雨の雫

内海 裕心

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雨の雫

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雨が降っていた。豪雨だ。今日一日中は止みそうにない。

僕は、その雨の中、一人歩いていた。
空から降る雨粒が、地面に落ちて弾け飛ぶ。降り注ぐ何粒もの雨粒は、結局は意味をなすことも無く、地面へと打ちつけられ、排水溝へと流れ、泥水とかす。

僕もそんな雨粒のひとつだと思った。








僕は、僕がどういう人間なのか自分で分からなかった。

だから、決まって学校生活では浮いていた。

自分自身、自分という人間を他人に話せなかったから、自己紹介では名前しか言えなかった。



最近、クローン問題を何かのきっかけで知った。
僕のクローンと僕、本物と思われる方はクローンだろう。
何故かって、僕とクローンなら、まだクローンの方が、クローンという定義があるからだ。

僕には何も無いのだ。

僕の学校の担任は、僕に繋がりを求めるように、と言った。
なんの繋がりでもいいから、何かと繋がって、居場所を作ろうと言う。
担任は、インターネットにハマっているのだろうか。ネットなどでもいいからとインターネットでの関係なども勧めてきた。普通の教師なら、学校での友達の関係を作れと言うだろう。この教師はなかなかいないタイプの教師だなと思った。いい意味で常識外れだと思った。

 

僕の、唯一と言ってもいい趣味は、、いや、趣味と言えるのか分からないが、悪くないと思って、たまにする行動は、音楽を聴くことだった。

現代のやかましい音楽では無くて、クラシック音楽である。

月の光やピアノソナタ8番「悲愴」第二楽章などの、心が洗練されるような、綺麗でどこか悲しげな音楽を聞くことが、”好き”だったのかもしれない。

僕は、音楽療法というものを耳にしたことがあったが、僕のこの行動はそれの一種であるのかもしれないと思った。現実世界の辛い出来事を、クラシック音楽を聞くことで、忘れて、心を回復させていたのだと思う。

アイデンティティというものは、何なのだろうか。

僕の手元には、ひとつのクマのぬいぐるみがある。

このクマのぬいぐるみは、もちろん自我を持っていない。それは、自分がぬいぐるみだと分かる意識を持っていないからだ。だからこのクマのぬいぐるみはアイデンティティが無い。その理屈はわかる。
でも、それが自分となると、分からなかった。

僕は、僕が何者なのか、分からない。
自分は、誰なのか、それは自分だけど、その自分は、他の誰でもなく、紛れもない自分なのかが、証明出来なかった。

僕は、クラシック音楽が好きかもしれなかった。でも、僕以外にも好きな人はいる。それは僕自身のアイデンティティにはならない。それに、僕は、自分が怖くて堪らなかった。僕は自分自身の考えが分からなかったからだ。これから先の未来、自分がどう思い、どうなるのかが分からない。そして、今のこのちょっとした感情も一瞬にして崩れ去るのでは無いかという恐怖があった。

だから僕は、先の未来を考えることが苦手で嫌いな事だった。

今この一瞬にある僕、まだ手の中にある感覚のある僕の方が安心できる。未知な未来ほど怖いものはなかった。

だけど、担任は、過去を振り返らず、未来のことを考えようと言った。
現在を今を生きようとも。

僕は、過去に依存していたのだろうか?

でも、この今の瞬間の僕と過去の僕、同じ人間とは思えない。

だから、過去になんておそらく依存していないと思う。

でも、担任は記憶というものがあって、それが今の僕を作っていると言った。

本当なのだろうか?記憶や経験、過去の体験があるからって、それに影響されて僕は作られている?

僕は、不思議でならなかった。

僕がいつも、行動する時は、この今の瞬間の僕がしたいと思ったからで、過去の記憶や経験など考慮していないはずだ。

だって、過去の僕は、赤の他人としか思えないから。














彼の話は、、興味深い話ばかりで、とても15歳の思春期真っ只中の男の子が話す内容と思えなかった。

いや、そういう時期の少年だからこそ、このような難しい話をするのだろうか。

とりあえず、俺は彼に構うことに決めた。 

それは、担任の教師として、なんていう大それた責任感ではなく、一人の単純な人間としての興味本意が全てだった。





人は、人と繋がり、社会と繋がっている。

ここにいる人間たちのほとんどが、顔も見知らぬ他人同士だろうが、それでも同じ時を生きて、同じ空間を共にしている。
それだけで、繋がっているのだ。人はその見知らぬ誰かを支え、支えられている。それが社会であり、繋がりである。

通勤ラッシュの人々を見ながらそう思う。俺もその一人で、スーツ姿のサラリーマンの陰鬱な表情を見ると、彼の感情を想像して、共感することが出来た。これも一種の繋がりなのかもしれない。

でも、彼はそれから逸脱していた。

彼は彼の時間と空間で生きているようで、他の誰かをその世界に入らせないようなそんなふうに感じとれた。
自分一人の世界で生きていて、自分以外のその他大勢の他人は誰一人として、受け入れない、相容れない、交わらない。
もちろん俺もその一人だと思っていたのだが、、、

俺は、彼と放課後よく話すようになり、彼も、俺を受け入れているようだった。
俺は、単刀直入にありのままの気持ちを伝えた。そして、純粋に彼と向き合って話した。それが良かったのだろうか?放課後、彼の方から俺に相談を受けに来ることもあったのだ。

彼が、クラスでクラスメイトに自分から話しかけた所など一度も見たことがなかったからびっくりした。

彼の目は、いつも遠くを見つめていて、黒い瞳は一切光を入れていなかった。そのどこまでも深い真っ黒な瞳でただ、どこかを見つめている。それは、過去なのだろうか。少なくとも未来は見つめていないだろうと、直感的に思った。

俺は、心理学やメンタルケアなどに詳しくは無かった。でも、ひとつだけ。自信を持って言えることがある。それは、過去を振り返らず、未来のことを考えることである。俺はこのことを胸にずっと秘めていた。過去の後ろめたいことや恥ずかしいこと、悔しいことなどを思い出しそうになった時、この言葉を思い出して、前向きになれたのだ。

だから俺は、彼にもそうなって欲しいと思って、この言葉をぶつけた。

でも彼は難しそうな顔をしていた。過去に何か嫌な経験があったのだろうか。その経験が今の彼を苦しめているのかもしれない。嫌な思い出は記憶に保存される。嫌な思い出ほど、ずっと記憶に残って、そして、引きずり、自分の考えや言動に影響していくのだ。
それは俺もそうだった。

でも、彼はそのこと自体、不思議に思っているようだった。

彼は俺でも難しい話をしていた。何となくわかったのは、アイデンティティの喪失という事。

彼は自分に自信が無いのだろうと思っていたが、自分自身のこと自体よく分かってないのだということ。

そんな彼に僕は、好きを大事にしようと言った。












僕には、好きかもしれないクラシック音楽の他に、もう一つ、好きなものがあったのを思い出した。
担任が、思い出させてくれた。
僕という存在を作った。彼女、彼。
お母さんとお父さん。

それが、僕の好きなものだった。









痛みは、自分が生きている、自分自身がこの身体に命を宿しているという証拠なのかもしれない。この身体がこの人という肉体の形が命なのか。つまり心臓があることが魂が宿っていることなのか、それともそれはただの飾りで、意識さえ持っていたらそれは魂なのか。どちらかは分からないが、どちらにせよ、今現時点で、肉体を持っている以上、痛みは僕にとって生への感覚を感じさせる手段であった。

だから裁縫針やらカッターやらハサミやら、鋭利なものを身体に当て、血を流す感覚は、悪くなかった。心地よさまで感じた。
自分が異常だってことは、分かってる。でも、それをすることで生の感覚を得ることが出来る。それには逆らえなかった。

世間ではリストカットというものが一部では流行っているらしい。これもそれの一種だろうか。
自分の場合、手だけではなく至る所、色んな場所に当てている。その方が、新鮮だからだ。痛いのが好きなわけじゃない。ただ、生きる感覚を味わいたいだけだった。それに、やる時は衝動的なもので、頻繁に、習慣化してやることでもなかった。

でも、いつからだろう。そんなことをやり始めたのは。いつからだろう人と打ち解けられなくなったのは。もう、過去の自分自身は赤の他人だから、覚えていない。

でも、何となく分かるのは、自分自身が赤の他人だとしか感じられなくなった瞬間、それはお母さんとお父さんを失った時であることだ。

僕は、いつの間にかお母さんとお父さんを失っていた。

僕の記憶の中に生きるお母さんとお父さんはとても優しくて、好きだった。

でももういない。別の所へ行ってしまった。お母さんとお父さんは僕との別れを悲しんでいただろうか。悲しんでいたと信じたい。少なくとも、僕は悲しんでたはずだ。恐らく。悲しんでいただろう。でも本当に?悲しんでいただろうか?

笑顔でお別れなんて、創造上だけだと思っていた。

僕は、お母さんとお父さんの元へ行きたい気持ちになった。

「もうすぐで、そっちへ行くから」

そう呟いて、僕はまだやるべき事に取り掛かることにした。










俺は、彼の観察を続けていた。

もっとも、教師としてだ。確かに、個人的な興味としての気持ちも強かったが、教師が一番大事なことは、生徒のことをよく見ることだろう。そしてよく知ることだ。

でも、最近の彼を見ていると、彼がどんな人間か分からなくなってしまう。

今までは、いつもひとりで過ごしていて、物静かで何を考えているか分からないイメージだった彼。なのに今では、一部のクラスメイトと打ち解けて話している。笑顔で。殻を破ったならそれでいいけど、そうじゃない。彼は、、、


最近、学校では、掲示板や学校の壁に多数の悪質なイタズラがされるという問題が起こっていた。スプレーや彫刻のようなものでよく分からない文字や暴言などが書かれている。それだけじゃない。トイレに大量のゴミが溢れかえっていたり、廊下の窓ガラスが割られていたり、教師のクルマに穴が空いていたりした。

教室内でも起こっていることから、やっているのは生徒ではないかと職員会議で話し合った。

俺は、心当たりがあった。確実な証拠でもなければ、心当たりとしても怪しいほぼ勘のようなものだけど、彼はそのイタズラされた掲示板の前で、笑っていたのだ。

クラスメイトと話している時とは、また違った笑顔で。



俺は、彼と放課後、カフェに行くことになった。
日課になっていた相談のついでに、彼が誘ってきたのだ。

カフェといってもチェーン店で、学生が多く、カジュアルな雰囲気の店だった。
彼はコーヒーを頼み、俺もそうした。

「先生は、生まれ変わりって信じる?」

彼が、そう、急に口を開いた。

「生まれ変わりかぁ、うーん。まぁ、信じるかな」

「どうして?」

彼は、興味津々といった様子で聞く。

「いやぁだって、死んではい終わりよりも生まれ変わった方が、まだ救いがあるじゃないか」

「そうかな、僕は逆だけど」

「逆?」

「うん」

彼は俯きながら、頷いた。また彼の遠くを見つめているような、自分の世界に入っている目だ。

「先生は、死ぬのが怖い?」

「まぁ、怖くないと言ったら嘘になるな」

「そうなんだ」

「お前もか?」

「僕は、、うん。僕も怖い」

「そうか、まぁ、お前はまだ若いし、そんなこと考えなくてもいいんだぞ。ほらもっと、楽しいことを考えないか?」

「楽しいこと、、か」

「そう。これから先に待ってる楽しみなこと、何かないのか?どこかに出かけるとかさ」

「それならあるよ。僕は、、うと思ってる」

「え?なんだって?」

彼が小声で呟くものだから聞こえなかった。

彼はそこから話さなくなり、俺たちは別れた。

聞き取れなかった言葉は、口元で何となく予想することは出来た。

さっきの彼の口元を映し出した記憶が再生していく。

彼の口がゆっくりと、開いていく。


し、、、、の、、、、う


死のうだ。


彼のこれから楽しみにしていることは、死ぬ事だった。


俺は、これまでの彼とのやり取りを思い出していた。彼のことを気にかけ、そして放課後話し合って、そして彼も少しずつ変わっていった。そんな彼を見て、俺も少しずつ変わっていった。彼に対する態度、そして周りに対する態度もだ。俺は彼に魅了されていたのかもしれない。彼の一挙手一投足が、俺の視線を釘付けにした。だけど、彼は何者なのか。それだけは何一つ分からなかった。











僕の毎日は、おかしくなっていた。全ての人間関係、そして、周りの人も僕を見ていなかった。僕はただただ、分かりあいたかっただけなのに。一番分かり合いたいと思っていた人もどこかへ行ってしまった。僕の日常はそこから崩れていった。

視界が歪む。僕の周りからどんどん人が居なくなっていく。僕はこんな気持ち初めてなのに、初めてじゃない気がした。辛かった。今まで積み上げたものが一瞬で崩れさるということが。あれほど信頼していた関係が、打ち解け合えている、理解し合えていると思えていた関係が、こんなにもあっさり壊れてしまうほど脆いものだったということが。

帰って家には誰もいなかった。僕は、家族を失った。それが遠いかこのようなことに感じた。実際遠い過去なのかもしれない。吐き気がした。胃の中の物を全て吐くまで気が済まなかった。
僕は、僕の体が誰のものなのか、分からなかった。僕はどこにいるのだろう。心臓の魂の中にいるのか、それとものうのなかにいるのか。それとも僕は体の中全てにいるのだろうか。分からない分からない。

何もかもを失った。どこへ出かけて、誰と話しても、繋がれない。違う次元の人と話しているような感覚で、気持ち悪かった。僕の目に映る世界は、真っ黒く濁ったようになっていた。そこにいる僕以外の人間たちは、色を失い、世界と同じように黒い。僕は、その彼らに触れることも、話すことも出来ない。存在の認識すらされていない。どれだけ手を伸ばしても届かない。
やがて僕は、やつれ、目の光を失っていた。何もやる気が起きずに、廃人となった。一日中、昔はあれだけ賑やかだった家で、一人で孤独に、ある遠くの一点を見つめるだけの生活だ。その一点だけは、僕の色のある世界が広がっていたからそこしか見たくなかった。

僕は、僕自身を探すことにした。僕自身としか繋がれないと思ったからだ。学校に行く。いつもの、あの場所しか心当たりはなかった。学校について、廊下を汗を垂らしながら駆け巡る。そんなぼくを教師たちが見る。ぎょっとして怖い顔で、まるで異物を見るかのように。僕にとってここは居場所だったはずなのに!

放課後、彼と話し合ったあの場所。

そこに、彼は居た。

「来たんですね、先生」

彼はそう言う。僕は、意味が分からなかった。

僕が先生、、、?

「先生がやったんですよね、、学校中にイタズラを。僕、最初から気づいてましたから」


あの掲示板や壁、そしてトイレ、廊下の窓ガラス、教師のクルマへのイタズラ。あれが全て、、僕の?

「先生?先生聞いてます?」

「雨宮君、、じゃなかったのか」

「僕がやったようなもの、と言いたいんですか?」

「おそらく」

「でも、それは違う。たとえ僕が引き金となったとしても、先生の意志もあったんです」

「そうか」

「でもこの結果は、先生が望んだことなんですよ?」

僕、、いや俺、、俺が全て悪いのか。

「俺が望んだこと?」

「先生は僕と仲良くなりたがってた。それが叶ったじゃないですか」

「ああ」


「僕も初めてだったんです。こんなこと。初めて、先生は周りの人間と違って光って見えた」

「だから」

「はい」


「先生、もう一度同じ質問していいですか?」

俺は黙って頷いた。

「先生は、死ぬのが怖いですか?」

「いや、、もう、怖くない」


「そうですか。なら良かったです。僕ももうひとりじゃないから怖くない」

「そうか」

彼がポケットをまさぐる。取り出したのは拳銃だった。

「先に行っててくれますか?僕も、あとからすぐ行きますから」

「ああ、ありがとう」

俺は何故か彼に礼を言って、拳銃を受け取った。

俺は全て失ったわけではなかった。

ひとつ、手に入れたものがあった。

それは、彼だった。





僕は、死が終わりとは思わない。輪廻転生を信じているからじゃない。逆に輪廻転生なんて無くていい。むしろ無い方がいい。僕以外の存在が生まれるのなんて、嫌だ。死んでからも僕は生き続けるのだ。だから終わりじゃない。むしろ死んでからが始まりである。生きている内は、何も面白いことは無かった。先生と出会うこと以外にいいことは無かった。だから、僕は、ここから始めようと思った。

学校の屋上に立ち、手すりに足をかけて僕はそこから飛び降りた。そして死んだ。新しい世界の始まりだった。
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