がこの先も続くならいっそのこと自分の手で終わらせてしまおうと思うくらいに。
でも……王妃陛下に止められてしまった。
王妃陛下は言った。
「まだ、その時ではない」
と。
それはいったいどういう意味なのか、ベアトリーチェは王妃陛下の話に耳を傾けた。
そんなことよりも今はこの書類を片付けるのが先だ。書類と睨めっこをしているとノック音が聞こえてきた。返事をすれば書類の束を持った文官が入ってくる。ベアトリーチェは顔を上げ、その書類を受け取った。目を見開く。
「これは……」
「王太子妃殿下が必要になるだろうからと……渡すよう頼まれました」
誰に頼まれたなんて聞かなくてもわかる。見覚えのある生真面目な筆跡を指でなぞる。
「そう。ありがたく使わせてもらうわ。……ありがとうと伝えてちょうだい」
「かしこまりました。では、失礼します」
「ええ」
文官が出て行き、ベアトリーチェは手元に届いたばかりの書類に視線を落とす。ちょうど今悩んでいる問題もこれで解決するだろう。目元が緩む。
何故か、先程まで気にもならなかった外のざわめきが耳障りに感じた。
「そこの窓、閉めてくれる?」
「かしこまりました」
これで幾分かマシになるだろう。ベアトリーチェは再びペンを持ち、仕事の続きに取り掛かった。
◇
「次の孤児院への慰問はアンナと行く」
もう少しで完全に瞼が閉じる時だった。ベアトリーチェは閉じかけていた重い瞼を開く。ベッドの端に上裸のまま腰かけているマルコの背中が目に入った。
「そう」とだけ返す。マルコが振り向いた。ベアトリーチェの返答が気にくわなかったのか不機嫌そうな顔をしている。ギシリとベッドが音を立てた。
布団をめくり、マルコが入ってくる。ベアトリーチェはモゾモゾと動き隙間を開けようとしたが、マルコから抱き寄せられ腕の中に囲われてしまった。じっとりと汗ばんでいる肌が直頬に触れ何とも言えない気持ちになる。
「いいのか?」
マルコの低音が響く。ベアトリーチェは顔を上げずに答えた。
「子供達と会えないのは寂しいけれど、今は仕事が立て込んでいるから。私が行ったところで少ししかいられないだろうし、代わりにアンナ様が行ってくれるのなら助かるわ」
「……それだけか?」
「え? きゃっ?!」
いきなり肩を掴まれたかと思ったら、ベッドに仰向けに押し付けられ、マルコが覆いかぶさってきた。じっとりした瞳がベアトリーチェを捉える。
「他に言うことは無いのか?」
「他?」
「っ。……もういい。久しぶりだからもう少し付き合え」
「ちょっ。もうっんう」
強制的に話は終了となり、ベアトリーチェが解放されたのは空が白み始める頃だった。
マルコが寝ているのを確認し、ベアトリーチェはゆっくりと身体を起こした。剥ぎ取るように脱ぎ捨てられた衣服を身に着ける。ああ、喉が痛い。ベッド近くのサイドテーブルから水差しとカップを手に取った。引き出しを開け、包み紙の一つを取り出す。
「ふぅ」
喉の渇きが癒え、ようやく人心地ついた。
ちらりとマルコを見る。深い睡眠に入っているようで気持ちよさそうに寝ている。
その寝顔をじっと見つめた。
見ているうちに無意識にマルコの首へと手が伸びていた。後少しで触れる。その時、横から邪魔が入った。驚いて顔を上げる。全身真っ黒な衣装に身を包んだ人と目が合った。
「どうして、影が……」
普段、よほどのことがない限り表に出てこない彼らがどうしてと動揺する。というか、こんなところを見られたら言い訳のしようもない。
青ざめるベアトリーチェに影が手を伸ばした。慌てて抵抗しようとしたが、あっさり掴まってしまう。諦めて目を閉じた瞬間、浮遊感を覚えた。
「え?」
慌てて目を開ける。なぜか縛り上げられることもなく、横抱きにされていた。そのまま寝室から連れ出される。――――未遂だったのと、一応王太子妃だから手荒な真似ができないのかしら。
連れて行かれた先は牢屋……ではなく王妃陛下の私室だった。
王妃陛下はベアトリーチェがくるのをわかっていたかのように夜着にカーディガンを羽織り、椅子に腰かけていた。影が、戸惑うベアトリーチェを向かいの椅子に降ろす。その際に衣服が乱れ、慌てて正した。
胸元に執拗につけられた赤い痕はしっかり見られてしまったらしい。
「お疲れの所ごめんなさいね」
「い、いえ」
いたたまれなくなって俯く。とりあえず先手を打とうとベアトリーチェは顔を上げ口を開いた。
「もしや、王妃陛下もご存じでしたか?」
あえて『なにが』とは言わない。王妃陛下はベアトリーチェをじっと見つめた。緊張感で息が詰まる。しばらく見つめ合った後、なぜか王妃陛下はクスリと笑った。
「あ、あの?」
「ふふふ。……ええ知っていましたよ」
「やはり。でしたらなぜ?」
知っていたなら、なぜ止めたのか。つい、咎めるような視線を向ければ、王妃陛下はクスクスと先程よりも笑いを大きくした。ベアトリーチェの眉間の皺がさらに深くなる。いったい何を考えているのか。
「ベアトリーチェが優秀なのは間違いないけれど、それでもまだまだね」
ベアトリーチェの頬に朱が差す。何も言い返せずに黙っていると王妃陛下は困ったような笑みを浮かべた。
「気持ちはわかるけど、もう少し我慢してほしいわ。まだ、その時ではないから」
「それは、どういう?」
「そうね……少し話が長くなりそうだからお茶をいれるわね。ちょっと待ってて」
「いえ。それなら私が」
「いいのいいの。たまには周りの目なんて気にせずお茶を楽しみましょう」
王妃陛下自らお茶をいれるのをベアトリーチェは黙って見ていた。差し出されたのはカモミールティーだった。恐縮しながらいただく。甘い香りとおだやかな飲み心地にホッと息を吐く。なんとなく緊張がほぐれた気がした。
「コレはね。カルロからもらった紅茶なの」
「カルロ様から?」
「そう。カモミールティーはリラックス効果があって、睡眠前に飲むといいんですって。……喉の痛みにも効くらしいわよ」
「そう、なんですか」
「残りはあなたにあげるわ」
「え?」
驚いて顔を上げる。王妃陛下はいたずらな笑みを浮かべていた。
「私、ハーブティーって苦手なのよ。一応こうして飲んだんだし、残りをあなたにあげてもあの子は怒らないでしょう。もらってくれるかしら?」
「っ。そういうことでしたら、いただきます」
王妃陛下が満足気に微笑み頷く。そして、笑みを完全に消した。
「ベアトリーチェが知ったのは最近?」
「は、はい。つい、先日です」
それは偶然だった。最近のアンナとマルコの異様な近さに危機感を覚え、影に二人の監視を頼んだのがきっかけだった。
ある日。アンナがマルコに告白まがいのことを言った。それに対して、マルコはアンナを振った。ただ、その時のセリフが問題だった。
影の報告では、マルコはアンナにこう言ったらしい。
「アンナ。君の気持ちは嬉しい。でも、俺はその気持ちに応えることができない。今くらいの関係ならベアトリーチェも許してくれる。けど、もし俺達が一線を越えようとしたらベアトリーチェは何をしてくるかわからない。もしかしたら君に危害が及ぶかもしれない。……兄上のように。だから、俺達は今まで通り友達以上、恋人未満のままでいよう」
もちろん、ベアトリーチェがそんなことをするわけがない。けれど、ベアトリーチェが引っかかったのはそこではなく、マルコが具体的に話したベアトリーチェの悪行についてだった。
マルコ曰く、悪女ベアトリーチェは『マルコに嫉妬してもらいたくて他の男との噂をわざと流している』、『マルコの気を引く為に仕事の邪魔をしている』。そして、『マルコと結婚したくてカルロに暗殺者を仕向けた』らしい。
実際は全てマルコがしたことだ。カルロの話を除いて。
そんなまさか、いくらなんでも、と思いつつベアトリーチェはマルコの周りを探ることにした。
結果として、マルコは何もしていなかった。したのは全て側妃だ。マルコを王太子にする為に画策したこと。マルコは薄々それに気づいていて何も行動をしなかった。何もせず、全てが自分の手に入ってくるその時を今か今かと待ち構えていただけだ。
『自分は何もしていない。だから、悪くない』とマルコは思っているだろう。だが、ベアトリーチェには到底許せるものではなかった。そんなマルコに少しでも心身を許してしまった自分自身にも。
こんな人生がこの先も続くならいっそのこと自分の手で終わらせてしまおうと思うくらいに。
でも……王妃陛下に止められてしまった。
王妃陛下は言った。
「まだ、その時ではない」
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それはいったいどういう意味なのか、ベアトリーチェは王妃陛下の話に耳を傾けた。
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