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一
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王城のシャンデリアの下、煌びやかに着飾った男女が対になってクルクルとダンスを楽しんでいる。その様子を横目に王太子妃であるベアトリーチェは数人の女性達に囲まれ会話を楽しんでいた。常日頃、仕事に追われているベアトリーチェにとっては貴重な時間。
しかし、その時間すら許さないというように先程から嫌な視線がベアトリーチェに注がれている。これもいつものこと。他の人々は気づいていないようだ。同じようにベアトリーチェもあえてそれに気づかないフリを続けた。
王太子妃としての仕事はもう終えたはず。何より、ベアトリーチェの手を先に放したのはあちらだ。責められる謂れは無い。
けれど、残念ながら周りが放っておいてはくれないらしい。ベアトリーチェを囲む女性のうち比較的若い女性が口火を切った。
「ベアトリーチェ様、アレを放っておいていいのですか?」
アレと明確に示されてしまってはこれ以上無視をすることはできない。――――余計なことを。わざわざ視界に入らないように気をつけていたのに。
内心溜息を吐きながらベアトリーチェは彼女が示す方に顔を向けた。
自然と一組の男女に目がいく。周りの人達が二人から距離を置いているのですぐにどこにいるのかわかった。どうやら二人はダンスを終えたばかりのようだ。それにしても異常に距離が近い。女の方はともかく、男の方は自分達がどう周りから見られているか理解していないとおかしいのだが……。
――――わかってやっているのかしら? いえ、おそらく深くは考えていないのでしょうね。
いつものように。浅慮な男はベアトリーチェに見せつけることしか考えていないのだろう。
その証拠に、男がベアトリーチェの視線に気づいて満足気な表情を浮かべている。
女もベアトリーチェの視線に気づいたのか、怯えたように男の陰に身を隠した。わざとらしく男が女を庇うようにして前に立つ。女は感激したように男を見上げている……が、男の背中しか見えていない女は気づいていないのだろう。男がどんな目でベアトリーチェを見ているのか。
ベアトリーチェはドレスの下で肌が粟立つのを覚えていた。そっと片手で撫でる。いつまで経っても男から向けられるこの視線には慣れない。相手は自分の夫だというのに。
そう、目の前で堂々と己の不誠実さを晒している男こそベアトリーチェの夫マルコ・コスタである。そして、残念ながらこの国の王太子でもある。
できることなら今からでも何も見なかったことにして視線を逸らしてしまいたい。だが、そんなことをすればマルコは機嫌を損ねるだろう。今以上に面倒なことになるのは目に見えている。
仕方なくベアトリーチェは不快な姿を直視しないでいいように少しだけ瞼を閉じた。いい感じにぼやけている。周りから見れば怒っているように見えるだろう。
マルコの目が三日月形に歪む。マルコは不意に後ろにいた女に顔を寄せ、何かを囁いた。女の頬がぽっと赤く染まる。女は嬉しそうに微笑み、コクリと頷いた。
その一連の様子をベアトリーチェは顔色一つ変えずに見守っていた。ベアトリーチェとしては別に今更気にするようなことではなかったのだが、ベアトリーチェを慕う彼女達にとっては違ったらしい。ベアトリーチェの代わりとばかりに非難めいた声を上げ始める。ベアトリーチェは慌てて彼女達の名を呼んだ。
どうして止めるのかという不満の声はベアトリーチェの完璧な微笑みを見た瞬間消えた。
「皆様、ありがとうございます。ですが、私はこの通り平気ですから」
「で、でもベアトリーチェ様。このような公の場であのような……本当によろしいのですか?」
「ええ」
ベアトリーチェがはっきりと頷いた為、彼女達は何も言えなくなった。けれど、全員顔に『不満』がありありと浮かび上がっている。社交界でも淑女として名をはせている彼女達らしくない。それほどマルコの言動が許容できる範疇にないのだろう。思わずベアトリーチェは苦笑した。
彼女達の言いたいことはわかる。
国王陛下主催の大規模なパーティーで王太子が最初のダンスを王太子妃と一度踊っただけで、後は別の女性と何度も踊ったのだから。まるで、自分にはもっと大切な存在がいるのだと皆に見せつけるかのように。……あれでマルコにそのつもりがないなど誰が信じるのだろうか。踊った相手の女性だって自分が選ばれたのだと信じて疑わないだろう。
実際、この場にいる誰もがマルコとベアトリーチェ、そしてマルコの隣にいる女性に注目していた。二人の噂は随分前からベアトリーチェの耳にも届いている。知っていて、ベアトリーチェは何もしなかった。いや、正確には裏で手は打ってはいたのだが……。
ベアトリーチェはじっと見つめる。マルコ、ではなくその後ろに隠れている女性アンナ・イトウを。もし、マルコが選んだ女性が自国の貴族の誰かであればいくらベアトリーチェでも二人を放っておくことはできなかっただろう。けれど、幸いなことにアンナは他国どころかこの世界の人間でもない。所謂、落ち人だ。この世界では落ち人は神様からの贈り物と言われている。
だからこそ、ベアトリーチェは二人の仲を咎めることをしなかった。むしろ、内心では喜んでさえいた。彼女はベアトリーチェにとってまさに神様からの贈り物。
マルコがアンナの後見人をかってでた時から二人がこうなることは目に見えていた。そうなればいいなとも思っていた。ベアトリーチェの希望通り、二人は着実に仲を深めていった。
ベアトリーチェが仕事をしている間、マルコは後見人の立場を利用して常にアンナを傍に置いた。どこに行くにも。後先考えず。二人の噂が広まるのは当然のことだった。
視野が狭く人の噂にも鈍感なマルコは未だに気づいていないようだが、二人の噂はすでに市井にまで広がっている。否定するにはもう遅い段階だ。
『王太子はいずれベアトリーチェ様と離縁し、落ち人を王太子妃にするつもりなのだろう』と一市民ですら思っているのだから。
――――そろそろ限界だわ。
ちらりと国王陛下に視線を向ける。国王陛下はベアトリーチェの視線に気づいているはずなのに、苦虫を噛み潰したような顔で口を真一文字に結んだまま動かない。どうやら、今になって迷いを見せているらしい。ベアトリーチェの眉間に皺が寄った。
それを見て、しびれを切らした王妃陛下が助け舟を出す。閉じた扇で国王陛下の脇腹を突いた。そして、何かを耳元で囁く。
王妃陛下が何を言ったのかはわからないが、国王陛下に決心させるには充分な内容だったらしい。渋々だが、確かに国王陛下がベアトリーチェに向かって頷いた。国王陛下の隣に座っている王妃陛下もベアトリーチェにエールを送るように艶やかに微笑んで頷く。
承認を得たことを確認したベアトリーチェはさっそく動き始めた。
ひとまず扇を取り出し、開いて口元を隠す。そして、はやる気持ちを抑え、バレない程度に深呼吸をした。
さあ。ここからが正念場だ。大丈夫。この日の為に念入りに準備をしてきたのだから。下手をしない限り、こちらの勝利は確定している。
ベアトリーチェは覚悟を決め、一歩を踏み出した。
ベアトリーチェの進行方向に気づいた人々が道を開ける。その先にはマルコとアンナがいる。
マルコの目の前でベアトリーチェは歩みを止めた。ベアトリーチェも女性としては身長が高い方だがマルコはもっと背が高い。ヒールを履いていても見上げる必要があるくらいに。つい、マルコの長い足に視線を向けてしまった。
「ベアトリーチェ。俺に何か用か?」
アンナを守るように立っていながらも、マルコの声はどこか弾んでいる。マルコの後ろにいるアンナはベアトリーチェに対して優越感を覚えることに夢中になっているのか些細な変化に気づいていないようだが。
なかなか返事をしないベアトリーチェにしびれを切らしたのかマルコが一歩距離を縮めた。いつもなら一歩後ろに下がるところだが、今日はベアトリーチェからも距離を縮める。
ベアトリーチェの予想外の行動にマルコは驚いたように目を丸くし、次いで口元をぴくぴくさせた。一生懸命喜びを抑えているらしい。
おもむろにベアトリーチェが右手の拳を差し出す。マルコは首を傾げながらも応えるように右の掌を出した。
ベアトリーチェがゆっくりと拳を開く。マルコの大きな手のひらの上に指輪がポトリと落ちた。その指輪を見た瞬間、マルコの目が先程とは比べられないほど大きく開いた。
しかし、その時間すら許さないというように先程から嫌な視線がベアトリーチェに注がれている。これもいつものこと。他の人々は気づいていないようだ。同じようにベアトリーチェもあえてそれに気づかないフリを続けた。
王太子妃としての仕事はもう終えたはず。何より、ベアトリーチェの手を先に放したのはあちらだ。責められる謂れは無い。
けれど、残念ながら周りが放っておいてはくれないらしい。ベアトリーチェを囲む女性のうち比較的若い女性が口火を切った。
「ベアトリーチェ様、アレを放っておいていいのですか?」
アレと明確に示されてしまってはこれ以上無視をすることはできない。――――余計なことを。わざわざ視界に入らないように気をつけていたのに。
内心溜息を吐きながらベアトリーチェは彼女が示す方に顔を向けた。
自然と一組の男女に目がいく。周りの人達が二人から距離を置いているのですぐにどこにいるのかわかった。どうやら二人はダンスを終えたばかりのようだ。それにしても異常に距離が近い。女の方はともかく、男の方は自分達がどう周りから見られているか理解していないとおかしいのだが……。
――――わかってやっているのかしら? いえ、おそらく深くは考えていないのでしょうね。
いつものように。浅慮な男はベアトリーチェに見せつけることしか考えていないのだろう。
その証拠に、男がベアトリーチェの視線に気づいて満足気な表情を浮かべている。
女もベアトリーチェの視線に気づいたのか、怯えたように男の陰に身を隠した。わざとらしく男が女を庇うようにして前に立つ。女は感激したように男を見上げている……が、男の背中しか見えていない女は気づいていないのだろう。男がどんな目でベアトリーチェを見ているのか。
ベアトリーチェはドレスの下で肌が粟立つのを覚えていた。そっと片手で撫でる。いつまで経っても男から向けられるこの視線には慣れない。相手は自分の夫だというのに。
そう、目の前で堂々と己の不誠実さを晒している男こそベアトリーチェの夫マルコ・コスタである。そして、残念ながらこの国の王太子でもある。
できることなら今からでも何も見なかったことにして視線を逸らしてしまいたい。だが、そんなことをすればマルコは機嫌を損ねるだろう。今以上に面倒なことになるのは目に見えている。
仕方なくベアトリーチェは不快な姿を直視しないでいいように少しだけ瞼を閉じた。いい感じにぼやけている。周りから見れば怒っているように見えるだろう。
マルコの目が三日月形に歪む。マルコは不意に後ろにいた女に顔を寄せ、何かを囁いた。女の頬がぽっと赤く染まる。女は嬉しそうに微笑み、コクリと頷いた。
その一連の様子をベアトリーチェは顔色一つ変えずに見守っていた。ベアトリーチェとしては別に今更気にするようなことではなかったのだが、ベアトリーチェを慕う彼女達にとっては違ったらしい。ベアトリーチェの代わりとばかりに非難めいた声を上げ始める。ベアトリーチェは慌てて彼女達の名を呼んだ。
どうして止めるのかという不満の声はベアトリーチェの完璧な微笑みを見た瞬間消えた。
「皆様、ありがとうございます。ですが、私はこの通り平気ですから」
「で、でもベアトリーチェ様。このような公の場であのような……本当によろしいのですか?」
「ええ」
ベアトリーチェがはっきりと頷いた為、彼女達は何も言えなくなった。けれど、全員顔に『不満』がありありと浮かび上がっている。社交界でも淑女として名をはせている彼女達らしくない。それほどマルコの言動が許容できる範疇にないのだろう。思わずベアトリーチェは苦笑した。
彼女達の言いたいことはわかる。
国王陛下主催の大規模なパーティーで王太子が最初のダンスを王太子妃と一度踊っただけで、後は別の女性と何度も踊ったのだから。まるで、自分にはもっと大切な存在がいるのだと皆に見せつけるかのように。……あれでマルコにそのつもりがないなど誰が信じるのだろうか。踊った相手の女性だって自分が選ばれたのだと信じて疑わないだろう。
実際、この場にいる誰もがマルコとベアトリーチェ、そしてマルコの隣にいる女性に注目していた。二人の噂は随分前からベアトリーチェの耳にも届いている。知っていて、ベアトリーチェは何もしなかった。いや、正確には裏で手は打ってはいたのだが……。
ベアトリーチェはじっと見つめる。マルコ、ではなくその後ろに隠れている女性アンナ・イトウを。もし、マルコが選んだ女性が自国の貴族の誰かであればいくらベアトリーチェでも二人を放っておくことはできなかっただろう。けれど、幸いなことにアンナは他国どころかこの世界の人間でもない。所謂、落ち人だ。この世界では落ち人は神様からの贈り物と言われている。
だからこそ、ベアトリーチェは二人の仲を咎めることをしなかった。むしろ、内心では喜んでさえいた。彼女はベアトリーチェにとってまさに神様からの贈り物。
マルコがアンナの後見人をかってでた時から二人がこうなることは目に見えていた。そうなればいいなとも思っていた。ベアトリーチェの希望通り、二人は着実に仲を深めていった。
ベアトリーチェが仕事をしている間、マルコは後見人の立場を利用して常にアンナを傍に置いた。どこに行くにも。後先考えず。二人の噂が広まるのは当然のことだった。
視野が狭く人の噂にも鈍感なマルコは未だに気づいていないようだが、二人の噂はすでに市井にまで広がっている。否定するにはもう遅い段階だ。
『王太子はいずれベアトリーチェ様と離縁し、落ち人を王太子妃にするつもりなのだろう』と一市民ですら思っているのだから。
――――そろそろ限界だわ。
ちらりと国王陛下に視線を向ける。国王陛下はベアトリーチェの視線に気づいているはずなのに、苦虫を噛み潰したような顔で口を真一文字に結んだまま動かない。どうやら、今になって迷いを見せているらしい。ベアトリーチェの眉間に皺が寄った。
それを見て、しびれを切らした王妃陛下が助け舟を出す。閉じた扇で国王陛下の脇腹を突いた。そして、何かを耳元で囁く。
王妃陛下が何を言ったのかはわからないが、国王陛下に決心させるには充分な内容だったらしい。渋々だが、確かに国王陛下がベアトリーチェに向かって頷いた。国王陛下の隣に座っている王妃陛下もベアトリーチェにエールを送るように艶やかに微笑んで頷く。
承認を得たことを確認したベアトリーチェはさっそく動き始めた。
ひとまず扇を取り出し、開いて口元を隠す。そして、はやる気持ちを抑え、バレない程度に深呼吸をした。
さあ。ここからが正念場だ。大丈夫。この日の為に念入りに準備をしてきたのだから。下手をしない限り、こちらの勝利は確定している。
ベアトリーチェは覚悟を決め、一歩を踏み出した。
ベアトリーチェの進行方向に気づいた人々が道を開ける。その先にはマルコとアンナがいる。
マルコの目の前でベアトリーチェは歩みを止めた。ベアトリーチェも女性としては身長が高い方だがマルコはもっと背が高い。ヒールを履いていても見上げる必要があるくらいに。つい、マルコの長い足に視線を向けてしまった。
「ベアトリーチェ。俺に何か用か?」
アンナを守るように立っていながらも、マルコの声はどこか弾んでいる。マルコの後ろにいるアンナはベアトリーチェに対して優越感を覚えることに夢中になっているのか些細な変化に気づいていないようだが。
なかなか返事をしないベアトリーチェにしびれを切らしたのかマルコが一歩距離を縮めた。いつもなら一歩後ろに下がるところだが、今日はベアトリーチェからも距離を縮める。
ベアトリーチェの予想外の行動にマルコは驚いたように目を丸くし、次いで口元をぴくぴくさせた。一生懸命喜びを抑えているらしい。
おもむろにベアトリーチェが右手の拳を差し出す。マルコは首を傾げながらも応えるように右の掌を出した。
ベアトリーチェがゆっくりと拳を開く。マルコの大きな手のひらの上に指輪がポトリと落ちた。その指輪を見た瞬間、マルコの目が先程とは比べられないほど大きく開いた。
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