星のカケラ。

雪月海桜

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こころの花屋。

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「はあ……」

 ぽかぽかのお日様に、過ごしやすい穏やかな春の気候。通学路の真ん中で、鮮やかな青空には似つかわしくない何度目かの盛大なため息を吐いて、わたしは項垂れる。

「今日も、休んじゃおうかなぁ……」

 今日はわたしだけが、新しいクラスになってからはじめての登校日だった。
 クラス替えのあった新学期初日から風邪を引いて休んでしまったわたしは、みんなより五日遅れでの登校なのだ。

 新しいクラスに誰が居るのか、席はどこなのか、担任の先生は誰なのか、授業はどこまで進んでいるのか。みんなは新しいクラスに馴染んで、わたしだけ出遅れて除け者になるのではないか。
 ようやく熱の下がった昨日の夜から、わたしは不安でいっぱいだった。

「やっぱり、行きたくないなぁ……」

 冬の終わりにデパートで一目惚れして、散々ねだって買って貰った、花の刺繍が可愛い赤い靴。

 はじめて履けて嬉しいはずのこの靴が、やけに重たく感じる。足にたくさんの蔦でも絡み付いているみたいだ。

 空をのんびり流れる自由な雲を見上げてのろのろと歩いたり、靴の汚れを気にせずそこら辺の小石を蹴って追ってみたりするけれど、遅刻までのタイムリミットも迫ってくるし、進んだだけ学校も近付いてくる。

 遅刻して目立っての登校はどうしても避けたい。今更家に帰ってずる休みするわけにもいかない。けれど、やっぱり行くのが怖い。

 もやもやとした不安が胸一杯に広がって、とうとうもう一歩も進めなくなった。

「……大丈夫? どこか痛むの?」

 道の端っこでしゃがみこんで俯いていると、どこからか優しい声がして、わたしは顔を上げる。
 そこに居たのは、春の日差しを受けて淡く煌めく、色とりどりの花束を抱えた優しそうなお兄さんだった。

「え……」

 あまりにも綺麗な光景で一瞬ぼんやりとしてしまったけれど、すぐに「知らない人について行かない」「不審者に注意」、そんな先生やお母さんの言葉が頭を過る。

「あ、えっと……」

 そもそも同じ学校の、同じ学年の子達にすら、クラスが違うからと人見知りを発揮してしまうのだ。
 この見知らぬお兄さんの声に咄嗟に返事が出来るほど、わたしは明るくも社交的でもない。

「あの……」

 わたしがおろおろとしていると、お兄さんは何かに気付いたように、慌ててつけているエプロンを指差した。

 わたしの靴と似た綺麗な赤いエプロンには、すぐそこに停まっている大きな車の看板と同じ名前が書いてある。

「ああ、ごめんね。僕はそこの花屋の店員。怪しい人じゃないよ」
「お花屋さん……?」
「そう。移動式のね。今日はこの公園でお花屋さんをするんだ」
「すごい……そんなのあるんだ」

 トラックみたいな大きな車は後ろの四角い部分が開くようになっていて、よく見るとそこにはお兄さんの抱えている花の他にも、たくさんの綺麗な花がたくさん飾られていた。
 華やかな春を閉じ込めたような空間に、思わずうっとりとしてしまう。

「あれ……お嬢さんは『不安の種』を持っているね」
「え……? ふあんの、種?」

 突然のお兄さんの言葉に、わたしは首を傾げる。種なんてもの、持っていない。それに『ふあん』なんて花、聞いたことがなかった。

「不安の種……結構大きいな。芽も出ているし……。お嬢さん、お名前は?」
「え、あ……瑠花るか、です」
「瑠花ちゃん。ここしばらく何か不安に思っていたりしないかい?」
「え……っ、えっと、その……」

 お兄さんに指摘されて、わたしはすぐに学校のことを思い出す。お花に見惚れてすっかり頭から飛んでいたけれど、今まさに不安で一杯なのだ。

「……よかったら、話してくれる? 大丈夫、不安は恥ずかしいことなんかじゃないんだ。瑠花ちゃんみたいに『不安の種』や『悩みの種』を心に抱えている人は、大人にだってたくさん居るんだよ」
「そうなの……?」

 お兄さんはしゃがみこんで、わたしと視線を合わせて微笑む。
 抱えたままの花束の香りが、春風に乗って柔らかく届く。
 お兄さんの優しい声色と、花の香りが心地好い。何だかあったかいお布団に包まれているような安心感を覚えた。

「うん。その種がネガティブな気持ちのまま花開いてしまう前に、ポジティブな気持ちで咲かせるのが『こころの花屋』のお仕事」
「……こころの、花屋。不安の種から、花が咲くの?」
「そうだよ。不安や悩みの種類は人それぞれだろう? だからひとつひとつ、唯一無二のいろんな種類の花が咲くんだ」
「へえ……すごい……」

 初めて聞く話に、わたしはつい夢中になる。けれどお兄さんは、わたしの中にあるという種をじっと見るようにして、心配そうに眉を下げた。

「でもね、ぐるぐるしたり嫌な気持ちのまま花が咲いてしまうと、それは持ち主にとってよくないんだよ」
「……どうよくないの?」
「心の中でどんどん大きくなって、苦しくなって押し潰されてしまうんだ。それはとても辛いことだからね……瑠花ちゃんの種がそうなってしまわないように、僕にお手伝いさせてくれないかな」

 そう言ってお兄さんは、公園の中にあるお花屋さんの車の前に木の椅子を置いて、わたしの話を聞いてくれた。

「あのね……わたし……」

 熱を出して休んだこと、今日が新学期初登校なこと、クラスメイトに誰が居るか不安なこと、お休みしている間に授業に追い付けなくなっていないか心配なこと。

 お母さんにも言い出せなかった不安たちが、お兄さんの柔らかな声と花の香りに優しく促されるように、ぽつりぽつりと心の奥から溢れる。

「そうか、一人でずっと怖かったね。たくさん不安だったんだ……」
「うん……熱の間も、早く治さないとってずっと焦ってたの。でも、いざ治ったら、もう五日も経ってて……今日もお休みしたら、明日がもっと怖くなるってわかってるのに……足が、動かなくて」
「それはね、不安の種が芽吹いて、根っこが足に絡み付いてるからなんだよ」
「え……」
「この根っこはね、不安な心を栄養にして成長して、どんどん動けなくさせてしまうんだ」

 わたしはお気に入りの赤い靴を見下ろす。重たい足に蔦が絡んでいるようだと思いはしたけれど、実際そこに見えない根っこが絡まっているのを想像して、ぞっとした。

「……大丈夫。僕はお花屋さんだからね。任せて」

 わたしを安心させるようにお兄さんはにっこりと微笑んで、エプロンのポケットから掌サイズの小瓶を取り出した。その中には、キラキラとした綺麗な粉が入っている。

「それ、なあに?」
「これはね、肥料だよ。もう既に芽が出てしまった不安の種に対処するには、綺麗とか、嬉しいとか、楽しいとか、そういうポジティブな気持ちが大事なんだ。……ほら、よく見ていて」
「わ……っ」

 お兄さんは小瓶を開けて、その中の粉をふわりと空中に撒く。すると、七色に光る粉は春の日差しを受けてキラキラと空に舞い、小さな虹を描いた。

「綺麗……!」
「ふふ。雨の後には、虹が出るって言うだろう? 不安や辛さの後には、希望があるんだ。そして、虹はすぐに消えてしまうけれど、雨よりもずっと心に残る」
「……確かに。雨の回数は覚えてないけど、虹を見た時のことは覚えてる」

 七色の煌めく粉が描いた虹が、春風に吹かれて流されて、わたしの足元の地面に消える。不思議と靴の刺繍の花もキラキラとして見えた。

「瑠花ちゃんが熱を出して、不安に囚われていた五日間が雨だとしようか。今日登校しようと勇気を出して家を出た時点で、もう雨は上がっていたんだよ。不安はおしまい」
「でも……」
「だからあとは、ただ楽しい想像をして期待しよう。外に出て、空を見上げて、素敵な虹が架かるのを楽しみにするだけでいいんだ」
「……虹、架かるのかな? たくさん想像した不安や悪いことじゃなくて、いいこと、あるのかな?」
「もちろん。だって、五日も降り続けた長雨だよ。それはもうとびきり綺麗な、大きい虹が架かるはずだ」

 お兄さんが優しく微笑むと、何だか本当にそうなる気がした。
 具体的な解決法があった訳でもない。それでも、不安を口にして、優しく聞いて貰って、綺麗なものを見て、背中を押して貰えた。それだけで、あれだけ悩んでいたのが嘘みたいに、心が軽くなった気がした。

「わたし、学校に行ってみる……悩んだって、不安になってたって、結果は変わらないもんね。それなら、楽しい想像をしていた方がいいもん」
「うん。それに……俯いているより、虹を探して顔を上げている方が、ずっといいよ。瑠花ちゃんの可愛い顔もよく見えるしね」
「……! わ、わたし、そろそろ行くね!」

 お兄さんの言葉にわたしは照れてしまって、慌てて立ち上がった。そういえば、そろそろ学校に行かなくては本格的に遅刻してしまう。

 恐る恐る一歩踏み出すと、あれだけ重たかった足はキラキラの粉を纏って、踊り出しそうなくらい軽くなっていた。

「うん。不安の種、ポジティブな気持ちを栄養にして、希望の花を咲かせたみたいだね」
「……そう、なの?」
「ああ、このお店にあるどの花よりも綺麗な、きみだけの花だよ」
「わたしだけの、花……」
「とっても綺麗な花を持っているんだから、大丈夫、自信を持って。その花が咲いている時は、特に笑顔が素敵になれるんだ」
「……うん、ありがとう!」

 すっかり不安な気持ちはなくなって、わたしはお兄さんに手を振って学校への道を駆ける。
 見上げた空に本物の虹は架かっていなかったけれど、お兄さんが作った一瞬の煌めきは目蓋の裏に焼き付いている。

 きっとわたしの中にある希望の花も、あんな色をしているんだと笑みが溢れた。


*******


 それから何とか遅刻せずに間に合った学校で、わたしは呼吸を整える。病み上がりで本調子じゃないところでの猛ダッシュはさすがに疲れた。

 何とか辿り着いた新しい教室の前で、またしても足に何か絡み付いてくるような気がしたけれど、もう不安の種は希望の花に変わったのだ。

 深呼吸して、緊張しながら開けた扉の向こう側。入ってすぐの席に、一番仲良しなお友達、琴葉ことはちゃんが居た。わたしを見て、彼女は笑顔を向けてくれる。

「あっ、ルカちゃん! おはよう……もう治ったの? 心配してたんだよ!」
「コトハちゃん! おはよう……うん、心配かけてごめんね。ありがとう」
「今年も同じクラスだよ、よろしくね!」
「うん……!」

 仲良しの子と離れずに済んで、席の近い新しいクラスメイトも、優しく五日間の出来事や授業内容を教えてくれた。

 あれだけぐるぐると想像していた不安な世界はそこにはなくて、お兄さんが言っていたように、今日のわたしはいつになく良い笑顔だった気がする。

 この世の終わりのような心構えで臨んだ一日はあっという間に終わり、放課後を迎える。
 わたしはお兄さんにまたお礼を言いたくて、帰りにまた公園の前を通った。

「……」

 けれど既に、お花屋さんの車はなくなっていた。
 仄かに感じる花の残り香を吸い込んで、私は軽い足取りで家に帰る。靴はもう煌めいてはいなかったけれど、虹は消えても心に残るものだ。

「……本当にありがとう、お兄さん」

 ぽつりと呟いた声は春風の中に消えていって、お兄さんに届くことはなかった。


*******


 それからわたしは、不安になったり心配ごとがある度に、雨の後に架かる虹を、雨を経て咲く花を想像して、前向きに明るくなっていった。
 むしろ『雨よ降れ』なんて思ってしまうくらいには、心が強くなったつもりだ。
 もう不安の種を芽吹かせることもないだろう。

 そして大人になった今でも、柔らかな花の香りを嗅ぐ度に、あの日のことを思い出す。

 きっとあのお日様よりも優しくて温かな『こころのお花屋さん』は、今もどこかで、誰かの不安や悩みの種から、素敵な七色の『希望の花』を咲かせているのだと思う。

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