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第一章
五
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ヴィリーは混乱していた。今目の前の男は何て言った?
『私の恋愛対象は女性ではありません』そう言わなかったか?
「女が恋愛対象じゃない? そんなばかな。そんな顔をして?」
気づいたら口からそんな言葉が出ていた。しかし、エーリヒは怒るでもなくただ困ったように微笑むだけ。
「好きでこの顔に生まれたわけではありません」
「いやいや。そんな嘘に騙されませんよ」
否定しつつもその言葉を裏付けるような出来事がつい先ほどあったと思い出す。
ヴィリーは元々エーリヒのことを知った時からいい印象を持っていなかった。アルマがエーリヒの店に通うようになってからは尚更。
ヴィリーの中のエーリヒはいつだってすかしていて、女をたぶらかす『悪い男』。
けれど、先程のエーリヒは違った。大袈裟なんじゃないかってくらいに怒りを露わにしていた。
――――ちょっと突き飛ばしただけなのに。しかも、ダニエルさんは男だ。エーリヒさんとさほど体格が変わらない、どちらかというとエーリヒさんよりも体格がいい男。それなのにあんなに怒るなんて……。
ちらりとダニエルを見る。すると、エーリヒがさっと移動してヴィリーからの視線を遮った。警戒するようにヴィリーに鋭い視線を送りながら。
ヴィリーは目を丸くする。
――――まさか本気で?! そういえば、さっきダニエルさんと目が合っただけで顔を真っ赤にしていた。普通は男、それもどちらかというと野暮ったいダニエルさん相手に赤面するはずないのに。ということは、つまり……。
「わかりました。信じます」
「本当ですか?」
エーリヒの後ろからひょっこり顔を出すダニエルに頷き返す。
「はい。落ち着いて考えてみたら……いろいろと腑に落ちました。エーリヒさんはかなりモテるはずなのに今まで一度も女性と噂になったことがなかったのはそういうことだったんですね。そういえば、アルマも言っていました。『エーリヒさんは話を聞いてくれる近所のお姉さんみたいなものだ』と。その時はただ耳触りのいい言葉で誤魔化そうとしているのだと思っていましたが……言葉の通りだったんですね。すみませんでした。エーリヒさんも、ダニエルさんも」
「いえいえ。僕は全く気にしていませんので!」
エーリヒが口を開くより早くダニエルが朗らかな笑みを浮かべて答える。
おかげでエーリヒはダニエルの件についてこれ以上何も言えなくなった。自分のことについては何とも思っていない。元々、他人からの評価なんて気にしたことが無い。本当の自分を知る者は誰もいないんだから。いや、いなかった……というべきなのかもしれない。
「ダニエルさんがいいと言うのなら私から言うことは何もありません」
そう言うと、エーリヒはダニエルを見つめた。
エーリヒへの見方が変わったヴィリーにとってその視線は意味深だ。慌てて無理矢理言葉を紡ぎ出す。
「そ、それで事件についてなんですが! 今後も事件が続くのであればこの店を見張っていればいいんじゃないですかね?!」
深く考えもせずに出した言葉だが、的確だったらしい。ダニエルとエーリヒがハッとした顔で顔を見合わせる。
「確かに。ヴィリーさんの言う通りですね。エーリヒさん」
「はい」
「よろしければしばらくの間、僕をここのバイトとして雇ってくれませんか?」
「もちろんいいですよ」
「それなら僕も」
「いえ、ヴィリーさんは店の外から怪しい人がいないか見張っていてほしいです」
「なるほど。わかりました」
三者三様に頷き合う。こうして事件の真相へ近づくための作戦が幕を開けた。
のだが、ダニエルは早々に後悔していた。
――――ヴィリーさんが中の方がよかったかもしれない。僕よりもヴィリーさんの方が運動神経がよさそうだから外をお願いしたけど……。
「忘れていました」
ダニエルはかなり料理が下手だ。料理を自分でするような環境で育ってこなかったということもあるが、ここまでくればある種の才能だろう。何を作っても味どころか、形すらまともに保てない。一人暮らしを始めた頃はそれでもチャレンジしていたが、数日間生死を彷徨ってからは止めた。外で食事をするか、出来たものを買ってくるようになった。
そんな日々が当たり前になっていたからすっかり忘れていた。
目の前のコーヒーもどきを見て項垂れる。
――――まさかコーヒーもまともに入れることができないなんて。
アルバイトとして雇ってもらったもののダニエルができることは店の掃除と皿洗いくらいだった。さすがにそれだけだと申し訳なくて、せめて店の看板であるオリジナルコーヒーくらいは入れられるようになっておこうとエーリヒに教えてもらった結果がこれだ。
壊滅的な下手さにさすがのエーリヒも困り笑顔を浮かべている。
「気持ちだけ、受け取っておきますね」
「すみません」としょんぼり肩を落とすダニエル。「いいえ」とエーリヒは首を横に振った。
「ダニエルさんには他に大切な仕事をお願いしているのですから気にしないでください」
「そう、ですね。本命の仕事を頑張りたいと思います」
「はい。よろしくお願いします」
「それにしても、エーリヒさんは本当に料理がお上手ですね。いいお嫁さんになりそうです」
「んえっ”?!」
「え?! 大丈夫ですか?!」
注文を受けたケーキを切り分けている時につい切ってしまったらしい。幸いケーキナイフだったものの、エーリヒの力の強さを考えると小さな怪我ですんでよかったというべきか。
傷を確認するダニエル。
「ぇ」
「どうかしましたか」
「いえ……」
「あの、これよかったら使ってください!」
カウンター越しにハンカチを差し出してきた女性客。さすがにお客様のハンカチで拭くわけにはいかないと断ろうとしたが、血が垂れそうになっていることを指摘され、慌てて受け取る。
「すみません。ありがとうございます!」
「いいえ。気にせず使ってください!」
血を拭いて、手当てする。不慣れなせいでモタモタしてしまう。それでもなんとか手当てを終えた。
「思ったよりも傷が深くなくてよかった。これなら傷も残ることはないと思います」
「そうですか。ありがとうございます」
「いえいえ。でも、気をつけてくださいね」
「はい。気をつけます」
不器用故不格好な仕上がりになってしまったのだが、それでもエーリヒは嬉しそうだった。
微笑んで、新しくケーキを切り分けるエーリヒ。そんなエーリヒを心配そうに見つめるダニエル。そして、そんな二人を興味津々で観察する女性客達。なぜか、彼女達の鼻息は荒かった。
あまりにも仕事ができないダニエル。客からクレームが入らないか心配だったが、大半のお客さん達は彼女達と同じように生暖かい目で見守ってくれた。中には帰り際に応援の言葉をくれる子までいたくらいだ。先程ハンカチを貸してくれた子のように。
「あれ、そういえば」
キョロキョロと周囲を見るダニエル。
「どうしたんですか?」
「あ、それが」
ダニエルが答えようとしたその時、勢いよく店のドアが開いた。息を切らしたヴィリーが入ってきた。店内には先程客が帰ったばかりということもあり他に客がいなかった。
「何か、あったんですか?」
息が上がっている所を見るとここまで走ってきたのだろう。顔色が、悪い。
「何か……どうなんでしょうか」
目を伏せるヴィリー。いったい何を見たというのか。
「とにかくこちらにどうぞ。少し早いですが店は閉店にしましたので」
そう言って、エーリヒがカウンターへと招く。ヴィリーは素直にカウンター席に座った。差し出された水を一気飲みして一息つく。ダニエルとエーリヒはヴィリーが落ち着くまで黙って待ち続けた。
しばらくして、ヴィリーが口を開く。
「少し前、ここを出た女性客のことなんですけど。髪が鎖骨くらいまである」
「ええ。いましたね。その人に何か?」
「……その人がここを出てわりとすぐに声をかけられていました」
「ほう?」
「用事があったのは高貴な身分の方のようで人目を避けるような場所に馬車を止めていて、従者のような人が女性をそこまで誘導していたんです。女性は馬車に乗り、しばらくして降りてきました。馬車はそのまま去っていって……僕は女性を追いかけて声をかけました。たまたま一部始終を見ていて心配だったからと。大丈夫だったのかと聞くと、コレを渡されただけだと教えてくれました」
そう言ってヴィリーが差し出したのは一枚の折りたたまれた紙。開いてみると、それは求人募集の紙だった。しかも、メーベルト城での。これが本当ならかなりいい話だが……。
「馬車に乗っていたのは領主様だったってことですか?」
「それが、わからないんです。ちらりとも顔を出しませんでしたし、出したとしても僕は領主様の顔を見たこともないのでわかりません」
「それは……確かに。僕もわかりませんね」
「私も……領主様はいつも忙しいようで組合との話合いの時でさえ代理人を立てていましたから」
「あやしい……ですよね? そんな忙しい領主様がわざわざ自らここまでくるなんて」
「ないことではありませんが、怪しくはありますね。こんな求人が出ているなんて話聞いたこともありませんし」
ダニエルの言葉にヴィリーの顔がさらに強張る。そんなヴィリーを慰めるようにダニエルは言葉を続けた。
「でも、先程も言ったように絶対ないとは言えない話です。彼女はとても優秀な人材で、領主様は以前から彼女に目をつけていて、今日たまたま時間があったから直接彼女を勧誘しに来た。ということもあるかもしれません。それに、他の人達も同じように勧誘を受けていたかどうかもわかりませんし。判断するには情報が足りません」
「そう、ですね。すみません。また一人先走ってしまって」
「いえいえ。こうして話しにきてくれたじゃないですか」
微笑みかけるダニエルにヴィリーの肩の力が抜ける。ようやくいつも通りに戻ったヴィリーにエーリヒが残ったクッキーを差し入れた。
「ありがとうございます。僕普段は甘い物食べないんですけど、なぜかここのクッキーは好きなんですよね。なんだか、食べたら一日調子がよくなる気がして」
早速食べ始めるヴィリー。エーリヒは「それはよかったです」と微笑みを浮かべている。誤解が解けてから二人はすっかり打ち解けたようでホッとする。
「そういえば」とエーリヒがダニエルを見た。「?」と首を傾げる。
「先程、言いかけていた続きは……」
「ああ。あれは先程の彼女が貸してくれたハンカチがどこにもなかったので、彼女が回収したのかな……と。血は落ちにくいですからあのハンカチはもらって、新しい物を返そうと思ったんですけど。気を利かせて持っていっちゃったみたいですね」
「そう、だったんですか」
「はい」とダニエルは頷きながら、自分も出してもらったクッキーを口に運び、求人の紙を観る。行儀が悪いとはわかっているが、ここには三人しかいないからいいだろう。いや、正確には三人ではない。視界のすみで光が動き回っている。何かを訴えかけるように。
そっと顔を俯かせて眼鏡をずらす。――――クッキーが欲しい?
さりげなく、クッキーが入った袋を光の方に差し出してみた。わらわらと光が集まってくる。
慌ててダニエルは視線を逸らし、二人に話題を振った。二人にはアレが見えないとわかっていても落ち着かない。
「僕もこのアルバイトに応募してみようかな」
「ダメです!」
食い気味でエーリヒが反対する。ダニエルは驚いて目を丸くする。
「ま、万が一ってこともあるでしょう。危険です」
取り繕うように言うエーリヒにダニエルは安心させるように微笑みかけた。
「大丈夫ですよ。こう見えて、自分を守る術は一応持っていますから。それに、一連の事件の共通点から僕はかけ離れています。この紙が本物かどうかも確認する必要がありますし。僕が行ったところで断れる可能性は高い」
「それがわかっているなら行かなくても。今までどおりここで見張ってれば」
「いいえ。それでは後手に回ります。せっかく解決の糸口になりそうなものが見つかったんですからダメ元でも探ってみないと」
ダニエルの言葉に二人が無言になる。
「わかりました。なら、私も潜入します」
「それこそダメですよ!」
今度はダニエルが即答する。
「エーリヒさんは店があるでしょう?」
「数日閉めると知らせを貼っておきます」
「ですが、エーリヒさんはっ……その、性別とか関係ないくらい魅力的なんですからターゲットにされるかも」
確かにと頷くヴィリー。エーリヒの頬が微かに赤らむ。
「だ、大丈夫ですよ。むしろ、その方がいいです。私はこう見えてかなり力が強いので、もし何かされそうになっても力でねじ伏せることができます。うちの常連さん達に手をだされるよりましです」
エーリヒの意志は固まっているらしい。ダニエルは説得を諦めた。
深く溜息を吐いた後、ヴィリーを見る。
「ヴィリーさん」
「は、はい」
「もし、私達が一週間しても帰ってこなかった時は全てを警備隊のテオさんに話してください。あの方ならまだ話が通ると思いますから」
「わかりました」
ヴィリーが神妙な顔で頷き返した。「それと」とエーリヒを見る。
「このクッキーをできるだけたくさん作ってもらうことはできますか?」
ダニエルのお願いにエーリヒは目を瞬かせたのだった。
『私の恋愛対象は女性ではありません』そう言わなかったか?
「女が恋愛対象じゃない? そんなばかな。そんな顔をして?」
気づいたら口からそんな言葉が出ていた。しかし、エーリヒは怒るでもなくただ困ったように微笑むだけ。
「好きでこの顔に生まれたわけではありません」
「いやいや。そんな嘘に騙されませんよ」
否定しつつもその言葉を裏付けるような出来事がつい先ほどあったと思い出す。
ヴィリーは元々エーリヒのことを知った時からいい印象を持っていなかった。アルマがエーリヒの店に通うようになってからは尚更。
ヴィリーの中のエーリヒはいつだってすかしていて、女をたぶらかす『悪い男』。
けれど、先程のエーリヒは違った。大袈裟なんじゃないかってくらいに怒りを露わにしていた。
――――ちょっと突き飛ばしただけなのに。しかも、ダニエルさんは男だ。エーリヒさんとさほど体格が変わらない、どちらかというとエーリヒさんよりも体格がいい男。それなのにあんなに怒るなんて……。
ちらりとダニエルを見る。すると、エーリヒがさっと移動してヴィリーからの視線を遮った。警戒するようにヴィリーに鋭い視線を送りながら。
ヴィリーは目を丸くする。
――――まさか本気で?! そういえば、さっきダニエルさんと目が合っただけで顔を真っ赤にしていた。普通は男、それもどちらかというと野暮ったいダニエルさん相手に赤面するはずないのに。ということは、つまり……。
「わかりました。信じます」
「本当ですか?」
エーリヒの後ろからひょっこり顔を出すダニエルに頷き返す。
「はい。落ち着いて考えてみたら……いろいろと腑に落ちました。エーリヒさんはかなりモテるはずなのに今まで一度も女性と噂になったことがなかったのはそういうことだったんですね。そういえば、アルマも言っていました。『エーリヒさんは話を聞いてくれる近所のお姉さんみたいなものだ』と。その時はただ耳触りのいい言葉で誤魔化そうとしているのだと思っていましたが……言葉の通りだったんですね。すみませんでした。エーリヒさんも、ダニエルさんも」
「いえいえ。僕は全く気にしていませんので!」
エーリヒが口を開くより早くダニエルが朗らかな笑みを浮かべて答える。
おかげでエーリヒはダニエルの件についてこれ以上何も言えなくなった。自分のことについては何とも思っていない。元々、他人からの評価なんて気にしたことが無い。本当の自分を知る者は誰もいないんだから。いや、いなかった……というべきなのかもしれない。
「ダニエルさんがいいと言うのなら私から言うことは何もありません」
そう言うと、エーリヒはダニエルを見つめた。
エーリヒへの見方が変わったヴィリーにとってその視線は意味深だ。慌てて無理矢理言葉を紡ぎ出す。
「そ、それで事件についてなんですが! 今後も事件が続くのであればこの店を見張っていればいいんじゃないですかね?!」
深く考えもせずに出した言葉だが、的確だったらしい。ダニエルとエーリヒがハッとした顔で顔を見合わせる。
「確かに。ヴィリーさんの言う通りですね。エーリヒさん」
「はい」
「よろしければしばらくの間、僕をここのバイトとして雇ってくれませんか?」
「もちろんいいですよ」
「それなら僕も」
「いえ、ヴィリーさんは店の外から怪しい人がいないか見張っていてほしいです」
「なるほど。わかりました」
三者三様に頷き合う。こうして事件の真相へ近づくための作戦が幕を開けた。
のだが、ダニエルは早々に後悔していた。
――――ヴィリーさんが中の方がよかったかもしれない。僕よりもヴィリーさんの方が運動神経がよさそうだから外をお願いしたけど……。
「忘れていました」
ダニエルはかなり料理が下手だ。料理を自分でするような環境で育ってこなかったということもあるが、ここまでくればある種の才能だろう。何を作っても味どころか、形すらまともに保てない。一人暮らしを始めた頃はそれでもチャレンジしていたが、数日間生死を彷徨ってからは止めた。外で食事をするか、出来たものを買ってくるようになった。
そんな日々が当たり前になっていたからすっかり忘れていた。
目の前のコーヒーもどきを見て項垂れる。
――――まさかコーヒーもまともに入れることができないなんて。
アルバイトとして雇ってもらったもののダニエルができることは店の掃除と皿洗いくらいだった。さすがにそれだけだと申し訳なくて、せめて店の看板であるオリジナルコーヒーくらいは入れられるようになっておこうとエーリヒに教えてもらった結果がこれだ。
壊滅的な下手さにさすがのエーリヒも困り笑顔を浮かべている。
「気持ちだけ、受け取っておきますね」
「すみません」としょんぼり肩を落とすダニエル。「いいえ」とエーリヒは首を横に振った。
「ダニエルさんには他に大切な仕事をお願いしているのですから気にしないでください」
「そう、ですね。本命の仕事を頑張りたいと思います」
「はい。よろしくお願いします」
「それにしても、エーリヒさんは本当に料理がお上手ですね。いいお嫁さんになりそうです」
「んえっ”?!」
「え?! 大丈夫ですか?!」
注文を受けたケーキを切り分けている時につい切ってしまったらしい。幸いケーキナイフだったものの、エーリヒの力の強さを考えると小さな怪我ですんでよかったというべきか。
傷を確認するダニエル。
「ぇ」
「どうかしましたか」
「いえ……」
「あの、これよかったら使ってください!」
カウンター越しにハンカチを差し出してきた女性客。さすがにお客様のハンカチで拭くわけにはいかないと断ろうとしたが、血が垂れそうになっていることを指摘され、慌てて受け取る。
「すみません。ありがとうございます!」
「いいえ。気にせず使ってください!」
血を拭いて、手当てする。不慣れなせいでモタモタしてしまう。それでもなんとか手当てを終えた。
「思ったよりも傷が深くなくてよかった。これなら傷も残ることはないと思います」
「そうですか。ありがとうございます」
「いえいえ。でも、気をつけてくださいね」
「はい。気をつけます」
不器用故不格好な仕上がりになってしまったのだが、それでもエーリヒは嬉しそうだった。
微笑んで、新しくケーキを切り分けるエーリヒ。そんなエーリヒを心配そうに見つめるダニエル。そして、そんな二人を興味津々で観察する女性客達。なぜか、彼女達の鼻息は荒かった。
あまりにも仕事ができないダニエル。客からクレームが入らないか心配だったが、大半のお客さん達は彼女達と同じように生暖かい目で見守ってくれた。中には帰り際に応援の言葉をくれる子までいたくらいだ。先程ハンカチを貸してくれた子のように。
「あれ、そういえば」
キョロキョロと周囲を見るダニエル。
「どうしたんですか?」
「あ、それが」
ダニエルが答えようとしたその時、勢いよく店のドアが開いた。息を切らしたヴィリーが入ってきた。店内には先程客が帰ったばかりということもあり他に客がいなかった。
「何か、あったんですか?」
息が上がっている所を見るとここまで走ってきたのだろう。顔色が、悪い。
「何か……どうなんでしょうか」
目を伏せるヴィリー。いったい何を見たというのか。
「とにかくこちらにどうぞ。少し早いですが店は閉店にしましたので」
そう言って、エーリヒがカウンターへと招く。ヴィリーは素直にカウンター席に座った。差し出された水を一気飲みして一息つく。ダニエルとエーリヒはヴィリーが落ち着くまで黙って待ち続けた。
しばらくして、ヴィリーが口を開く。
「少し前、ここを出た女性客のことなんですけど。髪が鎖骨くらいまである」
「ええ。いましたね。その人に何か?」
「……その人がここを出てわりとすぐに声をかけられていました」
「ほう?」
「用事があったのは高貴な身分の方のようで人目を避けるような場所に馬車を止めていて、従者のような人が女性をそこまで誘導していたんです。女性は馬車に乗り、しばらくして降りてきました。馬車はそのまま去っていって……僕は女性を追いかけて声をかけました。たまたま一部始終を見ていて心配だったからと。大丈夫だったのかと聞くと、コレを渡されただけだと教えてくれました」
そう言ってヴィリーが差し出したのは一枚の折りたたまれた紙。開いてみると、それは求人募集の紙だった。しかも、メーベルト城での。これが本当ならかなりいい話だが……。
「馬車に乗っていたのは領主様だったってことですか?」
「それが、わからないんです。ちらりとも顔を出しませんでしたし、出したとしても僕は領主様の顔を見たこともないのでわかりません」
「それは……確かに。僕もわかりませんね」
「私も……領主様はいつも忙しいようで組合との話合いの時でさえ代理人を立てていましたから」
「あやしい……ですよね? そんな忙しい領主様がわざわざ自らここまでくるなんて」
「ないことではありませんが、怪しくはありますね。こんな求人が出ているなんて話聞いたこともありませんし」
ダニエルの言葉にヴィリーの顔がさらに強張る。そんなヴィリーを慰めるようにダニエルは言葉を続けた。
「でも、先程も言ったように絶対ないとは言えない話です。彼女はとても優秀な人材で、領主様は以前から彼女に目をつけていて、今日たまたま時間があったから直接彼女を勧誘しに来た。ということもあるかもしれません。それに、他の人達も同じように勧誘を受けていたかどうかもわかりませんし。判断するには情報が足りません」
「そう、ですね。すみません。また一人先走ってしまって」
「いえいえ。こうして話しにきてくれたじゃないですか」
微笑みかけるダニエルにヴィリーの肩の力が抜ける。ようやくいつも通りに戻ったヴィリーにエーリヒが残ったクッキーを差し入れた。
「ありがとうございます。僕普段は甘い物食べないんですけど、なぜかここのクッキーは好きなんですよね。なんだか、食べたら一日調子がよくなる気がして」
早速食べ始めるヴィリー。エーリヒは「それはよかったです」と微笑みを浮かべている。誤解が解けてから二人はすっかり打ち解けたようでホッとする。
「そういえば」とエーリヒがダニエルを見た。「?」と首を傾げる。
「先程、言いかけていた続きは……」
「ああ。あれは先程の彼女が貸してくれたハンカチがどこにもなかったので、彼女が回収したのかな……と。血は落ちにくいですからあのハンカチはもらって、新しい物を返そうと思ったんですけど。気を利かせて持っていっちゃったみたいですね」
「そう、だったんですか」
「はい」とダニエルは頷きながら、自分も出してもらったクッキーを口に運び、求人の紙を観る。行儀が悪いとはわかっているが、ここには三人しかいないからいいだろう。いや、正確には三人ではない。視界のすみで光が動き回っている。何かを訴えかけるように。
そっと顔を俯かせて眼鏡をずらす。――――クッキーが欲しい?
さりげなく、クッキーが入った袋を光の方に差し出してみた。わらわらと光が集まってくる。
慌ててダニエルは視線を逸らし、二人に話題を振った。二人にはアレが見えないとわかっていても落ち着かない。
「僕もこのアルバイトに応募してみようかな」
「ダメです!」
食い気味でエーリヒが反対する。ダニエルは驚いて目を丸くする。
「ま、万が一ってこともあるでしょう。危険です」
取り繕うように言うエーリヒにダニエルは安心させるように微笑みかけた。
「大丈夫ですよ。こう見えて、自分を守る術は一応持っていますから。それに、一連の事件の共通点から僕はかけ離れています。この紙が本物かどうかも確認する必要がありますし。僕が行ったところで断れる可能性は高い」
「それがわかっているなら行かなくても。今までどおりここで見張ってれば」
「いいえ。それでは後手に回ります。せっかく解決の糸口になりそうなものが見つかったんですからダメ元でも探ってみないと」
ダニエルの言葉に二人が無言になる。
「わかりました。なら、私も潜入します」
「それこそダメですよ!」
今度はダニエルが即答する。
「エーリヒさんは店があるでしょう?」
「数日閉めると知らせを貼っておきます」
「ですが、エーリヒさんはっ……その、性別とか関係ないくらい魅力的なんですからターゲットにされるかも」
確かにと頷くヴィリー。エーリヒの頬が微かに赤らむ。
「だ、大丈夫ですよ。むしろ、その方がいいです。私はこう見えてかなり力が強いので、もし何かされそうになっても力でねじ伏せることができます。うちの常連さん達に手をだされるよりましです」
エーリヒの意志は固まっているらしい。ダニエルは説得を諦めた。
深く溜息を吐いた後、ヴィリーを見る。
「ヴィリーさん」
「は、はい」
「もし、私達が一週間しても帰ってこなかった時は全てを警備隊のテオさんに話してください。あの方ならまだ話が通ると思いますから」
「わかりました」
ヴィリーが神妙な顔で頷き返した。「それと」とエーリヒを見る。
「このクッキーをできるだけたくさん作ってもらうことはできますか?」
ダニエルのお願いにエーリヒは目を瞬かせたのだった。
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