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プロローグ

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 白金しらかね たけるはグラスの底から立ち上る真珠のような泡をじっと見つめた。
 普段酒を飲むのに泡なんか気にする繊細さは持ち合わせていないが、今だけはそんな男を演じても許してほしい。

 しかし、残念ながら今夜のパートナーはそんな白金を許してはくれなかった。
 女は先程からもの言いたげな視線を白金に向け、腕に柔らかいモノを何度も押し付けてきている。まるで、もっと自分に構えというように。

 白金は仕方なく女へと視線を移した。女がうっとりとした顔で白金を見上げる。
 白金が「どうした?」と尋ねると、女は頬を染めて嬉しそうに微笑んだ。
 ――――いや、答えろよ。
 とは、もちろん口には出さない。喉まで出かかってはいたが……危ない危ない。

 白金は近くにいたスタッフに声をかけ、シャンパングラスを取ると女に渡した。
 女は「ありがとう」と微笑んでグラスに口をつける。俯いたその口元が歪んでいることに白金はもちろん気づいている。
 明け透けな下心に内心辟易しながらも白金はこれも仕事だと自分に言い聞かせた。

 報酬が良いからと安易に今回の仕事を受けたのは自分だ。だが……どうやらこの依頼を受けたのは失敗だったようだ。先程から嫌な予感がビンビンしている。

 今回の依頼内容は『パーティーに依頼人のパートナーとして出席すること』。
 この手の依頼は珍しくはない。依頼内容に護衛も含まれてはいるが、たいがいナンパ相手を追い払う程度のことしか起きない。比較的楽な仕事である。……イレギュラーな場合を除いてだが。
 そして、残念なことに今回はそのイレギュラーパターンに当たったらしい。

「断る。これ以上は契約に含まれていないんでな」

 白金は先程まで浮かべていた笑みを消し、腕に添えられていた女の手を外した。女は一瞬驚いた表情を浮かべ、すぐに取り繕ったように固い笑みを浮かべて追い縋った。

「そ、そんな堅いことは言わないで頂戴。ね? もう、このホテルの最上階の部屋をとってあるの。いっぱいサービスしてあげるからこの後はゆっくり二人で打ち上げしましょう。ね?」
「いや、結構だ。これでも俺は忙しい身なんでね。それより、いいのか? そんなに大きな声を出して……」

 白金が周りに視線を向けると、女もつられて周囲に視線を向けた。
 二人が今いるのはエレベーターの前だ。同じようにパーティー会場を出てきた参加者達が興味深そうに二人を見ている。

 周囲の視線に気づいた女の顔が一気に真っ赤に染まった。
 しかし、女はそれでも諦めなかった。強引に白金の腕を引いて、上へ行くエレベーターに乗せようとしたのだ。白金はその手をあっさりと払いのけ、女だけをエレベーターの中に押し込む。
 さっと『閉』ボタンを押して、手を引いた。閉まる扉。隙間から女の歪んだ顔が見えた。

「それじゃあ。報酬は指定口座によろしく」

 白金は踵を返し、己が乗るべきエレベーターへ足を向けた。微かに女の声が聞こえた気がしたが、何食わぬ顔で下へ降りるエレベーターへ乗り込んだ。
 同乗している人達からの視線は全て無視して、目を閉じて壁に背を預ける。

 ――――確かに俺は『何でも屋』だが、そういうサービスはしてねぇんだよ。そういうサービスを望むなら他に頼んでくれ。

 客に手を出さないというのが白金の信条だ。いくら好みの美女だろうが、相手が本気だろうが、白金が靡くことはない。というのに、こういう依頼者が現れることはままある。

 白金は肉体的疲労とは別の疲労感を覚えながらも「今回はただ働きになるかもな」と溜息を洩らした。
 ――――でも、今後まとわりつかれるリスクを考えれば、ただ働きをする方がよっぽどマシだ。
 そう自分自身に言い聞かせたタイミングで、ポン・ピンと軽い音が鳴りエレベーターの扉が開いた。
 エレベーターを降りて白金はそのまま一人ホテルを出る。

 この判断が間違いだったとわかるのは数日後。


 ◆


 白金は複数の男達に追われていた。相手は明確な殺意を持っていて、銃器やナイフを所持している。手練れがいないのは助かったが、一対複数の鬼ごっこはそこそこ疲れる。
 走って逃げながら心当たりを思い浮かべてみたが――――心当たりがありすぎてわからねえ!

 諦めてひとまず逃げ切ることに専念した。
 どうやら地の利はこちらにあるらしい。徐々に距離が開いていく。
 タイミングを見計らって物陰に身を潜ませた。息を殺してあたりの気配を探る。

 しばらくすると激しい足音は聞こえなくなり、人の気配も無くなった。

「……ふぅ」

 無事に逃げ切ることが出来たらしい。
 警戒しながら物陰から顔を出す。足音を消して、こっそり裏路地を抜けようとした。

 ふと前方に気配を感じて足を止める。
 小道から女が姿を現した。見覚えのある顔だ。
 職業柄人の顔を覚えるのは得意なのですぐにわかった。
 服装はあの日とは全く違うが、目の前の女は例の契約外要求をしてきた人物だ。

 白金はフッと片方の口角を上げ、女に問いかける。
「これはこれは、まさかあなたとこんなことで会うなんて。……もしかしてあなたがあの男達を?」

 女は答えない。それが答えだと白金は直感した。
 一応女の後ろにも視線を向けたが誰もいない。

 ただ、女がこの場にいるということはさっきの男達がここにくるのも時間の問題だろう。
 ――――はやくこの場から離れねぇと……。

 白金は女に微笑みかけ、歩み寄った。

「あの日はせっかくの誘いをお断りしてすみませんでした。俺、仕事中の誘いは必ず断るようにしているんです。ですが、今はプライベートなので……どうでしょう。今から食事というのは?」

 女の肩がぴくりと揺れる。上目遣いでジッと白金を見つめた。
 白金はにこりと微笑んだまま女の返事を待った。

 女は無言でゆっくりと白金に近づく。
 白金は女に片手を差し出した。女も応えるように手を伸ばす。
 白金と女の手が重なる瞬間、女の身体が何かに躓いたように前に倒れた。

 咄嗟に白金は女を支えようと身体を乗り出す。これが間違いだった。
 にぶい衝撃が身体を襲う。
 一瞬何が起きたのか理解できなかった。

 すぐに我に返り、女を突き飛ばして、己の身体に視線を走らせる。
 腹部に深々と短刀が刺さっていた。
 ――――やられた!
 顔を上げると女が白金を睨みつけていた。

「わ、私に恥をかかせるからよ!」

 それだけを言うと、女は逃げるように走り去って行った。
 悔しいが今の白金に追いかける余裕はない。追ったところで、その先にはあの男達がいるのだろう。この傷で応戦するだけ時間の無駄だ。

 白金は舌打ちをすると、壁に背をつけてよりかかった。

 まさかあの誘いを断っただけでこうなるとは……。
 やはり、あの依頼は最初から断るべきだったと溜息を吐く。まあ、今更なのだが。
 それよりもこれからどうするか。

 スマホを取り出す。血が流れすぎたのか、寝不足のせいか。上手く手に力が入らない。
 手からスマホがすべり落ちた。身体から力が抜けていく。

 ――――くっそ。これ、マジでやばいやつかよ。

「まさか、こんなことで、俺は死ぬのか」

 そんな言葉が口から漏れた。不思議と怖さはなかった。あるのは不甲斐なさだ。
 昔の白金はいつも死と隣り合わせの生活を送っていた。そんな昔に比べたら今は平和だ。あくまで昔に比べたら、だが。
 いつか、誰かに殺されるかもしれない。そんな可能性は今もあるとは思っていた。でも、まさかこういう最期を向かえるとは思っていなかったのだ。

 意識が徐々に薄れていく中、音が聞こえた。誰かが近づいてくる足音が。
 とどめを刺しにさっきの女が戻ってきたのかと思ったがどうやら違うらしい。
 聞こえてきた声はあの女よりも随分若い。
 何を言っているのかは聞き取れなかったが……ふわりといい匂いがした。
 香水とは違うようだが何の匂いだろうか。どちらにしろ、好きな匂いだ。
 危険な状態だというのに、白金はそんなことを考えていた。

 その時、若い女の声がはっきりと耳に届いた。

「大丈夫。あなたは死なないわ」

 何故かはわからないがその言葉を聞いた瞬間『ああ、俺は死なないのか』そう直感した。
 安心した白金はそのまま意識を失った。

 翌日、白金は見知った病院のベッドで目を覚ました。
 よく仕事でお世話になっている病院だ。

 白金は一瞬自分が置かれている現状を理解できなかった。
 なぜ、いつもの病院にいるのか?
 あの若い女にスマホを見られた?

『とりあえず、俺は生きているらしい』わかったのはそれだけだ。
 情報を得る為、白金はベッドを抜け出した。医者を探し歩き、捕まえて問い詰めた。
 医者がギョッとした目を白金に向ける。

「おまえ、勝手に点滴抜くなって! 傷も開いてるじゃねえか! え? いや、女の子なんて知らないぞ。おまえが一人でここまでやってきたんだ。……わかったわかった。血が足りないんだな。とりあえずもっかい縫うから、造血剤飲んで寝てろ」

 薮《やぶ》医者から無理矢理ベッドに括り付けられた。天井を見上げながら考えをまとめる。

 俺が自分の足でここまでやってきた? 全く記憶がない。
 あの若い女はいなかった? いや、少なくともあの場にはいたはずだ。
 ……事件性を感じ取って巻き込まれる前に逃げたのか。

 あの若い女が、一般人だとしたら充分ありえる行動だ。
 病院にくるまでの記憶がないのは不可解だが、それだけ危なかったということだろう。
 命が助かっただけ良かったと思うことにして、とりあえず今は回復に専念しよう。
 そう結論づけて白金は目を閉じた。
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