ダニエル探偵事務所は今日も閑古鳥が鳴いている

黒木メイ

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第一章

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「エル様」

 彼女の真っすぐな瞳に見つめられるだけで、心臓が跳ねる。

「な、なに?」

 声がひっくり返ってしまった。
 でも、きっと彼女は僕が緊張していることなんて気づかないだろう。だって彼女は……

「!」

 いつのまにか彼女が近くまできていた。
 顔が近い!
 彼女の瞳にはうろたえている自分が映っていて、なんだか滑稽に思えてくる。

「エル様」
 視線を逸らそうとしたのがバレたのだろうか。少し彼女の口調が鋭くなった。
「な、何? ていうか……近すぎない?」

 一歩間違えれば接触事故を起こしてしまいそうだ。距離をとろうとしたが、拒むように肩を掴まれてしまった。どうしたの?とは聞けなかった。
 あまりにも近い距離で見つめられ、頭が真っ白になったから。

「エル様……」
「ぅあ」

 変な声が出てしまった。
 仕方ないだろう。だって、僕はこういう経験が全くないんだ。こういう時どうするのが正解なのかもわからない。
 硬直している間にも彼女の顔はどんどん近づいてくる。

 僕はぎゅっと目を閉じて……

「エル様。……これじゃあ無理か。仕方ない。エル様すみません。時間がないんです」
「え?」

 目を開けようとした瞬間、おでこに強烈な痛みが走った。

「!!!!!!!!」

 声にならない声を上げ、ダニエルは

「割れる!!!!!!」
 額を押さえて唸っていると、隣から申し訳なさそうな声が聞こえてきた。ベッドの上にいるダニエルに合わせてエーリヒは床に片膝をついている。
「すみません。名前を呼んでも軽く揺すっても起きなかったので……。先程、ヤンが訪ねてきたんです。夕食の準備ができたとのことで。ヨハン様もすでに食堂でお待ちです」
「もうそんな時間……仮眠するだけの予定だったのに。起こしてくれてありがとう」
「いえ」

 ダニエルがベッドから降りるとエーリヒがさっと顔を近づけた。ぎょっとして後ろに頭を引く。

「一応手加減したつもりだったんですが……少し赤くなっていますね。すみません」
「こ、これくらい大丈夫! むしろこれくらいがちょうどいいよ! 僕は寝起きが悪いからね!」

 あははと笑うダニエルにエーリヒはもう一度謝罪を口にした。

「行こっか」
「はい」

 脱いでいた上着を羽織り、服装を整えて部屋を出る。扉の前には案内の為かヤンが待っていた。

「すみません。待たせしてしまって」
「いえ。体調は大丈夫でしょうか。もし、不調なのでしたら今からでも部屋での食事に変更できますが。ヨハン様からもそのように言付かっています」
「いえ。大丈夫です。僕もヨハン卿との食事を楽しみにしていたので」
「それならよかったです。では、こちらに」

 歩き出したヤンの後に続く。


 ◇


「どうですか?」
「美味しいですね」
「お口にあったようで良かった。王都のシェフにも負けないシェフを雇っているつもりですが、やはり公爵家のシェフにはかなわないでしょうからね。ただ、ルーデンドルフ公爵家の方にお出しするには少々量が足りないかもしれないと思っていたのですが……」
「僕にはちょうど良いですよ」
「そのようですね。よかったよかった」

 ハハハと笑うヨハンにダニエルは愛想笑いで返す。
 内心うんざりしていた。何かとルーデンドルフとメーベルトを比べてくることも。遠回しにルーデンドルフ公爵家の中でもダニエルは異質だと言ってくることも。
 ――――いったいどういうつもりなんだろう。

 わざとなのか。無意識なのか。どちらにしても質が悪い。
 貴族独特の言い回しや、裏を読んだりするのは相変わらず疲れる。こんなことに頭を使うくらいならもっと別なことに頭を使いたい。

「……」

 カシャーン

 ダニエルは皿の横にあったスプーンを落とした。耳に障る音が響き、会話が止まる。
 何食わぬ顔で部屋の隅で控えていたメイドに視線を送る。近くで控えていたメイドが動こうとしたのをヨハンが止め、代わりにそのメイドが替えのスプーンを持って近づいてくる。さっと新しいスプーンをセットしなおし、落ちたスプーンを拾うと部屋の端へと戻って行った。
 ――――反応は……特に無しか。

 ダニエルが再び料理に口をつける。と、同時に会話も再開された。
 ヨハンがふと気になったとでも言うように話題を振ってくる。

「そういえば、エル様の従者の名前はなんでしたかね?」

 ヨハンの視線はエーリヒに向けられている。
 エーリヒがちらりとダニエルを見る。ダニエルは無言で頷き返した。

 エーリヒは食事の手を止め、一度口元を拭くと、笑みを浮かべた。あの人目を惹く笑みを。
 ほうっとヨハンの目が見開く。

「挨拶が遅くなり申し訳ございません。リヒトと申します。従者の自分にまでと配慮していただきありがとうございます」
「いや。これくらいのことは感謝されるまでもない。もし、なにか不便なことがあれば気軽に頼ってきなさい。君なら私に直接言いに来てくれても構わない。むしろ、空いている時間があれば私の話し相手になってほしいくらいだ」
「いえ……それは」
 エーリヒの視線がダニエルに向く。ヨハンは「もちろん、エル様も一緒に」と続けた。
 ダニエルは一瞬真顔になり、ふっと笑みを浮かべる。

「そうですね。仕事の邪魔をしない程度にお邪魔しにいきます。僕よければ」

 微笑みあうダニエルとヨハンに、エーリヒは口角を上げたまま、さりげなく視線を逸らした。

「それで、明日の予定なんですが」
「ふむ。明日はどういったご予定で?」
「明日は……」

 強引に別の話題を振って話の主導権を握ったダニエル。おかげでその後エーリヒがヨハンと直接話すことはなかった。ただ、ヨハンの視線の端には常にエーリヒが入っていたが。


 ◇


 夕食を終え、自室へと戻る。ヨハンから夜の庭園の散歩のお誘いを受けたが、今日は疲れたからと断った。もちろん。従者であるエーリヒも。
 ひとまず付き添いを装ってダニエルの部屋に二人で入る。ほぼ同時に深く息を吐き出した。

「エル様。お疲れ様です」
「リヒトもね。……僕、(あの人)苦手だわ」
「同感です」
「……あからさまにリヒトのこと狙ってたよね」
「です、かね。……そんなことより、よかったんですか?」
「何が?」
「その……あんな態度を許して」
「ああ……。別にいいよ。気にしてないし」
「ですが」
「ああいうのは気にしたら負け。キリがないしね。それに、僕らにはやらなきゃいけないことがあるだろう? でも、リヒトは本当に気をつけてね」

 杞憂かもしれないが、あの言動を見たら言わずにはいられない。

「はい。あ、それと……あのメイドの方、似てましたよね?」
「リヒトもそう思った? 僕は直接会ったことはないから自信がなかったんだけど、リヒトの目から見てもそう見えたなら可能性は高いね」
「高確率でそうだと思います。ただ……直接確認する手がありません」
「そうなんだよね」

 今の段階では思い切った行動はできない。彼女がどういう考えでここにいるかもわからないし、万が一でもヨハンにバレるわけにはいかないから。

「私がそれとなく聞いてみましょうか?」
「うん。いや……聞くなら僕が聞くよ。立場的にはリヒトの方が聞きやすいだろうけど、気づかれたら困るし」
「そうですね。じゃあ、よろしくお願いします」
「うん。今日はそれくらいかな……。後はもう何もないだろうから部屋でゆっくりしていいよ。明日は朝も早いし」
「そう、ですね」
「……何かあった?」

 エーリヒは「いえ」と視線を逸らし、首を横に振る。

「では、失礼しますね。いい夢を」
「う、うん。リヒトも」

 部屋から出て、エーリヒを見送る。といっても部屋はすぐ隣。エーリヒが部屋の中に入るのを見てから自室の扉を閉めた。
 はーっと息を吐き出す。この溜息は食堂から帰ってきた時のものとは違う。

 エーリヒとふたりきりになるのは初めてでもないのに緊張した。その理由は自分でも何となくわかっている。わかってるけど、認めたくはない。
 ――――認めた所で……。
 ダニエルはそれ以上考えることを止めた。

 ソファーに座り、背もたれにもたれて目を閉じる。無心でいるとノック音が聞こえてきた。許可を出せば、メイドが数人入ってくる。先頭にいたのは先程食堂にいたメイドだ。他は見覚えが無い。が、彼女達の容姿については覚えがあった。
 ――――ここにエーリヒがいてくれたら確かめられたのに。
 タイミングが悪い。

「お風呂の準備をしにきました」
「ああ。よろしくね」

 頭を下げ、彼女達は風呂場へと移動する。

「……君は行かないの?」
「はい。お風呂上がりの飲み物は何にしましょうか?」
「水で」
「かしこまりました」
「……」

 居心地が悪い。それに、なぜかメイドも緊張している気がする。――――もしかして気づいてる?

「……君の名前は?」
「アルマといいます」
「アルマ。いい名前だね」
「あ、りがとうございます」
「アルマはここに勤めて長いの?」
「いえ。まだ半年も経っていません」
「へえ。ってことはそれだけ優秀なんだ」
「そんなことは……」

 ――――絵姿とそっくりで、名前も同じ。ほぼ確定だ。

 まさかこんなに早く見つける事ができるなんて。これで仕事の半分は終わったも同然。
 口角が上がる。

「終わりました」
「ご苦労様」

 頭を下げ、出て行くメイド達を見送る。途中で違和感に気づいた。
 ――――そういえば何も聞かれなかった。

 入浴の手伝いがいるのかいらないのか。
 それ自体が問題なのではない。高位貴族では入浴の手伝いがあるのそれが当たり前になっているだけで、必要ないという人だっている。実際、ダニエルも特別必要だと感じたことはなかった。むしろ苦手だ。ヨハン領主もそういう人なのかもしれない。
 ただ、それならどうしてアルマだけ残っているのか。それが謎なのだ。

「アルマ、どうして」
「入浴のお手伝いをします」
「え?」

 いきなり服を脱ぎ、薄布一枚になるアルマに慌てるダニエル。

「ちょ、ちょっとまって!」

 急いで後ろを向く。
 ――――どうりで変だと思った! 

「そういうの僕には必要ないから!」
「ですが、当主様のご命令で」
「いいから。ヨハン卿とか他の人から何か言われたら、僕に拒まれたって言って。何なら僕が直接言ったっていい」
「わか、りました」

 衣擦れの音がする。再び服を着ているのだろう。その音を聞くのすら罪悪感を覚える。ダニエルはわざと声を張り上げた。

「もしかして、いつもこういうことしてるの?」
「まさか! ……私初めてです。そもそも私を気に入る人なんてまずいませんから」
「そんなことはないでしょ」
「いいえ。私を気に入る人なんていないんです。……普通の人には」
「……そんなことないよ。アルマは充分素敵な女性だ」
「ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」
「お世辞じゃ」
「先程の中に気に入る者はいましたか?」
「え?」
「いたのであればその者を呼び戻します。いないのでしたら通常の入浴のお手伝いをします」
「どちらも必要ない。僕はいつも一人で入っているから」
「かしこまりました。それでは後程水だけをこちらに用意しておきますね。失礼します」
「う、うん」

 アルマが出て行き、ダニエルは全身から力を抜いた。なぜだか酷く疲れた。ヨハンとの会話もそれなりに疲れたが、その比ではない。――――本当こういうの苦手なんだよなあ。

 それにしても……と考える。
『ヨハン』がどういう人物なのか見えてきた気がする。
 ――――噂はやっぱり噂だったんだ。いや、そもそも噂も功績を称えるものばかりで性格については何も触れていなかった。

「……!」

 ダニエルは勢いよく立ち上がった。
 ヨハンの性格、行動を分析していたら、ふと嫌な想像が頭に浮かんだ。想像というにはあまりにも生生しい予想。
 ――――違うならそれでいい。でも、もし本当にそういうやつだとしたらっ。
 足早に部屋を出て、隣の扉を叩く。返事はない。かわりに中から物音が聞こえてきた。

「っ」

 ダニエルは返事を待たずにそのまま扉を開いた。
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